裁判官の良心

甲斐 素直

 Xは知人Aの家で行われたパーティに出席したところ、泥酔してしまい、Aの家に置いてあった壷に嘔吐をした。

 しかし、その壷は数十万するもので、大事にしていたAは激怒し、Xを刑法261条の器物損壊罪として告訴し、起訴された。本件を担当した裁判官Yはこれを受けて、器物損壊の有罪判決を下した。

 これに対し、Xは、控訴して、次のように主張した。

  • 「割ってしまったわけではなく、汚れただけであって、洗えば完全にきれいになる。食器に放尿した場合には、それを知る者は使用に耐えないから器物損壊になるかもしれないが、本件は観賞用の壺なのであるから、社会常識的には問題はない。憲法76条3項にいう裁判官の良心とは、当該裁判官の主観的良心ではなく、客観的良心を意味するはずである。しかるに、Yが自らの主観的良心に照らして損壊の概念を拡張しているのは憲法違反である。」

  •  Xの主張の憲法上の当否について論ぜよ。

    [はじめに]

     器物を損壊する、という言葉は、社会常識的には「物体に力を加えて、もとの形を崩したりばらばらにしたりする」(大辞林より引用)という意味であることは、異論がないであろう。ところが、大審院は早い段階で、既に他人の飲食器に放尿し(大判明治42年4月16日)、あるいは池の鯉を流出させる(大判明治44年2月27日)行為が、器物損壊罪に該当するとし、学者も一般にこれに異論を唱えていない。しかし、正確な文理解釈を基準にすれば、これらは器物汚穢罪とか動物逸失罪とでもいうべき新しい構成要件を作って対応すべきである。

     他方、現金自動支払機をだまして、本人であると誤認させ、引き出す行為については、詐欺罪とか窃盗罪では対応せず、支払用カード電磁的記録不正作出等の新しい構成要件を作っている(刑法163条の2以下参照)。いったいこのような違いは何に基づいて生じるのであろうか。

     これは比較的小さな問題である。このような問題の場合、本来の論点については、徹底的に考え抜いた上で、そのすべてを確実にまとめていく必要がある。それに当たっては、偉い学者の意見を鵜呑みにし、尊大な文章を丸写しにするようなことはせず、あくまでも自分の考えをまとめ、かつ、自分の言葉を使うと言うことが大切である。また、中心論点だけではスペース的に余裕があるので、関連する問題に、時間とスペースの許す限り論及することにより、加点を狙うことが有効な戦術となる。

    一 問題の所在

     憲法76条3項は、その裁判官の独立を保障するに当たり、「その良心に従ひ」と規定しているので、この「良心」という言葉の意味が問題となる。すなわち、現行憲法には第19条に「思想及び良心の自由はこれを侵してはならない」と言う規定があるので、これとの関連が問題となる。この19条の良心が、各人の主観的良心を意味することには争いがない。

     通説は、76条に言う良心は、19条のそれとは異なり、「裁判官が適用する法のうちに客観的に存在する心意・精神、いわゆる『裁判官としての良心』を意味する」ものと解する(清宮『憲法I』[第3版]357頁より引用。以下、「客観的良心説」という。)。これに対して、憲法というものを統一的に理解する立場から、裁判官に、そのような個々人ごとに異なる主観的良心の自由を、裁判の場で保障したと解する有力な異説がある(平野竜一「裁判官の客観的良心」ジュリスト480号等。田中耕太郎元最高裁長官も同旨のことを述べている。以下「主観的良心説」という。)。

     この説に対して通説は、それを認めるときは、「裁判がまちまちになり、しかも、法を離れて行われる恐れがあるので妥当ではない」(清宮上掲参照)と非難するのが一般的である。しかし、これは異説をきちんと理解しないままにをあえて曲解するものである。すなわち、主観的良心説は、本条に従い、憲法及び法律に拘束される事を前提としての良心を説いているので、この説の場合にも、憲法や法律と自己の良心が衝突した場合に、自己の良心に盲目的ににしたがう事は当然許されないからである。

     では、この二つのどちらが正しいかは、どのようにして決定することができるであろうか。

    二 憲法体系から考える

    (一) 司法権の独立と裁判官の良心

     法律学は、基本的に演繹的な学問である。つまり、前提があって、それから次の結論を導き、それを前提にして次の結論を導く、という論理の連鎖である。もう少し具体的に言うと、憲法があって、それが授権することで、国会は法律を作れる。法律が授権することで、行政庁は政令や省令を作れるというふうにつながっている。

     この論理の連鎖は、憲法そのものの中にもある。現行憲法の場合、もっとも根本的には個人主義という理念があり、この理念を具体化する形で、自由主義や民主主義、福祉主義等の個別の原理が導かれる。このうち、自由主義を統治機構に適用すると、権力分立制が導かれる。そして、そのように分流された権力の一つが司法権である。権力分立制の実を挙げるためには、各権力の行使に、他の権力の干渉を認めることはできない。このことを司法権を主体にして言うと、司法権の独立と言うことであり、

     ところで、司法権には、立法権や行政権にはない大きな特徴がある。それは個人が中心になると言うことである。つまり立法や行政は、国会や内閣という組織体がその担い手であるのに対して、裁判の場合には、裁判所という組織に属する人間が一体となって活動するのではなく、事件ごとに担当者と決められる個々の裁判官こそが、国民の目から見た場合、裁判所である、ということである。

     だから、憲法76条3項は、単に個々の裁判官の独立の保障という以前に、司法権の独立の保障の根拠規定そのものといえる。

     そして、国会の権威が国民の代表機関としての地位の上に築かれており、内閣の権威がその国会の信任の上に築かれているのに対して、裁判所は何ら民主的基盤をもたず、その権威は、その審理の公正性という信頼の上に築かれている(例えば憲法37条参照)。そして、その公正という信頼は、紛争の両当事者から独立し、政治的判断を排除した純粋の法原理の追求を使命としている、という国民の信頼の上に成立していることは明らかである。ここに、ここの裁判官の独立性の確保を特に強調する必要が存在するのである。

     そして、その裁判官の独立を保障しようとすることで守ろうとしているのが、裁判官の意見形成の自由である。裁判官は、他からの圧力に屈することなく、自らが正しいと信じたところにしたがって、判決を下すことができて、始めて、司法権は、それに対する信頼を確保できるのである。裁判官の良心とは、まさに、この信じるところにしたがって判決する自由のことを言っている。

     諸君の論文では、ややもすると、裁判官の良心と裁判官の独立の区別が付いていない傾向が認められる。改めて強調するが、裁判官の良心とは、裁判官に、その独立を保障することで確保しようとする、制度の目的であって、決して、裁判官の独立そのものではない。だから、いくら裁判官の独立を論じても、そのことは、裁判官の良心を論じる助けにはならない。大事なことは、司法権制度の目的は何か、ということである。

    (二) なぜ司法権でだけ、良心が問題になるか?

     少し話を戻してみよう。

     国会は立法権を有している。これは、行政府や裁判所の干渉に屈せずに、自らの判断に従って法律を制定する自由を有している。しかし、この自由というのは、本当にどんな内容の法律を作ることも自由と言うことであろうか。そんなことはない。国民の要求に合しない法律を作ったり、逆に国民の要求に合した法律を否決することは許されない。それは、権力分立制度の本質が、国民の自由を国家が侵害することは許されない、というところから導かれる。このようなことは、しかし、立法権の本質として論じたりはしない。なぜなら、国民の要求と食い違う法律の制定・否決をした場合には、国会議員は次の選挙で落選する羽目になるからである。

     ところが、裁判所の場合、司法権独立の手段として、裁判官個人に対する身分保障が憲法上規定されている。その結果、個々の裁判官が、国民の要求と食い違う判決を連発しても、次の選挙で落選して首になる、ということはない。この結果、司法権の行使にあたっては、制度そのものの解釈として良心というものの論じ、裁判官の判決の自由を制約しておく必要が生じてくるのである。あまり学問的な説明ではないが、直感的に説明すれば、客観的良心説とは、裁判官は、自分がどういう思想・心情を持っているかに関わりなく、国民の要求に従った裁判をすべきだ、ということだと理解してくれて、間違いない。

     このことは実際の法律で定められている国もある。例えば、スイス債務法第1条は次のように述べている。

    「法律に規定がないときは、裁判官は慣習法に従い、慣習法もないときには、自分が立法者ならば法規として規定したであろうと考えるところに従って裁判するべきである。」

     すなわち、法規範がない場合に、裁判官は自己の主観的良心に従って裁判してはならないのであって、あるべき客観的法規範と推考されるものに従って裁判しなければならないものと定められているのである。わが国にも、裁判事務心得(明治8年太政官布告)第103条において「民事の裁判に成文の法律なきものは習慣により、習慣なきものは条理を推考して裁判すべし」と定めているものが存在する。ここでいう条理というのは、直接には、社会常識という意味である。つまり、常識に従って裁判しろ、といっていることになる。。

     抽象的に言っても判りにくいと思うので、具体的な例を挙げてみよう。

     平成5年9月21日の最高裁第3小法廷(園部逸夫裁判長)は、死刑が合憲である、という判決を下した(判例集未登載)。この判決の補足意見で、大野正夫裁判官は、「死刑を合憲とした昭和23年の最高裁大法廷判決からの45年間に、死刑廃止国の増加や再審無罪など重大な変化が生じ、死刑が違憲と評価される余地は著しく増大した。」として、死刑廃止に向かう国際動向と、世論調査では存続論が多数を占める国民意識が大きく隔たっている事を「好ましくない」として漸進的な死刑廃止方法を提案した。つまり、大野判事の主観的良心としては、死刑は今日ではもはや違憲なのである。しかし、世論は死刑を是認していることから、「今日の時点において死刑を違憲と断ずるにはいたらない。制度の存廃や改善は立法府にゆだね、裁判所としては厳格な基準の下に、限定的に死刑を適用するのが適当」と述べた。つまり、その判決の時点で、国民世論に反して、国会が死刑廃止という決議をするわけがない。その場合には、裁判官の客観的良心としては、死刑を合憲とせざるを得ない、ということである。

     そうした判断が行われなければ、客観的・公平な裁判という国民の信頼を確保することは不可能であろうことは、判ると思う。どの裁判官の裁判を受けるかで、同じ法律の文言に対して、違う解釈が示されるようでは、国民としては安心して裁判を利用することができないであろう。

     少しイメージがつかめたであろうか。では、これをもう少し法律的な表現で議論することを考えてみよう。

    三 法源と裁判官の良心

     76条3項は、裁判官が「憲法及び法律にのみ従う」ことを規定している。しかし、現実問題として、何が憲法であり、何が法律なのかは、必ずしも一義的に明らかにはならない。だからこそ、学説の対立が生じ、判例の変更が生じるのである。例えばここで論じている「良心の意義」をめぐる解釈論争に明らかなとおり、根本規範たる憲法についてさえも単純に文言解釈をすれば、それによってその意味するところが自ずから明らかになるものではない。

     また、法律以下の法規範については、そのものが国会や行政庁の行った憲法解釈と裁判官の憲法解釈との間に相違があるために違憲と判断されることがある。そればかりでなく、成文法の文言そのものが社会の実情と食い違うために、ある場合には拡張解釈を、ある場合には縮小解釈を、さらにある場合には成文法を排除して慣習法を適用する場合がある。このように、個々の裁判官の判断に依存する割合というのは解釈の分野では非常に大きいのである。さらに、法律や慣習法が存在しない場合にも、国家として自力救済を禁じている以上、裁判所は裁判を拒むことができないが、その場合には、裁判官の、何が法であるべきか、という判断だけが裁判規範として機能することになる。

     このことを上記の論争に適用すれば、両説の相違は、成文法の解釈の基準として主観的良心による事ができるか客観的良心でなければならないかという問題と、成文法の存在しない領域の問題を解決するに当たって、主観的良心というものを法源とできるか否かという問題の二つの領域で具体的に現れる。この二つは基本的には同質の問題であり、法学の分野では、ふつう先に示した太政官布告などから、「条理の法源性」という言葉の下で議論されている。

     この点について、通説を代表する1人、佐藤幸治は次のように述べる。

    「法規定を参酌するだけでは唯一の結論が明示されないようないわゆるハードケースにおいても同様であって、その場合、裁判官は自己の主観的良心にしたがって裁量的に決定してよいということはなく、裁判官はあくまで法規定を含む全法体系の客観的原理を探求し、そこから帰結されるところにしたがって裁判すべきものである。裁判官の法解釈は裁判官の主体的立場を離れてはあり得ないが、そのことは裁判官が唯一の正しい解釈を目指さなくてよいということを意味しない。」(佐藤幸治・憲法第3版、327頁参照)

     このように、近代司法にあっては裁判官の主観的良心は法源とはならず、法律がない場合には、いくつかの判断可能性の中から、可及的に法の客観的意味ないし社会が法として支えているであろうところのものを探究し、それに従って裁判すべき職責を担っていると言うべきである。成文法の解釈に当たっていくつかの解釈可能性がある場合にも、また同様に解するべきである。なぜなら、裁判官の独断と偏見と見られる場合には、司法が公正・公平という国民の信頼が失われ、ひいては司法権の独立そのものが害される恐れがあるからである。

     このように良心という言葉を解釈する場合、これは単に「有形無形の圧迫乃至誘惑に屈しないで自己内心の良心と道徳観に従う(最高裁昭和23年11月17日大法廷判決)」という司法として当然の要求以上の法的意味は持たないことになる。せいぜい強調しても「裁判官に対してとくに明確な職業的自覚を持つことを求めた(佐藤・328頁)」に過ぎない。その結果、裁判官は「憲法及び法律にのみ拘束され」るとだけ言っている場合と解釈において差異はないことになるので、「『良心に従い』と言う文言に特別の意味はなくなる(清宮上掲参照)」と解する者も出てくる。

     

     [はじめに]に書いた問題について言えば、

    四 司法判断の2段階性と裁判官の良心

     一般に司法権の行使は①事実の認定と、②認定された事実への法の適用という二つの段階を経てなされるものと理解されている。このことを前提とした場合、前項で述べた法源の問題は第2の段階に属する。ここで問題は、第1の段階での裁判官の良心の自由は保障されていないのか、という点である。すなわち、事実認定に当たっては、裁判官の自由心証主義が、訴訟法の基本として承認されている(刑事訴訟法318条、民事訴訟法185条参照)が、憲法解釈的には、この「良心のみに拘束される」という文言にその根拠が求められる。

     このように理解する場合には、裁判所法第4条は、上級審判決の下級審に対する拘束力を認めていること、実質的証拠ルールといって、独占禁止法第80条は公正取引委員会の認定した事実が裁判所を拘束することを、電波法99条は電波監理審議会の認定についてやはり同様の拘束力を、それぞれ定めていること、などが問題となってくる。

     このうち、前者については憲法76条1項が審級制を予定していることから、憲法自身の定めた例外と解釈することができよう。

     後者については、行政機関の判断が無条件で裁判所を拘束すると定めているのではなく、「これを立証する実質的な証拠があるとき」に限り拘束力を認めているに過ぎず、しかも「実質的な証拠の有無は、裁判所が判断する」とされているから、基本的に自由心証権を否定しているのではない。「二重の基準論」において、経済的自由権に関しては立法府や行政府の判断を基本的に尊重すべきであるとされる根拠として、政治問題や行政問題については裁判所はそれを的確に判断するだけの人的物的資源に恵まれていないので、専門家の意見をできる限り尊重する必要があるからだと説かれる。そして、ここで問題となっている実質的証拠ルールは、こうした考え方を立法化した以上のなにものでもないので、違憲と考える必要はないことになる。

     なお、これに対し、事実認定段階は、司法の本質的要素ではない、とする有力な考えのあることを記憶にとどめておくべきであろう(佐藤幸治・307頁参照)。この説を採る場合には、事実認定の段階で裁判所を拘束する立法を行うのは何ら問題はないことになる。

    五 関連する問題ー陪審制度と裁判官の良心

     陪審制度については、司法への民衆参加の重要な形態として、わが国でも従来から強い関心があり、かって実際に行われたこともあるが、様々な問題から停止され、今日に至っている。裁判所法3条3項も刑事裁判への導入を想定した明文をおいていることにも明らかなとおり、今後も重要な関心の対象とあり続けると思われる。

     現状で陪審制度を導入すること、すなわち陪審の判断に裁判官の判断を拘束する力を認めることは、裁判官の良心を保障した76条3項に違反するので許されないと解される。そこで、陪審制の導入については単純に許されないと説く者もあり、また、「裁判官が陪審の評決に拘束されないものである限り、陪審制を設けることは可能と解される(通説)(芦部・憲法、272頁)」とする者もある。しかし、拘束力のない評決を出す制度は、参審制と呼ばれ、陪審制ではないから、結局これも否定説に数えるべきであろう。

     なお、第2段階の法の適用だけが司法の中核とする立場から、事実認定の段階にだけ陪審を認め「陪審の事実認定が適正なものとなるよう裁判官がある種の役割を果たすなどの一定の条件の下で、決定(評決)に拘束力を認める陪審制の採用も、憲法上不可能ではないと解する余地もあろう(佐藤・309頁)」とする見解がある。しかし、陪審制度を現に採用している欧米諸国においても、事実認定と法の適用を峻別するというのは観念論的には可能でも実際には不可能とする見方が強いことも考えると、無理の多い見解と思われる。