条例による財産権の制限

問題

 Y県では、昭和○年に「ため池の保全に関する条例」を制定した。同県は、他県と異なり、これという河川がないため、農業用水はもっぱらため池に頼っている。このため県下には合計13,000に上るため池があるが、これらため池は、田畑に灌漑用水を流下させる目的から、一般に高所に設けられているため、その提塘が破損、決壊した場合には、その災害が単に所有者にとどまらず、一般住民および滞在者の生命、財産にまで多大の損傷を及ぼすものであることにかんがみ、その破損・決壊を防止する目的で制定されたものである。

 Y県A村のため池B池は、A村在住の農民の総有に属しており、その提塘も代々耕作の対象となっていたが、同条例の施行により、B池提塘での耕作が禁じられることになった。しかし、A村の農民であるX等は、条例施行後も引き続き農作物をB池の提塘に植えていたため、同条例4条二号違反で起訴された。

 これに対し、X等は、憲法292項により、財産権の制限は法律で行う必要があるところ、本件条例は財産権の使用を制限するものであるから違憲・無効である。また、憲法292項が財産権の法定を規定したのは地方によって財産権の内容が異なってしまうような事態を防ぐものであって、その趣旨からも条例によって財産権が制限されるのは違憲である。したがって無罪であると主張した。

 X等の主張の憲法上の当否について論ぜよ。

資料

ため池の保全に関する条例

昭和○年○月○日

Y県条例第38号

第一条(目的) この条例は、ため池の破損、決壊等による災害を未然に防止するため、ため池の管理に関し必要な事項を定めることを目的とする。

第二条(用語の意義) この条例において、次の各号に掲げる用語の意義は、当該各号に定めるところによる。

一 ため池 灌漑の用に供する貯水池であつて、堰堤の高さが3m以上のもの又は受益農地面積が1ヘクタール以上のものをいう。

二 管理者 ため池の管理について権原を有する者をいう。ただし、ため池の管理について権原を有する者が二人以上あるときは、その代表者をいう。

第三条(適用除外) この条例中第五条から第八条までの規定は、国又は地方公共団体が管理するため池については、適用しない。

第四条(禁止行為等) 何人も、次の各号に掲げる行為をしてはならない。ただし、第二号に掲げる行為のうち、知事がため池の保全上支障を及ぼすおそれがなく、かつ、環境の保全その他公共の福祉の増進に資すると認めて許可したものは、この限りでない。

一 ため池の余水吐の溢流水の流去に障害となる行為

二 ため池の提塘に竹木若しくは農作物を植え、又は建物その他の工作物(ため池の保全上必要な工作物を除く。)を設置する行為

三 前二号に掲げるもののほか、ため池の破損又は決壊の原因となる行為

第五条~第八条 略

第九条(罰則) 第四条の規定に違反した者は、20万円以下の罰金に処する。

[はじめに]

 本問は、奈良県ため池条例判決(最判昭和38626日大法廷=百選第5216頁)という有名な事件に基づいて作問したものである。資料にあげた条例は、奈良県のため池条例そのものである。

 諸君が最初提案した問題に比べると、かなり易しくしてあるが、それでも基本的に難しい問題であることは確かである。

(一) 論文の書き方

 諸君は、どうも法律論文の書き方が、いまだに判っていないようなので、繰り返しになるが、簡単に説明する。

 法学や憲法の講義で習ったとおり、すべての法律の有効性は、憲法の授権の範囲内にあることである。だから、憲法に違反する法律は、違憲として無効になる。間違っても、法律の規定があるから、憲法をこう解するべきだ、などという、下から上の議論をする人が時々いるが、これは致命的な間違いである。

 諸君が判っていないのは、同じ構造は憲法それ自身の中にもあることである。憲法のあらゆる規定は、憲法を支配する基本原理に合致するように理解されなければならない。憲法に明確な規定があっても、それが憲法の定める基本原理に反するならば、その規定は無視され、あるいは文言が本来持つ意味とは違って解釈されなければならない。例えば、憲法41条は国会を「国権の最高機関」と呼んでいるが、現在の憲法を支配する民主主義原理の下、半直接代表制を採用していると考えるべきだから、国権の最高機関は「権力性の契機としての国民」だから、この規定は、学説により無視され(政治的美称説)あるいは修正して理解される(総合調整機関説)ことになる。

 そこで、憲法の論文は、どんなものでも、それを支配している基本原理はどんなものか、ということからスタートすることになる。憲法におけるもっとも根源的な原理は、個人主義である(13条参照)。これを受けて、自由、民主、平等、福祉、平和の5大原理が存在する。個々の問題では、このどの原理の支配下に、その時議論している条文が入るのかが、一番大事である。まず、その点を説明し、それを受けて、その条文をどう解釈するべき加賀を論じることが、法律の論文ということになる。この基本原理から個別の問題へ、という流れがない限り、法律学の論文としては、絶対に合格答案とはならない。だから、一体どの基本原理が問題なのだろう、ということをまず諸君は考えなければならない。

(二) 地方自治における問題の所在

 地方自治は、20世紀の憲法における一番難しい問題の一つである。地方自治が、国民主権原理とどう整合しているかがよく判らない(つまり学説が激しく対立している)からである。

 諸君の直感的な理解を確保するために、法律学を離れて、少し社会学的な説明をしてみる。近代市民社会は、それに先行する封建体制に対する批判の上に成立している。そして、封建体制の最大の特徴は、各地方に大名が割拠し、中央政権といえども自由に干渉できないこと、つまり、地方自治にある。そこで、近代市民社会は、それを否定し、中央集権を指向した。この中央集権を、法律学的に説明するための理論が、「主権」という概念が備えている唯一・絶対・不可分という性格なのだ、と考えることができる。このため、近代市民国家の憲法は、どれも地方自治を否定し、中央集権を確保できるように条文が作られていた。

 ところが、現代市民社会では、なぜかは後で詳しくは説明するが、地方自治を導入する必要があった。他方で、依然として国民「主権」原理を採用しているので、地方自治という名の下で、地方ごとに独立の主権を認めるのに等しいような理論を採ることはできない。このため、地方自治は、決して、国民主権とは別のものではなく、それが「伝来」したものだ、と説明しなければならない。

 ここから、かつての通説・判例は、この民主主義→国民主権→地方自治という流れをできるだけ乱さない形で、憲法の地方自治に関する条文を理解しようとした。これが、今日「狭義の伝来説」と呼ばれる説である。つまり、地方自治というのは、あくまでも国会が定めた国の法律の範囲内で存在していると考える。このことを明確にしているのが、92条が「法律でこれを定める」といっていることなのだ、と解釈する。そうすると、法律が条例を定めて良いと特に規定している場合を除いて、勝手に条例を作ることはできないことになる。そのことが、憲法94条のいう「法律の範囲内」で条例を定めることができる、という意味だ、と考える。憲法41条の議論で、内閣が政令を定めることができるのは、執行命令と委任命令の場合に限られる、と議論するのは覚えていると思う。94条がいっていることも、それと全く一緒だ、とするのである。こう考えた場合には、憲法29条のように、憲法自身がわざわざ法律で定めなければならない、といっている問題について、法律が全くないのに、条例で規制できるなどということは不可能だ、という答えが出てくる。これが本問のXの主張していることである。

 つまり、狭義の伝来説は、地方自治が、基本原理としては民主主義の下にある、と考えている説だ、ということが判ると思う。

 この対立を、ごく簡単に図式化すると、狭義の伝来説は、中央政府と地方政府の関係を図1のように理解していると言える。

 この対立を、ごく簡単に図式化すると、狭義の伝来説は、中央政府と地方政府の関係を図1のように理解していると言える。

 図1 狭義の伝来説における国と地方の関係

      中央政府立法権―――――→地方自治体立法権

 国家主権       中央政府行政権―――――→地方自治体行政権

     中央政府財政権―――――→地方自治体財政権

 これに対して、諸君の使っている今日の普通の憲法の教科書は、たいてい「制度的保障説」という説を採用している。この説は、発想の原点が自由主義にある。自由主義は、国家権力ができるだけ国民の自由を侵害しないように、という観点から権力分立制を求める。権力分立制は、普通は立法、行政、司法という三つに分けて議論する。しかし、国の権力が、できるだけ国民の自由を侵害しないように、国家権力を分割する方法は、決してその方法だけではない。国の権力を、中央政府と地方政府に分割し、互いに均衡させ、抑制させるという方法でも、立法・行政・司法と分割するのと同じような効力を期待することができる。ここから、地方自治を基本的に自由主義が支配する領域と考える。しかし、その場合、先に指摘した、92条や94条にある「法律」という言葉が邪魔になる。それを回避する工夫として考え出されたのが、制度的保障という説明方法なのだ、と理解してほしい。

 図2 制度的保障説における国と地方の関係

立法権

中央政府    行政権

財政権

 国家主権

立法権

地方政府    行政権

財政権

(三) 財産権における問題の所在

 「狭義の伝来説」の場合には、法律がない以上は、そもそも条例を制定できないから、議論は地方自治の領域で終わってしまうので、財産権というのはどういう権利だ、という議論は必要がない。ところが、制度的保障説は、そもそも法律がない場合にも条例を作って良い、ということを最終的な目的にして工夫された説である。だから、関係する法律が全くない、本件条例みたいなものを、地方自治体が制定することは、理論的に可能になる。

 そこで、改めて、憲法29条は、他の人権では書かれていない「法律」で権利の内容を定めることを要求しているのか、ということが問題となる。

 ここでは、憲法で「法律」といっている場合に、それをどの範囲で、解釈上「条例」と読み替えて良いのか、ということが直接的な問題で、諸君は明確に、この問に答えなければならない。具体的には、憲法29条の他、憲法31条が定める罪刑法定主義、憲法84条が定める租税法律主義において問題となる。これらの場合、なぜ憲法が法律という言葉を使ったのか、は、それぞれ若干異なる歴史的な背景がある。だから、諸君としては、それぞれの制度の歴史的背景を踏まえて、法律を条令と読み替えて良いのかどうかを論じなければならない。

(四) 平等権における問題の所在

 Xの主張の後半は、憲法14条の定める平等権との関係が問題となる。中央驟雨権的な発想に従う限り、地方ごとに異なる条例を定めることを認める、というのは、基本的に平等権の侵害であることは間違いない。

 しかし、憲法は平等権とは別に地方自治を認めているのだから、地方自治の本質に反しない限りは、地方ごとに異なる条例が定められても、14条違反とは言えないはずである。そこで、問題は、地方自治体は、どの範囲で、他の地方と異なる内容の条例を制定できるのか、ということが問題になる。青少年保護育成条例が、不純異性交遊を処罰しているような場合には、地方自治体の境界線附近で問題を起こした場合、どちらの自治体に入る部分かで、適用条令が、ひいては処罰の内容自体が変わりうるので、これは大変重大な問題である。

 この点も、制度的保障説をとる場合には、「地方自治の本旨」に具体的に何が含まれているのか、という議論の一環として問題にしなければならない。

一 地方自治の本旨

 本問の場合にも、まず地方自治に関して制度的保障説を展開し、その、法律によっても不可侵な制度の中核を地方自治の本旨と呼ぶこととし、それは、憲法編入した意義から導けることを述べなければならない。

(一) なぜ現代市民社会は地方自治を必要とするのか

 第2次大戦を通じて、人類に戦争の惨禍をもたらした全体主義の経験は、中央集権体制が全体主義に対して本質的に脆弱であることを人々に認識させた。そして、地方自治が、権力の均衡と抑制のシステムの中で、それを補完する機能を有することが認識されるようになった。特に、ドイツでは、多くの州で、州法によって強力な地方自治が保障されていたが、連邦憲法レベルにおける保障がなかった。そこで、ナチスは中央政府の政権を握ると、ドイツ地方自治法という法律を制定し、中央政府が地方自治体の内政に干渉する道を確立した。これにより、ナチスのドイツ全体の支配が一気に可能になり、第二次大戦になだれ込むことになった。この不幸な経験は、法律レベルで地方自治を保障しているのみで限り、中央政府が、自治権を侵害する法律を制定することで、容易に蹂躙し得ること、その結果、単に地方自治制度が存在するだけでは全体主義への抑止力とはなり得ないことを教えた。すなわち、全体主義を効果的に抑止するためには、単に地方自治を憲法レベルで保障する必要があることが明らかになったのである。

 こうして、第2次大戦後の各国憲法は、地方自治を憲法レベルで保障するのが普通となってくる。特に重要なのが、EC(現EU)が欧州地方自治憲章を1985年に制定して加盟国に地方自治尊重を義務づけ、また、地方自治体の世界的組織である国際地方自治体連合(IULA)がトロントで1993年に開催された世界大会で世界地方自治宣言を採択したことである。これらの結果、近時において制定される憲法では、いずれも憲法レベルで地方自治が保障されるにいたっている。わが国現行憲法は、こうした地方自治の憲法編入という大きな流れの、もっとも初期における立法例として、世界に誇るにたる存在である。

(二) 地方自治権の根拠理論

 ここからが諸君の論文に書かねばならないポイントである。

 自治権については、それが地方自治体が本来保有しているところの固有の権利である、という考え方(固有権説)と、国から与えられたものである、という考え方(伝来説。受託説ともいう。)の二つの基本的な考え方がありうる。封建体制における地方自治では、個々の大名がその領国を自由に支配する権限を有しており、それがその固有の権利であることは明らかである(固有権)。それに対して、その封建体制を打破して生まれた近代市民国家が誕生した以降においては、国家が単一にして不可分な権力の源泉であるという基本的な考え方自体は疑う者はないから、今日の地方自治は伝来説によって理解するほかはない。固有権説は連邦国家における各州の権限を説明する理論としてのみ該当する。

 しかし、伝来説を基本として採用する場合にも、中央政府の地方自治に対する影響力の行使をどの程度に考えるかについては、説の対立が存在する。ここでは、制度的保障説のみを説明する。

二 制度的保障の概念

(一) 制度的保障論の地方自治への適用

 人権の場合と同様に、地方自治においても「法律の範囲内」という限定が付されているので、その法律内容を、国会が完全に自由に定められるとした場合には、やはり地方自治を憲法で保障した意味が失われてしまうという問題が発生する。

 そこで、人権の場合について考えられた「制度的保障」の概念をこれにも妥当させることにより、伝来説からは当然の結論となる、地方自治の形式や実質を法律で自由に制定しうるという考えを排除し、より強力な憲法上の保障を与えることが可能となる。この考え方は、【はじめに】に述べたとおり、憲法構造の根本的な転換を意味することになることを理解しておいてほしい。

 この考えを採用する場合には、憲法第8章におかれている4つの条文はいずれも、法律を以てしても変改することのできない制度の中核を表明したものと理解されることになる。ただしこれは憲法施行当時の地方行政制度をそのまま保障したのではなく、あくまでもその中核となる部分のみである。この、法律を以てしても侵害することのできない制度的保障の中核部分を、第92条の文言を借りて「地方自治の本旨」と呼ぶ。換言すれば、昭和39年に制度的保障論が登場するまでは、この言葉に、以下に説明するような特定の意味はなかったのである。学生諸君の論文では、ややもすると、何の根拠もあげないままに、地方自治の本旨という言葉に、以下の概念が当然に読める、といわんばかりの記述がなされる。しかし、これはあくまでも制度的保障論の下において、学説として展開されるものであり、したがって当然に根拠が必要だ、ということを理解しておいてほしい。

(二) 「地方自治の本旨」の概念内容

 狭義の伝来説の持つ最大の欠陥は、条文には素直かも知れないが、地方自治を法律レベルの保障にとどめず、憲法編入した理由が説明できない点である。特に憲法編入した以上、実質的に憲法編入した意義を失わせるような内容の法律の改正は、禁ずる効果が憲法にあると考えるべきである。すなわち、地方自治を実効性あらしめるような制度を作る義務を立法府に課した上で、法律でそれを制定する権限を国会に授与したと考えないと、憲法編入した意義が失われてしまうことになる。ここから、制度的保障論が導かれる。

 このように理解する場合、法律によっても不可侵な制度の中核=地方自治の本旨は、憲法編入した意義から導けるはずである。

 以下、各概念について、少し詳しく説明したい。

  1 団体自治ー地方分権の現れ

 憲法編入した中心的な理由は、前述のとおり、中央集権体制が本質的に有している全体主義に対する脆弱性である。したがって、地方分権に対する中央政府からの干渉の禁止あるいは制限が、この中核概念を構成するはずである。今述べたことを、地方の側から表現すると、地域団体は、中央政府の干渉を受けることなく、自らの意思を決定し、活動できることを意味する。これを「団体自治」という。

 およそ国権に基づいて処理されるべき事務のうちには、その内容が一国の全部の地域にわたって営まれ、その処理の結果の影響するところが全国民の社会経済上の利害に直接及ぶものと、その内容が一部の地域のみにおいて営まれ、その処理の結果の影響するところも、その地域の住民の社会経済上の利害にのみ及ぶものとがある。前者のような全国的な事務は、その性質上、国に、その処理権能を集中させ、統一的に処理するのが好ましい(中央集権)。これに対して、後者の地方的な事務については、その性質上、そのような処理を任せるに相応しい地域的な団体が存在するならば、国はその権能をその団体に分与し、その団体の処理に任せる(地方分権)ことも一向差し支えないし、むしろそのような事務処理方法を採用することの方が、迅速かつ効率的な処理を期待できるという点で、より好ましいということができる。

 地方分権は積極的に押し進められる傾向が見られる。わが国戦前にあっても、こうした地方分権の発想に基づき、相当強力な地方自治制度が存在していた。現行憲法にあっては、この地方分権思想は、当然のことながら、地方自治と結びついて、その侵すことのできない中核を構成すると考えられる。

 古来、一定の地域の住民は、その区域を中心に地縁的な社会生活を営むものであり、そうした社会生活の結果として共同体意識を有するようになり、その共同体意識に基づいて地域的な社会共同体を形作るのが常である。地方的な事務を任せるに相応しい団体としては、このような社会的実体の存在する地域を基礎たる区域とし、その区域に在住する人を構成員としているような団体であることは言うまでもない。

 伝統的に生じてきたそうした地域団体は、その地域地域の慣習により、意思決定権者は様々であった。その指導者の独裁制のものもあったであろうし、貴族制的な共同運営もあったであろうし、地域住民全員の寄り合いによって決するという民主主義的な運営もあったであろう。しかし、基本的共通性として、その地域の問題は、そうした団体が担い手になるべきであると考えられてきたのである。

 地方分権が、こうした地域団体を担い手とするとき、地方の事務処理は、法律上国家から一応独立したものと認められる団体を通じて、その団体自身の機関により、その団体の名と責任の下に行われることを意味する。これを「団体自治」という。

  2 住民自治ー民主主義の現れ

 団体内部の意思決定にあたっては、わが国憲法の採用する民主主義原理に従い、団体構成員(これを憲法は「住民」と呼んでいる)の意思によって決せられるべきである。この点について平成7228日最高裁判所第三小法廷判決は次のように述べた(百選第512頁参照)。

「国民主権の原理及びこれに基づく憲法151項の規定の趣旨に鑑み、地方公共団体が我が国の統治機構の不可欠の要素を成すものであることをも併せ考えると、憲法932項にいう『住民』とは、地方公共団体の区域内に住所を有する日本国民を意味するものと解するのが相当であ」る

 ここではきちんとした表現がされていないが、地方自治の淵源として伝来説をとるからこそ、このような表現が出てくる。仮に固有権説をとれば、住民概念について、15条の国民概念と違う把握が可能になるのである。

 現代民主主義国家にあっては、国民主権、すなわち自己統治をその基本原理とするので、地方自治における意思決定の場合にも、そのことは貫かれなければならない。憲法932項が地方公共団体の長及び議員に対する住民の直接選挙権を保障しているのは、このことを確認したものに他ならない。このように民主主義と結びついた形での地方自治は、上記地方団体が、その分担する地域の住民の自治により統治されることを意味する。これを「住民自治」という。

  3 補完性原理-自治体権限の限界

 従来の憲法学では、地方自治制度の中核は、上記団体自治と住民自治という二つの要素を結合させたものと理解されてきた。すなわち、地方住民が、その属する団体を通じて、その地方の事務を処理させることを要請しているものと解していた。

 しかし、近時、第3の中核概念が必要なのではないか、と考えられるようになっている。それは補完性原理(Subsidiaritätsprinzip=補充性と訳すこともある)という概念である。

 なぜなら、団体自治と住民自治の二つでは、実は、各地方自治体が、どのような権限を有しているべきかが、憲法論のレベルでははっきりしないのである。団体自治は、地方分権の理念から、国が地方自治体の内部自律に干渉してはいけないことだけを要請しているだけだし、住民自治はその内部決定は最終的には住民によってなされるべき事を要請しているだけである。だから、国と地方自治他がそれぞれどのような事務を行うべきか、ということまでは、団体自治と住民自治だけからでは決まらないのである。さらに大事なことは、多層制地方自治をこの二つの自治原理だけでは説明できないのである。この二つだけが基本原理と考える限り、現行の都道府県=市町村という二層制地方自治は、単に明治憲法下でその様な制度が地方にとられていたことから来る偶発的な結果であるに過ぎないと考える外はないことになる。これを、憲法編入の求めている地方自治の本旨として、理論として説明するための武器が、この補完性原理なのである。

 先に、平成11年の地方自治法大改正について論及したが、同改正では、明確に補完性原理が取り入れられたことから、憲法レベルにおいても、改めて注目されるに至ったのである。

 話の順序は逆転するが、まず地方自治法の規定から説明してみよう。

 現行地方自治法を見ると、現行地方自治法では、普通地方公共団体を、市町村と都道府県の二層構造を持つものとしてしている。両者の関係については次のように定めている。

 市町村は、「基礎的な地方公共団体」なので、自ら処理するのが適当なものは、原則として、何でも行うことができる(地方自治法23項)。これに対して、都道府県は「市町村を包括する広域的な地方公共団体」なので、その権限は、「広域にわたるもの」とか、「市町村の連絡調整にあたるもの」に代表される、規模や性質から市町村が処理するのに適当ではないものだけが権限内容となる。このように、都道府県の活動は、市町村を補う性格を持っている。このようなやり方で重層的な地方制度を作る考え方を、補完性原理という。補完性原理を採用している限り、都道府県が条例で定めた事項は、同じ都道府県の中で、統一的に取り扱う方が妥当な事項、換言すれば各市町村がバラバラに条例で定めるのには適さない事項に限られる。したがって、都道府県の条例と、市町村の条例が抵触すれば、都道府県の条例の方が優越し、その限度で市町村の条例は無効になる(地方自治法216項なお書き参照)。

 国と地方公共団体の関係について補完性原理の存在を認める場合には、同じことが言えるはずである。国が法律で定める事項は、都道府県以上に広域的な事項や都道府県や市町村の連絡調整など、規模や性質が全国統一的に定めるのに適している事項に限られている。したがって、国の法律と地方自治他の条例が抵触するような場合には、法律を優越させる方が、国民の利益になるのである。

 こうして補完性原理を地方自治の本旨に含めることにより、徳島市公安条例事件判決(最判昭和50910日=百選第5484頁)の基準に対して、憲法学的な根拠を示すことが、はじめて可能になったのである。

《メモ》 諸君が使っている基本書では、まだ以上に説明した補完性原理を第3の中核概念として取り上げているものは少ないであろう。これは、元々、EUにおいて、EU、国、州、県、郡、市町村の相互間において、どのように権限配分を行うべきか、ということを決定するための原理としていわれるものである。わが国のたいていの憲法学者は、同時に各国憲法の比較法的研究を行っているから、EUで補完性原理がいわれるということは、ほとんどの人が承知していたと言える。しかし、制度的保障説の完成度が高かったために、EUに倣ってここに第3の中核概念を導入するべきだ、ということを考えついた人は(私の知る限り)いなかった。上述の地方自治法への補完性原理の導入は、行政法学者の主導で行われたのである。地方自治法改正後においてもなお、上述した諸規定が憲法レベルにおける補完性原理の導入だ、ということに気づいた憲法学者は少なかった。正直に白状すれば、私自身、ある学会において、行政法学者から、この改正は憲法レベルにおける第3の中核概念の導入を目指したものだ、と明言されて、はじめて制度的保障論見直しの必要性に気付いた次第である。しかし、すでに地方自治法が補完性原理を取り入れる形で規定されていること、上述したとおり、団体自治と住民自治だけでは地方自治保障として明らかに不十分であること等を考慮すれば、今後は、この第3の中核概念を承認するのが一般化するものと予想される。そこで、ここで諸君にこの重要な概念の存在を紹介した次第である。

三 条例による財産権の制限

(一) 問題の所在

 憲法が法律で定めることを要求している事項について条例で定めうるか、という問題について、諸君に論文を書かせると、制度的保障説が出現する以前の判例である大阪売春取締条例判決が条例による罰則を合憲とした根拠としてあげた理由のうち、その半分だけを使って、「民主的基盤があるから許される」と書く人が極めて多い。しかし、法律事項に関する条例に関する議論一般という問題ならばともかく、本問のように、財産権に限定されている問題で、そのようなアバウトな議論をすることに対しては、とうてい高い評価を与える訳にはいかない。

 そもそも、地方自治体が、条例制定権を有するのは、制度的保障説の下では、団体自治から導かれる自主立法権が、その根拠である。民主的基盤云々という上述の表現は、住民自治の概念を意味しているに過ぎないから、上記の論法では、そもそも肝心の団体自治が欠落してしまうのである。

 確かに、大阪売春取締条例事件のように、条例による罰則を論じる際には、団体自治にクロスオーバーして、住民自治を使う説が有力に主張される。すなわち、現行地方自治法は、広義の条例、すなわち地方自治の自主立法として、①狭義の条例(地方議会が制定し、長が拒否権を行使しなかったもの)に加え、②長の制定する規則、及び③各種委員会の制定する規則、の3者が存在している。そして、現行地方自治法は、①及び②についてだけ、罰則を設けることを予定している(143項及び152項)。条例を団体自治に基づく自主立法と考える場合、罰則を科する権限は、当然にそれに含まれる。このように考えた場合には、現行地方自治法における①②への罰則規定は、憲法94条にいう「法律の範囲内」として、それら自主立法における罰則制定権の上限を定めた枠立法と理解されることになる。しかし、このように考えた場合、そうした上限規定のない委員会の規則では、地方自治体は自由に、限度で狭義の条例などには認められないような厳罰を設けることも可能になる。この逆転を嫌う場合には、③についてはそもそも罰則を設けることは許されないと論じる。その根拠としては、現在の地方公共団体の委員会は、民主的基盤を有しないのに対し、長と議会は民主的基盤を有している点に着眼して、住民自治的基盤を有していない委員会の規則の異質性をいうことになる。つまり、罰則は、あくまでも民主的基盤がある場合に許されるのであって、団体自治からは導かれないと論じなければならない。

 しかし、上述したところは、基本的に罰則に関する議論である。その場合に民主的基盤が云々される根拠は、罰則の有効性が代表者の同意に依存するという点にある。

 だから、民主的基盤を根拠として、財産権について、法律ではなく、条例で制限できるということを肯定するためには、それと同様に、財産権の特質が、代表者の同意に基づく必要がある、ということを論証を行う必要があることになる。それをせずに、いきなり民主的基盤があれば十分だと論じるのは、団体自治に関する議論の欠落を度外視して住民自治だけに限定しても、理由不足と評価されることになる。

 しかも、財産権と罰則とは明らかに異質な概念である。例えば、委任立法に関する憲法736号は、罰則については法律の委任がない限り化せられないと定めている。これを反対解釈すれば、財産権の制限は、法律の委任無くしてやれることになる。そういう解釈が成り立つのか、それともやはり財産権の場合にも、委任なくしてはやれないのか、という疑問点が存在していることが判ると思う。

 単に否定するだけのために、少々くどい議論を展開した。要するに、民主的基盤というような何が言いたいのか判らない議論で誤魔化すのではなく、財産権の本質そのものから議論を展開する必要を認識してもらえただろうか。

(二) 財産権と法律

 憲法292項が、財産権を法律によって制限することを要求していることの意義が、したがってここでは問題となる。

 ここで考えなければならないのは、実は、さらに一つ手前の問題、すなわち、なぜわが国現行憲法は「財産権」を保障しているのか、ということである。これについては、第46講で詳しく説明しているので、ここでは簡略に説明する。

 近代自由主義社会は、個人の尊厳と所有権の絶対、という二つの概念の上に築かれた。これはそれに先行する封建制のアンチテーゼと理解できる。すなわち、封建所有権は、領主のもつ抽象的な支配権から始まって、現実に土地を耕作する人間の持つ具体的支配権に至るまで、幾重にも重層構造を形成していたために、どのような個人もその財産の自由な使用、収益、処分が許されなかった。このために、そうした制約を否定することが、近代社会の確立に欠くべからざる要求であったのである。

 しかし、資本主義経済の発達とともに二つの変化が発生してくる。

 第一は、まさに所有権から財産権へと、用語が変化したのはなぜかという問題と直結している。これは、所有権の、経済全体に占める重要性が相対的に低下し、代わって債権がその主要な担い手になってきたことによって発生した。物権は強力な権利であるだけに、第三者の権利を害しないように物権法定主義が要求される。その硬直性のために、社会の変化に対応して、新しい内容の権利を保障する必要性が現れてきても、そのニーズに柔軟に対応するのは困難である。それに対して、債権は当事者が納得すればどのような内容の権利でも、保障することが可能である。こうした柔軟性から、現代社会では、債権が物権よりも重要な権利となってくる。これを「債権の優越」と呼ぶ。これに伴い、物権でも、所有権以外の権利、特に債権の確保に奉仕することを目的とする担保物権の重要性が増加してくる。

 こうした新しい内容の債権が社会的基盤を確立してくると、法が追随し、そうした新種の権利に物権と同様の強力な保障を与えることが行われる。そうした新しい権利は、従来の物権と異なり、物に関係しない権利なので、一般に「無体財産権」と総称される。特許権や著作権が、その代表的なものである。

 このように、所有権が財産権中の一つに過ぎなくなる、という現象を「財産権の普遍化的近代化」と呼ぶことがある。

 第二は、資本主義の矛盾が拡大し始めたために、財産権に対する公権的な規制が増加し、常態化したという点である。特に、従来、特権的な地位を有していた所有権の中でも、近代国家の基盤ともいうべき土地所有権は、近代資本主義の原理に反して、どれほど需要が増大しても、それに対応して供給の増大が不可能という特質を有している。その他、様々な場合に、現代国家は、所有権そのものを神聖不可侵であるどころか、大きな制約を認める必要に迫られるようになる。

 このことを「財産権の現代化」ということがある。このように、所有権においてすら、その権利内容を自明のこととすることができなくなると、財産権の内容は、法律で定める必要が生じてくることになる。

 このような二つの方向への大きな変化の結果、明治憲法のように所有権だけの保障では、今日、ほとんど無意味になったので、現行憲法29条は、広く「財産権」一般を保障するようになってきたのである。

 以上に述べたことから、条例で定めることの可否を念頭に置きながら、なぜ法律で定めているかを検討すると、次のようにいえる。

「日本国憲法においては、財産権の普遍化的近代化が行われる(291項)とともに、財産権の現代化が292項においてなされたのである。したがってここでは、いわゆる財産権法定主義については、次の二つの場合を分けて考えなければならないといえよう。

 まず第1は、普遍化的近代原理に関するものであって、財産権法定主義は、財産権の規制が法治主義に基づいて、法律によってなされねばならないことを意味する。したがってこれは、財産権に特有の問題ではなく、基本権一般の問題である。とすれば、ここにおける財産権法定主義は、国の命令及び個別行為との関係の場におけるものであって、条例との関係におけるものではない。前述の、日本国憲法下の法治主義行政原理における条例の地位からすれば、条例による基本権規制、したがって財産権規制は認められるのである。

 第2は、現代化に関するものであって、憲法292項がその趣旨の規定であるという点である(右の第1の法治主義であれば、財産権についての見定められるべきではない。財産権についての法治主義の定めはむしろ291項であると解される。)。すなわち、291項において定められた財産権の不可侵は、同上2項において、近代(狭義)的な不可侵性を意味するものではなく、現代的に変質すべきものとされたのである。したがって、292項で『法律でこれを定める』という場合、それは、財産権の現代的性質の表現であって、決して条例による定めを排する趣旨ではない。」

高田敏「条例論」有斐閣『現代行政法大系』8 地方自治、昭和59年刊189

 大変簡略な説明なので、ぜひ記憶しておいてほしい。ただ、これでは一方において若干冗長であり、他方において説明不足の点もあるので、基本書と相談しながら、自分流の記述方法を確立しておいてほしい。

(三) 財産権制限の条例による制限の限界とその根拠

 財産権の、条例による規制を認めるとして、どの限度で承認できるかが問題となる。これについては、財産権の内容規制と行使の規制とに区分し、前者は条例では制限できないが、後者は可能とする説が、古くから存在し、有名である(高辻正巳「財産権についての一考察」自治研究384号)。この説は、今日においても主張している者があり、まったく無視することはできないが、以下に述べるような問題点があるので、学生諸君が採用することはあまり勧めない。

 すなわち、第一に、内容規制と行使規制を厳密に区別しうるかは疑問である。また、上述のとおり、292項は法治主義的法律の留保を定めたものでもあることを考えると、条例を一般的に排除することはできないはずである。そもそも一般に精神的自由権について条例の制限が認められるのであるとすれば、それよりも社会権的性格が強く、したがって制約が広く認めうる財産権について条例が除外される理由はない。

 これらの理由から、内容規制と行使規制の区別をすることなく、条例による財産権の規制を認めるのが、通説である。

(四) 平等原則と条例制定権

 憲法141項は、法の下の平等を定める。ここでの「法」について、法律と解する古い説があるが、これは今日では気にする必要はない。しかし、地方自治体の条例により人権の制約を認めるときは、各地方ごとに人権の享有範囲が区々となる結果、平等原則が破綻してしまった場合には、当然平等原則違反といわさるを得ない。すなわち、どのような場合には法律で定めるべきであり、どのような場合には条例で定めることも許容されるのかが論点になるのである。これについて、最高裁判所は先に紹介した大阪売春取締条例事件において、次のように述べた。

「社会生活の法的規律は通常、全国にわたり画一的な効力をもつ法律によってなされているけれども、中には各地方の特殊性に応じその実情に即して規律するために、これを各地方の自治に委ねる方がいっそう合目的的なものもあり、またときにはいずれの方法によって規律しても差し支えないものもある。これすなわち憲法第94条が地方公共団体は『法律の範囲内で条例を制定できる』と定めている所以である。」

 この判決は、理論的根拠を特にあげることなく、このような結論だけを示している。しかし、今日の目から見れば、この引用箇所は、第3の中核概念である補完性原理の端的な表現である。すなわち「全国にわたり画一的な効力を持つ法律」という表現は、補完性原理にいう「広域的なもの」に該当し、「各地方の特殊性に応じその実情に即して規律するために、これを各地方の自治に委ねる方がいっそう合目的的なもの」とは、まさに地方公共団体の専管する領域をいっていると読むことができるからである。要するに、補完性原理に合致するか否かにより、憲法14条との整合性も決まると考えることができる。

 整理して、本問の結論を下せば、次のように言える。

 国と地方公共団体の関係について補完性原理の存在を認める場合には、国が法律で定める事項は、都道府県以上に広域的な事項や都道府県や市町村の連絡調整など、規模や性質が全国統一的に定めるのに適している事項に限られている。したがって、そうした事項に関して、国の法律と地方自治他の条例が抵触するような場合には、法律を優越させる方が、国民の利益になるのである。

 これに対し、本問の場合には、問題文中に詳述されているとおり、これという大河がなく、農業用水がもっぱらため池に依存しなければならないという、この県の特殊性が、こうした条例の制定理由である。その場合、当然地方公共団体の自主立法権が国の立法権に愉悦すると考えることができよう。