共有林分割請求事件

甲斐素直

 問題

 XとYは、実の兄弟であるが、その父Zから、生前に合計100万平方メートルの山林(以下「本件山林」という)を、それぞれ2分の1ずつの持ち分で共有財産として贈与を受け、共同して森林経営を開始した。しかし、Zの死後、XY両者の森林経営の理念が大きく食い違うにもかかわらず、調停するZを欠いたため、本件山林の共同経営が実質的に不可能となり、下刈り・間伐・枝打ち等が全くなされずに草茫茫の状態で放置されている状況にあった。

 Xは、この状況を打開するため、本件山林を現物分割の方法で分割したいと考えたが、X・Y間には著しい感情的対立があり、信頼関係が失われているため、到底分割の協議が成立する見込みがなかった。そこで、Xは、本件山林を現物分割の方法で分割されるように、民法258条に基づき裁判所に訴えを提起した。これに対して、Yはこの訴訟の時点における森林法186条の定めるところにより、2分の1の持ち分しかないXから、共有林の分割を求めることはできないと反論した。

 第1審裁判所は、森林法186条の規定は、森林経営の零細化防止という国家の政策的視点から共有森林の分割請求を禁止したのであり、共有者間の信頼関係の破壊といつた私人間の私的関係から、公益規定である同法条の適用がなくなるものと解することは、公益規定である同法条の解釈論としては無理であると認定した上で、森林法186条が本件山林にも適用があり、Xの請求は法律上許されないと判決し、第2審裁判所もこれを支持した。そこで、Xは、森林法186条は、憲法29条に違反するとして上告した。

 Xの主張の当否について論ぜよ。

 参照条文

 森林法186条(訴訟当時のもの)

森林の共有者は、民法(明治29年法律第89号)第256条第1項(共有物の分割請求)の規定にかかわらず、その共有に係る森林の分割を請求することができない。ただし、各共有者の持分の価額に従いその過半数をもって分割の請求をすることを妨げない。

[論点について]

 本問は、最高裁判所で違憲判決(昭和62422日大法廷判決)が出た共有林分割請求事件を、ほぼ忠実に問題化したものである。したがって、本問の解答は基本的にこれをなぞったものとなればよい。ただ、試験の解答としては、単に判例どおりではなく、そこでは述べられていない基本の部分からきちんと、憲法29条に関する議論を展開したものであることが望ましい。

 本問には、大別して二つの論点がある。第一は、憲法29条の本質論である。財産権の保障が、本問で問題となっている森林法のような財産権の使用・収益・処分を制限する立法を許容するか否かという問題である。第二は、憲法訴訟論である。司法権が、立法の合憲性を判断するに当たり、どのような判断基準を使用するのが適切か、という問題である。

 第一の論点を整理すると、次の諸論点に分解することができる。すなわち、

「(i)一項は二頃との関連において、いかなる規範的性格を有するのか。すなわち、二項に基づき『内容規定』を行う立法者に対して一項はいかなる意味をもつのか。単なるプログラムか、財産権という制度全体を侵すことを禁ずる制度保障であるのか、個別具体的財産権の保障であるのか、という問題が、周知のように存する。さらに二項については、(ii)財産権の『内容規定』に、その行使の制約も含まれるものであるか、後者については別に憲法二一条、二二条に根拠が求められるのか、(iii)ここでの『公共の福祉』には、財産権の『内在的制約』ばかりでなく、『政策的制約』も含まれるのであるか、(iv)条例による「内容規定」は許されるか、が議論されてきた。最後に三項については、〈中略〉(v)補償の要否の基準、の諸点が問題となる他、(vi)三項全体としての規範的性格につき、立法指針説、違憲無効説、請求権発生説が存するところである。」

(棟居快行著『憲法学再論』信山社2001年刊69頁より引用)

 第一の論点については、通説的な見解をいかに要領よくまとめるかが合否のポイントとなる。もちろん、諸君が例えば浦部法穂『憲法学教室』全訂第2版などを基本書として使用している場合には、この段階から議論が分かれてくる。

 第二の論点はかなり複雑である。まず、ベースとなる論述の建て方として、判例が伝統的に採用している立法裁量論、戸松秀典などが主張している立法裁量論+合理性基準論、戸波江二などが主張している合理性基準論という3通りのアプローチが基本的に存在している。さらに、合理性基準論に関して、薬事法判決と高知市場判決をベースにして組み立てられている経済的自由権に関する二重の基準論を採用するか、あるいは財産権に関する独自の基準をたてて論ずるか、というふうに、様々な可能性がある。どの議論の枠組みを使って論じているのか、ということが、明確に示されていることが、合否を分けるポイントとなると考えられる。

一 憲法29条の本質論

 本件判決は、その冒頭で、次のようにきわめて簡潔に、この問題を論じている。

「憲法29条は、1項において『財産権は、これを侵してはならない。』と規定し、2項において『財産権の内容は、公共の福祉に適合するやうに、法律でこれを定める。』と規定し、私有財産制度を保障しているのみでなく、社会的経済的活動の基礎をなす国民の個々の財産権につきこれを基本的人権として保障するとともに、社会全体の利益を考慮して財産権に対し制約を加える必要性が増大するに至つたため、立法府は公共の福祉に適合する限り財産権について規制を加えることができる、としているのである。」

 これは多分に簡潔すぎ、また、理由付けが不足しているが、本番では、解答者が、これを基本的に忠実に再現できていれば、第一の論点の前半については、問題なく合格点を与えることができる。しかし、このままでは諸君には意味がわからない部分があるだろうから、以下ではもう少し掘り下げて説明しておこう。

(一) 291項の意義

 近代自由主義社会は、個人の尊厳と所有権の絶対、という二つの概念の上に築かれた。これはそれに先行する封建制のアンチテーゼと理解できる。すなわち、封建所有権は、領主のもつ抽象的な支配権から始まって、現実に土地を耕作する人間の持つ具体的支配権に至るまで、幾重にも重層構造を形成していたために、どのような個人もその財産の自由な使用、収益、処分が許されなかった。このために、そうした制約を否定することが、近代社会の確立に欠くべからざる要求であったのである。

 フランス人権宣言17条はは次のように宣言する。

 所有権は、神聖かつ不可侵の権利であり、何人も、適法に確認された公の必要が明白にそれを要求する場合で、かつ、正当な事前の補償の下においてでなければ、これを奪われることはない。

 これはまさに、こうした近代市民社会イデオロギーの端的な表明である。わが国では、明治5年の地租改正により、始めて土地所有権という概念が作り出されたから、押収とは歴史的背景に違いがある。しかし、わが明治憲法が、「日本臣民はその所有権を侵さるることなし。公益の為必要なる処分は法律の定むる所に依る」と規定したのは、基本的にはプロイセン憲法を経由して、同様の趣旨を宣言したと読むことが出来よう。

 このままであれば、本問で問題としている森林法の規定は当然に違憲である。

 しかし、資本主義経済の発達とともに二つの変化が発生してくる。

 第1は、資本主義の矛盾が拡大し始めたために、財産権に対する公権的な規制が増加し、常態化したという点である。特に、所有権の中核とも言うべき土地所有権は、近代資本主義の原理に反して、どれほど需要が増大しても、それに対応して供給の増大が不可能という特質を有している。その結果、所有権そのものに関してさえも、神聖不可侵であるどころか、大きな制約が認められるようになる。例えば、ワイマール憲法153条は次のように宣言している。

1項 所有権は、憲法がこれを保障される。その内容及び限界は、法律によって明らかにされる。

2項 公用収用は、公共の福祉のために、かつ、法律上の根拠に基づいてのみ、これを行うことができる。公用収用は、連邦法に別段の定めのない限り、正当な補償の下にこれを行う。補償の額について争いがあるときは、連邦法に特段の定めのない限り、通常裁判所で争う途が開かれているものとする。連邦、市町村及び公益団体が行う公用収用は、補償する場合にのみ行うことができる。

  • 3項 所有権は義務を伴う。その行使は同時に公共の利益に役立つべきである。

  •  この特に第1項と第3項の規定は、権利の性格そのものに対する根本的な認識の変化を端的に示している。これが本問の森林法にも直結していることになる。これを以下、財産権の近代化と呼ぶことにしよう。

     第2に、所有権の、経済全体に占める重要性が相対的に低下し、代わって債権がその主要な担い手になってきたことである。物権は強力な権利であるだけに、第三者の権利を害しないように物権法定主義が要求される。その硬直性のために、社会の変化に対応して、新しい内容の権利を保障する必要性が現れてきても、そのニーズに柔軟に対応するのは困難である。それに対して、債権は当事者が納得すればどのような内容の権利でも、創出することが可能である。こうした柔軟性から、現代社会では、債権が物権よりも重要な権利となってくる。これを「債権の優越」と呼ぶ。これに伴い、物権でも、所有権以外の権利、特に債権の確保に奉仕することを目的とする担保物権の重要性が増加してくる。

     新しい内容の債権が社会的基盤を確立してくると、法が追随し、そうした新種の権利に物権と同様の強力な保障を与えることが行われる。そうした新しい権利は、従来の物権と異なり、物に関係しない権利なので、一般に「無体財産権」と総称される。その中でも特許権や著作権重要で、他の無体財産権と区別して「知的財産権」と呼ばれる。これが財産権の現代化という現象である。

     このような二つの方向への同時進行的な大きな変化の結果、所有権だけの保障では、今日、ほとんど無意味になったので、現行憲法29条は、広く「財産権」一般を保障するようになってきた。

     わが憲法29条を解釈するに当たっては、こうした二つの流れを前提にする必要がある。第1項と第3項だけを読む限り、所有権という言葉を財産権と置き換えている点を除けば、フランス人権宣言から少しも変わっていないように見える。しかし、その間に「財産権の内容は‥法律でこれを定める」というワイマール憲法に直結する表現が飛び込んで来ていることによって、全体の意味が変わる。1項や3項は2項との関連において意味を理解する必要がある。すなわち、今日においては、「私有財産制」は、27条・28条の保障する「労働」とともに、すべての国民に生存を保障する手段として認められる。「財産」と「労働」とが、互いに補足しあって、人類文化の発展の要素たるべきものとされているのである。このような理解の下では、財産権は社会権の一種として把握されることになる。

    二 私有財産制の意義

     このように、291項がかつてのように絶対的な権利を保障したものではないという理解の下において、2項との関係をどう理解するかが、次の問題となる。

     1項を抜きにして、2項だけを読むと、財産権は法律で自由にその内容を変更することが可能と読める。例えば、所有権は、かつての理論だと、地球の中心から宇宙の無限の彼方までその効力が及ぶはずである。それなのに、自分の土地の上を人工衛星が無断で通過できるのは何故だろうか。もちろん、何の迷惑もないものだから、それに文句を言うのは権利の濫用だと説明できるかもしれない。しかし、それなら、激しい騒音を立てて通過する飛行機は何故許されるのだろうか。あるいは、自分の土地の下で、地盤陥没事故が起きる危険があるほどに、鉱山会社が勝手に鉱石を採取を採取できるのは何故だろうか。それは、空については航空法、地下については鉱業法がそれぞれ定められている結果、そもそもそこには地表の所有権が及ばなくなっているからである。こうした現実を見ると、確かに所有権のような根幹的な権利も含めて、財産権は、法律によってその内容が決まっていることが判る。

     そこで、この2項を前提に、1項を単純に読むと、そこで保障されている財産権とは、法律で定められる財産権の不可侵のみを意味することになる。しかし、そう解したのでは、法律によって自由に財産権そのものの内容の変更はもちろん、廃止さえもが可能になるから、1項の規定をおいた趣旨が完全に失われる。そこで、一般に、1項は個別の財産権を保障すると同時に私有財産制をも保障したものであると理解する。

     最高裁共有林分割禁止違憲判決で、先に紹介した次の文章は、憲法29条について、表現は今ひとつはっきりしないが、これを制度的保障の説明と読むことができるであろう。

    「私有財産制度を保障しているのみでなく、社会的経済的活動の基礎をなす国民の個々の財産権につきこれを基本的人権として保障するとともに、社会全体の利益を考慮して財産権に対し制約を加える必要性が増大するに至つたため、立法府は公共の福祉に適合する限り財産権について規制を加えることができる、としているのである。」

     制度的保障が、財産権の個人所有、すなわち私有財産制を内容としているという点では異論はない。しかし、制度的保障概念は、その周辺の法律による制限を認めつつ、中核概念を立法によっても不可侵なものとして保障する理論である。したがって、私有財産制の場合に、その不可侵の中核はどのような概念になるのか、ということが、本問における第一の大きな問題点である。

     かつての通説は、わが国現行憲法が資本主義を保障していると把握し、そこから制度の核心を生産手段の私有制であると考え、社会主義へ移行するためには憲法改正が必要であるとしていた。例えば佐藤幸治は次のように説く。

    「通説は、資本主義体制を念頭に置き、社会主義ないし共産主義体制を実現することは法的に不可能と解している。日本国憲法が個人の生活に不可欠な物的手段のみを保障するのであれば、社会主義国家の憲法のようにその点を明示したはずであろうし、また、上述のように221項で営業の自由が保障されていることも考慮するならば、通説のように解すべきであろう。」佐藤幸治『憲法』第3566頁より引用

     しかし、この主張は、社会主義に対する無理解ないし共産主義との混同から生じている。すなわち、営業の自由は、社会主義憲法の下でも認められているし、すべての生産手段の私有を禁ずるわけではない。

     参考までに1977年ソヴィエト憲法を見ると、次の通りとなっている。

    「第11条(市民の所有)

     ① ソ連邦市民の所有はその個人の資産であり、物的及び精神的欲求を充足させ、経済的及び法律で禁止されていないその他の活動を自主的に行うために使用される。

     ② 市民の所有には、市民の所有として取得することが許されていない種類の財産を除き、労働による取得もしくは合法的に取得した消費及び生産を目的とする任意の財産が含まれる。

     ③ 市民は、農業経営及び個人副業経営を行うため、ならびに法律で定められているその他の目的を実現するため、終身かつ相続しうる土地を占有する権利を有する。

     ④ 市民の財産の相続権は、法律によって認められかつ保障される。

    17条(個人営業) ソ連邦では法律に従って市民本人及びその家族の構成員のみの労働に基づく手工業、農業、及び住民に対する生活サービス領域での個人的勤労活動並びにその他の種類の活動が容認される。国家は、この活動が社会の利益のために利用されることを保障するために、個人的勤労活動を規制する。」

     このように、社会主義下においても、営業の自由も明文で保障されるのである。これに対し、資本主義の下でも、議会によって一定の企業について国有化が行われたりする。

     このことを考えれば、この点での資本主義との差は、程度の差に過ぎない。要するに、現代資本主義は、修正資本主義という名で知られるとおり、社会主義の長所を導入する体制となっているのである。同様に、社会主義もまた、資本主義の長所を導入することにより、その欠点の是正を図っているのである。したがって、かつてのステレオタイプのイデオロギー対立を現実の制度の中に見出すことはできないのである。

     ここでのキーワードは、第1節に述べた「財産権の社会性」である。

     社会国家であるわが国としては、生産手段の私有を絶対的に保障していると解するべきなんらの法的根拠も存在しないこと、財産権の社会性から見た場合、個人の生存に直結する財産権の保障までで、制度としては必要にして十分であること、という二つの根拠から、人間が、人間としての価値ある生活を営む上に必要な物的手段の享有までが保障の対象となると考える。換言すれば、個人の能力によって獲得し、その生活利益の用に供せられるべき財産を、使用、収益、処分する権利が中核と考えれば十分である。

     現実の法制は、このような考えに則って定められている。例えば、相続税を例にとってみよう。日常レベルにとどまる財産の相続の場合には、大幅な控除が認められて、事実上非課税なのに対し、相続税率は累進制で、額が3億円を超える場合には50%の税が課せられる。どんな大金持ちでも、三代目には只の人になる、といわれる由縁である。それは、そのような巨額の資産は、人間としての価値ある生活を営む上に必要な物的手段の享有を超えていて、財産権として保護する必要がないために、相続税という法律により侵害可能であると判断されたことを示している。

     以上の説明は、基本的な理解を確保するために、多分に直感的な表現を使用しているので、諸君の論文にこのまま引用してはいけない。学説は、もう少しきめ細かな表現を行うのが普通である。代表的な説を紹介する。その上で、諸君自身の基本書とも相談してどれを君たちとしては採用するかを決めた上で、それぞれの論文にもっとも適切な表現を見つけるようにしてほしい。

     1 大きな財産・小さな財産説

     少しややこしい説なので、文字通り引用する。

    「社会国家の使命が、なによりも先に、社会の下積みになった多くを占める国民に、人たるに価する生活を保障することだとしたならば、そこにおいて制限されるべき財産権とは、国民がその生活を営むための日常必需財産を支配する財産権を直接の対象とするのではなくーそういう『小さな財産』の財産権を意味するのではなく、もっと『大きな財産』の財産権ー貧乏や失業の原因を作った資本主義経済発展の原動力となった財産を支配する財産権をその主要な対象とすべきはずである。なぜならば、この『小さな財産』のもつ社会性は比較的弱いのに対して、『大きな財産』のもつ社会性は極めて強いからである。」

    高原賢治「社会国家における財産権」有斐閣『日本国憲法体系』7249

     佐藤幸治もこれを妥当とする(佐藤『憲法』第3版、566頁)。

     2 生存財産・独占財産説

     たとえば、長谷部恭男は次のようにいう。

    「個人の固有のものとしての財産は、社会公共の利益を理由としても侵害しえない、最低限の生活保障のため、あるいは個人の自由な私的生活領域を保護するために不可欠な財産と考えることができる。このような財産は憲法291項による保障の中核にあり、法律によっても侵害しえないものである。

     これに対して、現在の高度に複雑化した経済社会を規制する財産法制の大部分は、当該社会のメンバーがそれに従うことに共通の利益を見いだすからこそ存在するものであろう。このような財産法制は、292項の定めるように、社会全体の利益つまり公共の福祉という観点から立法府よってその内容を定められ、変更されうる。」

    長谷部『憲法〔第3版〕』新世社243頁より引用

     基本的には上記大きな財産・小さな財産と同様の考え方であるが、表現の明確性から最近はこちらをとる者が増えている。たとえば、野中他『憲法Ⅰ〔第4版〕』444頁(高見勝利執筆部分)、辻村みよ子『憲法〔第2版〕』284頁、小林孝輔他『基本法コンメンタール憲法〔第5版〕』212頁(中島茂樹執筆部分)も同様の見解を示す。生存財産は、「人間に値する生活財」(今村成和『損失補償制度の研究』676頁)と呼ばれることもある。私自身は、この最後の論文に従い、「生存財産」ではなく、「生活財」ということを好むが、単に用語法の問題に過ぎない。

     この議論の意味が判るだろうか。29条は、1項の財産権の限りでは経済的自由権の保障規定である。しかし、292項で、侵す事のできない制度の中核は、個人の生活財である(あるいは生存財産ないし小さな財産である)と考える場合には、それに属しない事業用財産権は、憲法29条の侵すべからざる中核に属する権利ではない。だから、法律の定めるところにより自由にその権利の内容を決定することができる。

    *                 *                 *

     このように説明すると、往々にして諸君は、この考えが絶対に正しいという誤解を持ち、こう考える理由をきちんと論文に書き込まない傾向がある。そこで、上記に示した通説的な制度的保障という考え方に対しては、様々な批判も存在していることを強調しておきたい。例えば浦部法穂『憲法学教室〔全訂第2版〕』212頁は次のように批難する。

    「これはすなわち、社会権の実現が財産権保障という観点から限界づけられるということを意味する。これでは、社会権を保障し、そのためには経済的自由権が制限されることを当然の前提とした憲法の趣旨が完全に没却されることになってしまう。要するに、291項の解釈論として制度的保障の概念を持ち込むことは、日本国憲法の基本的な立場と相容れないのである。291項の解釈として、制度的保障論は、とるべきではないと思う。」

     こうした学説の対立については、諸君の基本書は必ずしも詳しくない。いつも言うとおり、他説に対する批判は書かなくてよい。だから、こうした異説の内容を詳しく知る必要はない(だからここでも浦部法穂説の内容は説明しない)。しかし、それは異説の存在自体を知らなくて良いという事ではない。自説に批判があるということを承知していれば、その分だけしっかりと自説の理由付けが必要であることが判るからである。

     学説の広がりを簡単に早く知る方法としては、何らかの憲法コンメンタールや演習書を参照する事である。論文練習の手段として、普段からそうした本の利用を心がけて欲しい。また、その様に考えた場合には、本問では、どのような理論展開をすべきかについても、これらの本に当たって、一度じっくり考えておいてほしい。

    (二) 憲法訴訟論

     第二の論点はかなり複雑である。まず、ベースとなる論述の建て方として、判例が伝統的に採用している立法裁量論、戸松秀典などが主張している立法裁量論+合理性基準論、戸波江二などが主張している合理性基準論という3通りのアプローチが基本的に存在している。さらに、合理性基準論に関して、薬事法判決と小売市場判決をベースにして組み立てられている経済的自由権に関する二分論を採用するか、あるいは単純に二重基準論に依拠するか、独自の基準をたてて論ずるか、というふうに、様々な可能性がある。どの議論の枠組みを使って論じているのか、ということが、明確に示されていることが、合否を分けるポイントとなると考えられる。

    (一) 立法裁量論的アプローチ

     判例のスタンスから行くと、本判決は次のように述べている。

    「財産権に対して加えられる規制が憲法二九条二項にいう公共の福祉に適合するものとして是認されるべきものであるかどうかは、規制の目的、必要性、内容、その規制によつて制限される財産権の種類、性質及び制限の程度等を比較考量して決すべきものであるが、裁判所としては、立法府がした右比較考量に基づく判断を尊重すべきものであるから、立法の規制目的が前示のような社会的理由ないし目的に出たとはいえないものとして公共の福祉に合致しないことが明らかであるか、又は規制目的が公共の福祉に合致するものであつても規制手段が右目的を達成するための手段として必要性若しくは合理性に欠けていることが明らかであつて、そのため立法府の判断が合理的裁量の範囲を超えるものとなる場合に限り、当該規制立法が憲法二九条二項に違背するものとして、その効力を否定することができるものと解するのが相当である」

     ここでは、立法裁量論だけを使って議論している事が判るであろう。

    (二) 二重の基準論的アプローチ

     単純に二重の基準論を適用し、狭義の合理性を求める。例えば、松井茂記は次のように言う。

    「民主主義に立脚する日本国憲法の下では、このような経済的自由の規制については、裁判所が立法府の判断に口出しすることを正当化する理由はなさそうである。そうであれば、いかなる目的の規制であろうが、合憲性を推定し、著しく不合理であることが明確でない限りは、裁判所は社会経済規制立法を違憲とすべきではないように思われる(552頁より引用)

     この立場による場合には、当然判例に反対することになろう。それはそれで一つのスタンスである。

    (三) 立法裁量論+二重の基準

     戸松秀典の場合には、このように議論するはずである。

    (四) 民法典の政治的中立性論

     長谷部恭男は、二分論を肯定した上で、森林法事件の特殊性として、民法典の存在を指摘する。

    「民法典、中でも財産法に関する規定が政治的に公正中立な基準であるとの観念は、法律家に広く浸透している。民法上の規定もやはり一つの利害関係に過ぎないとすると、森林法の分割制限規定を無効として民法に立ち返る理由は疑わしいはずである。特に、問題の立法が遠い過去のものであり、当時の集団の利益を、目的と手段の関連性に疑問があるにも拘わらず、現在でも擁護する必要はもはやないとすれば、最高裁判所の判断は自然なものである(249頁)。

    (五) 制度的保障論的アプローチ

     私は、この問題については、制度的保障論からアプローチするのが正しいと考えている。すなわち、制度の中核に関わる制限の場合には、厳格な審査を、周辺については緩やかな審査をというように使い分けるのである。