外国人の公務就任権

甲斐素直

問題

 日本国の国家公務員もしくは地方公務員となるにあたり、「当然の法理」というものが存在している。1953年に、内閣法制局が明らかにしたもので「法の明文規定が存在するわけではないが、公務員に関する当然の法理として、公権力の行使または国家意思の形成への参画にたずさわる公務員になるためには日本国籍を必要と解すべきである。」とされている。

 Y県では、従来はすべての公務員について、日本国籍を必要としてきたが、1990年に職務内容を検討した。その結果、同県の職員採用試験のうち、事務職等は「公権力の行使または国家意思の形成への参画にたずさわる公務員」に該当するとして国籍条項を維持した。それに対し、心理職、福祉職及び看護師についてはその条件に該当しないとして、日本国籍を有しない者にも受験資格を認めることとし、今日に至っている。

 某国籍を有するXは、日本国籍を有する者の配偶者として1990年に日本に入国し、Y県に定住して今日に至っている。Y県福祉職は、社会福祉士、介護福祉士、保育士、児童指導員、児童自立支援専門員のいずれかの資格を保有していることが受験資格とされていることから、Xは、1994年に社会福祉士の資格を取得した上で、Y県の福祉職を1995年に受験したところ、合格し、19964月付けで採用されて、Y県福祉保険局に勤務してきた。

 20063月に、Xは、Y県管理職試験を受験するのに必要な勤続10年となった。職場の上司は、Xが極めて優秀で、管理職にふさわしいとして、受験を勧めた。それを受けてXは管理職試験受験願書を提出した。

 しかし、Y県では、管理職に関しては、いずれの職種で採用したかに関係なく、一体的に任用・配置転換を行う方針であり、したがって国籍条項を維持すると決定していたため、Xが、国籍以外の受験資格はすべて備えていたにも拘わらず、受験願書の受理そのものを拒否した。

 そこでXは、「当然の法理」という漠然とした曖昧な行政見解で、日本国籍を有していないからというだけで労働条件が異なり、管理職になりたい又はなりたくないという意思表示すらできないということは差別であり、許されることではないとして、提訴した。

 Xの主張における憲法上の論点を指摘し、論ぜよ。

[はじめに]

 本問は、東京都管理職試験を外国人が受験できるか否かで争われた最高裁判所大法廷 平成17126日判決をベースに作問したものである。訴えを提起したのは、特別永住資格を有する在日韓国人であるが、それだと問題が複雑になるため、単に日本国に定住している者とした。

 本問は、基本的に国民主権論から出発しなければならない。それが「当然の法理」の理論的根拠だからである。それと同時に、それをあまりたくさん書いては論文が破綻する。次に説明するとおり、本問の中心論点は22条と14条だからである。

 すなわち、公務就任権については、旧憲法では、その19条が「日本臣民ハ法律命令ノ定ムル所ノ資格ニ應シ均ク文武官ニ任セラレ及其ノ他ノ公務ニ就クコトヲ得」と明言していたが、現行憲法にはない。しかし、これは22条の職業選択の自由に発展的に解消されたと考えられているから、単純に22条で理解しておけば十分である。

 本問は、厳密に言うと、公務就任権そのものではない。既に公務に就任した外国人に、昇進の自由があるか否かが直接の論点である。しかし、論理的には共通するので、以下では広く公務就任権について説明する。

一 問題の所在

(一) 国民主権と公務就任権

 国際人権規約が批准され、内外人無差別という原則が名実ともに確立された今日、外国人の人権の排除という議論は完全に意味を失っている。その唯一の例外として、今も外国人の人権排除が国際人権規約においても承認されている領域が、外国人の参政権及び公務就任権である。すなわち市民的及び政治的権利に関する国際規約(B規約)25条は、次のとおりに規定している。

「すべての市民は、第2条に規定するいかなる差別もなく、かつ、不合理な制限なしに、次のことを行う権利及び機会を有する。

(a) 直接に、又は自由に選んだ代表者を通じて、政治に参与すること。

  • (b) 普通かつ平等の選挙権に基づき秘密投票により行われ、選挙人の意思の自由な表明を保障する真正な定期的選挙において、投票し及び選挙されること。

  • (c) 一般的な平等条件の下で自国の公務に携わること。

     このa及びbが参政権であり、cが本問で問題となる公務就任権である。国際人権規約の他の条文が「人」を主語にしているのに対して、ここでは「市民」を主語としており、少なくとも、これがすべての人に共通に認められる人権ではなく、自らが市民と認められる国との関係においてのみ、認めうる権利であることを明らかにしている。したがって、外国人に参政権及び公務就任権を否定することは、少なくとも国際法上何ら非難される問題ではない。

     そして、当然の法理は、基本的にはここから導かれる。すなわち、国家の意思決定を行う公務員は、国民の1人でなければならず、そして、国民とは国籍法上の国籍保有者だとするのは「当然」だとするのである。しかし、ここにはいくつかの論理の飛躍がある。

     第一に、憲法上の制定権力である国民が、その憲法10条の授権により制定された法律によって決定されるとするのは、論理として完全に破綻している。国民は、憲法理論に基づいてその概念が確定されるべきであり、それは主権論においてどのような説を採用するかにより、異なってくる。

     第二に、より重要な問題として、なぜ公務員が国民の一員でなければならないのか、という問題がある。日本史を少しでも学べば、わが国明治の近代化は、法律学の分野におけるボアソナード等、数多くの御雇い外国人の尽力で始めて可能になったのである。今日においても、開発途上国においては、多くの外国人が、その政府の中核において活動している。それを考えれば、誰を公務員とするかは主権国家が自由に決定しうるところであって、そこに、理論的な限界が発生するとは考えられないのである。換言すれば、それは基本的に、それぞれの国の憲法秩序によって決定され、さらにその下における議会の立法裁量に属し、さらにそれを受けての行政裁量の問題となる。その場合に、その裁量を憲法14条や22条がどの範囲で制約するのか。それが本問の論点と言うことになる。

    (二) 立法裁量

     国際人権規約上は、外国人の参政権と公務就任権は同じ条文に定められているが、これは、立法裁量の観点から見れば、若干異質の問題である。参政権と区別せずに理解している人が案外いるので、参政権との対比の中で説明してみよう。

      1 参政権における定住外国人の権利

     参政権の場合には、それが基本的には主権者である『国民』の専権に属することは疑う余地がない。憲法151項は、「公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である」と述べて、そのことを明らかにしている。したがって、ここにおいては、原則的には国籍決定に関する立法裁量権が問題になる。

     まず第1段の立法裁量として、何を持って国籍決定の基礎とするか、という問題がある。例えば、米国のように米国で生まれれば父母の国籍に関わりなく米国人とする主義を採用するか、日本のように日本人の子であれば、どこで生まれるかに関わりなく日本人とするという主義を採用するかにより、国民の範囲は大きく左右されることになる。どちらが妥当とか合理的とかいう話ではなく、立法裁量の問題に過ぎない。その結果、国籍法が父系主義を採用していた当時に、米国人を父に、日本人を母に、日本で生まれたエステル・華子・シャピロのように、その谷間に落ちてしまうと無国籍者が誕生することになる(東京高等裁判所昭和57623日判決)。そして、その外側に、定住外国人に対して、一定の範囲で国民に準じて扱うとする立法裁量を行使する余地がある。なぜなら、定住外国人は、国籍法における立法裁量によっては、国民とされることができるものだからである(すなわち、憲法制定権力としての国民には入る)。

     この場合、その外国人は、本来の国籍(Citizenship)とは別に、その国での参政権がダブって認められる。このように、二重国籍を有するのに近い取り扱いをする制度をデニズンシップ(Denizenship)と呼ぶ。ダブル・シティズンという意味である。このような制度を導入する根拠としては、事実上二つの母国を持つ者を認めることが、その二つの国の間の戦争等を抑止する上で有益であるということがいわれる。

     このように、外国人参政権問題は基本的に立法裁量の問題であることを明言したのが、在日韓国人の地方選挙における選挙権、被選挙権を求める金正圭訴訟における最高裁第3小法廷平成7228日判決(以下「地方参政権判決」という)。

      2 外国人の公務就任権の特殊性

     公務就任権の場合には、若干問題が異なる。御雇い外国人の例で判るとおり、公務員の場合には、参政権と異なり、本質的には日本国民である必要はない。したがって、定住外国人に限定する必要すらない。海外にいる人を公務員として採用することすら可能である。実際、わが国在外公館では、多くの現地人職員を有している。

     それにもかかわらず、なぜ、国民主権論から導かれるところの『当然の法理』が言われるのだろうか。それは、公務員の場合には、基本的にその職務に対する忠実性が期待できるか、という問題が重要であり、さらにその背後に国家に対する忠実性という問題があるからである。憲法99条は、「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」と述べて、公務員には憲法尊重擁護義務があることを明言する。この憲法尊重擁護義務とは、すなわち国家に対する忠誠ということである。

     日本国民になることを拒絶している者に、日本国民に対する忠誠を期待できるか。一言で表現すれば、問題はそこにある。

     形式面においては、それは可能である、というのが答えになる。国家公務員の場合であれば、国家公務員法961項は「すべて職員は、国民全体の奉仕者として、公共の利益のために勤務し、且つ、職務の遂行に当つては、全力を挙げてこれに専念しなければならない。」と定めており、これを受けて97条は「職員は、政令の定めるところにより、服務の宣誓をしなければならない。」という。

     ここにいう政令とは、「職員の服務の宣誓に関する政令」といい、次のような宣誓をすることになっている。

    「      宣誓書

       私は、国民全体の奉仕者として公共の利益のために勤務すべき責務を深く自覚し、日本国憲法を遵守し、並びに法令及び上司の職務上の命令に従い、不偏不党かつ公正に職務の遂行に当たることをかたく誓います。

         ○年○月○日

                         氏  名

     したがって、この宣誓を信頼する限り、外国人だからといって、日本国民に忠実に行動することは期待できるはずである。

     結局、外国人の公務就任権に根本的に存在する問題は、その先にある。職務に対する忠実はこれで確保できるとして、日本国とその外国人の母国の利益が対立する場面において、確実に日本国の利益を優先させ、母国の利益に反する行為を確実に期待できるか、という問題である。二つの国家の利害対立が、参政権レベルで問題になるのは戦争など、限られた場面に限られるのに対し、公務員の業務のレベルにおける国家間の利害の対立は、日常的に発生しうる(例えばわが国も、親密な関係を持つ欧米各国の政府レベルに浸透した情報収集活動を行っている)だけに、参政権と違って、このレベルにおける信頼性の欠如はきわめて深刻な問題である。

     なお、東京都管理職選考受験訴訟を提起した鄭香均(ちょん ひゃん ぎゅん)さんの主張は、こうした問題意識とまるでかみ合っておらず、その意味でかなり無理があるものといえる。彼女は次のように主張するのである。

    「今回の判決では、植民地支配を隠蔽し、その責任を放擲しました。1952428日午後1030分、突然一夜にして難民(無国籍の外国人)にされた結果として誕生した旧植民地出身者である在日朝鮮人を在留外国人とし、またもやその存在の歴史を抹殺したのです。『当然の法理』は、戦後新たに作られた朝鮮人への多くの蛮行の中の一つなのです。だからこそ憲法の前文の主題である侵略戦争と植民地支配の否定、反省こそが今後の日本のあり方の出発点であり、今回の判決はそのチャンスだった筈です。選挙権もなく、何の力も持たない弱い者が日本国家に翻弄され続け、追いつめられ、それでも屈服することを拒否し、最後に残された裁判。それは国籍を超え人間としての道義性を賭けた裁判だったといえます。」

    http://www.debito.org/chongsanessay.htmlより引用

     これによると、彼女が外国人という身分のまま、管理職に就くことを希望したい理由は、日本国が過去において彼女(の父)から日本国籍を剥奪したことにあると主張している。そうであれば、再び日本国籍を取得しようとして、それを拒まれた場合に、その不当を叫ぶのはともかく、あえて日本国籍を得ないままに、管理職に就こうとする理由としては説得力がないのである。

     当然ながら、これは、現行の立法裁量の下ではそうなる、という議論であるに過ぎない。先に言及したデニズンシップの概念の徹底という観点から、外国人にも広く公務就任権を認めるという立法裁量も当然にあり得るからである。

     代表的な例にスウェーデンがある。スウェーデンは、1975年に大きく政策を転換し、それまでの移民の「同化」政策に換えて、「統合」を政策の基調とした。そして、この統合の具体化として、「平等」・「選択の自由」・「協同」の三つの理念が採用された。「平等」は、移民が国民と同じ機会・権利・義務を持つことができることを意味する。「選択の自由」は、スウェーデンに居住する言語的少数者が、社会制度を通じてどの程度までその出身国の文化的・言語的アイデンティティを保持し発展させるかを、移民自らが選択できるよう、機会を提供することを指す。「協同」は、移民と多数派住民との間の共同の実現を意味し、とりわけ政治生活に積極的に参加する十分な機会が与えられること、移民に独自の文化活動の機会が与えられることを指す。このような基本理念に基づいて、一方で、移民のための無償のスウェーデン語教育を行うと同時に、他方で、公立学校において母語教育を受ける権利も保障されている。さらに外国人の地方選挙権・被選挙権も認められており、公務就任権についても、国籍要件は課されていない。ただし、国家の安全保障にかかわる公務員に関する職務はその例外とされている。

     しかし、基本的に日本と欧州諸国における外国人比率等、客観的な問題を抜きにして、理論としてこれを語ることはできない。欧州諸国では、いずれも外国人人口が著しく増加し、ひどい場合には、国籍保有者が国内における少数派に転落しているところまである。それに対し、日本の場合には、在日外国人が急速な増加を見せた現時点においてすら、外国人登録をしている人数は全国総人口の1%強に過ぎず、さらに定住者と認めうるのはその7割程度という低さから、本質的には大きな社会問題となり得なかったのである。

    二 公務就任権と管理職就任権

     以上に議論したのは、公務就任権に関する立法裁量権の限界はどこにあるか、という問題である。しかし、この点に関する立法は既に存在している。したがって、本問は、正確には、現行の立法を、わが国憲法秩序の下で、どのように理解するべきかという問題である。すなわち、以上の議論は、諸君の理解の基本的正確性を確保するために述べたのであって、諸君の論文に書く必要はない。

    (一) 公務就任権

     以上の議論の前提には、公務員の業務が、母国と利害対立する可能性があるということが、基本的に存在している。内閣法制局の当然の法理がいう「公権力の行使または国家意思の形成への参画にたずさわる公務員になるためには日本国籍を必要と解すべきである。」という言い回しにもそのことが現れている。

     そこで、例えば外国語教師等、外国人がいた方が好ましい職種を中心に、この条件に該当しないものについては、国家公務員においても、一部明文で禁止されているもの(例えば外務公務員法71項)をのぞけば、外国人の公務就任権を認めてきた。

     地方公務員の場合にも、事情は変わらないはずである。地方公務員法は,一般職の地方公務員に本邦に在留する外国人を任命することができるかどうかについて明文の規定を置いていない(同法191項参照)。わが憲法の採用する原則が内外人無差別であること、及び上記のとおり明確に禁止する立法があることを考えること、これは、基本的には反対解釈をとるべきである。すなわち、普通地方公共団体が、法による制限の下で、条例、人事委員会規則等の定めるところにより、その職員に在留外国人を採用することを禁止するものではない。内閣法制局の当然の法理は、あらゆる職種について、一律に地方自治体の裁量権を否定した点において誤っている。

     本問で特に問題になるのは、上記のような理解から、地方公共団体として、裁量権を行使した結果、一定の条件で一定の職種について公務就任権を承認した場合には、自動的にその地位からの昇任する権利も、受け入れなければならないのか、という点である。

    (二) 肯定説

     外国人を公務に採用した以上、昇任権も承認しなければならない、という代表的な見解が、本件事件の東京高裁判決である。その主張の要点を、以下、見てみよう。

     まず、外国人の公務就任権の憲法上の解釈である。

    「憲法は、その前文第1項及び第1条において、国民主権の原理を明らかにしている。この国民主権の原理の下における国民とは、日本国民すなわち我が国の国籍を有する者を意味することは明らかである。そうとすれば、公務員を選定罷免する権利を保障した憲法第15条第1項の規定は、その権利の性質上日本国民のみをその対象としたもので、右規定による権利の保障は、我が国に在住する外国人には及ばないものと解さざるを得ない。また、憲法第93条第2項は、地方公共団体の長、その議会の議員及び法律の定めるその他の吏員は、その地方公共団体の住民が直接これを選挙すると規定しているが、前示の国民主権の原理及びこれに基づく憲法第15条第1項の規定の趣旨にかんがみ、かつ、地方公共団体が我が国の統治機構の不可欠の要素をなすものであることを併せ考えると、憲法第93条第2項にいう住民とは、地方公共団体の区域内に住所を有する日本国民を意味し、我が国に在住する外国人は、右規定による権利を保障されていないと解するのが相当である。したがって、憲法第15条第1項又は憲法第93条第2項の規定による保障が我が国に在住する外国人にも及ぶことを前提として、我が国に在住する外国人も、憲法上、国又は地方公共団体の公務員に就任する権利が保障されているということはできない。」

     諸君が、地方参政権判決を頭に入れていれば、これがその判決の忠実な書き換えであることに気がつくであろう。しかし、前節に詳しく説明したとおり、参政権と公務就任権は、その根本的な性質に差異がある。したがって、参政権における論理をそのまま持ってきて、公務就任権の限界を論ずるのは基本的に誤りである。

     しかし、その点を度外視すれば、このあたりは、判例としてはきわめて常識的な考え方である。このように参政権が、外国人に保障されないのと同じ論理で、公務就任権を否定すると同時に、憲法が外国人を雇用することを禁止していると読む必要もないとする。

    「憲法のこれらの規定は、右のとおり、我が国に在住する外国人に対して国及び地方公共団体の公務員を選定罷免し、又は公務員に就任する権利を保障したものではないけれども、我が国に在住する外国人について、公務員に選任され、就任することを禁止したものではないから、国民主権の原理に反しない限度において我が国に在住する外国人が公務員に就任することは、憲法上禁止されていないものと解すべきである。」

     ここでも、参政権と公務就任権の同一視から、なぜ「国民主権の原理に反しない限度」という制約が出てくるのかが、全く理由も無しに述べられている。こういう議論の仕方は、諸君は間違っても真似してはいけない。これは、反面教師として紹介しているのである。

     そして、前述のとおり、地方公務員法が、外国人の公務就任について沈黙しているところから、条例レベルにおける立法裁量として外国人を採用することが禁じられるわけではない。

     そこで、公務員を3種に分類した点に、本判決の最大の特徴がある。すなわち、第1に、 国の統治作用である立法、行政、司法の権限を直接に行使する公務員(例えば、国会の両議院の議員、内閣総理大臣その他の国務大臣、裁判官等)がある。第2に公権力を行使し、又は公の意思の形成に参画することによって間接的に国の統治作用に関わる公務員がある。そして第3に、それ以外の上司の命を受けて行う補佐的・補助的な事務又はもっぱら学術的・技術的な専門分野の事務に従事する公務員とがあるとする。このうち、第2が、当然の法理において外国人が就任することを禁じられているジャンルであることは、表現上、明確である。

     そして、次のように結論する。

    「第3の種類の公務員は、その職務内容に照らし、国の統治作用に関わる蓋然性及びその程度は極めて低く、外国人がこれに就任しても、国民主権の原理に反するおそれはほとんどないものといえよう。そして、このようにみてみると、国の公務員にも我が国に在住する外国人の就任することのできる職種が存在するものというべきであり、この我が国に在住する外国人が就任することのできる職種の公務員については、我が国に在住する外国人に対しても、これへの就任について、憲法第22条第1項、第14条第1項の各規定の保障が及ぶものというべきである。」

     このように、採用の段階で、すでに憲法22条の保障が及ぶとする。国民主権と関係がない種類の公務員であれば、憲法の基本原則である内外人無差別が適用になるから、このような結論は、ごく自然のものということができる。

     そして地方公務員の場合には、全体として間接的な関わりになるから、外国人の公務就任を認めることができる範囲がより広くなるとする。しかし、管理職の場合には、一般には妥当ではないとした上で、次の点を指摘する。

    「管理職であっても、専ら専門的・技術的な分野においてスタッフとしての職務に従事するにとどまるなど、公権力を行使することなく、また、公の意思の形成に参画する蓋然性が少なく、地方公共団体の行う統治作用に関わる程度の弱い管理職も存在するのである。したがって、このように、公権力を行使することなく、公の意思の形成に参画する蓋然性も少ない管理職を含めてすべての管理職について、国民主権の原理によって外国人をこれに任用することは一切禁じられていると解することは相当でなく、ここでも、職務の内容、権限と統治作用との関わり方及びその程度によって、外国人を任用することが許されない管理職とそれが許される管理職とを分別して考える必要がある。そして、後者の管理職については、我が国に在住する外国人をこれに任用することは、さきに公務員就任について検討したところと同様、国民主権の原理に反するものではなく、したがって、憲法第22条第1項、第14条第1項の規定による保障が及ぶものと解するのが相当である。」

     つまり、外国人を採用する段階で、すでに非権力的業務には憲法の保障が及び、その保障の範囲内にある限りにおいて、管理職への昇進権にも憲法の保障が及ぶという考え方である。

     この判決の論理は、先に述べたとおり、御雇い外国人という選択肢がわが国の過去において存在したことを無視し、国民主権を根拠に、外国人について統治作用にかかわる職種についての採用を機械的に否定している点に、大きな問題がある。しかし、公務員を外国人に採用するという裁量をした以上、その地位からの昇任も、それが統治作用等、外国人の採用を拒否しうる権限を含まない場合には、もはや裁量の働く余地はないとした点では、論理が一貫している。ただし、それは、あくまでも統治作用に関与しない管理職というものが存在するという前提の下である。その点を問題にしたのが本件最高裁判決である。

    (三) 否定説

     最高裁判所大法廷は否定説を採った。外国人を公務員に採用することを受け入れたからと言って、外国人に22条の保障が及んでいるとは考えない(この点は多数意見段階では明言されていないが、論理の流れとして、必然的にそうなる。この点、藤田補足意見に若干の言及がある。)。

     普通、採用時において、採用者側に裁量権があっても、その後の昇格等については不平等な扱いは許されない。外国人の場合にも、その原則は当然に妥当する。しかし、そのことが、直ちに管理職にまで昇格させる義務を伴うものではない、というのである。

    「普通地方公共団体は,職員に採用した在留外国人について,国籍を理由として,給与,勤務時間その他の勤務条件につき差別的取扱いをしてはならないものとされており(労働基準法3条,112条,地方公務員法583項),地方公務員法246項に基づく給与に関する条例で定められる昇格(給料表の上位の職務の級への変更)等も上記の勤務条件に含まれるものというべきである。しかし,上記の定めは,普通地方公共団体が職員に採用した在留外国人の処遇につき合理的な理由に基づいて日本国民と異なる取扱いをすることまで許されないとするものではない。また,そのような取扱いは,合理的な理由に基づくものである限り,憲法141項に違反するものでもない。」

     そして、管理職という地位の特殊性を説明するに当たり、先の高裁判決とは若干異なる「公権力行使等地方公務員」という新しい概念を作り出した点に、この判決の最大の特徴がある。これは、次のように定義される。

    「地方公務員のうち,住民の権利義務を直接形成し,その範囲を確定するなどの公権力の行使に当たる行為を行い,若しくは普通地方公共団体の重要な施策に関する決定を行い,又はこれらに参画することを職務とするもの」

     そして、この道具概念を使って、管理職の特殊性を次のように説明する。

    「公権力行使等地方公務員の職務の遂行は,住民の権利義務や法的地位の内容を定め,あるいはこれらに事実上大きな影響を及ぼすなど,住民の生活に直接間接に重大なかかわりを有するものである。それゆえ,国民主権の原理に基づき,国及び普通地方公共団体による統治の在り方については日本国の統治者としての国民が最終的な責任を負うべきものであること(憲法1条,151項参照)に照らし,原則として日本の国籍を有する者が公権力行使等地方公務員に就任することが想定されているとみるべきであり,我が国以外の国家に帰属し,その国家との間でその国民としての権利義務を有する外国人が公権力行使等地方公務員に就任することは,本来我が国の法体系の想定するところではないものというべきである。」

     この文章は、第一に、内閣法制局の粗雑な定義に比べてはるかに精密な定義を、外国人が就任することを許されない公務員に与えた点が重要視されるべきである。諸君は、今後、この問題文にしめした「当然の法理」における定義に換えて、こちらを記憶しなければならない。

     そして、第二に、そのような地位に関して外国人を差別することは合理的区別であって、14条違反ではない、ということを明言した点が重要である。

     確かに、原審が指摘するように、管理職の中には上記定義に該当しない職種も存在する。しかし、最高裁判所は言う。

    「(東京都では)管理職に昇任した職員に終始特定の職種の職務内容だけを担当させるという任用管理は行われておらず,例えば,医化学の分野で管理職選考に合格した職員であっても,管理職に任用されると,その職員は,その後の昇任に伴い,そのまま従来の医化学の分野にだけ従事するものとは限らず,担当がその他の分野の仕事に及ぶことがあり,いずれの分野においても管理的な職務に就くことがあることとされていた。」

     このような任用政策を採っている東京都などにとっては、外国人の昇任を義務づけられることになると、任用政策全体を根本から見直すか、あるいは外国人の採用それ自体を廃止するという選択に迫られることになる。

    「普通地方公共団体が,公務員制度を構築するに当たって,公権力行使等地方公務員の職とこれに昇任するのに必要な職務経験を積むために経るべき職とを包含する一体的な管理職の任用制度を構築して人事の適正な運用を図ることも,その判断により行うことができるものというべきである。そうすると,普通地方公共団体が上記のような管理職の任用制度を構築した上で,日本国民である職員に限って管理職に昇任することができることとする措置を執ることは,合理的な理由に基づいて日本国民である職員と在留外国人である職員とを区別するものであり,上記の措置は,労働基準法3条にも,憲法141項にも違反するものではないと解するのが相当である。」

     要するに、本問に示したような一体的な任用政策を採用しているという条件下では、外国人の昇任する権利を否定しても、14条違反にはならないというのである。つまり、最高裁判決の決め手は、東京都(本問であればY県)が、外国人を公務員に採用するという裁量権の行使と併せて、管理職の一体的任用という裁量も行っている、という点にある。したがって、例えば保健業務の管理職は、その分野の職員の承認で賄うのが通例であり、一体的任用は行われていない、というような県では、最高裁判決の論理の下においても、高裁判決と同じような結論が導かれることになる。

    [まとめ]

     話がだいぶややこしいものになったので、最後に簡単にまとめておこう。

     公務員として、誰を採用するかは、基本的には各国の主権の下における立法裁量及び行政裁量の問題である。参政権のように、憲法上の国民だけが参政権の主体たり得る、という狭い解釈をとる必要はない。その結果、明治日本や現在の開発途上国のように、幅広くあらゆる職種に外国人を採用するという形に裁量権を行使することも当然あり得る。他方、外国人を公務から一切排除するという裁量を行う自由も、各国は当然に保有している。排除するという裁量を行ったからといって、憲法秩序及び国際法秩序に違反するものではないことは、国際人権B規約25条の明言するとおりである。

     問題は、その国が、いったん下した立法及び行政上の裁量が、どの限度で後の立法・行政裁量を拘束するか、である。

     わが国に関して言えば、基本的な内外人無差別原則と憲法22条の保障する職業選択の自由から、外国人を公務員から一切排除することは許されない。そして、それを受けて、国家公務員法や地方公務員法など、既に為された立法裁量の内容を見る限り、外国人を公務員から、原則として排除していない。そのことは、国及び地方を通じていうことができる。

     しかし、その場合でも合理的な理由があれば、個別の職種に関して、外国人を排除するという行政裁量を行うことが可能である。そして、その合理的な差別として外国人を排除可能な職種として、東京高裁であれば、第2の「国の統治作用に直接関与する公務員」、最高裁であれば「公権力行使等地方公務員」が存在しているのである。

     そして、本問の場合に即していえば、外国人を公務員に採用するという裁量を下している(だから、その瞬間に既に内閣法制局の『当然の法理』は放棄されている。)場合に、それを昇任させるか否かの裁量権が、どこまで制約されるか、ということが問題になる。

     そして、最高裁判所の与えた回答は、その場合には、公務員を採用するか否かという裁量とは別の、管理職制度に関する当該地方公共団体の下した裁量がどのようなものであったか、ということで決定される、ということである。

     そのあたりが諸君の論文にきちんと出ているか否かが、答案の当否を決定することになる。