参議院の問責決議と衆議院の解散

甲斐素直

問題

20xx年某月、首相YからA法案が提出された。この法案はその内容の当否を巡り、大変議論を呼び、与党からも反対票を投じるものが続出する中で、辛うじて衆議院を通過した。

 参議院では、与野党の議席差が少ないところから、与党から若干の反対投票者が出るだけで、容易に否決という事態になることが予想された。  

それを食い止める目的から、参議院本会議での決議まで数日というところで、首相Yは「A法案に対する参議院での可決を内閣に対する信任とみなす」と宣言した。しかし、それでも与党議員の造反を防止できず、参議院ではA法案が否決された。そこで、Yは、その事前の宣言通り衆議院を解散した。

 これに対し、衆議院議員であったXは、第一にA法案否決を、内閣不信任決議と読むことはできないこと、第二に、仮にその否決を参議院で行った内閣不信任決議である問責決議と捉えることが許されるとしても、問責決議による衆議院の解散は、憲法の条文上どこにも記されておらず認められないこと、から解散は無効であるとして、衆議院議員の地位の確認と歳費の支給を求めて訴えを提起した。

 この事案における憲法上の問題点について論ぜよ。

[はじめに]

(一) 小泉内閣における郵政民営化解散をそのまま問題化しただけのものである。この事件では、参議院で郵政民営化法案が否決されたことを捉えて、いわば問責決議と認定し、国民に信を問うという形で7条解散が実施された。そこで、当時から、その合憲性が話題となった。

 しかし、その参議院における決議である、という点を除くと、普通の衆議院の解散を問う問題と、特に答案構成に違いはない。

(二) 統治機構論における学説の対立の多くは、ある制度を自由主義=権力分立論的に捉えるか、民主主義的に捉えるか、という基本的な認識の差異に由来している。内閣制度の本質に関し、責任本質説と均衡本質説の対立がある。これもまた基本的には、民主主義的理解=責任本質説、自由主義的な理解=均衡本質説という対応として理解することができる。ただ、米国大統領制のように、わが国では議院内閣制を基本として採用している為、この整理は必ずしも、ここに述べたような単純な対応関係にならないところに、問題の難しさがある。ここではまず、第一段で学説史的な紹介をまず行い、それを受けて、今日におけるとらえ方の違いを踏まえつつ、論ずるという方法をとってみる。

一 参議院の問責決議について

 わが国憲法は、議院内閣制と二院制を組み合わせた方式である。このような組み合わせ方式の場合、内閣の基盤は、どちらか一方の院に置かれる。わが国憲法は、内閣は衆議院に基盤を置くと原則的に定めている。そのことは、内閣総理大臣の選任、並びに予算及び条約の可決において、衆議院の単純多数が参議院の意思を踏みにじれる点に端的に表れている。しかし、例えば内閣総理大臣の選任資格が国会議員となっている(67条1項)等、不徹底な点もある。

 さらに問題なのが、わが国の参議院が、第2院としては、世界でも例を見ないほど強力なことである。例えば、議院内閣制の母国イギリスの場合、上院は、財政関連法案に関しては、審議権を持っているだけで修正権も否決権もない。しかも何が財政関連法案化は、下院議長の決するところによる。また、内閣総理大臣等は上院に審議に出席することはできない。このように、上院と下院の力が極めて不均衡であるため、イギリスでは、内閣は上院の意向は無視して行政活動を行うことが可能である。

 これに対し、わが国の場合には、あらゆる法律案について、参議院が政府案を否決ないし修正した場合、政府としては衆議院の3分の2以上の特別多数を以てしない限り、参議院の意思を跳ね返すことができない。上述のとおり、首相は衆議院の単純過半数で選任されうるので、通常は特別多数の支持基盤は有していないからである。

 このように、わが国憲法が極めて強力な第2院を定めているために、現実問題として参議院において、過半数の支持基盤を有していない限り、内閣が安定的に存在することは不可能である。現在のねじれ国会以前の時点において、すでに自由民主党と公明党は連立政権となっていたが、それは、当時において、自民党は衆議院においてこそ過半数の議席を有していたが、参議院においては、公明党の議席を加えない限り過半数には届かなかったのである。現在のねじれ国会は、自民党の議席数に公明党の議席数を加えても、参議院で過半数に届かないことから生じている。

 ここに参議院の問責決議の重みが存在している。確かに参議院の問責決議は、憲法委69条のような制度的根拠を持たないが、ひとたび参議院が問責決議を行った場合、自民党が単独でも衆議院で3分の2を超している特異な状況にない限り、常に内閣の命運を決してしまうからである。

 そして、内閣の命運をになう重要法案の否決は、実質的に問責決議と同等の重みを有している。参議院が、内閣の基本方針を否定したという点において、不信任決議と同等に評価しうるからである。小泉内閣における郵政解散の場合、それによって参議院の反対をねじ伏せられる3分の2以上の多数を獲得できるか否かが、その意味で最大のポイントであった。それを小泉首相が得ることに成功したが故に、参議院は、自らの決議を変更して郵政民営化法案を可決することになった。たとえ、否決しても特別多数でねじ伏せられることがはっきりしたからである。

 そこで、問題は、そもそも解散とはどのような意義の制度なのかである。

二 議院内閣制の諸類型と議会解散権

 議院内閣制は、大別して、二元型と一元型に分かれる。本問では、別に二元型に触れる必要はないのだが、一元型を正確に理解してもらうための方法として、二元型の説明から入ってみたい。

(一) 二元型議院内閣制

 二元型とは、典型的には王制の下において、王権と議会の二つの権力の、両者の信任を得ていることを内閣の存続要件としている議院内閣制のことである。もっとも、西欧では王が消滅した後においては、それと同様の権力を持つ大統領を選任するようになった国がほとんどである。その場合には、王を大統領と読み替えれば、全く同じことである。

 二元型議院内閣制の下では、内閣は、王か議会のいずれか一方の信任を失えば、崩壊することになる。かつてのイギリスではこの型の議院内閣制が存在した。現在の代表的存在としてはフランスやロシアをあげることができる。

 この型においては、王は議会の解散権を有するのが通例であり、その解散権の行使には制限がない。内閣の補弼の下に王は解散権を行使するのが通例であるから、実質的に内閣が議会解散権を有しているといえる。イギリスにおいては、一元型に移行した今日においても、理念的には王権が残存している結果、同国内閣が実質的に有している議会解散権は極めて強力である。

 同様に、フランス第5共和制憲法の下では、共和国大統領が、首相及び両院議長への諮問が要件になっているとはいえ、やはり自由に解散権を行使できる(同憲法12条参照)。

  1 一元型議院内閣制

 王権が完全に、もしくは事実上消滅し、内閣の存続が議会の信任のみにかかる状態になったのが、一元型議院内閣制である。

 この制度の下において、議院内閣制の本質をめぐり、大きく二つの説の対立がある。制度の本質を、内閣が議会に対して連帯して責任を負う点に求めるのを責任本質説という。これに対して、権力分立制の下において、議会と内閣が相互に均衡を保って牽制しあい、抑制する点に本質があるとするのが均衡本質説である。すなわち、均衡本質説では、議会側の持つ内閣不信任権の対抗手段として議会の解散権を内閣に認めるとする。

  (1) 責任本質説

 責任本質説とは、民主主義を制度の中心と考える説である。憲法が、狭義の国民主権制度を採用すると考える場合、そこにいう国民とは、正当性の契機としての国民であって、それ自体は機関性を持たない。国民の意思を具現しているのは、全国民の直接の代表者たる議会である。したがって、内閣は、その議会の信任のもとにあることが、内閣としての正当性の根拠である。換言すれば、内閣は、議会に対して連帯して責任を負っている(憲法663項)ことこそが、議院内閣制の本質と考えることになる。

 責任本質説の原型においては、内閣側には議会解散権は否定される。なぜなら、内閣による議会の解散は、第一に自分の存在基盤の否定である。議会が信任を与えたからこそ、内閣が存在しているのに、その議会を解散するのは、植木屋が自分の跨っている枝を切るような馬鹿げた行為というほかはない。

 第二に、それは、議会と内閣の間に発生した問題の解決を、上位の国家機関である国民に求めることに他ならない。それは実質的に国民投票と同じ効果を持つこととなり、それは人民主権原理の導入、すなわち議会主権の否定に他ならないからである。この結果、この、解散権を伴わない議院内閣制は、議会が何時でも何らの制限なく内閣の責任を追及しうる、という点にその特徴がある。したがって、責任本質説に立つ場合には、解散権は議院内閣制の要素とは考えない。

  (2) 均衡本質説

 フランス第3共和制期に確立した責任本質説に基づく、責任無限追求型の議院内閣制は、第3共和制末期にかなりの病理的現象をしめすようになった。なぜなら、議会が内閣不信任案を可決すれば内閣は崩壊するが、議会側がいかに内閣不信任権を濫用しても、議会そのものには何ら被害が生じない。そこで、例えば自らが大臣になりたいという欲求があるだけで内閣不信任案が可決されるなど、不信任権の濫用が目立つようになったのである。その結果、内閣が猫の目のように交代するばかりでなく、後任の内閣総理大臣がなかなか決まらず、責任を持って国政を運営できる内閣が長期にわたって不存在のため、国政が停滞し、国民等に現実の被害が生ずるようになった。

 そこで、議会によるこのような内閣不信任権の濫用を抑止するために、内閣側に議会解散権という対抗手段が承認されるべきである、ということが主張されるようになった。仮に、不信任権を行使するに当たり、それを濫用すれば、議会も解散されて、議員自らもその議席を失うという危険を冒すことになれば、自分の地位を賭する覚悟がある場合にしか、不信任権を行使できないことになる。したがって、解散権の存在が、不信任権の濫用を抑止する機能を有するわけである。

 この場合、同じように議会解散権といっても、二元型の下で国王が行使したそれとは本質に差があることに注意しよう。すなわち、二元型の下においては、文字通りの解散権で、解散理由は問われない。したがって、比較的頻繁に行使され、解散権の濫用が問題になった。これに対して、責任抑制追求型においては、解散権は不信任案の濫用に対する抑止目的としてのみ承認される。それはいわば伝家の宝刀であって、実際に行使されることは予定されていない。行使されると、有権者集団が最高機関として登場してしまうからである。

 今現在、もっともこの説の典型に近い議院内閣制は、ドイツで見ることができる。ドイツでは、国家元首としての大統領がおり、これが議会解散権を有しているという意味において、形式的には二元型であるが、実際には名目的な存在で、実質は一元型となっている(フランス第3共和制憲法と同じである。)。そして、ドイツ基本法67条は、議会に対して「建設的不信任案」のみを許容する。すなわち、連邦議会は、後任の総理大臣を選出しない限り、不信任案を可決できない。したがって、内閣総理大臣の存在しない、政治の空白を生じさせるような不信任案の可決は無効なのである。また68条は、内閣側から信任を求める権利を認めている。その場合、信任決議が否決された場合には内閣側は21日以内に議会を解散できる(正確には、大統領に解散させることができる)。ただし、議会は、後任の内閣総理大臣を選出することで、その解散を阻止できる。

 すなわち、内閣に議会解散権を承認するが、その行使にはきわめて厳しい法的規制を課しているのである。国民主権原理の下において、議会主権を承認しつつ、内閣と議会の抑制と均衡を要請するなら、この程度で十分といえる。

(二) 議会統治制(国民公会制)

 民主主義制度の下で、議会と政府に強い関係を認めつつ、それと一線を画した制度が議会統治制(国民公会制)である。議会が政府を介して実質的に行政活動を行う型であり、今日では、スイスが代表的存在である。7人の閣僚全員が、連邦議会によって選出される。連邦大統領及び副大統領は、この閣僚中から任期1年で選出される。このように、この制度の下では、中心となる内閣総理大臣のような存在を持たない。これは本問ではもちろん論点ではない。しかし、一元型議院内閣制の正確な理解のために、簡単に説明した。

三 日本国憲法の特殊性

 わが国の場合、戦前において二元型の議院内閣制が採用され、その時代においては、天皇の名の下に、実質的に内閣に、自由な議会解散権が存在していた。現行憲法下においても、この憲法慣行はそのまま存続し、いわゆる7条解散の名の下に、内閣が法的な制約なく、自由に解散権を行使しうる状態が発生している。

 それを一元型の議院内閣制の下で、どのように理論化するかは難しい問題である。その点について、以下、検討してみよう。

 以上に述べた典型的な議院内閣制における説の対立は、議会主権を採用している憲法制度、すなわち法的に見ても「国会は国権の最高機関」(憲法41条)といえる法制度の下ではそのまま妥当する。

 しかし、諸君も知るとおり、わが憲法の下においては、国会は国権の最高機関と、文字通りの意味において理解することはできない。例えば、96条の憲法改正に現れる「権力性の契機としての国民」が、国権の最高機関だからである。

 そこで、衆議院の解散により、この権力性の契機としての国民に対して、国政の重要問題について問うという方法が考えられることになる。

 それと、上述の二つの内閣本質論をどう整合させることができるかが問題となる。

(一) 解散権の実質的根拠について

 わが憲法が、半直接代表制を採用している(換言すれば、国民概念に、正当性の契機としての国民に加えて権力性の契機としての国民も存在する)と考えると、議会解散権については、自由主義的な観点からの意義と、民主主義的な観点からの意義の二重の意義を考えることができる。

  1 解散の民主主義的意義

 国会は国政の最高機関と規定されている理由は、それが選挙を通じて国民の意思を反映している点にある。したがって何らかの理由で国会の意思が国民の意思と一致していないと考えられる事態が発生した場合、若しくは国政上の重要な問題であって新たに国民の意思を確認する必要が発生した場合には、速やかに直接国民の意思を問うことが妥当である。

 現行憲法においては、そのための手段としては、憲法改正の際の国民投票が存在している。これに対して、通常発生する同種の必要に対応する制度として考えられるのが、ここにいう民意を問う手段としての解散である。

 ここで第1に問題となるのが、条文上、69条解散に限定されると解する必要はないか、という点である。しかし、一般的な国民投票制度の存在していないわが国憲法の下において、解散の民主的機能を否定するときは、衆議院の場合、4年という比較的長期の任期と相まって、国会意思が有権者のそれと大幅に乖離するおそれがある。

 また、現行憲法は、国会の解散権が行使された場合には、総選挙を40日以内に行うこと、及びその後40日以内に国会を召集する事、そして、その新国会の冒頭で、内閣が総辞職をすることを要求している。すなわち、超然内閣制ないし大統領制において認められる解散権のように、行政府側が解散権を乱用して立法府を麻痺状態に陥れ、内閣が合法的にその地位に居座ることを許さない。したがって、この観点から考えても、解散権の行使を69条の場合に限る必要は存在していないと認められる。

 そこで、民主主義的要求に基づく解散権が認められるとして、第2の問題として、論理的には、衆議院自身による自律的解散の方法が考えられる。何といっても、国会は、直接民意を反映する存在だからである。しかし、自律的解散は適切とは認められない。

  (1) 自律解散権が否定される実質的理由は、現時点での議会の構成が国民の意思を反映していないことが予想されることが、民主主義に基づく解散権を承認する理由である点にある。自律的解散は、議会の多数派が議会の決定権を握ることを意味する点で、制度趣旨に背馳し、適切とは認められない。

  (2) 形式的理由としては、わが国旧憲法にも、そして現行憲法の母法と認められる欧米のいずれの憲法においても、自律解散の制度はないことである。したがって、現行憲法がそうした新しい制度の導入を目指していた場合には、当然その旨が明定されているべきである。しかし、憲法は、第7条、第45条、第54条及び第69条で解散について言及しているが、そのいずれにおいても自律的解散を予定していない。そればかりか、衆議院はむしろ受け身の形で使用されていることから、他律的解散のみを予定していると解することが適切である。

 わが憲法は、国家権力を、3つに区分する制度を採用していると認められる。衆議院の自律解散権が否定された以上、政治的に中立であるべき司法府が解散権の主体となると考えることは不可能であるから、議会解散権は、残る権力である内閣が保有していると解するほかはない。このことは、同時に内閣が広く解散権を有していた、という歴史的沿革とも合致し、妥当と認められる。

 注1:自律解散権説をとる学者は今日においてはいない。それにも関わらず、論及する

必要があるのは、このように、内閣の解散権は消去法から導かれるためである。単に論及するだけでは点にならないことに注意する必要がある。

 注27条が実質的文言を定めている、と解する説に立つ場合にも、それは単に条文上

の根拠にすぎないから、実質的根拠としては、ここに述べたような点をやはり論ずる必要があることを忘れてはならない。

 以上のように、解散権を説明した場合、これが責任本質説と整合させやすいことはあきらかだろう。なぜなら、責任本質説は、その根拠を、間接民主制の下における民主主義の実現に求めているからである。内閣が、単に国会に対してのみならず、権力性の契機としての国民にもまた連帯して責任を負っていると考えれば、国民の意思を問う必要がある、と内閣が認めた場合には、法的な制限なく、解散権を承認することができるのである。

  2 均衡本質説と解散

 均衡本質説は、権力分立制に依拠しており、権力分立制は、国民の自由を国家が侵害することを可及的に抑制する事を要求することから生まれた制度なので、自由主義に基づいているということができる。

 権力分立制は、その本質から、立法部と行政部の権力の均衡を保つことを要求している。したがって、立法部が余りに強大になり、専断又は行き過ぎに陥る等により、その権力が濫用された場合に、行政部の権力により、国民の自由を実質的に保障するための制度が必要であり、それが解散であると理解することができる。すなわち、わが国では、内閣の存立の基礎を国会の信任に置く議院内閣制を採用しているため、解散制度がない場合には、内閣は一方的に国会の不信任決議により揺さぶられることになるからである。それに対応する手段として、内閣側に、議会解散権の存在が必要なのである。すなわち69条の解散権の理論的根拠はこれである。

 このような制度意義に照らして考えれば、自由主義的要求に基づく解散権については、これが内閣に所属することは明らかである。しかし、同時に、議会と内閣の均衡の要求から出てくる以上、その解散権が法的抑制を免れると考えるのは困難である。すなわち、69条の解釈上許容される範囲内においてのみ、行使しうると考えるべきである。

(二) 解散権の限界

  1 自由主義的意義の解散は、不信任権限の濫用の抑止手段として認められる。衆議院が内閣不信任案を可決し、あるいは内閣信任案を否決した場合以外であっても、予算ないし内閣の政策の根幹となる重要法案を否決したような場合には、やはり、衆議院による内閣不信任権限の行使と認めることができ、69条の要件に合致すると考えられる。しかし、それらの場合でも、解散権は議会権限の濫用防止のために例外的に認められたのであるから、内閣は原則として総辞職をすべきであって、安易に解散の手段に訴えるべきではない。69条も、明白に総辞職を原則と定めている。さらに、解散に訴えた場合であっても、総選挙後の特別国会での総辞職を義務づけているから、内閣は、時期の前後はあっても、不信任案が可決された場合には、必ず総辞職しなければならないのである。

  2 民主主義的意義における解散は、民意を問う客観的必要性が生じた場合には、実施するべきこととなる。そこで、問題は、「民意を問う客観的必要性」は、どのような場合に認定できるかである。その答は国民主権原理をどの程度に強く理解するかにより、換言すれば、人民主権原理をどの程度に抑制する方向で考えるのかにより、異なる。

 基本として国民主権原理があることを強調すれば、解散権の行使は、有権者の投票行動に影響のあるような重大な変更が国会ないし内閣に生じた場合に限られると解すべきであろう。例えば、①政界再編成により国会の勢力分野が大幅に変わった場合、②前の総選挙の争点にならなかった新しい重大な政治的課題が生じた場合、③政府・与党が基本政策を根本的に変更する場合、等である。なお、責任本質説を採る場合には、この民主的意義の枠内で、69条該当の諸場合までも含めて説明すべきことになる。

 しかも、これらに該当する場合ですら、有権者は決して国民そのものではないから、政府は、「解散できる」というに止まり、解散して民意を問う義務があるわけではない。

 これに対して、人民主権的見解を強調し、衆議院の解散制度は国民投票の代用品である、と考える場合には、政府が必要と判断した場合には、随時ことの大小を問わず、解散に訴えることが許される。仮に、その解散権が濫用された場合には、主権者たる国民が、審判の内容としてそのことを表明するはずであるから、問題は起こらない、と考えるのである。また、上記のような重大な局面の場合には、政府は衆議院を放置することは許されず、解散する義務を負う、と考えるべきであろう

 いずれをとるかは、基本的には価値観の分かれるところであるが、通説は圧倒的に前者である。これを採る場合、その前の段階で、あまり民主的契機を強調しないよう、書き方を工夫しないと、論理的に破綻することに注意しよう。