刑事手続と明確性の法理

甲斐素直

問題

 高校教師X(25才)は、その教え子であった少女Aが当時17才であることを承知の上で恋愛関係に入り、将来を誓う中になった。そして、ホテルBなどで数回にわたって性交渉を持った。その結果、X及びAの居住するC県青少年保護育成条例(以下「条例」という)31条に違反したとして、逮捕され、起訴された。そして、条例38条により罰金5万円を求刑された。

 Xは、刑罰を科する場合には憲法31条の定める罪刑法定主義の下にあるところ、条例31条にいう「淫行」という語は、青少年に対するすべての性行為と考える時には過度に広汎で無効であり、それより狭く解するとすれば内容が不明確であり、明確性の法理に照らし合憲限定解釈をとることは禁じられることから無効であり、したがって無罪であると主張した。

 Xの主張に関する憲法上の問題について論ぜよ。

参照条文 C県青少年保護育成条例

2条 この条例において、次の各号に掲げる用語の意義は、それぞれ当該各号に定めるところによる。

一 青少年 18歳未満の者(他の法令により成年者と同一の能力を有するとされる者を除く。)をいう。

311項 何人も、青少年に対し、いん行又はわいせつな行為をしてはならない。

38条 次の各号のいずれかに該当する者は、2年以下の懲役又は100万円以下の罰金に処する。

 一 第31条第1項の規定に違反した者

[はじめに]

 本問の事案は、基本的には福岡県青少年保護育成条例事件(最大昭和601023日=百選〈第5版〉252頁、以下「本事件判決」という。)をベースにしているが、同事件の現実の事実関係のままだと、価値観的に否定的な意識が働いて、理論構成が歪む可能性があるので、大幅に手直しした。また、単純に事実関係だけを並べて、憲法上の論点について論じることを求めるスタイルでは、憲法93条の法律と条令の関係とか、あるいは憲法14条など、数多くの論点が現れて収拾が付かなくなる。すなわち、本事件判決で、伊藤正己判事が、その少数意見の中で詳述しているとおり、地域によって青少年の健全育成の条件が違うとは常識的に言って考えられず、その意味で、そもそも地方条例になじむ問題なのか、地域によって同じ「淫行」に対して差異をもうけていることが合理的な差別といえるのか、といった大きな疑問があるからである。

 そこで、問題文そのものの中に、罪刑法定主義と明確性の法理が論点であることを明示し、それについてのみ、論じることを求めることとして、設問の平易化を図っている。より具体的に述べれば、第一に、現在のわが国でいう罪刑法定主義とはいかなる概念か、ということが第一の論点であり、それを受けて、第二に、そこに言う明確性とは、憲法訴訟論的にはいかなる意味があるのか、ということである。順次論じたい。

一 罪刑法定主義と適正手続

 罪刑法定主義(Nulla poena sine lege)とは、本来、ドイツ法系の概念でる。ある行為を犯罪として処罰するためには、立法府が制定する法律において、犯罪とされる行為の内容、及びそれに対して科される刑罰を、予め明確に規定しておかなければならないとする主義をいう。

 明治憲法においては、その23条で、「日本臣民ハ法律ニ依ルニ非スシテ逮捕監禁審問処罰ヲ受クルコトナシ」と定めて、この主義を明確に採用していた。これに対し、現行憲法でこれを採用しているかどうかは、少なくとも文言上ははっきりしない。しかし、憲法制定当初から、憲法31条がそれを定めたものとする解釈が定着している。31条の述べているのが、それだけのことであれば本問はほとんど論じる問題はなく、Xの主張する明確性の法理などは出てくる余地がない。

 本問の第一の問題は、この規定が英米法に言う適正手続条項(due process of law)を定めたものか否かである。

 英米法における“due process of law”の理念とは「手続及び実体要件の双方について法定されなければならないのみならず、内容も共に適正なものでなければならない。」というものである。ここにいう“law”という英語は、法律と理解しては誤りで、法的正義の意味である。すなわち、ドイツ流の罪刑法定主義が、罪と刑の双方を法律という法規範で制定することを要求するとともに、それで十分とするのに対して、ここでは、法規範の内容が正義の理念にかなったものであることを要求する点に最大の相違がある。

 これについては、わが国における当初の解釈は否定的であった。なぜなら、憲法31条は、日本文はともかく、英文は次のものだからである。

   No person shall be deprived of life or liberty, nor shall any other criminal penalty be imposed, except according to procedure established by law.

 すなわち“procedure established by law”と表現されていて“due process of law”という言葉が避けられているのである。ここから、立法者意思としては、あえて“due process of law”の理念をわが国憲法に導入することを避けたと読むことができる。なぜ避けたのか、ということを以下簡単に説明する。

 そもそも“due process of law”という思想の源流は、マグナカルタ39条にまで遡るといわれる。すなわち、

 「いかなる自由人も、その同輩の合法的裁判によるか、または国土の法によるのでなければ、逮捕、監禁、差し押さえ、法外放置、もしくは追放され、または何らかの方法によって侵害されることはない。」(樋口=吉田編『解説世界憲法集』より引用)

米国合衆国憲法の場合には、まず修正
5条でこれが謳われている。すなわち、
  • 「何人も・・法の適正な過程によらずに生命、自由または財産を奪われることはない。」

  •  同条の場合、連邦機関による恣意的な権力行使の抑圧を目指し、手続的デュープロセスを定めて、州に対する連邦の干渉を禁止する趣旨である。これに対して、南北戦争後に、戦後処理の一環として黒人差別の禁止などととも制定された同修正141節は、逆に連邦による州に対する干渉権を認めて、次のように定める。

     「いかなる州も法の適正な過程によらずに、何人からも生命、自由または財産を奪ってはならない。」

     この規定の場合、名宛人として州が明確に定められている点で、連邦最高裁の権限が拡張された。しかも、連邦最高裁によってこれが実体的デュープロセス(substantive due process)規定であると解釈された。すなわち、手続的正義だけでなく、実体的正義という視点からも、連邦は州に対して干渉しうるとされたのである。この実体的デュープロセス概念は、特に20世紀初期において、連邦最高裁が採用する司法積極主義の下において、連邦最高裁の強力な武器となり、米国の福祉主義的な立法に致命的な打撃を与えた。特に、19351月から翌年5月までのわずか17ヶ月間に、ルーズベルトが世界大恐慌対策として立案したニューディール政策を支える12の立法を違憲無効と宣言して、ニューディール政策を崩壊に追い込んだことから、その威力がひろく認識されるに至った。

     わが国現行憲法の原案と言うべきマッカーサー草案を起草したのは、その中心人物であったケーディス大佐に代表されるように、ニューディール政策の支持者であった(ルーズベルト・ボーイズと呼ばれる)ため、司法府に“due process of law”に基づく審査権を与えることを危険と認識し、わが国現行憲法からは意識的に排除した。先に紹介したとおり憲法31条が“procedure established by law”という表現を採用しているのは、この姿勢の端的な表れである。

     ここから、大きな問題が出てくる。すなわち、立法過程においてあえて排除したデュープロセス概念を、ここにいう法定手続き保障という言葉に読み込むことが可能か、という問題である。

    二 学説の推移

    (一) わが国では、上記のような制定経緯を受けて、憲法31条が米国流のデュープロセス概念を採用したものではない、という説が初期においては通説であった(美濃部達吉『新憲法逐条解説』1947年刊70頁参照)。その後においても、例えば日本国憲法制定過程の研究者であり、米国のデュープロセスの研究者である田中英夫が「憲法31条(いわゆる適正手続き条項)について(『日本国憲法体系』有斐閣1965年刊、第8巻、165頁)」という論文において、31条は米国のデュープロセス概念とは無関係である、と断じている。これら消極的な考え方の根拠には、この立法経緯の影響が大きい。

    (二) しかし、徐々にではあるが、同条を手続き的デュープロセスと読む学説が登場してくる。その最初期の例の一つを法学協会編『註解日本国憲法』に見ることができる。

    「被告人の言い分を充分聴取(rechtliche Gehör)しないで処罰したり、曖昧で、広い内容を持った刑法を制定したりしたときなどのように、憲法のどの条文に反すると明らかにはいえないが、憲法の精神に反するといわざるをえない場合がある。このような場合本条によって救済するのが妥当である。この限度で英米法の『適法手続』を採用したと解するのは、全体として英米法の影響を受けたわが憲法の解釈として不当ではないと思われる。」(1953年刊、588頁より引用)

     こうして、少なくとも刑罰規定に関しては、31条を英米法にいうデュープロセスと保障した規定と読むことが急速に通説化していく。例えば、宮沢俊義はほとんど根拠をあげることなく、次のように述べる。

    「『法律の定める手続』は、かような意味において、いわゆる『妥当な法の手続』(due process of law)とその趣旨を同じくするといえよう。」(宮沢俊義『日本国憲法』1955年刊、285頁)

     要するに、“procedure established by law”と言おうと、“due process of law”と言おうと、それが正義(law)に基づく法律を要求していることに違いは無い、と考えるのである。

     このように考えた場合には、憲法31条は、ドイツ的な罪刑法定主義、すなわち罪と罰が法令に根拠があるだけでは足りず、さらに進んで、その規制の内容が法的正義に合致したものであることが求められることになる。

    三 適用審査と文面審査

     この結果、では31条が求める正義とは、どのような内容のものであるかが問題となる。Xのいう明確性の法理は、この正義の内容として導かれる。ここでの正義は、適正手続という言葉に端的に示されているとおり、手続的正義である。ここでは、この言葉の意味だけを説明してもおそらく理解して貰えない。そこで、その背景としての、憲法訴訟とはそもそもどのような概念なのか、というところから、以下、説明したい。

    (一) 自制説と適用審査 as applied scrutiny

     違憲審査権に関しては、基本的に二つの見解が存在しうる。司法積極説と司法消極説である。裁判所として、違憲立法審査権を行使するにあたっては、積極的に当事者の主張を待たずして違憲審査をするのが妥当なのか、それとも当事者が違憲主張をした場合でさえも、消極的に違憲審査をする場面を限定するのが妥当なのか、という問題である。

     米国の連邦最高裁における違憲審査は、司法積極主義で出発したといって良い。当事者のいずれもが、そもそも裁判所が違憲審査を行うことを予定していなかったマーベリ対マディソン事件、南北戦争を結果として引き起こしてしまったドレッド・スコット事件は、いずれも司法積極主義に立っていた。

     特にそれが顕著に表れたのが、ルーズベルト大統領のニューディール政策に対する一連の判決である。19351月から翌年の5月までのわずか1年半の間に、12の法律に対して、相次いで違憲無効を宣言し、ニューディール政策を壊滅に追い込んだ。これに対して国民から強い批判の声が挙がり、193611月に行われた大統領選挙では、連邦最高裁の改革を叫んだルーズベルトは地滑り的大勝利をあげた。この勝利を前にして、連邦最高裁はルーズベルトの前に膝を屈し、以後、いわゆるルーズベルト・コートが誕生することになる。この事件をアメリカでは憲法革命と呼んでいる。これ以前の連邦最高裁はオールド・コート、これ以後、今日までの連邦最高裁はニュー・コートと呼ばれる。

     今日の米国連邦最高裁の判例を作り出したニュー・コートは、そうした過去の判例に対する批判に立脚する形で、司法消極主義を是とするスタンスを示すに至った。すなわち、形式的には違憲審査が可能な場合にも、裁判所としては、一旦はその行使を自制すべきだとするスンタンスである。何故そういう考え方を示すのであろうか。以下、芦部信喜が『憲法訴訟の理論』(有斐閣昭和48年刊)で説くところにしたがって、簡単に説明したい(以下の文中「」内は、いずれも同書30頁以下からの引用)。

     1 裁判所の非民主性

     芦部信喜が指摘する第一の点は、裁判所の非民主性である。

    「裁判所は本来非民主的な機関であるから、国民の代表者(多数者)の意思を最大限に尊重し、法律の『賢明さ又は弊害』ではなく『立法者が当該法律を制定できる合理性があったかどうか』を探求すべきである、という理論的理由である」

     ここで指摘されている点は重要である。諸君は、違憲審査基準というと合理性基準を思い出すであろう。何故合理性が審査基準になるのか、ということに対する答えがこれである。すなわち、文字通りの司法消極主義を貫いている狭義の合理性基準はもとより、司法積極主義として説明される厳格な審査基準も、それが合理性基準である限りにおいて、基本的に自制説に立つ基準であるということを、ここで理解してほしい。

     また、この合理性の探求という事は、審査にあたり、可能な限り合憲と解釈する道を探るべきである、ということを意味する。例えば都教組事件(最大昭和4442日=百選第5442頁参照)に代表される合憲限定解釈は、この点を根拠としているのである。

     2 国民の信頼確保の必要性

     この見出しは、私が考えたもので、芦部信喜の用語ではない。しかし、以下に述べていることを要約すれば、こう表現できるであろう。

    「最高裁の憲法裁判の権威は、国民が最高裁は『いかなる欠点を持とうとも、…抽象的な憲法上の命令を具体的なそれに変えうるもっとも客観的な、公平な、また信頼するに足る管理者であると考え』るところに究極の根拠があるのだから、最高裁がもし多数者の意思に余りにも反対するなど、『みずからの慎重さによってのみ拘束される…おそろしい権力(司法審査権)』を積極的に行使すべきだとすると、最高裁の客観性と公平さに対する国民の信頼は傷つけられ、司法部の積極的な発言も、結局『混沌たる状態の中ではほとんど尊重されない』から、最高裁の権威は低下し、その実効的な活動は阻害される。このような他権力との衝突を避けるためには、自己制限の技術に訴えることが必要である、という理由である。」

     このうちで、『』の部分の最初のものは、米国連邦最高裁判所における自制論の旗頭というべきジャクソン判事の、第2の箇所は同じく著名な自制論者であるフランクファータ判事の、そして第3の部分は再びジャクソン判事の言葉の引用である。

     ここで述べられていることは、ある意味では逃げの姿勢で、学生諸君は汚いと感じるかもしれない。しかし、オールド・コートが強硬な司法積極主義路線を貫いた結果、連邦最高裁判所改組論を唱えたルーズベルトの大統領再選に米国民が圧倒的な支持を与え、その世論の力の前に、主要な司法積極主義者達が連邦最高裁判事の辞職に追い込まれ、オールド・コートに終止符が打たれた、という米国憲法史を想起するならば、これもまた、もっとも弱い統治機構である裁判所が、その権威と権力を守るための大事な法技術であることを否定することはできない。

     3 他の国家機関活動に対する信頼性

     このように表題をつけたが、これは次に引用した芦部信喜の文章のもっぱら後半部分に焦点を置いたものである。

    「自制論が以上の論拠に付け加えて、重大な憲法事件での合憲性は事件をめぐる事実(circumstances)に関する判断に還元されるという経験的なアプローチ-したがって『憲法問題を抽象的に扱い、それを空疎な法的問題の面から形式的で表す傾向は、すべて実際とは無関係の内容貧弱な結論に至る』という立場-を強調する点が注目される。フランクファータが、政治の第1次的責任を負う機関の判断を司法的判断をもって替える違憲審査は、具体性のない通則によって決して正当化できない、という見解を堅持したのは、そのためである。ここに『不確実は同位の統治機関の賢明さと誠実さ、及びそれらの機関が責任を負う国民の利益になるよう、解決さるべきである』という自制論の重要な一つの論拠が見出される。」

     この引用文は、諸君が学ぶ憲法訴訟論の多くの部分に関する根拠を示している。第12行目で言われていることは、立法事実論の根拠である。その次に来る『』で示されるフランクファータ判事の見解は、付随的憲法訴訟が何故妥当かという点に関する根拠の一つでもある。

     そして、フランクファータ判事の2番目の言葉が、表題に上げた点である。この機会に、小売市場最高裁判所昭和471122日判決(判例百選第5204頁参照)を改めて読み返してほしい。そこで言われているのが、まさにこのことであることが理解されよう。

     このように、司法審査にあたって、基本的に司法消極主義を採用する場合、違憲審査とは、法令の合憲性を、その事件における当該法令の適用に関して個々的に審査することを意味するはずである。これを適用審査という。違憲審査が付随的審査である以上、これが原則となるのである。適用審査の結果、その事件が違憲と認められれば、適用違憲判決が下ることになる。すなわち、問題となった法律や命令の、その事件への適用が違憲となるのであって、法律や命令そのものは違憲とはならない。

    (二) 文面審査 facial scrutiny

     例外的に法令の合憲性を、その事件から離れて、法令そのものの文面において審査するのが適当と考えられる場合が存在する。これを文面審査という。

     これは、権利救済のための審査手法である。これが問題となるのは、基本的に二重の基準論がベースとなる。二重の基準論について、改めて説明する必要はないと思うので、ここでは割愛する。その理論の結果、精神的自由権については、限定的にではあるが、司法積極主義がとられる。

     その場合に、適用審査では問題が生じる。先に説明したとおり、適用審査の場合、司法権の自制説に従うと、合憲限定解釈を採ることが妥当となる。しかし、その場合には、法律の文言が不明確であったり、過度に広汎で、そこで規定されている文言に従う限り違法と評価される事態の一部だけしか合憲でなく、後の規制は違憲であるという場合に、国民は、どこまでが許される活動であり、どこからは違憲になるのかが、実際に裁判にならない限り判らない、という問題が生じる。

     例えば、徳島市公安条例事件(最大昭和50910日=百選〈第5版〉182頁)では、徳島市公安条例が、デモ行進の規制にあたり、単に「交通秩序を維持すること」と定めていたことが問題になった。路上でデモ行進を行う場合、それがどれほど静穏なデモ行進であっても、必ず自動車交通の秩序を乱してしまうから、このような規定は明らかに不明確なもので、人々に対し、同公安条例で許されるデモ行進はどのようなものか、という情報を与える機能を果たしていないからである。そこで、最高裁判所は次のように非難した。

    「右の規定は、その文言だけからすれば、単に抽象的に交通秩序を維持すべきことを命じているだけで、いかなる作為、不作為を命じているのかその義務内容が具体的に明らかにされていない。〈中略〉交通秩序を侵害するおそれのある行為の典型的なものをできるかぎり列挙例示することによつてその義務内容の明確化を図ることが十分可能であるにもかかわらず、本条例がその点についてなんらの考慮を払つていないことは、立法措置として著しく妥当を欠くものがある。」

     すなわち、このように不明確な規制では、国民に発生する萎縮効果(chilling effect)を防止することができないのである。そして、表現の自由に代表される精神的自由権を規制する場合には、萎縮効果は事前抑制たる機能を発揮する。事前抑制が原則的に禁止されることは、北方ジャーナル事件その他で、諸君のよく知るところであろう。

     そこで、このように萎縮効果が発生する法令の場合には、合憲限定解釈を行うことは許されず、文面を審査して、それが違憲という結論が下されれば、そこから直ちに法令自体が違憲であるという結論を下さなければならない。

     同じことは、刑罰法規についても言うことができる。本事件最高裁判決で、伊藤正己判事は、上記徳島市公安条例事件最高裁判決及び税関検査事件最高裁判所判決(昭和591212日=百選〈第5版〉152頁)を引用した上で、その点について次のように説明している。

    「以上の判例は、いずれも表現の自由にかかわるものであり、表現の自由の特質からその規制の立法はとくに明確性が憲法上要求されることはたしかであるが、刑罰という最もきびしい法的制裁を科する刑事法規については、罪刑法定主義にもとづく構成要件の明確性の要請がつよく働くのであるから、判例の説示するところは、憲法31条のもとにあつて、刑罰法規についてもほぼ同様に考えてよいと思われる。」

     こうして、本問の行為が「淫行」に該当するかどうかは、適用審査ではなく、文面審査の対象になることになる。その場合に、違憲審査の基準として、どのような概念が使われるのかが、次の問題となる。

    (三) 明確性基準と過度の広汎性基準

     この文面審査にあたって使用される審査基準として、米国の判例が開発したのが、明確性の法理と過度の広汎性の法理である。

     明確性の法理とは「刑罰法規は対象として禁止・処罰を受ける個人に対し禁止内容が十分にわかるような明確な文言になっていなければならない」とするものである。なぜなら、法文が不明確な場合には、いかなる行為が規制立法に抵触するか、という予見可能性が失われ、個人に対して「公正な警告」を発しているとは言えないような場合には、その刑罰法規は曖昧さの故に無効(void for vagueness)となるというべきだからである。

     これに対し、過度の広汎性の法理とは、「法律の文言そのものは明確であるが、表現活動を規制する法律の適用範囲が過度に広汎であるために、それが憲法上保障されている表現活動をも規制禁止する場合は、過度の広汎範性の故に無効(void for overbreadth) となる」とする考え方である。

     ここで問題となるのが、不明確といい、あるいは過度に広汎と言う時の、その基準は何か、ということである。上述した徳島市公安条例事件最高裁判所判決は、ここで通常人標準説という有名な基準を述べた。

    「通常の判断能力を有する一般人が、具体的場合に当該行為がその適用を受けるものかどうかの判断を可能ならしめるような基準が読みとれるかどうか」

    というのが、この基準の内容である。確かに、普通の人に「公正な警告」を発していると見ることが可能なときには、それは不明確でも曖昧でもない、と考えることができよう。

     ここまで説明したことで、ようやく本事件最高裁判所判決について論じる準備ができたことになる。

    四 福岡県青少年保護育成条例事件最高裁判所判決について

     本条例が定める「淫行」という言葉は、常識的に理解すればセックス行為のことであることは、きわめて明らかである。しかし、民法が女性に16才以上になれば婚姻の権利を認めていることからすれば、あらゆるセックス行為を意味すると理解すると、正式に婚姻している男女間の性交渉ですらも取締対象になることになり、明らかに過度に広汎な規定といえる。したがって、この言葉は実は不明確なもので、実際の取締範囲は、この言葉の文言解釈よりは狭いものと言わないと辻褄が合わない。

     そして、本条例は刑罰法規であるから、明確性の法理に従えば、不明確であると判断された段階で、違憲・無効となり、それ以上具体的な事実関係に踏み込むまでもなく、文言審査に基づき、文言違憲という判決が下るべきだ、という解釈がとられることになる。

     但し、「淫行」という言葉を、通常人の合理的判断で、より狭く解釈することができるのであれば、それは決して合憲限定解釈ではないから、許容されることになる。

     本問の解答しては、ここまでを論じてくれれば十分であって、これ以上の個別・具体的な判断にまでは踏み込む必要はない。それは基本的には、各人が、この「淫行」という言葉からどう感じるか、というフィーリングの勝負となり、理論的に解明できることではないからである。しかし、それでは諸君としても落ち着かないと思うので、以下、では、本事件において、判決はどのように判断したのかを説明しておこう。

     多数意見は、次のように考えた。

    「青少年の健全な育成を図るため、青少年を対象としてなされる性行為等のうち、その育成を阻害するおそれのあるものとして社会通念上非難を受けるべき性質のものを禁止することとしたものであることが明らかであつて、右のような本件各規定の趣旨及びその文理等に徴すると、本条例一〇条一項の規定にいう『淫行』とは、広く青少年に対する性行為一般をいうものと解すべきではなく、青少年を誘惑し、威迫し、欺罔し又は困惑させる等その心身の未成熟に乗じた不当な手段により行う性交又は性交類似行為のほか、青少年を単に自己の性的欲望を満足させるための対象として扱つているとしか認められないような性交又は性交類似制為をいうものと解するのが相当である。」

     ここでは、二つの概念が示されている。第一は「青少年を誘惑し、威迫し、欺罔し又は困惑させる等その心身の未成熟に乗じた不当な手段により行う性交又は性交類似行為」である。第二は、「青少年を単に自己の性的欲望を満足させるための対象として扱つているとしか認められないような性交又は性交類似制為」である。第一の行為は、処罰の対象として良いとたいていの人に感じられるであろう。それに対し、第二のものは問題である。

     伊藤正己判事は次のように述べて反対した。

    「これまで高裁判決などで多く示された解釈によれば、『淫行とはみだらな性行為のことであり、健全な常識を有する社会人からみて、結婚を前提としない、専ら情欲を満たすためにのみ行う不純とされる性交又は性交類似行為をいう』とされる。この解釈は、一見して限定を付しているようにみえるが、性行為そのものは、自己の性欲を満足させるために行われるのが通常であるから、それはほとんど限定の作用をいとなまず、結婚を前提としない青少年を相手方とする性行為のすべてを包含することに近いと考えられ、適当と考えられる限定とはいえないであろう。」

     すなわち、少なくとも伊藤判事のフィーリングでは、これは処罰に値する概念ではないということになる。繰り返すが、これは多分に個人のフィーリング論争であって、理論としてどちらが正しいといえる問題ではない。ただし、最高裁判事の間ですら、フィーリングにずれがあったという事実は、多数意見が本当に一般人を標準としたものであるかどうかに疑問を投げかけることは確かである。

     とにかく、このように感じた結果、伊藤判事は、可罰的違法性を備えているのは、多数意見の上げる第一の概念だけだ、と考える。そこで、それが明確性の法理に照らして、明確性を維持しているかが最後の問題となる。判事は言う。

    「この判断基準にたつて本条例101項の規定が憲法31条の要求する明確性をそなえているかどうかを考えてみるに、多数意見の示すような限定解釈は一般人の理解として『淫行』という文言から読みとれるかどうかきわめて疑問であつて、もはや解釈の限界を超えたものと思われるのであるが、私の見解では、淫行処罰規定による処罰の範囲は、憲法の趣旨をうけて更に限定されざるをえず、『誘惑し、威迫し、欺罔し又は困惑させる等』の不当な手段により青少年との性交又は性交類似行為がなされた場合に限られると解するのである。しかし、このような解釈は、『淫行』という文言の語義からいつても無理を伴うもので、通常の判断能力を有する一般人の理解の及びえないものであり、『淫行』の意義の解釈の域を逸脱したものといわざるをえない。このように考えると、「淫行」という文言は、正当に処罰の範囲とされるべきものを示すことができず、本条例101項の規定は、犯罪の構成要件の明確性の要請を充たすことができないものであつて、憲法31条に違反し無効というほかはない。原判決及びその支持する第一審判決は破棄を免れず、被告人は無罪であると考える。」

     どちらの見解を支持するかは、基本的には諸君の価値観で決まることであって、どちらが正しいとは言えないが、私自身は伊藤説に強い説得力を感じている。