住基ネットと自己情報コントロール権

甲斐素直

問題

 平成11年に住民基本台帳法が改正され、いわゆる住民基本台帳ネットワークシステム(以下「住基ネット」という。)が導入された。これは、各地方自治体が管理する住民基本台帳を電子化し、コンピュータネットワークを介して共有するシステムである。すなわち、すべての国民の住民票に11桁のコード番号をつけて一元的に管理することにより、行政サービスの合理化の推進や住民サービスの向上がはかられるとされている。また、氏名・性別・生年月日・住所という「4情報」と住民票コードにより、全国共通の本人確認が可能となるものである。

 AY市に居住するXは、最高裁平成15912日第二小法廷判決・民集578973頁により、憲法13条が自己情報コントロール権を保障していることは、判例上確立しているところ、本人の同意なくしてY市が住基ネットに個人情報を蓄積し、一定の条件の下に他に開示することにより、この自己情報コントロール権が侵害されているとして、Yに対し、住基ネットの運用の差止め及び上記権利侵害によって被った精神的損害の賠償を求める訴えを提起した。

 これに対し、Yは、住基ネットによって管理、利用等される本人確認情報は、上記4情報に、住民票コード及び変更情報を加えたものにすぎず、このうち4情報は、人が社会生活を営む上で一定の範囲の他者には当然開示されることが予定されている個人識別情報であり、変更情報も、転入、転出等の異動事由、異動年月日及び異動前の本人確認情報にとどまるもので、これらはいずれも、個人の内面に関わるような秘匿性の高い情報とはいえないので、本人の同意を得ずに蓄積し、あるいは法律の定める一定の場合に他に開示しても、権利侵害は発生していないと反論した。

 自己情報コントロール権に関するXの主張及びYの反論に関し、憲法上の問題点を指摘し、論ぜよ。

[はじめに]

 メイルにも書いたとおり、本問は竹内君から提出された問題案をベースにしたものであるが、ほとんど根本的に書き直している。なぜかというと、彼は住民基本台帳ネットワーク差止等請求事件(金沢地裁 平成17530日判決)をベースにして作成した、というのだが、この事件は訴訟当事者自体の範囲も広く、また、権利の内容も、普通に論じられる自己情報コントロール権に加え、「氏名権」及び「行政権力による包括的管理からの自由」という、従来は論じられることのない新顔の権利を主張するという、かなりややこしいもので、専門家にでも手こずる代物であるから、学生にはとうてい無理と断言できる。竹内君も、絶対に自分では書いていないはずだと思う。

 住基ネットについては平成2036日に最高裁判所第一小法廷が、最高裁判所としての最初の判決を下した。したがって、これが今後の住基ネットに関する訴訟の方向を決定するものといえ、学生諸君としても絶対に学習しておかねばならない。そこで、問題を、この最高裁判決の方向に大幅に書き換え、かつ、簡略化したのが本問である。

 なお、問題文中に書き込んでおいた最高裁判決はいわゆる早大江沢民事件のことである。自己情報コントロール権は、この江沢民事件で判例として確立したので、当然にそれとの関連が論点となる。それを諸君の論文で落とされては困るので、わざわざ中に書き込んだのである。

 2年生の諸君もいることを考慮し、諸君の学習のため、非常に基本的なところから説明することとした。これはあくまでも諸君の理解確保の目的であるから、論文に本当の基礎のところから書く必要はない。しかし、人権の基礎としての人格的利益説に関する言及は、本問では不可欠である。

 すなわち、本問で使用している自己情報コントロール権という概念は、人格的利益説から導かれるもので、一般的行為自由説からは不可能である。一般的行為自由説を採用した場合にはどうなるかは、最後にごく簡単に説明しておいた。

一 幸福追求権の性質

(一) 法的権利性について

 憲法13条が、その根底としているのは、現行憲法がその最高の基本原則としているところの個人主義である。そのことは、第1文が「すべて国民は個人として尊重される」と述べている点に端的に現れている。この規定が、すべての基本的人権の基礎となる条文である、ということは、人権そのものが個人権であることを端的に示している。

 わが憲法13条は、その由来的にはアメリカ独立宣言と非常に密接な関係にある規定である。すなわち、独立宣言第2節第2文は「すべての人は平等に作られ、造物主によって一定の奪うことの出来ない権利を与えられ、その中には生命、自由及び幸福の追求が含まれる。」と述べている。独立宣言は、いわゆる人権宣言ではない。彼らはこれにより、イギリスに対する抵抗権の存在と、自らの統治機構を制定する権利とを確認したのである。したがって、わが13条についても、ここから我々は、さまざまの公的制度の創設権を読みとることができる。その意味で、これは基本的に政治的プロパガンダではあっても、かっての通説が説いた訓示規定では元々あり得ないものだったのである。

(二) 具体的権利性について

 本条が無名基本権に関する法的権利性を承認するものとした場合、それが、抽象的権利を保障するにとどまるのか、それとも具体的権利を保障するものであるのか、という点が次に問題となる。なお、抽象的権利にとどまるとは、個人が裁判で権利主張を直接憲法に基づいてすることは許されず、それは国会によって憲法を具体化する法律の制定を待って始めて可能になる、という意味である。

 これについては、例えば「具体的権利となるためには権利の主体、とくにそれを裁判で主張できる当事者適格、権利の射程範囲、侵害に対する救済方法などが明らかにされねばならず、これらは13条のみから引き出すことはむずかしい(伊藤正己『憲法』第3版、229頁)」という批判がある。しかし、これは論理が逆転している、というべきであろう。すなわち、社会の変遷に伴って、人権カタログに掲載されていない新しい種類の人権が生まれ、その権利の主体や射程範囲に至るまで詳細に、社会の人々の法的確信によって支持されるような状態になった人権について、13条を根拠に直接肯定することが許されないか、という方向から、本条の具体的権利性は考えるべきなのである。

(三) 人格的利益説について

 ここまでは、諸君の理解のために基本的な考え方を説明したに過ぎないが、冒頭に説明したとおり、このあたりからは、何らかの形で諸君の論文に取り込まねばならない。

 すなわち、具体的権利性を13条で認める場合、人権のインフレ(つまりあらゆる権利が人権とされる可能性を持ち、人権ではないものとの区別が付かなくなる)にどう対応するかが問題となる。芦部信喜は次のようにいう。

「確かに幸福追求権という観念自体は包括的で外延も明確でないだけに、その具体的権利性をもしルーズに考えると人権のインフレ化を招いたり、それがなくても、裁判官の主観的価値判断によって権利が創設されるおそれもある。

 しかし、幸福追求権の内容として認められるために必要な要件を厳格に絞れば、立法措置がとられていない場合に一定の法的利益に憲法上の保護を与えても、右のおそれを極小化することは可能であり、またそれと対比すれば、人権の固有性の原則を生かす利益の方が、はるかに大きいのではあるまいか。この限度で裁判官に、憲法に内在する人権価値を実現するため一定の法創造的機能を認めても、それによって裁判の民主主義的正当性は決して失われるものではないと考えられる。こう考えると、幸福追求権の内容をいかに限定して構成するか、ということが重要な課題となる。」

(芦部信喜『憲法学Ⅱ』341頁より引用)

 そして、その絞り込みの手段として、「人格的利益」という概念が考えられる。

 すなわち、佐藤幸治及び芦部信喜に代表される近時のわが国における通説に近い学説は、幸福追求権とは人格的な利益であるとしてきた。その意味として佐藤幸治は、近時「前段の『個人の尊厳』原理と結びついて、人格的自律の存在として自己を主張し、そのような存在であり続ける上で必要不可欠な権利・自由を包摂する包括的な主観的権利である」(佐藤『憲法』第三版445頁)とした。さらに人格的自律を敷衍して「それは、人間の一人ひとりが”自らの生の作者である”ことに本質的価値を認めて、それに必要不可欠な権利・自由の保障を一般的に宣言したもの」(同448頁)と説明する。こう論ずることによって、人格的自律権とはいわゆる自己決定権と同義であり(同459頁参照)、私法上で論じられるところの「人格権」とは全く無縁の概念であることがようやく明らかになったのである。注意するべきは、幸福追求権を人格自律権そのものと主張しているのではない点である。すなわち、それを中核としつつも、それから派生する一連の権利も含めた総合的な権利と把握している。

 この説を採用する場合には、第一に、なぜ、このように狭い定義を採用するのか、特にあらゆる生活領域に関する行為の自由(一般的行為自由説)を意味するものではなぜないのか、そして、第二に、この概念を採用した場合に、伊藤等の抽象的権利説の批判に的確な反論ができるのか、という点について、明確な回答を与える必要がある。

 第一点については、前述の、可能な限り定義を絞り込むという見解を基礎に、憲法で基本権として説明する以上は、単なる生活上の自由、たとえば服装の自由、趣味の自由、あるいは散歩の自由、読書の自由などではなく、より根元的な「『秩序ある自由の観念に含意されており、それなくしては正義の公正かつ啓発的な体系が不可能になってしまう』ものであるとか、『基本的なものとして分類されるほど、わが国民の伝統と良心に根ざした正義の原則』であると説かれ、どの権利が基本的であるかを裁判官が自己の個人的な観念に基づいて決める自由は存しない」(芦部信喜、上記348頁より)、と説明できる。

 なお、佐藤幸治は一般的行為自由説に対する批判として、新しい視角を導入している。すなわち、かつては人はすべての行為を行う自由をもち、それは公共の福祉によってのみ制約されるものと理解するのが普通であった。しかし、近時は、例えば強盗する権利とか、殺人を犯す権利というものは、他の人の人権と衝突するから、そもそも本質的に権利性をもたないと考えるべきではないか、との見方が有力になってきている。その場合、一般的行為自由の外延を憲法上画そうとすれば、「結局『公共の福祉に反しない限り』とか『他者を害しない限り』での一般的行為ということにならざるを得ないのではないか、そうした『権利』の捉え方はそもそも『基本的人権』という観念と両立するであろうか」(佐藤上記447頁)と批判するのである。

 第二点について、佐藤幸治は、「確かに人格的生存に不可欠といった要件は明確性を欠くとは言えようが、それは歴史的経験の中で検証確定されていくことが想定されている。法的権利として『基本的人権』という以上そこには一定の内実が措定されているものというべく、憲法が各種権利・自由を例示していることの意味も考えなければならない」(同上447頁)と反論する。芦部信喜には明確な議論はないが、やはり同様に理解して良いであろう。

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 本来は、ここで、わが国において、人格的自律説に対抗する今ひとつの有力学説である一般的行為自由説について説明しないと、その説をとっている諸君には不親切ということになるであろう。しかし、次項に述べるとおり、本講が説明しようとしている自己情報コントロール権は、人格的利益説からのみ展開されるから、それは省略する。なお、最後にごく簡単にその立場からの理解を述べておいた。

二 自己情報コントロール権としてのプライバシー権

 宴のあと事件などで確立した私法上のプライバシー権と、本問で問題となる自己情報コントロール権の区別の付いていない人が良くいる。すなわち、自己情報コントロール権であるといいながら、具体的な要件の段階となると、突然私法上のプライバシー権と区別が付かなくなり、宴のあと事件判決が述べた3要件を書いたりするのである。以下に説明するとおり、自己情報コントロール権は、その要件の段階でも、全く別の議論が必要となるので、注意してほしい。

(一)  情報プライバシー権(informational privacy)

 これは、わが国では佐藤幸治の提唱になるものである。佐藤は、情報プライバシー権は、すべての種類の個人情報を法的保護に値するものと見て、「自己情報は情報主体が本来管理すべきものである」「自分の個人情報はすべて自分のものである」と主張する。この場合、しかし、すべての個人情報を一律に法的に保護するときは、その外延がはっきりしないため、行政等が円滑に機能しなくなるおそれがある。ひいては情報社会そのものの崩壊となるところから、幸福追求権とクロスさせて、その一環として絞り込もうとする。

 すなわち、「個人が道徳的自律の存在として、自ら善であると判断する目的を追求して、他者とコミュニケートし、自己の存在にかかわる情報を開示する範囲を選択できる権利(佐藤上記453頁)」と定義される。

 この定義中の「道徳的自律の存在」という言葉がこの説のキーワードである。このように定義されるからこそ、この説を主張するには、それに先行して人格的自律説に関する議論が必要になるのであり、また、一般的行為自由説からでは、このような権利という角度からの議論が不可能であることになる。

 この定義を利用して、情報プライバシー権の対象となる情報を、さらにプライバシー固有情報とプライバシー外延情報とに区分して、法的保護に差異を設ける点に、この説の最大の特徴がある。

  1 プライバシー固有情報

 これは、人の道徳的自律の存在にかかわる情報と定義される。通常の用語でいえば、秘匿性、非公知性、感情侵害性の程度の高い情報と考えて良いであろう。これについては、公権力は、その人の意志に反して接触を強要し、取得し、蓄積し、利用し、あるいは対外的に開示することが原則的に禁じられる。

  (1) この種情報の収集の問題を取り上げた代表的な判決として、デモ行進時の国による写真撮影の問題を論じた京都府学連事件がある(最高裁昭和441224日大法廷判決=百選[第5版]42頁参照)。住基ネット最高裁判決も、この判決を出発点として論じている。

 京都府学連判決は憲法13条を引用した上で、次のように述べた。

「これは、国民の私生活上の自由が、警察権等の国家権力の行使に対しても保護されるべきことを規定しているものということができる。そして、個人の私生活上の自由の一つとして、何人も、その承諾なしに、みだりにその容ぼう・姿態(以下「容ぼう等」という。)を撮影されない自由を有するものというべきである。これを肖像権と称するかどうかは別として、少なくとも、警察官が、正当な理由もないのに、個人の容ぼう等を撮影することは、憲法13条の趣旨に反し、許されないものといわなければならない。しかしながら、個人の有する右自由も、国家権力の行使から無制限に保護されるわけでなく、公共の福祉のため必要のある場合には相当の制限を受けることは同条の規定に照らして明らかである。そして、犯罪を捜査することは、公共の福祉のため警察に与えられた国家作用の一つであり、警察にはこれを遂行すべき責務があるのであるから(警察法21項参照)、警察官が犯罪捜査の必要上写真を撮影する際、その対象の中に犯人のみならず第三者である個人の容ぼう等が含まれても、これが許容される場合がありうるものといわなければならない。

 そこで、その許容される限度について考察すると、身体の拘束を受けている被疑者の写真撮影を規定した刑訴法2182項のような場合のほか、次のような場合には、撮影される本人の同意がなく、また裁判官の令状がなくても、警察官による個人の容ぼう等の撮影が許容されるものと解すべきである。すなわち、現に犯罪が行なわれもしくは行なわれたのち間がないと認められる場合であつて、しかも証拠保全の必要性および緊急性がありかつその撮影が一般的に許容される限度をこえない相当な方法をもつて行なわれるときである。このような場合に行なわれる警察官による写真撮影は、その対象の中に、犯人の容ぼう等のほか、犯人の身辺または被写体とされた物件の近くにいたためこれを除外できない状況にある第三者である個人の容ぼう等を含むことになつても、憲法13条、35条に違反しないものと解すべきである。」

 すなわち、厳格な合理性基準を適用しており、強力な権利として承認されている。

  (2) この種情報の対外的開示の問題を論じたものとして、前科照会に対する安易な回答を違法として損害賠償を命じたもの(最高裁昭和56414日第三小法廷判決=百選[第5版]44頁参照)がある。すなわち、

「前科及び犯罪経歴(以下「前科等」という。)は人の名誉、信用に直接にかかわる事項であり、前科等のある者もこれをみだりに公開されないという法律上の保護に値する利益を有するのであつて、市区町村長が、本来選挙資格の調査のために作成保管する犯罪人名簿に記載されている前科等をみだりに漏えいしてはならないことはいうまでもないところである。前科等の有無が訴訟等の重要な争点となつていて、市区町村長に照会して回答を得るのでなければ他に立証方法がないような場合には、裁判所から前科等の照会を受けた市区町村長は、これに応じて前科等につき回答をすることができるのであり、同様な場合に弁護士法23条の2に基づく照会に応じて報告することも許されないわけのものではないが、その取扱いには格別の慎重さが要求されるものといわなければならない。」

としている。この場合には、いわゆるやむにやまれぬ利益基準、すなわち厳格な審査基準が使用されており、最高度の保護の対象とされている。

  (3) このように、本人の感知しない間に収集、蓄積された情報がプライバシーにふれるものとして問題となる以上、情報プライバシー権の中核を占める具体的な権利としては、情報主体の自己情報閲覧権・訂正請求権となる。当然、それに対応した形で情報処理機関の側に供覧・訂正義務が生ずることになる。

 このことを明確に認めた判例として、在日台湾人身上調査票訂正請求事件がある(東京地裁昭和591030日判決)。これは、第2次大戦中に日本軍の一員として中国においてスパイ活動に従事していた台湾人が、敗戦に当たり、上官の命令で離隊したにもかかわらず、日本政府の有する身上調査票に逃亡と記されていたので、その訂正を求めた事件である。その判決において裁判所は次のように述べた。

「個人情報が当該個人の前科前歴、病歴、信用状態等の極めて重大なる事項に関するものであり、かつ、右情報が明らかに事実に反するものと認められ、しかもこれを放置することによりそれが第三者に提供されることなどを通じて当該個人が社会生活上不利益ないし損害を被る高度の蓋然性が認められる場合には、自己に関する重大な事項についての誤つた情報を他人が保有することから生じうべき不利益ないし損害を予め回避するため、当該個人から右個人情報保有者に対して、人格権に基づき右個人情報中の事実に反する部分の抹消ないし訂正を請求しうるものと解するのが相当である。けだし、右のような場合において、当該個人は他人の保有する自己に関する誤つた情報の抹消・訂正を求めることにつき、重大かつ切実な人格的利益を有しているのに対し、これを認めることにより右個人情報保有者の被る不利益は全くないか、あるいは極く些細なものに留るものと解されるからである。」

 このように、判例は、行政個人情報保護法成立以前に、既に理論として訂正請求権を肯定していたのである(ただし、この事件においては結局訂正請求は認めていない)。

  2 プライバシー外延情報

 プライバシー固有情報に対して、プライバシー外延情報、すなわち道徳的自律に直接かかわらない外的事項に関する個別的情報(秘匿性等の程度の低い情報と考えて良いであろう。)については、正当な政府目的のために正当な方法を通じて取得・保有・利用しても、ただちにはプライバシー権の侵害とはいえない。が、このような情報も、悪用され又は集積されるとは個人の道徳的自律に影響をもたらすものとして、権利侵害の問題が生ずる。

 佐藤幸治は、その場合に、どの限度で、プライバシー権救済のための権利が認められるかを理論的に展開している。その主張内容は、結論において次に紹介するOECD8原則と一致している。

 すなわち、こうしたプライバシー外延情報の取り扱いについては、1980年にOECDが行った「プライバシー保護と個人データの国際流通についてのガイドラインに関する理事会勧告」で示されたいわゆるOECD8原則が示された。その詳しい内容は、外務省のホームページに掲載されているので参照してほしい。ここではごく簡単にその要点だけを紹介する。

(1) 収集制限の原則:個人データの収集には制限を設けるべきであり、いかなる個人データも適法・公正な手段によって、かつ適当な場合にはデータ主体に知らしめ、又は同意を得た上で収集されるべきである。

(2)データ内容の原則:個人データは、その利用目的に添ったものであるべきであるとともに、利用目的に必要な範囲内で、正確、完全かつ最新のものでなければならない。

(3)目的明確化の原則:個人データが収集される目的は、収集されるときに特定されなければならず、また、その後のデータの利用は、本来の収集目的を達成することに限定されなければならない。

(4)利用制限の原則:個人データは、データの対象たる本人の同意又は法律の授権ある場合を除き、前項に示された目的以外のために提供その他の利用に供されてはならない。

(5)安全保護の原則:個人データは、紛失又は不当なアクセス・破壊・利用・修正・提供等の危険に対し、合理的な安全保護措置により保護されなければならない。

(6)公開の原則:個人データに関する開発、運用及び政策については、一般的公開の方針が採られねばならず、また、個人データの存在、性質及びその主要な利用目的並びにデータ管理者の身元、勤務所在地に尽き、容易に知る手だてがなければならない。

(7)個人参加の原則:個人は、自己に関するデータが存在するか否かにつきデータ管理者に確認を求めること、自己のデータを合理的な期間内に過度にならない費用で合理的な方法により、判りやすい形で閲覧すること、その請求が拒否された場合にはその理由を開示されること、また、自己に関するデータにつき争い、そのデータを消去、修正、補正させることができる。

(8)責任の原則:データ管理者は、以上の原則を実行あらしむる諸措置を遵守する責任を有する。

 わが国はOECD加盟国として、この勧告を遵守する義務を負っている。そこでこれに基づき、一連の立法が行われた。

 国の保有する個人情報については、「行政機関の保有する電子計算機処理に係る個人情報の保護に関する法律」が既に1988年に制定され、1990年から全面的に施行された。それによれば、行政機関に個人情報の安全・正確性の確保の義務を課し(同法5条)、情報をファイル保有目的以外の目的のために利用・提供することは原則として禁じられ(同法9条)、その他必要な個人情報保護措置を講ずるよう努めることとされている(同法26条、27条)。同法は、2003年に全面改正され、現在は「行政機関の保有する個人情報の保護に関する法律」(略して「行政個人情報保護法」)となっている。総務省の調査によれば、地方公共団体レベルで個人情報保護条例を制定しているものは2005年末時点で、すべての都道府県・市町村が制定したほか、20074月時点では一部事務組合等560団体が制定している結果、計2434団体となっている。

 同様の保護義務を民間人に課した「個人情報の保護に関する法律案」は、報道機関などによる強い反発があって、大幅な適用除外が設けられた(同法50条)上で、2005年から全面施行されているが、一部で誤解や過剰反応に基づく問題が発生している。

(二) 早稲田大学江沢民事件について

 問題文中に引用してある最高裁判決は、中華人民共和国の江沢民主席が早稲田大学で講演した際の、同大学の対応を問題としたもので、典型的な自己情報コントロール権に関する重要な判例である(百選[第5版]46頁参照)。

 この事件の概要を説明すると、次のとおりである。江沢民が早大で講演するに当たり、当初、早大では、講演会への出席を希望する学生に対し、学籍番号,氏名,住所及び電話番号の提供を求め、これにより出席者リストを作成した。また、当初は早大の警備員が講演会の警備に当たる予定であったが、警視庁や中国大使館から、警備員では国賓の身辺警護の能力がないと指摘され、後になって、警備は全面的に警視庁に委託することとした。これに対し、警視庁が講演会出席者のリストの提供を求めたので、先に作成していた出席者リストを警視庁に提供した。これに対し、出席学生が、警視庁へのリスト提供はプライバシー侵害になるとして、訴えたものである。

 最高裁判所は、「学籍番号,氏名,住所及び電話番号は,早稲田大学が個人識別等を行うための単純な情報であって,その限りにおいては,秘匿されるべき必要性が必ずしも高いものではない。また,本件講演会に参加を申し込んだ学生であることも同断である。」として、次のように述べて、自己情報コントロール権を承認した。

「このような個人情報についても,本人が,自己が欲しない他者にはみだりにこれを開示されたくないと考えることは自然なことであり,そのことへの期待は保護されるべきものであるから,本件個人情報は,上告人らのプライバシーに係る情報として法的保護の対象となるというべきである。」

 ただし、この情報は、プライバシー固有情報ではなく、プライバシー周辺情報であるに過ぎない。その場合の保護の程度については、次のように述べた。

「このようなプライバシーに係る情報は,取扱い方によっては,個人の人格的な権利利益を損なうおそれのあるものであるから,慎重に取り扱われる必要がある。本件講演会の主催者として参加者を募る際に上告人らの本件個人情報を収集した早稲田大学は,上告人らの意思に基づかずにみだりにこれを他者に開示することは許されないというべきであるところ,同大学が本件個人情報を警察に開示することをあらかじめ明示した上で本件講演会参加希望者に本件名簿へ記入させるなどして開示について承諾を求めることは容易であったものと考えられ,それが困難であった特別の事情がうかがわれない本件においては,本件個人情報を開示することについて上告人らの同意を得る手続を執ることなく,上告人らに無断で本件個人情報を警察に開示した同大学の行為は,上告人らが任意に提供したプライバシーに係る情報の適切な管理についての合理的な期待を裏切るものであり,上告人らのプライバシーを侵害するものとして不法行為を構成するというべきである。」

 本問で、この判決がわざわざ引用されたのは、住基ネットで問題となっている氏名・性別・生年月日・住所という「4情報」と、この事件で問題となった学籍番号,氏名,住所及び電話番号という「4情報」は、極めて近似性が高いからである。

三 住基ネット最高裁判決

(一) 住基ネットの概要

 いわゆる国民総背番号制は行政事務の合理化の点からは非常に有効であることが知られている。しかし、同時に情報プライバシーの侵害につながる危険性があることでも知られている。この構築を目指している「住民基本台帳ネットワーク」は、住民基本台帳法の一部改正という形で19998月に根拠法が成立し、20028月から実施されている。

 同法によれば、市町村と都道府県、指定情報処理機関の間にネットワークが構築され、本人確認情報(氏名、生年月日、性別、住所の「4情報」及び新たに全国民にふられる11桁の住民票コードに加え、それらの変更情報)をこのネットワークを通じて流通させることになっている。このシステムでは本人確認情報を保護するための措置として、システム運営主体である市町村長、都道府県知事又は指定情報処理機関は、この法律の規定に基づく事務の遂行以外の目的のための都道府県知事又は指定情報処理機関の本人確認情報の利用・提供を禁止すること、市町村又は都道府県の関係職員などに本人確認情報に関する秘密保持義務を課すこと、また、住民は、都道府県知事又は指定情報処理機関から自己に係る本人確認情報について開示を受けることができること、などが定められている。

 しかし、プライバシー保護の問題が解決できていないとして、一部地方自治体は消極姿勢を示し、また、日弁連など多方面にわたって反対運動が展開されている。

 その反対運動の一環として提起された住基ネットワーク違憲訴訟に対し、最高裁判所は、平成2036日、合憲判決を下した。以下、同判決の内容を検討しよう。

(二) 住基ネット最高裁判決の論理

 最高裁判所は、まず自己情報コントロール権については、その言葉の使用は避けたが、京都府学連事件判例を引用して、次のように述べて、承認した。

「憲法13条は、国民の私生活上の自由が公権力の行使に対しても保護されるべきことを規定しているものであり、個人の私生活上の自由の一つとして、何人も、個人に関する情報をみだりに第三者に開示又は公表されない自由を有するものと解される」

 そこで、問題になるのは、住基ネットによって管理、利用等される4情報等は、いずれも、個人の内面に関わるような秘匿性の高い情報とはいえない点である。江沢民事件における学籍番号等が大学の事務処理に利用されていたのと同じように、市町村の事務処理に従来から利用されていた情報である。そこで、最高裁判所は、これらの情報が「上記目的に利用される限りにおいては、その秘匿性の程度は本人確認情報と異なるものではない」とした。そして 「確定事実によれば、住基ネットによる本人確認情報の管理、利用等は、法令等の根拠に基づき、住民サービスの向上及び行政事務の効率化という正当な行政目的の範囲内で行われているものということができる。」と認定し、目的の範囲内の利用に留まっている、とした。

 すなわち、住民基本台帳という紙媒体が、電子媒体に変わったとしても、利用目的に変化はないとしたのである。江沢民事件では、早大が、本来の目的を逸脱して、警視庁への警備目的による提供を行っている点との相違点である。

 しかし、冒頭に述べたとおり、本来、国民総背番号制を導入することにより、様々な個人情報を統合(データマッチングという)して、個々のデータからでは判らない総合的な判断を行う道を開くことを目的とし、住基ネットはその第1歩とされる。だからこそ、住民票コードは、相互に重複しない11桁の番号とされるのである。

 そこで、論点は、そうしたデータマッチングの危険が現実に存在しているか、という点になる。最高裁判所は次のように認定する。

「住基ネットのシステム上の欠陥等により外部から不当にアクセスされるなどして本人確認情報が容易に漏えいする具体的な危険はないこと、受領者による本人確認情報の目的外利用又は本人確認情報に関する秘密の漏えい等は、懲戒処分又は刑罰をもって禁止されていること、住基法は、都道府県に本人確認情報の保護に関する審議会を、指定情報処理機関に本人確認情報保護委員会を設置することとして、本人確認情報の適切な取扱いを担保するための制度的措置を講じていることなどに照らせば、住基ネットにシステム技術上又は法制度上の不備があり、そのために本人確認情報が法令等の根拠に基づかずに又は正当な行政目的の範囲を逸脱して第三者に開示又は公表される具体的な危険が生じているということもできない。」

 この点に関しては、原審は、事実上の危険ということを述べる。最高裁判所はそれについて、逐一反論する。

 第一に、原審は、次のように認定した。

「行政個人情報保護法によれば、行政機関の裁量により利用目的を変更して個人情報を保有することが許容されているし、行政機関は、法令に定める事務等の遂行に必要な限度で、かつ、相当の理由のあるときは、利用目的以外の目的のために保有個人情報を利用し又は提供することができるから、行政機関が同法の規定に基づき利用目的以外の目的のために保有個人情報を利用し又は提供する場合には、本人確認情報の目的外利用を制限する住基法30条の34に違反することにならないので、同法による目的外利用の制限は実効性がない」

 これについては、最高裁判所は次のように反論する。

「行政個人情報保護法は、行政機関における個人情報一般についてその取扱いに関する基本的事項を定めるものであるのに対し、住基法30条の34等の本人確認情報の保護規定は、個人情報のうち住基ネットにより管理、利用等される本人確認情報につきその保護措置を講ずるために特に設けられた規定であるから、本人確認情報については、住基法中の保護規定が行政個人情報保護法の規定に優先して適用されると解すべきであって、住基法による目的外利用の禁止に実効性がないとの原審の判断は、その前提を誤るものである。」

 第二に、原審は次の危険を指摘した。

「住民が住基カードを用いて行政サービスを受けた場合、行政機関のコンピュータに残った記録を住民票コードで名寄せすることが可能であることなどを根拠として、住基ネットにより、個々の住民の多くのプライバシー情報が住民票コードを付されてデータマッチングされ、本人の予期しないときに予期しない範囲で行政機関に保有され、利用される具体的な危険が生じている」

 これについては、最高裁判所は次のように反論する。

「システム上、住基カード内に記録された住民票コード等の本人確認情報が行政サービスを提供した行政機関のコンピュータに残る仕組みになっているというような事情はうかがわれない。上記のとおり、データマッチングは本人確認情報の目的外利用に当たり、それ自体が懲戒処分の対象となるほか、データマッチングを行う目的で個人の秘密に属する事項が記録された文書等を収集する行為は刑罰の対象となり、さらに、秘密に属する個人情報を保有する行政機関の職員等が、正当な理由なくこれを他の行政機関等に提供してデータマッチングを可能にするような行為も刑罰をもって禁止されていること、現行法上、本人確認情報の提供が認められている行政事務において取り扱われる個人情報を一元的に管理することができる機関又は主体は存在しないことなどにも照らせば、住基ネットの運用によって原審がいうような具体的な危険が生じているということはできない。」

 要するに、法制度及びシステム上、他への情報の伝達という危険はないから、本人の承諾というものも必要ないということである。最高裁判所は、このことを次のように明言する。

「行政機関が住基ネットにより住民である被上告人らの本人確認情報を管理、利用等する行為は、個人に関する情報をみだりに第三者に開示又は公表するものということはできず、当該個人がこれに同意していないとしても、憲法13条により保障された上記の自由を侵害するものではないと解するのが相当である。また、以上に述べたところからすれば、住基ネットにより被上告人らの本人確認情報が管理、利用等されることによって、自己のプライバシーに関わる情報の取扱いについて自己決定する権利ないし利益が違法に侵害されたとする被上告人らの主張にも理由がないものというべきである。」

 以上に説明したところで、江沢民事件との異同は理解して貰えたと思う。

 諸君として、これに賛成するにせよ、反対するにせよ、以上の論理のポイントは押さえて論文を書かねばならない。

 ここまでをしっかりと書いてくれれば、学生の論文としては立派に合格レベルに達しているということができる。

(三) 住基ネットと国民総背番号制

 住基ネットというものが、以上に述べただけのものであれば、莫大な国費を投入して建設するほどの行政効率化機能があるものではない。もっとも効率化機能を持っている市町村の境界を越えての転居は、それほど大量に発生するものではないからである。住基ネットの最大の狙いは、先に述べたとおり、国民総背番号制を導入することにより、それなくしては不可能な様々なデータマッチングを可能にすることにある。しかし、では、それはどのようなメカニズムから可能になるのであろうか。それは簡単に言ってしまえば、住民基本台帳法に対する特別法の制定という手法による。

 

四 一般的行為自由説からの定義=社会的評価からの自由権

 先に述べたとおり、一般的行為自由説に立つ場合には、人格的利益説をその中核としている自己情報コントロール権という把握の仕方をするわけにはいかない。

 そこで、この問題については例えば次のようなアプローチを行うことになる。

  「プライヴァシーとは、個人がある確実な私的領域を持っていること、その領域には他人が進入できないことを指す。プライヴァシー権は、社会的評価から自由な活動領域を個人に与えるための法上の概念であり、自由という保護領域の典型例である。プライヴァシーは、対自的自我(意識体験としての自我)と対他的自我(他者との対立や関係交渉によって完治される自我)との間の個体内コミュニケイションを自由に解放して人間の精神の平穏さを守るのである」 (阪本昌成『憲法理論Ⅱ』成文堂250頁)

 この結果、次のように論ずる。

「プライヴァシー権を自己情報コントロオル権と同視することを避ける。自己情報コントロオル権といわれる権益から、情報化社会への対抗策を志向すべきではなく、個人情報を大量に収集・処理している組織体の責務(情報管理責任)を明らかにすることからアプロオチすべきところであろう。(同254頁)」

 ただし、同じように一般的行為自由説を採りつつ、戸波江二の場合には、その中核に人格的利益説を肯定するから、その限りで自己情報コントロール権を認められることになる。