取材源秘匿の権利
甲斐素直
問題
読売新聞等日本の報道機関では、
これに対し、読売新聞記者が取材源に関する証言を拒絶したことから、その当否が争われた裁判で、東京地裁は
2006年3月14日、大半について記者の証言拒否には理由がないとする決定を出した。仮にこの決定が確定し、なお記者が証言を拒絶した場合、罰金や拘留などが科せられる。決定理由で藤下健裁判官は「新聞記者の取材源は民事訴訟法が証言拒否を認める職業の秘密に当たる」とし「憲法で保障された報道の自由に生じる悪影響を考慮し、なお開示を求める特別な事情がある場合にのみ、証言を求めることができる」と一般論を示した。
その上で「日本の政府職員が取材源だったか」などとする質問への拒絶を取り上げ「取材源が、守秘義務の課せられた国税庁職員である場合、その職員は法令に違反して記者に情報を漏らしたと疑われる」と指摘し、「取材源について証言拒否を認めることは、間接的に犯罪行為の隠ぺいに加担するに等しく、到底許されない。取材への悪影響は法的保護に値せず、記者の証言拒否は理由がない」と述べた。さらに、取材源自身が開示に同意している場合も秘匿は認められないと判断。それ以外の取材源に関する質問については拒絶は理由があると結論づけた。
この決定における憲法学上の論点を指摘し、論ぜよ。
[問題の所在]
裁判で,証人として喚問された場合、証言する義務がある。例えば、甲がノンフィクション作家で、様々な取材をした上で、あるノンフィクション小説を書いたとする。その作品中で取り上げた情報について、その取材源を明らかにするように裁判所から命じられた場合、甲はそれを拒絶することができない。拒絶すれば処罰される。
話のポイントが判るだろうか。小説を発表することは憲法
21条の表現の自由に該当し、そのための取材行為は、「情報を求める権利」であり、しかも取材源を明らかにすることは、将来におけるノンフィクション小説の執筆に差し支えるおそれがある。しかし、そういうことは、証言拒否の根拠とは認められないのである。民事や刑事の訴訟法上、職業上の秘密に関し、証言の拒否が認められるのは、医師や弁護士など、特殊な地位を有する者に限られる。したがって、本問に答えるには、新聞記者に、その様な特権的な地位があるということを論証しなければならない。
そこで、論理の順序としては次のようになる。
第一に、報道の自由が、通常の表現の自由とは異なる特殊なものであり、かつ憲法の保障の対象であることを明らかにする。
第二に、報道の自由は、取材の自由が憲法上の自由であることを要請することを明らかにする。そして、この取材の自由は、上記甲の有していた取材の自由とは異なり、特権的な内容を含むものであることを明らかにする。
第三に、その様に、マスメディアの取材には特権的な権限が与えられている結果、拒絶する権限もまた認められるということを論証する。
これをもう少し内容に密着して説明すると、次のようになる。
取材の自由は、報道の自由の従たる権利であり、今日における報道の自由は、知る権利との関わりを通じて理解されなければならない。したがって、その主たる論点もまた、知る権利の展開に合わせた形で把握されていく必要がある。すなわち、知る権利に奉仕する権利として、報道の自由は積極的に肯定される。他方、知る権利に奉仕する必要性から、報道の自由には一定の限界が発生する。このように、積極、消極両面ともに、知る権利に対する奉仕性から生ずる点を把握することが大切である。
要するに、報道の自由は、なぜ一般の表現の自由とは別個に論じられるのか、換言すれば、一般の表現の自由との異質性をきちんと押さえられるか否かが、論文の出来を決定する分岐点である。報道の自由を、単純に表現の自由に属すると述べた場合には、その段階で落第答案となる。
一 報道の自由の意義
(一) 表現の自由について
報道の自由について論ずるためには、その前提として表現の自由概念そのものを論じなければならない。表現の自由をどのような概念か、まったく述べずに、いきなり報道の自由に関する議論を始めるのは、基本的に間違っている。
今日、我々は、従来の狭い、文字通りの表現行為の自由に代わって、今日的な表現の自由として、知る権利を包含する形の表現の自由という概念を知っている。ドイツ基本法第
5条が表現の自由の内容として「一般に近づくことができる情報源から妨げられることなく知る権利」を保障したのは、憲法レベルにおいて、かつての表現の自由概念から訣別し、知る権利を正面から肯定した最初の例である。こうした発展を受けて、国際人権B規約(昭和41年制定、わが国の批准昭和54年)19条2項は表現の自由の概念そのものが、「あらゆる種類の情報及び考えを求め、受け及び伝える自由」と定義する。すなわち、人権規約のいう表現の自由は、わが国の伝統的な理解に比べると、第一に、思想・信条、すなわち「考え」に限定されるわけではなく、「情報」にまで拡大されている点、第二に、「求め、受ける自由」も含む総合概念となっている点に大きな相違がある。もちろん、これは人権規約で定める表現の自由であって、憲法
21条の表現の自由は依然としてかつての狭い概念のままである、という立場を貫くことは可能である。しかし、法律レベル以下の法規範を対象とした解釈法学では、憲法そのものの定める表現の自由か、条約が定める表現の自由かは問題にならない。法段階説的にいって、どちらの場合にも、それに違反する法律や命令は無効だからである。したがってそうした旧弊な立場を維持することは、無用に論理を複雑にする以上の何ものでもない。こうしたことから、今日の憲法学では、憲法21条の自由そのものが、あらゆる考え及び情報を求め、受け、伝える自由と理解するのが普通である。したがって、我が国が世界人権規約を批准した昭和54年以降においては、それ以前の狭い表現の自由概念を述べた学説は、解釈法学としてはその妥当性を失い、それに依拠した判例は、もはやその先例性を失っているというべきである。この段階で、知る権利を意義づけるに当たり、後に紹介する博多駅フィルム提出命令事件を引用して、民主主義を報道の自由の基礎とのみ説明する者がある。しかし、国民の知る権利は、単に主権者としての地位から発しているのではない。その様な説明をした場合には、知る権利の対象として保護されるのは、主権者として必要な情報に限定されることになってしまうことを、看過している。
知る権利の本質そのものに遡った、より幅広い説明がここでは必要である。例えば、人権の本質を人格的利益説に求める立場では、各人は自らの人格を自由に発展させる権利を持つのであり、そのためには、自己を成長させるために必要なあらゆる種類の情報を、求め、または受ける権利を必然的に保有する、と説明することができるであろう。これを一言に表現すれば、「自己実現と自己統治の権利確保のために」知る権利が認められるといっても良い。こういう簡潔な表現も是非覚えてほしい。
このように知る権利概念を使用する場合には、その権利の内容として事実の伝達が含まれることは当然のことであって、先に論及した事実と思想の区別困難というような有害無益な説明をする必要は完全に失われているのである。
(二) 報道の自由の定義について
報道の自由は、決して表現の自由の一類型ではない。その本質は、上述した知る権利に奉仕する権利という点に求められる。すなわち、表現の自由とは異なる類型である。報道の自由とは、報道機関が国民に対して事実の伝達をする自由を意味する。すなわち、一般の表現の自由に比べて、伝達内容が、思想・信条ではなく、単なる事実である点に第一の特徴があり、その主体が、不特定の国民ではなく、報道機関という特定の私人である点に第二の特徴がある。
いつも強調しているように、定義は真空中から生まれるものではない。定義を下したら、必ず、何故その様に定義を下すことができるのか、ないし下すべきであるのか、の理由を述べなければいけない。
1 事実の伝達
事実の伝達という点を押さえることは、取材の自由を中心論点とする本問では特に重要である。事実の伝達を使命とするものであるから、その事実の収集活動である取材を特に保護する必要が生ずるからである。
かつては、表現の自由は、憲法
19条の思想信条の自由を受けて、これを外部的に表白する自由を意味すると解されていた。その前提の下においては、純然たる事実の伝達は、そのままでは表現の自由の保護客体とならない。そのため、かつての学説は「事実の報道と思想・信条の発表の区別は困難である」というような詭弁を弄して、無理にその保護対象に取り入れていた。このような説明の下においては、報道の自由は、自民党の自由新報や共産党の赤旗のように、特定の主義主張の下に、必要とあらば真実をねじ曲げる編集をするような報道姿勢の場合には保護対象となりやすいが、報道の自由の理念に忠実に、純粋に客観的真実の報道に徹すれば徹するほど、保護から遠のくという奇妙な結論が導かれる。また、石井記者事件最高裁判決に端的に現れているように、取材の自由までは保障しないという結論が容易に導かれることになる。これらの見解は、報道の自由の本質を捉えて、それを真っ正面から保護しようという姿勢に立つ理論とはいいがたい。その様な説明は、無益どころか、有害なものと評価すべきであろう。このような骨董品的な見解を未だに諸君が書くのは異常という他はない。
2 報道機関による活動
表現の自由の享有主体は、あらゆる私人である。そして、表現の自由が情報の伝達を含む概念である以上、一般私人が、その表現の自由権行使の一形態として客観的真実の伝達を行うことも多い。しかし、その様な活動のことを報道の自由の行使という必要はない。わざわざ、事実の伝達活動を、通常の表現の自由とはことさらに分けて、「報道の自由」というとき、それは、報道機関という特別な機関による事実の伝達活動をいうものと理解すべきである。それは、報道機関が行う事実の伝達活動は、一般私人が行う事実の伝達活動に比べて、憲法上、特別の保護と、制約が課せられるからである。
その相違は、一般私人が行う事実の伝達活動は、上述したところから明らかなように、純然たる表現の自由そのものであるのに対して、報道機関の行う事実の伝達は、知る権利に奉仕する権利という点に由来する。
この報道機関の自由を理解するには、現代社会の持つ二つの大きな特徴に論及する必要がある。第一に、かっての夜警国家と異なり、今日の福祉国家においては、国家は膨大な量の情報を独占するようになったという点である。第二に、今日の複雑化から、誰もが情報の発信者であることは困難になってきたため、報道機関がその情報発信者としての地位を独占し、一般国民はもっぱら受け手としての立場に留まるようになってきた、ということである。この結果、主権者たる国民に対して、国政を決定するにあたって必要は情報を供給するのはもっぱら報道機関の役割となってきたのである。このことを、例えば博多駅事件における取材フィルムの提出に関する最高裁判所決定(昭和
44年11月26日、百選158頁参照)は次のように述べている。「報道機関の報道は、民主主義社会において国民が国政に関与するにつき、重要な判断の資料を提供し、国民の『知る権利』に奉仕するものである。」
すなわち、民主主義云々という表現は、こうした現代社会の特徴から発生する、報道機関の持つ自由の特殊性を説明するための論理として登場するのであって、知る権利そのものの内容ではない点をきちんと押さえておかねばならない。
この報道機関の持つ、特別の地位から、報道の自由は、一方において特別の保護が与えられる。なぜなら、上述のようにマスメディアが今日では情報の発信を独占しているが故に、その持つ報道の自由を特別に保護することによってしか、我々国民の知る権利を実効的に保障することはできないからである。
その報道機関に対する特別の保障の結果、例えば、通常人が行えば犯罪となる場合にも、報道機関により報道の自由の一環として行われているが故に、正当業務行為とされる場合がある。その中心にあるのが、本問取材の自由という概念の下に、特に論ぜられる様々な特権である。
他方、この知る権利への奉仕者としての地位から、報道機関の、思想・信条の表現の自由は大幅に制限される。例えば、原則的に不偏・不党が要求され、さらに一定の偏りがあった場合には、国民からのアクセス権が肯定される場合がある。このことは電波メディアには法律上明定されており、印刷メディアの場合にも、基本的に同様に考えられている。ただ、それが抽象的権利に留まるのか、具体的権利として把握することが可能なのかについて、説が分かれているに過ぎないのである。が、この点は本問では論点とはならない。
3 編集権について
芦部信喜は、岩波書店から出している教科書では、報道の自由も表現の自由に含まれるとし、その理由として奇妙なことを述べる。
「これは、報道のために報道内容の編集という知的な作業が行われ送り手の意見が表明される点から言っても、さらに、報道機関の報道が国民の知る権利に奉仕するものとして重要な意義を持つ点から言っても異論がない。」(『憲法』第
しかし、「報道内容の編集という知的作業が行われること」という点をとらえて、報道の自由を表現の自由の内容として肯定するという主張は、基本的にかつての「事実の報道と思想・信条の発表の区別は困難である」という主張の亜流であって、とうてい妥当とはいえない。それを「知る権利に奉仕する権利」ということを併記するのは、むしろ矛盾を拡大する。知る権利に奉仕するということは、それが客観的情報であることを必要とするが、編集を通じて送り手の意見が現れている場合には、それは客観報道とは言い得ないからである。
実は、『憲法学V 人権各論(
2)[増補版]』(有斐閣2000年刊)283頁では、芦部は編集にあたって報道するものの意見が混入するという見解に対して、そのような「論旨だけでは、国民の知る権利と報道の自由との現代社会における不即不離の関係を明らかにすることはできないであろう」と切って捨てている。こちらが後からの著作であり、遙かに詳しい記述であることから見れば、教科書にある上記表現は、芦部にとっても克服さるべき過去の説と評価することができるであろう。このような編集権の行使に、報道者側の主観が混入するという問題を巡っては、テレビ朝日報道部長放言事件が有名である。もはや記憶の彼方になっているという人も多いと思うので、簡単に紹介すると、これは次のような事件である。
1993年9月21日、民放連第6回放送番組調査会において、テレビ朝日の椿貞良報道局長が、同年に行われ、55年体制が崩壊し、細川内閣が誕生した選挙時の同局の報道姿勢について、次のような発言を行った。
「『今度の選挙は、やっぱし梶山幹事長が率いる自民党を敗北させないとこれはいけませんな』ということを、ほんとに冗談なしで局内で話し合った」「私どもがすべてのニュースとか選挙放送を通じて、やっぱしその
これが放送法に違反するとして、同氏は
1993年10月25日、衆院政治改革調査特別委員会に喚問され、次のように陳謝することとなった。「ああいうような常識を欠いた、不適切で脱線的な暴言をしたと思う。その点をまずおわびする」「本当にまとめていたとすれば、それは重大なことだが、まとめていたという事実はない。」
このように、報道機関がフルに編集権を活用すれば、聴取者の知る権利を踏みにじり、特定の見解を持つ方向に誘導することが可能である。当然のことながら、これは電波メディアの場合には放送法が明文で要求している不偏不当性に反し、印刷メディアの場合にも新聞協会の倫理綱領に違反するもので、その様な編集権の行使は到底肯定できない。
仮に、編集権を論点とする論文である場合には、むしろ知る権利に奉仕する権利という点から、不偏不当性を侵害し、発信者の意見を伝えるような編集権の行使は許されないと議論するべきところである。編集権の限界はそこにある。
二 取材の自由
知る権利に奉仕する権利としての報道の自由は、さらに三つの派生原則に分けて理解することができる。取材の自由、編集の自由及び発表の自由である。その中でも、取材の自由は、正確な事実を収集するための活動として、特に強力な保護の対象となる。
(一) 取材の自由の意義
事実を伝達するためには、まず伝達すべき事実を収集しなければならない。報道機関が行う事実収集のための活動を取材という。取材の自由が報道の自由の一環に属するものであることは、今日においては疑う余地がない。
しかし、最初からそうだった訳ではない。先に報道の自由に関し、学説は初期に「事実の報道と思想・信条の発表の区別は困難である」として肯定するという姿勢をとっていた、と述べたが、このように報道の自由を把握する立場からは、必然的に「本来の報道の自由は、取材された事実を報道する自由を意味し、当然には取材の権利をも含むと見るべきではない」(宮沢俊義『憲法U』有斐閣・法律学全集
4〔新版〕363頁)とする見解が導かれることになる。判例もこれを受けて、次のように述べて、報道機関の取材活動における特権的な地位を否定していた。
「憲法の保障は、公共の福祉に反しない限り、いいたいことはいわせねばならないということである。未だいいたいことの内容も定まらず、これからその内容を作り出すための取材に関し、〈中略〉証言拒否の権利までも保障したものとはとうてい認められない」(石井記者事件=最大昭和
同じ判決は、憲法
21条は「一般人に対し平等に表現の自由を認めたものであって、新聞記者に特ダネの保障を与えたものではない」とも述べているが、これは逆説的にではあるが、一般の表現の自由に比べた場合の報道の自由の異質性を鋭く指摘したものと言える。このような判決の流れを大きく変更したのが、先に引用した博多駅フィルム提出命令事件最高裁判決である。同判決では、テレビ局側は次のように主張した。
「これまで報道機関に広く取材の自由が確保されて来たのは、報道機関が、取材にあたり、つねに報道のみを目的とし、取材した結果を報道以外の目的に供さないという信念と実績があり、国民の側にもこれに対する信頼があつたからである。然るに、本件のように、取材フイルムを刑事裁判の証拠に使う目的をもつてする提出命令が適法とされ、報道機関がこれに応ずる義務があるとされれば、国民の報道機関に対する信頼は失われてその協力は得られず、その結果、真実を報道する自由は妨げられ、ひいては、国民がその主権を行使するに際しての判断資料は不十分なものとなり、表現の自由と表裏一体をなす国民の「知る権利」に不当な影響をもたらさずにはいないであろう。結局、本件提出命令は、表現の自由を保障した憲法
最高裁判所は、この主張を肯定し、先の引用部分に続けて次のように述べる。
「思想の表明の自由とならんで、事実の報道の自由は、表現の自由を規定した憲法
ここで「
21条の精神に照らし」という表現が出てくる。これは判例特有の意味不明の用語である。一般的には判例が「憲法が明確に保障している」というのを嫌って、曖昧にごまかすためのものである。だから、諸君は無批判にこの用語法をまねしてはいけない。ただ、本例の場合には、これまで述べてきたとおり、報道の自由そのものが21条に含まれる知る権利そのものではなく、それに奉仕する権利であること、そして取材の自由は更にそれに奉仕する権利であることを考えれば、そうした間接性を示した表現として肯定する余地はある。この判決では、取材の自由が法的権利であることは示されているが、抽象的権利のレベルに留まるのか、それとも具体的権利であるのかははっきりしなかった。この権利が具体的権利であることが最も端的に現れてくるのは、公務員の守秘義務を取材活動を通じて突破しようとする場合である。沖縄機密電報漏洩事件(西山記者事件)で最高裁は次のように述べた。
「報道機関の国政に関する報道は、民主主義社会において、国民が国政に関与するにつき、重要な判断の資料を提供し、いわゆる国民の知る権利に奉仕するものであるから、報道の自由は、憲法
要するに、普通人が行えば、違法と評価される行為と客観的には完全に同一の行為が、報道機関によって行われる場合にだけ、正当業務行為と評価されることになるのである。
この理念は今日では完全に定着し、立法、司法、行政のあらゆる場面で取材の自由は、特権的な地位を与えられる。
例えば、国会法
52条は、その本文で、「委員会は、議員の外傍聴を許さない」と定めつつ、その但書で「報道の任務にあたるものその他の者で委員長の許可を得たものについてはこの限りではない」と規定し、事実上フリーパスで報道陣の傍聴を認めている。また、裁判所が一般傍聴人のメモ行為を禁じていた時代にも、報道関係者のメモ行為は特に禁止した例はない(なおレペタ事件参照)。(二) 取材源秘匿の自由
取材の自由から派生する権利として、取材源秘匿の自由というものが認められるかについては、古くは争いがあった。すなわち、先に紹介した石井記者事件では、憲法
21条は新聞記者に特別の保障を与えたものではない、として、これを否定した。しかし、上述の通り、報道の自由は一般の表現の自由と異なる特別な保障であり、その主体たる報道機関には特別の権利が認められる、と考えるときには、これは当然異なる結論となる。取材源の秘匿が要請されるのは、しばしば、取材源を明らかにしない、という信頼があって始めて正確な情報が得られることがあるためである。この結果、この内々の信頼関係が保護されることによって、正確な情報が国民に伝達されるという結果が生ずるからである。
名誉毀損事件において、証人として証言を求められた新聞記者が証言を拒否したいわゆる島田記者事件において、札幌高等裁判所は次のように述べた。
「民事訴訟法
このように、取材の自由からさらに進んで取材源秘匿の権利まで導いたのであるが、同時にこれを絶対的な保障とはしなかった。すなわち、
「他方、民事訴訟においては、公正な裁判の実現という制度的目的が存するのであるから、職業の秘密を理由とする取材源に関する証言拒絶権は、民事訴訟における公正な裁判の実現の要請との関連において、制約を受けることがあることも否定することはできない。右制約の程度は、公正な裁判の実現という利益と取材源秘匿により得られる利益との比較衡量において決せられるべきであり、そのうち公正な裁判の実現という点からは審理の対象である事件の性質、態様及び軽重(事件の重要性)、要証事実と取材源との関連性及び取材源を明らかにすることの必要性(証拠の必要性)が問題にされるべきであり、一方取材源に関する証言の拒絶という点からは、取材源を明らかにすることが将来の取材の自由に及ぼす影響の程度、更に右に関連する報道の自由との相関関係等が考慮されるべきであり、これらをそれぞれ慎重に比較衡量して、取材源に関する証言拒絶の当否を判断すべきである。」
しかし、ここでの比較衡量は、博多駅フィルム提出命令事件のようなアド・ホックなものではない。比較衡量に当たり、次のように、取材の自由に力点を置く比較衡量を行うことを要求するのである。
「右証拠の必要性は、当該要証事実について、他の証拠方法の取調がなされたにもかかわらず、なお取材源に関する証言が、公正な裁判の実現のためにほとんど必須のものであると裁判所が判断する場合において、はじめて肯定されるべきである。」
札幌高裁昭和
すなわち、ここでの比較衡量は、他の証拠方法では実現不可能な場合に限って認められる、という特別の重み付けが行われているのである。この点については、本稿の最後の審査基準論で再論する。
(三) 公務員の守秘義務と取材源秘匿の権利
本問で取り上げた読売新聞記者に関する決定の場合、報道されているところによれば、上述した島田記者事件の判例を尊重しつつ、「日本の政府職員が取材源だったか」などとする質問への拒絶を取り上げ「取材源が、守秘義務の課せられた国税庁職員である場合、その職員は法令に違反して記者に情報を漏らしたと疑われる」と指摘し、「取材源について証言拒否を認めることは、間接的に犯罪行為の隠ぺいに加担するに等しく、到底許されない。取材への悪影響は法的保護に値せず、記者の証言拒否は理由がない」と述べたという。
これは、先に述べた西山記者事件最高裁判例を無視したものであって、到底認めることはできない。
この点について、社団法人日本新聞協会及び社団法人日本民間放送連盟は、
2006年3月17日に緊急声明を発表し、その中で次のように述べた。「地裁決定は、情報源が仮に国家公務員だった場合、一般に明らかにされていない情報を記者に伝える行為は国家公務員法の秘密漏洩罪に当たる、とした。その上で、記者の証言拒否を認めるのは『犯罪行為の隠蔽に加担し、奨励するに等しい』と述べ、記者に、取材源に関する証言拒絶権は認められないとの結論に至っている。
今回と関連する裁判で、昨年
そもそも、記者が公務員に秘密情報の提供を働きかけることは、真にそれが取材目的であり、社会観念の上でも是認されるものであれば『正当な業務行為』と認められる、との判例(
1978年最高裁第一小法廷決定)が確立している。国家公務員が、記者の良識的かつ根気強い要請に応じて情報提供することは、直ちに違法行為となるものではない。決定は明らかに判例に違反している。民主主義社会において、主権者たる国民の『知る権利』が尊重されるためには、報道機関に、公権力に対する『取材・報道の自由』が保障されることが最低必要条件である。我々は、権力の行使者としての公務員らから直接、政策の決定過程、事件捜査の状況などに関する『真実』の情報を得る努力を重ねている。それが、権力監視というジャーナリズムの根源的使命と考えるからだ。今回の決定で、公務員が記者と接触することに憶病になり、その結果、国民が必要とする情報の流通が阻害され、公益性の高い内部通報なども激減してしまうことを、強く懸念する。
今後、上級審等がいかなる判断を下そうとも、取材源を守る姿勢は最後まで貫き通すことを改めて確認しておく。」
妥当な見解である。
さらに、取材源自身が開示に同意している場合も秘匿は認められないと判断したという。この点について、上記緊急声明は次のように述べている。
「報道機関で取材活動に従事するすべての記者にとって、「取材源(情報源)の秘匿」は、いかなる犠牲を払っても堅守すべきジャーナリズムの鉄則である。隠された事実・真実は、記者と情報提供者との間に取材源を明らかにしないという信頼関係があって初めてもたらされる。その約束を記者の側から破るのは、情報提供の道を自ら閉ざし、勇気と良識をもつ情報提供者を見殺しにすることにほかならないからである。」
少なくともこの記述に見る限り、地裁決定が言うように取材源自身が開示に同意している場合には、秘匿は認めなくとも良いと考えているようである。
ニューヨーク・タイムズのジュディス・ミラー記者の収監事件においても、同様の考え方から、取材源であるブッシュ政権幹部が氏名開示に応じ、同記者は釈放された。この事件を巡る事実は、記者の収監が、取材源に開示に同意するように圧力を掛ける手段として使用されたことを示している。したがって、真に取材の自由を守るためには、取材源の同意の有無を問わず、秘匿する権利というものを考える必要があることは明らかと言える。
この点について、博多駅事件フィルム提出命令は明らかに、取材の自由の保護法益は、既に行われた取材における取材源の秘密ではなく、将来における取材の自由の確保の手段であることを認めている。そう考えると、藤下決定は、この点でも明らかに妥当とは言えない。
なお、参考までに、この事件の差異に示されたニューヨークタイムズの社説を紹介する。
Our Bottom Line
(われわれの準則)Responsible journalists recognize that press freedoms are not absolute and must be exercised responsibly. This newspaper will not, for example, print the details of American troop movements in advance of a battle, because publication would endanger lives and national security. But these limits cannot be dictated by the whim of a branch of government, especially behind a screen of secrecy.
Indeed, the founders warned against any attempt to have the government set limits on a free press, under any conditions. "However desirable those measures might be which might correct without enslaving the press, they have never yet been devised in America," Madison wrote.
Journalists talk about these issues a great deal, and they can seem abstract. The test comes when a colleague is being marched off to jail for doing nothing more than the job our readers expected of her, and of the rest of us. The Times has been in these fights before, beginning in 1857, when a journalist named J. W. Simonton wrote an editorial about bribery in Congress and was held in contempt by the House of Representatives for 19 days when he refused to reveal his sources. In the end, Mr. Simonton kept faith, and the corrupt congressmen resigned. All of our battles have not had equally happy endings. But each time, whether we win or we lose, we remain convinced that the public wins in the long run and that what is at stake is nothing less than our society's perpetual bottom line: the citizens control the government in a democracy.
We stand with Ms. Miller and thank her for taking on that fight for the rest of us.
分別のあるジャーナリストならば、報道の自由が絶対的な準則ではないこと、およびその自由の行使には責任がともなうことは認識している。たとえば、戦闘前の米軍の作戦行動の詳細を本紙は報道しないだろう。しかし、こういった制限は、統治機構の一部門の気まぐれによって――とりわけ密室の決定によって――課されるべきものではない。
ここで想起していただきたいが、われわれの国の建国者たちは、統治機構による報道の自由へのあらゆる制限の試みに反対し、警告してきた。「報道機関の奴隷化を避けつつ報道機関の誤りを正そうという主旨の諸方策がいかに望ましいとしても、それらはアメリカには決して導入されてこなかったし、現在もそうである」とマディソンは述べている。
ジャーナリストたちは報道の自由という問題について大量に語ってきたが、それらは空理空論にみえることもある。彼らが真に試されるのは、同僚記者が読者の期待に応えて仕事をしたときにそれを理由として投獄されようとするときである。タイムズ紙はこの戦いに以前から関わってきた。最初の戦いは
1857年にまでさかのぼる。このとき、サイモントンというジャーナリストが議会の収賄について論説を書き、取材源公表を拒んだために下院によって議会侮辱罪に問われ、19日間収監されたのだった。結局、サイモントンは節を守り、当の議員は辞職した。われわれの戦いがつねにハッピーエンドだったかといえばそうではない。しかし、いかなる場合も、勝敗の如何にかかわらず、われわれは次の信念を保ちつづけてきた。――長い目でみれば公衆が勝利する、そしてこの戦いにおいて賭けられているのはまさしくわれわれの社会の永久の最重要準則、つまり民主政体において市民が統治機構をコントロールするという準則なのだ、と。)
(われわれはミラー記者を支持する。そして、彼女がわれわれのために戦いを引き受けてくれていることに感謝する。)
http://d.hatena.ne.jp/gachapinfan/20050710
より引用
三 表現の自由における比較衡量基準
芦部信喜は、取材源秘匿の権利を否定するためには、国は厳格な審査基準によるべきだとする。そして、先にも強調したとおり、報道の自由は表現の自由そのものではなく、それに奉仕する権利だから、厳格な審査基準も、その表現形式が異なることになる。すなわち、
「秘匿権を否定するためには、国は、@被疑事件に明らかに適切な情報を記者が保有していると信じるにたる相当の理由(
ちなみに、これは米国ブランツバーグ事件(
Brabzburg v. Hayes, 408 U.S. 665[1972])で、連邦最高裁の少数意見が示した基準である。この基準をよく見ると、第
2の要件は比較考量基準の一種を要求していることが判る。確かに、現実に発生している博多駅事件フィルム提出命令事件や日本テレビ取材フィルム差し押さえ事件など、一連の取材物提出拒否権からみの事件で問題となっているのは、裁判の公正ないし捜査の適正という利益と取材の自由という異質の利益との比較考量論である。したがって、そうした場合に、どのような比較考量手段を使用するべきかが問題となる。
上記各事件で、判例により採用された比較衡量手法は、各事件限りの比較衡量(アドホック衡量)である。前述の通り、そのアドホック性が、後に続く事件に対する判決論理としての拘束力を弱め、結論的に、徐々に取材の自由に対する保障の度合いを下げて、いずれの場合にも国側の利益を優越させるという結論を導いているのである。
このような定型化しつつある事件において、アドホック衡量を排し、より定型的な比較衡量手段を導入しなければならない。すなわち、定義付け衡量、あるいは厳格な比較衡量等の手段の導入を考えるべきなのである。ここで注目するべきは、取材の自由は、報道の自由の一環として、精神的自由権に属する、という点である。
諸君も知るとおり、最高裁判所は、泉佐野市会館使用不許可事件判決で、「厳格な比較衡量論」というべき、あたらしい比較衡量論を開発した(裁判平成
7年3月7日)。同事件判決を簡単に紹介すると、次のようになる。まず、会館の使用を拒否することが憲法の保障する集会の自由の制限につながることを肯定したうえで、
「制限が必要かつ合理的なものとして肯認されるかどうかは、基本的には、基本的人権としての集会の自由の重要性と、当該集会が開かれることによって侵害されることのある他の基本的人権の内容や侵害の発生の危険性の程度等を較量して決せられるべきものである。」
とする。その上で、比較衡量するにあたっての基準を、この集会の自由という精神的自由権の制限である点から次のように結論する。
「このような較量をするに当たっては、集会の自由の制約は、基本的人権のうち精神的自由を制約するものであるから、経済的自由の制約における以上に厳格な基準の下にされなければならない」
と述べて、その根拠として薬局距離制限判決を引用するのである。
本件で問題になっている取材の自由も、また、知る権利に奉仕する権利として、精神的自由権の一環に位置づけることが可能である。したがって、この泉佐野市会館事件と同様に、厳格な比較衡量論を適用するのが妥当な事例ということができるであろう。
先に紹介した島田記者事件で札幌高裁は、明らかにこの厳格な比較衡量論をとるべきであると論じていた。そして、それを受けた具体的な比較衡量にあたっては次のような判断を示している。
「取材源の秘匿につき証言拒絶権を肯定した前記制度の趣旨及び相手方が、前記の通り概括的範囲においてその取材源を明らかにする証言を行つていること等を斟酌考慮すると、抗告人としては、これらの限定された範囲の取材源につき調査を実施する等適切な証拠収集の措置をとることによつて、前記反対尋問の目的とするところを実現することは不可能ではないと推測することができるから、前記説示するところに従い、相手方に対し取材源についての、抗告人の本件反対尋問に対する証言をなさしめることが、本件につき公正な裁判を実現するためにほとんど必須のものであることを未だ肯定することができないというほかはない。」
要するに、この証言に依らなくとも公正な裁判を実現することが不可能ではない、という点を決め手に、比較衡量において取材の自由を重いものとしたのである。その場合、この証言によらなくともよい、ということが確実である必要はなく、単に「不可能ではないと推測することができる」とか、「ほとんど必須のものであることを未だ肯定することができない」という厳しい判断の現れ方に、この判決が、取材の自由側に重みをつけた厳格な比較衡量を実施していることが端的に現れている。ここでは、先に芦部が採用した基準が現実化していると見ることができよう。
追記
上述した島田記者事件札幌高裁判決の論理は、本フォーエバープロダクツ社事件において、最高裁判所も確認したところである。すなわち、本件事件の上告に対し、平成
18年10月3日最高裁判所第三小法廷は、次のように決定した。「報道関係者の取材源は,一般に,それがみだりに開示されると,報道関係者と取材源となる者との間の信頼関係が損なわれ,将来にわたる自由で円滑な取材活動が妨げられることとなり,報道機関の業務に深刻な影響を与え以後その遂行が困難になると解されるので,取材源の秘密はの秘密に当たるというべきである。」
同時に、島田記者事件における札幌高裁と同様に、上記嘱託尋問事件における最高裁判所も、これを絶対的な保障とはしなかった。最高裁判所は次のように述べた。
「当該取材源の秘密が保護に値する秘密であるかどうかは,当該報道の内容,性質,その持つ社会的な意義・価値,当該取材の態様,将来における同種の取材活動が妨げられることによって生ずる不利益の内容,程度等と,当該民事事件の内容,性質,その持つ社会的な意義・価値,当該民事事件において当該証言を必要とする程度,代替証拠の有無等の諸事情を比較衡量して決すべきことになる。」
しかも、ここでの比較衡量は、博多駅フィルム提出命令事件のようなアド・ホックなものではない。比較衡量に当たり、次のように、取材の自由に力点を置く比較衡量を行うことを要求するのである。
「比較衡量にあたっては,次のような点が考慮されなければならない。すなわち,報道機関の報道は,民主主義社会において,国民が国政に関与するにつき,重要な判断の資料を提供し,国民の知る権利に奉仕するものである。したがって,思想の表明の自由と並んで,事実報道の自由は,表現の自由を規定した憲法
すなわち、ここでの比較衡量は、「当該証言を得ることが必要不可欠である」ため、他の証拠方法では実現不可能な場合に限って認められる、という特別の重み付けが行われているのである。