違憲判決の効力

甲斐素直

問題

Xは、自らの経営する店舗で、ある商品の販売を行うことを計画したが、それには、法律の定めるところにより、都道府県知事の許可を得る必要があった。そこで店舗の所在するA県の知事であるYに許可を申請した。しかし、同一商品を取り扱っている近隣店舗との距離が、A県条例で定める配置基準に満たないとして、不許可処分が下された。

 そこでXは、許可制を定める法律及びそれに基づくA県条例が、憲法22条に違反しているとして、不許可処分の取り消しを求めて提訴した。しかし、第1審裁判所は「本件規定は、その立法理由に合理的な根拠があり、かつ、その区別が右立法理由との関連で著しく不合理なものでなく、いまだ立法府に与えられた合理的な裁量判断の限界を超えていない」という理由で合憲としたため、Xは敗訴した。Xは、勝訴の見込みがないと考え、控訴を断念したので、判決はそのまま確定した。

 しかし後日、原告Bが、C県で、同一の法律及びそれに基づく同種のC県条例の合憲性を争った結果、その法律及び条例が違憲である旨の最高裁判所判決が下された。

 弁護士からの連絡でこれを知ったXは、民事訴訟法33818号にいう再審事由に該当するとして、直ちに先に確定した判決につき、再審請求を行った。これに対し、Yは、次のように主張した。

「わが国の憲法訴訟は、付随的違憲審査制を採用していると考えるべきである。したがって、違憲判決の効力は、通常の判決の効力と同様に、個別的効力にとどまる。その場合、判決が後の裁判に影響を与えるのは判決主文中の判断につき、同一当事者である場合に限られる。ところが、違憲判断は判決理由中に述べられているだけで、主文には述べられておらず、また、Xは違憲判決が出た訴訟の当事者ではない。したがって、民事訴訟法33818号を適用ないし類推適用する余地はないので、Xの再審請求は却下されるべきである。」

 Yの主張する主張の憲法の当否について論ぜよ。

参照条文 民事訴訟法338

 次に掲げる事由がある場合には、確定した終局判決に対し、再審の訴えをもって、不服を申し立てることができる。ただし、当事者が控訴若しくは上告によりその事由を主張したとき、又はこれを知りながら主張しなかったときは、この限りでない。

 判決の基礎となった民事若しくは刑事の判決その他の裁判又は行政処分が後の裁判又は行政処分により変更されたこと。

[はじめに]

 問題を送付した時に、憲法演習ゼミナール読本を参照するように書いたのだが、誰も参照してくれなかったらしく、本問に対する解答といえるレベルの答案は出てきていない。

 私としては、上記読本の関係頁をコピーすればよいので、レジュメ作りの手間が省けるというわけである。サービスとして、同書では、二つの講義として書いてあるのを融合してみることにした。

 君たちが持たねばならない基本的な問題意識は次のとおりである。君たちは、条件反射のように、違憲審査権というと、憲法81条という。しかし、これは、少なくとも通説・判例をベースにする限り、正しくない。Yは、付随的違憲審査であることを当然の前提として、いわゆる個別的効力説を述べている。ここに、君たちが読めば明確に論点を認識できるように仕掛けをしたつもりなのだが、この主張は、違憲審査権が憲法76条にいう司法権の効力の中に違憲審査権が含まれており、したがって76条の司法権行使の結果出された判決の効力も、通常の司法権行使の結果出された判決と同一であるといっているに他ならない。つまり、わが国憲法の定める司法権は、違憲審査権を含んだものなのかどうか。これが実は本問の最大の論点なのである。それが決まれば、事実上、自動的に結論が導かれる。

一 なぜ違憲判決の効力が問題となるのか

 違憲判決の効力論は、わが国特有の議論である。他の国の場合にはこれが、少なくともこのような形で議論の対象となることはない。

 ドイツなどにみられる憲法裁判制度であれば、抽象的違憲審査を予定しているから、違憲判決に法典の変更効力があることは明らかである。

 では、わが国現行憲法に大きな影響を与えた米国法ではどうであろうか。なるほど、米国法においては、憲法訴訟は司法権の内容であり、それ故に通常裁判に付随して行われる。しかし、英米法では判例法主義が採られている結果、判決は法源とされる。これは、判決中の一般性ある法規範の宣言部分については、対社会的な効力、すなわち後の判決に対する拘束力を認めるという考え方である。この拘束力ある判決部分を、英米法では判決理由(ratio decidendireason for deciding)と呼ぶ。これに対し、例えば少数意見など、拘束力のない法規範の宣言部分を付言(obiter dictathings said by the way)と呼ぶ。この用語を使って説明するなら、英米法では、違憲判決どころか合憲判決についても、判決理由に含まれる概念については、常に一般的効力を認めることになる。

 したがって、米国流の司法制度の下においても、ドイツ流の憲法訴訟制度の下においても、違憲判決に対社会的一般的効力があることは、疑う余地がない。

 ところが、わが国のかつての通説・判例は、憲法訴訟は、米国法を継受したということを理由に、原則的に付随的憲法訴訟と考えた。他方、米国司法のもう一つの大きな特徴である判例法主義については、わが国法体系が成文法主義をとること(憲法41条)を理由にこれを否定した。この論理的な帰結として、個別的効力説が導かれる。その結果、Yの主張するとおり、合憲判決どころか、違憲判決にも対社会的効力は認められない、という他の国ではおよそ考えられない奇妙な現象が発生してしまったのである。

 このジレンマをどのように解決するか、が本問の基本的なテーマである。

二 司法権の概念

 日本国憲法761項は「すべて司法権は、最高裁判所及び法律の定めるところにより設置する下級裁判所に属する」と規定して、司法権が裁判所に属することを明らかにしている。しかし、その司法権がどのような権力なのかについては全く定義を与えていない。したがって、何が司法権かの決定は判例・学説に委ねられていることになる。

 戦前についてもその点は同様であった。そして、戦前においては、歴史的概念説、すなわち司法について明確な定義を与えることを断念し、歴史的に司法権に属するとされているものが、司法権だ、とする説が通説であった。その結果、「司法とは刑事、民事の裁判を意味す」と定義することになる。

 現行憲法下においては、戦前と異なり、次のような積極的な定義を下すのが、戦後初期の通説・判例であった、ということができるであろう。

「具体的争訟について、法を適用し、宣言することによって、これを裁定する国家の作用」(清宮四郎『憲法Ⅰ』新版、有斐閣法律学全集Ⅰ、昭和56年刊、330頁)

 この説は、今日においても強力に主張されている。なぜこのような形に、積極的な定義を下せるのであろうか。諸君が、司法権の定義としてこの説を採った場合には、この点が本論文での第一の論点にならなければならない。清宮は、次のように説明する。

「(戦前の司法制度は)フランスによって代表せられる、ヨーロッパ大陸の諸国で発達した制度に由来するものである。これに対して、日本国憲法は、イギリスやアメリカの制度にならって、司法とは、民事及び刑事の裁判のほか、行政事件の裁判をも含めて、すべての争訟の裁判を意味するものとなし、この作用を行う権能を司法権といい、すべてこれを裁判所に属するものとした。」

 この定義の中核は、冒頭にある『具体的争訟』という言葉にある。この言葉は米国合衆国憲法32節の司法権の権限が「事件又は争訟(case or controversy)」によって決せられることを明文で保障しているところに由来している。

 これを逆から言うと、この具体的争訟に限定される、ということをいうために、日本の訴訟制度は、大陸法系から米国法系に変わった、という必要があるのである。わが憲法76条は、米国憲法のような定義文言は存在していないからである。そして、裁判所法3条にいう「法律上の争訟」という言葉が、この事件性の要件を定めたものと一般に理解されてきた。

 最高裁判所も、これに倣った。

「現今通常一般には、最高裁判所の違憲審査権は、憲法第81条によって定められていると説かれるが、一層根本的な考方からすれば、よしやかかる規定がなくとも、第98条の最高法規の規定又は第76条もしくは第99条の裁判官の憲法遵守義務の規定から、違憲審査権は十分抽出されうるのである。米国憲法においては、前記第81条に該当すべき規定は全然存在しないのであるが、最高法規の規定と裁判官の憲法遵守義務から、1803年のマーベリー対マディソン事件の判決以来幾多の判例をもって違憲審査権は解釈上確立された。日本国憲法第81条は、米国憲法の解釈として樹立せられた違憲審査権を、明文をもって規定したという点において特徴を有するのである」

(最大194878日刑集28801頁=百選第5432頁参照)

 そしてその趣旨は、警察予備隊違憲訴訟判決でも確認されている。

「わが裁判所が現行の制度上与えられているのは司法権を行う権限であり、そして司法権が発動するためには具体的な争訟事件が提起されることを必要とする。わが裁判所は具体的な争訟事件が提起されないのに将来を予期して憲法及びその他の法律命令等の解釈に対し存在する疑義論争に関し抽象的な判断を下すごとき権限を行い得るものではない。けだし最高裁判所は法律命令等に関し違憲審査権を有するが、この権限は司法権の範囲内において行使されるものであり、この点においては最高裁判所と下級裁判所との間に異なるところはないのである」

(最大1952108日民集69783頁=百選第5428頁参照)

 この説を、判決の効力に適用すると、Yの述べている個別的効力説が出てくる。この説の下で、しかし、Yが述べるように、完全に個別的効力しかない、と述べるのは、違憲判決というものの持つ重みを無視した話で、どう考えても妥当ではない。そこで、かつての学説は、これに次のような修正を加えた。

(一) 礼譲期待説

「最高裁判所の違憲の判断に対して、立法府も行政府も、これを尊重することが期待できるから、実際上の不便や不公平を避けることができる。すなわちそれらの機関は、かかる法令を廃止するであろうし、それまでの間、行政府は、その執行をさし控えると思われるからである」   (橋本公亘『憲法』青林書院新社、570頁)

 この説の弱点は、その礼譲が、いわば社会儀礼のレベルで説かれているということである。それでは、例えば14条違反の問題など、憲法的な問題という指摘に対する反論としてはあまりに弱い。

(二) 憲法的期待説

 芦部信喜は、個別的効力説のもつ矛盾点を、なんとか憲法レベルで解決しようとした。その努力が、次のような表現となって現れる。

「個別的効力と言っても、他の国家機関は最高裁の違憲判決を十分尊重することが要求される。したがって、国会は、違憲とされた法律を速やかに改廃し、政府はその執行を控え、検察はその法律に基づく起訴を行わないなどの措置をとることを、憲法は期待しているとみるべきである。」(芦部信喜『憲法』第4版、岩波書店、371頁)

 しかし、なぜ他の国家機関は、尊重することを憲法上「要求される」のかは、よく判らない。憲法が「期待している」というのがその根拠なのであるが、それをどのように論証しているのかがはっきりしないのである。さらに、この引用文の直前には「文面上無効」の判決について、例外扱いにするような表現がある。おそらく対社会的効力が生じるという意味であろう。

 これらの説は、違憲判決に基づいて法律や条例が改正されることを期待しているのであって、その改正以前に判決そのものを根拠として法律や条例が変わったと考える余地はない。したがって、Yの主張通りの結論になるはずである。

 さて、以上に紹介してきた司法権=具体的争訟説⇒個別的効力説というものの最大の問題は、今日では、この説の合理性を、清宮の挙げた上記理由で説明することが不可能になっている、という点にある。このことを、節を改めて、もう少し詳しく説明してみよう。

三 具体的事件性について

 具体的事件性という要件を司法に要求するのは、上記のとおり、米国法の影響であるから、その要件の構成要素として何があるか、と考えるのもまた、米国法の影響が強く表れることになる。

 この解釈に従えば、憲法81条の権限は、司法権に内在する権限であり、裁判所は、最高裁判所と下級裁判所とを問わず、司法権行使に付随してその権限を行使することができるが、逆に司法権行使の要件を満たす事件・争訟がなければこの権限を行使することはできないことになる。それゆえ、この権限は、一般に「付随的違憲審査権」と呼ばれている。

 通説の代表的主張というべき清宮の教科書の初版が刊行されたのが昭和32年(1957年)である。したがって、当然、清宮のいう米国法の継受という時に、その後における米国法の変化というものは反映されていない。あくまでも1910年代の判例が確立した米国法なのである。その結果、この説は、裁判所法3条にいう「法律上の争訟」は、第一に当事者間の具体的権利義務又は法律関係の存否に関する紛争であり、第二に、法律の適用によって終局的に解決しうることをいう、とする(例えば警察予備隊訴訟最高裁判決参照)。

 この定義には問題が多い。すなわち、これはもっぱら典型的な民事訴訟を念頭に置いて構築されたものであるために、刑事訴訟等はうまく説明できない。これら、この定義でうまく説明できない司法作用については、すべて裁判所法31項で認められている法律によって裁判所に与えられている権限と解するべきことになる。つまり、戦前の歴史的概念説は、そのような意味でこの説の底流に存在していることになる。

 しかし、最大の問題は、実は米国においても、この概念は確固不動のものではなく、時代によりかなりの変遷を示している点にある。その変遷状況を、阪本昌成は次のように説明している(『憲法理論Ⅰ』補訂第3版、成文堂2000年刊393頁より引用)。

1910年代の米国最高裁判例は、憲法3条上の『事件・争訟性の要件』の構成要素として、『法に保護された利益の侵害があること』や『裁判所による執行可能性』をあげていた。ところが、1970年代以降は、その法的利益テストを『事実上の損害(injury in fact)を被っていること』に代え、さらに、執行可能性を不要とした。

 もっとも最近の連邦最高裁は、『事件・争訟性の要件』の内包・外延の曖昧さを避けるためか、この要件によるよりも、一般に『司法判断適合性』(justiciability)という用語に依って司法権の限界を求めてきている。

 司法判断適合性とは、裁判所が実体問題とその意味合いを理解し、その問題を適正に解決する上で必要な知識と視野を当事者に提示させることによって、司法的介入を、(ア)紛争解決に必要な範囲に限定し、(イ)他の部門の憲法上の権限を剥奪しない状況に限ろうとする試みであって、その一部は憲法上の要請であり、他の一部は政策的な配慮から来るものである、といわれている。」

 ここにでてきた司法判断適合性とは、具体的には、当事者適格、成熟性、ムートネスなど一連の法理の名前で諸君がこれから学ぶことになる要件のことである。つまり、君たちが、今日人権論を議論する時に、反射的に書いている今日の憲法訴訟論は、そもそも古典的な司法権概念が成り立たないことを前提に、理論体系が作られているのである。

 さらに大きな問題が、米国法の変化という影響がわが国法制度に及んで来ていることである。例えば、納税者訴訟は、わが国では、この訴訟形式そのものの継受は行われなかったが、それに代わるものとして導入されたのが、地方自治法242条の2に定められた住民訴訟である。当然のことながら、この住民訴訟に代表される客観訴訟については、従来からの司法権概念をそのまま維持する限り、司法の本質とはかかわりないために、法律で付与された権限ということになってしまう。

 米国法には81条に相当する規定がなく、司法権という概念そのものが合憲性の司法審査を許容しているという考え方で、マーベリー対マディソン事件判決以来、確立している。つまり、米国では、具体的事件性は司法権概念とは関係がないという判例が確立したからこそ、客観訴訟が認められている、といえる。。

 したがって、付随的事件性を主観訴訟と同視する従来の通説・判例にしたがう場合、客観訴訟では憲法判断は許されないと考えるのが妥当である。

 しかし、現実の憲法訴訟において、例えば衆議院議員定数違憲訴訟や愛媛玉串訴訟など、客観訴訟が占めている重要性を考えると、これは戦後憲法訴訟の中核を否定するに等しい大変な問題である。

 だからといって、司法権概念には該当しないにも拘わらず、法律によって与えられた権限についても一般的に違憲審査権の存在を肯定するならば、第一に憲法76条にいう司法と、憲法81条は異なる概念であることを認めざるを得ない。その結果、第二に、国会が立法によって定めさえすれば、抽象的規範統制権を裁判所に与えることも可能になるはずである。しかし、それでは説の前提たる米国法の継受は、完全にどこかに吹き飛んでしまう。つまり、かつての通説判例は、その前提との破綻を起こしているのである。

 こうして、この点から、今日では、様々な学説の対立が生じてくることになる。議論の方法としては、①司法権の概念の内包は従来のまま維持しつつ、法律により裁判所に付与された権限についても違憲審査を可能である、とする論理を導くか、②司法概念そのものを拡大してその中に客観訴訟の概念を導入するか、あるいは③司法権概念を抜本的に見直すか、という3通りの方法が考えられる。そして、そのいずれの学説も存在している。

 したがって、諸君としては、従来の通説・判例を支持して、例えば、愛媛玉串訴訟事件で、最高裁判所が違憲審査を行ったこと自体を違憲と断ずるか、あるいは、何らかの肯定説を工夫するか、の選択を迫られていることになる。

 以下においては、代表的な肯定説を紹介し、その説の下で、判決の効力をどう考えるべきかを論じてみよう。

1: 以上の説明は、諸君に論点を理解してもらうためにしているのだから、諸君の論文にこのまま書き込んではいけない。諸君自身の論文では、どれか一つの説を採用した上で、司法権概念の段階からその説にしたがって体系的に書かねばならない。以下の説明は、紙幅を抑えるため、大略どのような学説があるかを紹介するに止めており、かなり大幅なダイジェストを行っているので、このどれかの学説に依って論文を書きたいと考えた場合には、必ず、そこに紹介している原典を改めて読んでほしい。私の紹介部分だけを、いきなり書き抜いても、体系が欠落しているために、木に竹を接いだような答案になって、合格ラインには届かない恐れが強い。

2 納税者訴訟:納税者訴訟には、伝統的な判例・通説の採る司法権概念にいう具体的事件性はない。しかし、これは必ずしも自明ではなかったらしく、学生諸君ばかりでなく、驚いたことに、平成14年度試験に対して大手受験予備校が発表した模範解答においてすら、具体的事件性があると書いているものがあった。そこで、少し詳しく説明しておく。納税者訴訟は、米国判例法で認められ、わが国でも肯定する説があることから、わが国でも既に多数の訴訟が提起されている。平成14年問題にでた自衛隊絡みのものが多い。これについては、最高裁判決もいくつかあるが、いずれも原審判決を確認しただけなので、原審レベルでは、どういう論理で具体的事件性を否定しているのか、紹介しよう。

「原告は、自衛隊関係費の支出が憲法9条に違反する旨を主張し、これを前提として、同支出の財源となる所得税の賦課、徴収も同支出相当分の賦課、徴収の限度で憲法9条に違反し、また、右賦課、徴収により、同原告らの平和的生存権が侵害された旨を主張する。しかし、憲法は、83条、85条及び86条において、国費は、毎年度の予算の国会における審議等の手続を経て、国会の議決に基づいて支出すべきものと定め、他方、30条及び84条において、租税の課税要件及び賦課徴収手続は法律によって規定するものと定めて、国費の支出と租税の賦課、徴収についてその法的根拠及び手続を区別して規定しているから、仮に前者が違憲、違法であったとしても、その違憲性、違法性は当然には後者に及ばないものと解すべきである。また、憲法30条及び84条を承けて制定された所得税法は、所得税を、一般的な経費の支出に充てる目的で課税し、その概念要素として税収の具体的な使途を含まない普通税として規定しているが、このように使途と無関係なこれから独立した普通税を設け、その使途については、予算の議決等国会の適正な審理に委ねるとする徴税制度は、むしろ憲法の予定しているところであって、何ら憲法に違反するものではないというべきである。そうすると、所得税が右のように税収の使途と無関係なこれから独立した普通税として規定されている以上、その賦課、徴収段階において、税収の使途の違憲、違法を問題にする余地はないというべきであるから、仮に憲法に違反する国費の支出が予算により決定されたとしても、所得税の賦課、徴収が違憲又は違法となることはないものというべきである。また、右のとおり、所得税は、税収の使途と無関係なこれから独立した普通税であるから、たとえ仮に予算の議決によりその税収の一部が憲法に違反する使途に支出されることが決定されたとしても、右議決の結果、所得税の賦課、徴収に税収の個別具体的使途の性格が付加されるものではなく、したがって、所得税の賦課、徴収自体によって原告らの自由、権利ないし法的利益が侵害されることはないというべきである。」(東京地裁昭和63613日判決)

これを要約すれば、租税はその使途を定めずに徴収されるのであるから、その使途の一部に違憲・違法があっても、それによって租税徴収そのものが違憲・違法になることはあり得ない、ということである。

四 近時の学説の対応

(一) 判例法肯定説

 上記説明と少しずれるが、本問の解答として一番簡単なのが、一に説明したところから、わが国が、米国の司法権概念ばかりでなく、判例法主義も継承している、と説くことであることは明らかである。そうすれば、あとは判例抵触を理由に再審請求ができることになる。この代表的な論者は、長谷部恭男である。

 長谷部恭男は、伝統的な司法権概念を持って妥当とする(長谷部『憲法』第4版、新世社401頁)が、同時に判例法主義をわが国も採用しているとするスタンスに立つ。

 通説は、わが国は判例法主義をとらないとし、裁判所が先例に従うのは事実上の拘束力である、としてきた。長谷部はその点を問題にする。

「法律問題の最終的な有権解釈権を持つ裁判所が、判例に事実上拘束されるということは、とりもなおさず判例が法的な拘束力を持つことを意味するのではないかとの疑問を提起することも可能である。憲法典や法律が法源であり得るのも、裁判所がそれらを事実上適用するからであり、裁判所が憲法典や法律を適用しなくなれば、それらはもはや法源ではありえない。実際、もし裁判所が何がratio decidendiであるか、あるいは当該事件と先例は区別(distinguish)されうるかなどという問題に頭を悩ますこともなく、事実上先例を引用して具体的事案を解決しているのであれば、事実上の拘束力は法的拘束力よりもむしろ強力であるといえる。少なくとも、最高裁判所の判例が下級裁判所に対して持つ拘束力に関するかぎり事実上の拘束力説と法律上の拘束力説との間に意味のある違いはない。」(長谷部・前掲引用書34頁)

 この場合、判例法が法源たることを認めるのは、国民主権から憲法41条に反するという批判が当然予想される。先に述べたとおり、個別的効力説の条文上の根拠は41条なのである。これについては、次のように反論する。

「国民主権の理念を徹底させる立場からは、国会や内閣と異なり、国民に対して政治責任を負うこともなく、したがって必ずしも国民の意見を反映していない裁判所の裁判が、法源として扱われることには疑義を呈しうる。これに対しては、判例を法源とすることによって国民に裁判の結果についての予測可能性を保障しうるとすること、そして法律によって判例を覆す権限をもつ国会が判例を放置すること自体、国会の黙示の承認を意味すると反論することができよう。」(同条34頁)

 ただ、判例は憲法典の法源にはなり得ないとする。それは、判例に憲法改正権力を認めることになるからである。

 もっとも、長谷部本人は、この議論が判決の効力に及ぶということは明確に認識していないらしく、違憲判決の効力に関する記述は、単純に従来の一般的効力説vs個別的効力説の対立を紹介しているだけである。

 いずれにせよ、本問の解答としては、判例法の変更により再審請求を認めることになるであろう。

(二) 法原理機関説

 佐藤幸治は、第一の立論の代表的なスタイルを採用している。次のように説く。

「司法権の観念が歴史的に流動的なものだとしても、それが立法権や行政権と異なる独自のものとされるゆえんは、公平な第三者(裁判官)が、関係当事者の立証と推論に基づく弁論とに依拠して決定するいう、純理性の特に求められる特殊な参加と決定過程たるところにあると解される。これにもっともなじみやすいのは、具体的紛争の当事者がそれぞれ自己の権利・義務をめぐって理をつくして真剣に争うということを前提に公平な裁判所がそれに依拠して行う法原理的決定に当事者が拘束されるという構造である。」(『憲法』第3版、青林書院平成7年刊、295頁以下より引用。)

 このように具体的事件性を把握する場合には、主観的当事者訴訟だけが許容されることになる。では問題となる客観訴訟についてはどう考えるのだろうか。その点については次のように説明する。

「裁判所が司法権を独占的に行使するということは、他方、裁判所は司法権のみを行使すること、換言すれば、裁判所が本来的司法権ならざる権能を行使してはならないこと、を直ちには意味しない。本来的司法権を核として、その回りには法政策的に決定さるべき領域が存在している。いわゆる『客観訴訟』の創設とか非訟事件の裁判権の付与などがそれである。裁判所法3条も、『その他法律において特に定める権限』という。が、法律により、裁判所に対し、本来的司法権ならざる権能を付与することについては、憲法上の限界があると解される。すなわち、付与される作用は裁判による法原理的決定の形態になじみやすいものでなければならず、その決定には終局性が保障されなければならないと解される。〈中略〉行政事件訴訟法は、個人の具体的な権利・義務に関する訴訟(主観訴訟)を中心に、個人の権利利益の侵害を前提としない『客観訴訟』と呼ばれる、機関訴訟と民衆訴訟を例外的に認めている。この客観訴訟は、司法権の当然の内容をなすものではなく、法政策的権利から立法府によって特に認められたものであると解される。」

 つまり、ここでは司法権は一種の制度的保障として把握される。しかし、典型的な制度的保障のように、どのような権限を追加的に付与するのも完全に立法府の裁量に委ねられているわけではなく、①付与される作用は裁判による法原理的決定の形態になじみやすいものでなければならず、②その決定には終局性が保障されるものでなければならないという、一定の限界があると説くわけである。

 では、その場合に、特に客観訴訟における違憲判決の効力はどうなるのであろうか。その点については、法律委任説を説く。

 佐藤の法原理機関説は、主観訴訟を以て司法の本質的対象とした。その結果、客観訴訟については、違憲審査権が憲法76条から導かれるとする前提を維持すると、客観訴訟では違憲審査が不可能になってしまう。つまり、愛媛玉串訴訟や衆議院議員定数違憲訴訟が提起されても、合憲・違憲の判定を下してはいけない、といわねばならないのである。このジレンマは、アメリカ法と異なり、憲法81条をもつ日本法では簡単に解決できる。違憲審査権は76条の定める司法権の本質から導かれるものではなく、81条が、そうした権限を裁判所に認めたことから生じると説けばよいのである。

 このように考えた場合には、違憲判決がどのような効力を持つかについては、憲法は何も述べていないことになる。憲法典において、何も述べられていない場合は、特に法律で定めるという規定がない場合にも、それがどのようなものかは、一般に法律で定めることができると解釈される。この場合もそうだ、と考えるのが、法律委任説である。

 ところが現実問題として、そのような法律は存在していない。そこで、現状としては、どう考えたらよいかが問題となる。その点については、次のように実質的一般的効力説を論じることになる。

「わが国の違憲審査体制が付随的なものであることを前提として、かつ憲法41条を考慮するならば、法律委任説の示唆するように効力について定めた法律が存在しない限り、最高裁の違憲判決に当該法律(規定)を廃止する効果(法令集からの除去効果)(違憲判決の強い効力)が当然に生ずると考えることは無理というべきであろう。しかし、違憲と判示された法律(規定)は一般に執行されないことになるという効果(違憲判決の弱い効果)は生ずると解される。付随的違憲審査制といっても、今日多かれ少なかれ憲法保障的機能も加味して考えねばならず、また、憲法についての有権解釈権を持つ最高裁判所が違憲無効とした法律を内閣が『誠実に執行し』なければならないというのは背理と思われるからである。そうした意味においては、実質的には一般的効力があるといういい方もできるであろう。」

(佐藤幸治『憲法』第3版、青林書院、375頁)

 私が、この説を実質的一般的効力説と名付けた理由は、この説くところをみれば、一目瞭然であろう。ここで、彼が重要な理由としてとりだしてきたのは、これまで、憲法訴訟論中で繰り返しその存在を指摘されている憲法保障的機能である。これこそが、一般的効力の源泉とみているのである。ただ、付随的憲法訴訟という軸足の所在から、依然として個別的効力説を基本的には妥当としている点に、その名残が認められるのである。しかし、それは純然たる建前に堕してしまった点に、いわば一般的効力説への降伏が現れていると言って良い。

(三) 公権的裁定説

 浦部法穂は、第二の、司法権概念そのものの拡大を行う立場の一つの典型である。そこでは、具体的事件性の要件について次のように説明する(『憲法学教室』全訂第2版、日本評論社2006年刊323頁以下より引用。なお参照『注釈憲法』761項=浦部法穂執筆部分にも同様の説明がある。)。

「もともと裁判所というものは、権力支配の秩序維持のための国家機関として、社会に生起する個別的な紛争の公権的裁定を、その任務として与えられているものである。要するに、全体の統治=支配機構の中で、特に個別的な紛争の公権的解決を通じて秩序維持に仕えることを任務としている。だから、それは、はじめから、個別的紛争の存在を前提にして機能するものであり、そして、そこでは、公権的に裁定する必要性の認められる紛争だけが取り上げられることになるのである。」

 このように、公権的裁定の必要の有無が事件性を決定することになれば、その裁定の必要がある種類の事件か否かは、立法裁量の対象となる、と考えることが可能である。しかし、そこで、個別的事件性という点が歯止めとなると考えることになる。浦部法穂に依れば、個別的紛争というには、次の二つの要件が充足される必要がある。

「第1は、法的に解決可能な紛争が具体的な形で存在していることである。法的に解決可能な具体的紛争とは、要するに、特定の者の法律上の地位・利害に関わる紛争である。〈中略〉第2は、その紛争が現実に存在していることである。つまり、その紛争が、特定の者の法律上の地位・利害をめぐる争いという形をとっていても、それが仮定的なものであったり、将来起こるかもしれないというものである場合には、現実の問題としてその紛争が生じたときに取り上げれば十分であって、そうでないのに裁判所が裁定する必要はない、ということである。」

 この説が、先に紹介した近時の米国法における司法概念、すなわち司法判断適合性の理念に基づいて構築されていることがよく判ると思う。この立場に依る場合には、客観訴訟は現実に法的に解決しうる紛争が存在している、という点において具体的事件性を充足しており、合憲と解される。

 これまでの論理展開からすれば、浦部は、個別的効力説を支持する事になるはずであるし、事実その様に述べる。その理由として次のように説明する。

「最高裁判所の違憲判決は、多かれ少なかれ政治的な影響をもつ。しかし、裁判所は、あくまでも法の厳正な解釈・適用を任務とする機関であるから、判決にあたってそうした政治的影響を考慮に入れるというようなことは、本来なすべきではない。とすれば、判決に伴う政治的影響は、政治部門がまさに政治的に解決すべき問題である。」(浦部法穂『憲法学教室』全訂第2396頁)

 他の機関との関係ではそれでよいかもしれないが、判例法主義をとらない結果、後の判例を拘束しない点をどう考えるのか、という問題は依然として残る。したがって、本問の解答としては、Yの主張を支持することになろう。

(四) 法の支配説

 高橋和之は、同じく、事件性の要件を拡大している。そして、その拡大を、米国法の部分的継受という形で説明する(「司法権の観念」樋口陽一編『講座憲法学』第6巻、日本評論社1995年刊13頁以降参照)。すなわち、浦部法穂のように、全面的な継受を前提として、それを支える論理を構築するのではない。また、事件性の要件を拡大する根拠としては、法の支配の理念から、権力分立制とつなげて説く、という独特の構成を示す。

 かなり難しい説で、説明しても多分理解して貰えないと思うので、君たちに対する説明は割愛する。この説を採る場合には、Yの主張はおそらく否定されると思われる。

(五) ドイツ憲法説

 先に、戦前のわが国学説が大陸法を継受していたのに対して、戦後現行憲法が米国法を継受したところから、戦後の学説が出発した、と述べた。しかし、現在のドイツボン基本法では、憲法裁判に加えて、通常(民事及び刑事)、行政、財政、労働及び社会の各裁判権をすべて司法として一元的にとらえ、それぞれについて最高裁判所を設置するという形式を採用している。その意味で、裁判所に司法権(Rechtsprechung)が一元的に帰属する観点からは、わが国現行憲法と同様の構造となっている。そして、先に高橋説がまさに指摘していたとおり、司法権の内容に関する米国憲法32項の規定に相当するものはわが憲法は持っていないのであるから、その欠落部分をドイツ法的発想で補完しても悪いはずはない。

 ドイツ憲法学では、司法権は一般に「法に関する紛争又はその侵害があった場合に、特別の手続きによって、有権的な、したがって拘束力ある判断を下す職務」と理解されている。これは、憲法裁判所による規範統制を司法権概念に含めようとするところに基本的な狙いがある。

 私の知る限り、わが国でこの立場を明確に宣言している学者はいない。しかし、戸波江二の説は、非常にこれに近いものと思われる。

 なぜなら、第一に、司法権の概念を紹介するにあたり、米国法への言及をすることなく、「一般に、具体的な紛争について法を適用して裁定する作用をいうと解されている」と述べているにとどまる(『憲法』新版、ぎょうせい、平成12年刊、427頁より引用。以下の引用もこれに続く部分である)。この”一般に・・解されている”という述べ方は、学者が自説ではない説が通説である場合によく使う言い回しである。第二に、次に述べるように、明確に事件性の要件を否定しているのである。

 すなわち、客観訴訟に関しては、次のように述べている。

「なぜ事件性が司法権の本質的要素とされるのかという問題について、理論的な根拠を提示する学説もある。それによれば、紛争の当事者がそれぞれ自己の権利義務をめぐって主張を行い、公平な裁判所が法に従って判断を下すという構造こそが司法権にふさわしいものであると説かれる。たしかに、近代の裁判はそのような訴訟構造を前提として発展してきており、歴史的にみて司法権は事件性を前提にしているということができる。しかし、問題はそのような訴訟構造の枠を超えた事件を裁判所が審理判断することができないかどうかである。そして、客観訴訟が法律で定められ、『念のため』判決のように訴訟要件を欠く訴訟で実体判断がなされていることなどを考慮すれば、事件性の要件、は、例外を許さない絶対的な要件ではないと解される。すなわち、事件性の要件は、事件性の要件をみたさない訴えを裁判所が拒否するための正当化理由となるが、逆に、裁判所が事件性を欠く訴えについて個別的に審理・判断したり、法律が事件性の要件を欠く訴訟を定めたりしたとしても、それらの事件を裁判所が審理・担当すべき十分な理由がある場合には、『司法』権を裁判所に属せしめた憲法76条に反することにはならないと解される。事件性の要件を欠く訴訟のうちで、どのようなものを裁判所の審理の対象とすることができるかは、法を適用して紛争を解決するという司法にふさわしいかどうかによって判断されよう。」

 冒頭で批判されている説は法原理機関説であるから、それを採らないということははっきりしている。その理由として説かれているのは、理論的根拠というより、現実に採用されている客観訴訟の存在それ自体である。そして、それが事件性の要件を満たしていない、と考えているのであるから、浦部法穂説や高橋説のような意味での事件性拡張説を採用していないこともはっきりしている。したがって、事件性を司法権の要件とはしていないのである。その結果、最初の定義の後半である「法を適用して紛争を解決する」という部分だけが、司法の本質に関する定義と考えていることになる。結局これは、ドイツ流の、法に関する紛争に対して終局的拘束力ある判断を下す、という捉え方と同一のものと考えられるからである。

 要するに、戸波説の特徴は、裁判所としては、事件性を楯にして拒絶することもできるが、裁判所として審理するべき十分な理由さえあれば、特別法がない場合にも、そうした事件について「個別的に審理・判断」できるという点にある。だから、かつての通説・判例が言っていた事件性を欠いている事例でも、裁判所の判断次第というのが答えになる。

 戸波江二は、この問題について、法律委任説に比較的近い考えをとるが、それとは一線を画している。それは、法律委任説が、個別的効力説か、一般的効力説か、という選択を、法律が決定しうるとしているのに対して、その委任の内容は、この一般か個別か、という議論とは関係がなく、違憲判決の効果論という形で論ずるべきだとする説だからである。

「一般的効力か個別的効力かという議論とは別に、違憲判決の効力については次のように考えるのが妥当である。

 第一に、違憲判決に個別的効力以上の効力、たとえば違憲とされた法律を廃止する効力を与える法律を制定することは可能であり、そのような法律が憲法41条ないし憲法76条に反するとはいえない。第二に、違憲判決の効力についての法律の規定がない現状では、違憲判決に法律を法令集から除去する効力を認めることは、法律の改廃が立法府の権能に属する以上、困難である。第三に、違憲判決は後述のように判例としての効力をもち、後の判例を原則として拘束する。第四に、法令の合憲性審査権を有する終審裁判所である最高裁判所が違憲判決を下した以上、他の国家機関は違憲判決に従って当該違憲法令に対処すべき法的義務を負う。したがって、ある法律について違憲判決が下されたのちに、当該法律を国民に適用する国家行為は違憲・違法なものとなり、また、当該法律を改廃しない立法の不作為は違憲となろう。」

(前掲書460頁)

[まとめ]

 このように、並べて紹介するのは、あくまでも、学生諸君に学説の広がりの中での、自説の位置というものを理解してほしいからである。このように情報を提供すると、ややもすると、この講のミニチュア版で、説の羅列をしたものを書いてしまう人がある。しかし、それは間違いである。論文では、自説をしっかり展開することが求められているのであって、説の羅列が求められているわけではない。両方ともが可能であれば、高い評価を得られるであろうが、国家試験における限られた時間と紙幅では、それはどんな人にも不可能であろう。だから、本問であれば、冒頭にも述べたとおり、司法権概念及びそれと連動する違憲審査権の根拠条文をしっかりと理由を挙げて述べ、それを受けて、判決はどのような効力を持つべきか、を論じてくれればよい。問題文の兼子説は、それとの対比において、その当否を述べれば十分である。