同性愛者の公的施設利用権

甲斐素直

問題

 同性愛者の人権を考えるための活動をしている団体Xでは、Y県が、青少年の団体研修施設として設置しているY県青年の家に、平成○年に1泊し、宿泊室・研究室を利用して、年次研究集会を行った。当日は団体の他に少年サッカークラブ、女性合唱団、青年キリスト教団体が利用していた。

 同施設では、宿泊に先行して、夕方に当日の夜に宿泊する団体のリーダー会議を施設職員臨席で行うこととされていた。その場で、Xのリーダーが、Xは同性愛者の人権を考える団体であると紹介したところ、例えば青年キリスト教団体のリーダーが旧約聖書レビ記2013節の文章(キリスト教で同性愛行為を禁忌とする根拠)を引用し、同性愛を認めないとする主張をするなど、他団体は強い反発を示し、その夜の施設利用に際しては、Xと他団体との間に様々な問題が生じた。

 Xは、その翌年度においても、同じ時期に、同一施設に宿泊研修の申し込みを行った。これに対し、施設側では、前年度における経験から、Xの利用を認めれば、再び同日に宿泊する他団体との間に軋轢が生じ、施設運営に問題が発生すると考え、「青少年の健全な育成に悪い影響を与える者である」という理由から、利用を拒否した。そこで、Xは施設を設置者であるY県教育委員会に対し不服申し立てをした。これに対し、Y県教育委員会では、Y県青年の家利用条例81号「秩序をみだすおそれがあると認めたとき」、2号「管理上支障があると認めたとき」に当たるとして不許可処分を承認する裁決を下した。ここに秩序を乱すとは、具体的には、同施設が、文章にはしていないが、一貫して採用している「男女別室ルール」に、同性愛者同士が宿泊すれば抵触することになるとした。

 そこで、Xは、合理的根拠のない差別であるとして、利用不許可処分の取り消しをもとめて訴えを提起した。

 Xの主張の、憲法上の当否について論じなさい。

[はじめに]

(一) この問題、ちょっと見ると14条を論ずればよいように見える。実際、現実に起きた東京都の府中市青年の家事件においては、原告はそのような主張をし、その結果、この判例は、判例百選でも平等権の項に登載されている。しかし、そのようなアプローチは正しくない。

 問題文中に明記されているとおり、この施設は団体研修施設である。団体研修とは、要するに団体(結社)が集会を開いて、共通の問題についてともに学ぶことであるから、これは、地方公共団体の設置した集会施設ということができる。その施設の利用が「利用条例」という内容中立の法規により阻まれたという事件である。したがって、憲法21条の保障する集会の自由に関する時・所・方法の規制の問題と読まなければならない。

(二) 14条と21条が問題になりうると気がついた諸君は、今度は両方を論点として書くという傾向を示す。確かに現実に起きる事件では、弁護士は思いつく限りのあらゆる論点を仮定的に並べるから、14条と21条の両方が書かれる可能性が高い。しかし、少なくとも、学生諸君の書く論文としてはそれは正しくない。その理由は、包括的基本権の持つ補充性にある。例えば13条の幸福追求権は、あらゆる有名基本権及び無名基本権を包括する権利である。したがって、どの有名基本権を主張する場合にも、同時に13条の幸福追求権を主張することが可能である。しかし、それは単なる重複であるから、13条の主張をする必要はない。これが補充性である。

 14条は、ちょっと見ると有名基本権の最初の条文のように見える。しかし、近時の通説である平等原則説に従う限り、14条は配分的正義という理念を述べているにすぎず、その意味で包括的基本権である。換言すると、有名基本権が成立する場合には、常にそれが14条違反と立論することが可能である。例えば、エホバの証人という宗教の教義に触れるが故に柔剣道を履修できない高等専門学校生は、学校により信教の自由(20条)が侵害された、と主張した。この場合に、学生が、柔剣道の履修が教義に触れない他の宗教の信者あるいは無宗教者に比べ、不平等な扱いを受けた、と主張すれば、これは14条違反ということになる。このように、あらゆる有名基本権について、その主張が可能な場合には、常にこれを14条違反と言い換えることが可能である。このような場合にも、補充性から、理論的には主張する必要がないことになる。

 現実の事件においては、第一の主張が認められない場合に備えて、仮定的な主張として14条を主張することになるであろうが、普段の論文でそれをやっていては、どんな問題でも常に14条の議論を書くことになってしまい、論文の体をなさなくなってしまうのである。

 包括基本権は、有名基本権が主張可能な場合には、諸君の論文のレベルでは書かない、ということを記憶に止めておいてほしい。

(三) 諸君の多くは、時・所・方法の規制に関する問題を、表現の自由の規制の問題という観点からアプローチする傾向を示す。受験予備校や修習生のレベルでさえも、そうした傾向があることは承知している。しかし、それは適切ではない。

 なぜなら、表現の自由の問題(換言すれば表現内容規制)としてアプローチした場合には、必然的に、当該立法に対してはまず文面審査の問題が発生してしまうからである。そして、時・所及び方法の規制立法は、本質的に表現の自由に配慮した規制とはなっていないために、普通、この段階で文面違憲の結論が出て、それ以上、議論を必要としないという結論になってしまうのである。本問の青年の家利用条例における「秩序を乱すおそれ」あるいは「管理上支障」という文言は、税関検査事件における「公安又は風俗を害すべき書籍、図画、彫刻物その他の物品」という表現以上に曖昧な表現といわざるを得ない。したがって、曖昧性故に無効の法理に該当し、文面違憲という結論が出てしまい、それ以上の検討を必要としなくなってしまうのである。それでは、本問が中心論点として予定している、時・所及び方法の規制に関する議論がすべて消えてしまうことになる。

 本問のような問題では、常に、表現の自由には関係のない法令、したがってその限りでは、審査基準は狭義の合理性基準で足りる種類の法令について、それが適用のレベルにおいて、結果として表現の自由を抑制した場合に、どのような審査基準を使用するのが妥当か、という形の問題として理解しなければならない。

 本問では、同性愛者であることに基づく規制のように見えるから、うっかり見ると、内容に基づく規制のように見える。しかし、上記のように、特定の利用日という「時」に、青年の家という「所」における宿泊しての集会という「方法」の規制を問題としているから、時・所及び方法の規制の問題と把握して欲しい。

 時・所・方法の規制に関しては、パブリックフォーラム論と呼ばれる、通説的な処理手法がある。地方自治体の施設利用にかかわる問題、例えば公立図書館における特定図書の貸し出し制限(平成14年度旧司法試験問題)や公立美術館における特定絵画の展示制限(天皇コラージュ事件=百選[第5版]368頁参照)は、いずれも、このパブリックフォーラム論にいうところの準パブリックフォーラムと呼ばれる類型が問題となる。本問も、青年の家という地方自治体の施設利用に関する問題であるから、それに属する。地方自治体の施設という言葉が出てきたら、まずこの類型の問題として処理しうるから、本問は、かなり応用範囲の広い問題であるといえる。

一 二重の基準

 時・所・方法の規制ということが論じられる理由は、基本的には二重の基準論にある。すなわち、精神的自由権については、経済的自由権等に比べ、より厳格な審査を必要とする。それがなぜか、ということは、審査基準論の基礎として、諸君は当然承知していると思う。

 簡単に言えば、民主主義と司法権の関係から導かれる。経済的自由権等を規制する立法が違憲であったとしても、それは国民が「投票箱」にものをいわせることにより、遅かれ早かれ解決可能である。したがって、民主的基盤を持たない裁判所としては、そのような投票箱で解決可能な問題については、判断を自制し、明白性基準によるべきである。すなわち極めて明白に違憲である場合を除き、合憲として扱うべきである。それに対し、精神的自由権が規制を受けている場合には、投票箱にいたるプロセスが歪んでしまい、民主的手段による是正の可能性が極めて低い。その結果、裁判所が積極的に憲法判断をしない限り、国民の人権が侵害されてしまう状態を除去できない。そこで、裁判所は、経済的自由権など通常の場合よりも、「より厳格度を増した審査」を行う必要が生じることになる。

 ここでは、諸君の理解を確保するために、10行も費やして説明したが、もちろん諸君はこんなに長く書いてはいけない。この議論は、次のパブリックフォーラム論を論じるための導入部であるに過ぎないので、これほど長く書いては、完全に論文としてのバランスを失するからである。審査基準が問題となる多くの事例問題で、二重の基準論は必ず触れねばならない論点であるが、同時にメインの論点ではない。そこで、いかに簡略に二重の基準論の根拠を説明するか、日頃から工夫しておいてほしい。

二 時・所・方法の規制の審査基準=パブリック・フォーラム論

 時・所及び方法の規制は、表現内容中立規制、すなわち、「表現をその伝達するメッセージの内容もしくは伝達効果(communicative effect or impact)に直接関係なく制限する規制」の一種である(芦部信喜「憲法学Ⅲ」431頁以下参照)。

 ここで話のポイントは、時・所・方法の規制に対しては、一律の審査基準で取り扱うのは妥当ではない、という点である。

 常識的に考えて、相対的に緩やかな審査をするのが妥当な場合と、厳しい審査をするのが妥当な場合とがあることは判ると思う。

 例えば、深夜の住宅街や病院・学校のすぐ脇で、拡声器を使ってがなり立てるような行為を規制する立法は、そこでなされる言論の内容を論ずるまでもなく、妥当である、と考えられるであろう。他方、駅前広場というものは、選挙時でなくとも、いろいろな人がやってきては自分の意見を人々に伝えようとする場所である。そして、少々大きな声で演説をしても、いつもある程度の騒音のある場所だから、特に近隣の人々に迷惑をかけることにはならない。だから、そういう誰もが表現活動を行う場所での、日中、人が参集する時間における演説の禁止や拡声器使用の禁止は、明らかに民主制の過程に大きな影響を与えるもので不当といえる。

 あるいは、深夜の住宅街であっても、自らの意見を書いたビラを貼る行為は、騒音を伴うものではないから、少なくとも時間を理由として規制する必要はない。これに対し、例えば女性の裸体写真などを背景に使って、性風俗に関する意見を述べるビラを作成した場合に、それを小中学校の近隣など思春期の児童の目に触れる可能性の高い場所に貼る行為は、規制しても良いのではないだろうか。

 時・所・方法の規制にあたっては、このように、同じ内容の表現であっても、その行われる時間帯、その行われる場所、あるいは方法により、規制立法の同一の法文に対して、異なる審査基準を適用することを考えなければならない。

 問題は、その使い分けの基準論である。いくつかの説が存在するが、わが国で区分の基準として強力に論じられるようになったのが、伊藤正己判事が現JR吉祥寺駅構内でのビラ配布が鉄道営業法違反とされた事件に関して、補足意見で展開したパブリック・フォーラム(Public forum)論である(最判昭和591218日=百選[第5版]130頁参照)。

「ある主張や意見を社会に伝達する自由を保障する場合に、その表現の場を確保することが重要な意味をもつている。特に表現の自由の行使が行動を伴うときには表現のための物理的な場所が必要となつてくる。この場所が提供されないときには、多くの意見は受け手に伝達することができないといつてもよい。一般公衆が自由に出入りできる場所は、それぞれその本来の利用目的を備えているが、それは同時に、表現のための場として役立つことが少なくない。道路、公園、広場などは、その例である。これを『パブリック・フォーラム』と呼ぶことができよう。このパブリック・フォーラムが表現の場所として用いられるときには、所有権や、本来の利用目的のための管理権に基づく制約を受けざるをえないとしても、その機能にかんがみ、表現の自由の保障を可能な限り配慮する必要があると考えられる。道路における集団行進についての道路交通法による規制について、警察署長は、集団行進が行われることにより一般交通の用に供せられるべき道路の機能を著しく害するものと認められ、また、条件を付することによつてもかかる事態の発生を阻止することができないと予測される場合に限つて、許可を拒むことができるとされるのも、道路のもつパブリック・フォーラムたる性質を重視するものと考えられる。」

 こうしてわが国で広く認知されるようになったパブリック・フォーラム論であるが、かなり複雑な内容を持つ。ここでそれを簡単に要約すると、空間を3種類に分けている点に特徴がある。

 第一の類型が、純粋パブリック・フォーラムである。

「街路(street)および公園(park)のような、伝統的に表現活動と結びついている公共用物は、「もっとも純粋な(quintessential)」公共の広場(public forum)として、〈中略〉そこで行われる表現活動の規制の合憲性をより厳格に検討することを求める」(芦部信喜『憲法学Ⅲ』443頁より引用)。

 上記判例で争点となった駅構内は、この意味で問題となるのである。

 ここで留意する必要があるのは、この純粋パブリックフォーラムと呼ばれる空間は、本来の用途は表現の自由に奉仕するものではない、ということである。すなわち、道路であれば車両や人々の通行が本来の目的であり、公園であれば人々が憩いあるいは運動することが本来の目的である。したがって、そうした本来の目的との比較衡量という要素が入ってくる分だけ、厳格度は下がることになる。厳格な合理性基準をもって十分とする理由である。

 第二の類型が、本問の中心論点である準パブリック・フォーラムである。

「公会堂、公立劇場、公立学校講堂等のように、国ないし地方公共団体が自発的に公衆の表現活動の場として利用に供してきた公共の場所は、『指定された』(designated)もしくは『限定された』(limited)広場として〈中略〉その公開性を管理者はいつまでも維持する要はないが、維持すかぎりは、①の『伝統的なパブリックフォーラムに適用されるのと同じ基準によって拘束される。』」(同上)

 これに対して、第三の空間がノン・パブリック・フォーラムである。

「1、2以外のものは第3の類型、すなわち公共的でない広場(nonpaulic forum)とされ、そこでは表現の自由に対する規制が合理的であり、かつ管理者たる公務員が表現者の見解に反対であるという理由だけで表現を抑制するものでないかぎり、管理者は右広場をその本来の目的にしたがって維持することができる。」

 すなわち、ノン・パブリック・フォーラムにおける表現の自由は、狭義の合理性で判断すれば十分でなのである。例えば住宅地の私人の塀に、その家の許可を得ずに勝手にビラを貼る行為を禁ずる法律(例えば軽犯罪法133号)は、原則的に合憲性が推定される。

 念のために一言しておくが、以上の説明は諸君の論文に書く必要はない。あくまでも、パブリック・フォーラム論というものの広がりの中で本問を把握してほしい、という狙いで書いている。同様に、次に準パブリック・フォーラム論について説明するが、別にこの言葉を出す必要はない。大事なことは、この種問題は準パブリック・フォーラム論で解けるということを認識する能力である。

三 準パブリック・フォーラム性

 本問では、問題文に団体研修施設であると明記され、かつ、一度はこの施設をXが利用できたと書かれているから、本施設が準パブリック・フォーラムに該当することは明白である。したがって、この点について論じる必要はないが、問題によっては、それが論点になる場合もあるので、簡単に説明しておく。

 準パブリック・フォーラムであるか否かを論ずる場合において最も重要なことは、ある施設が、準パブリック・フォーラムに属するか否かは、基本的には施設設置者の意思で決まるということである。例えば、小中学校の講堂が、学校の休みの時には、市民の集会施設として通常使用されているという条件下では、その講堂は準パブリック・フォーラムである。しかし、一般への貸し出しは、通常行っていない場合であれば、それはノン・パブリック・フォーラムであって、その貸し出しを求めて拒絶されても、それを問題視することは出来ない。

 その施設が、本来の目的とする類型の活動、仮にそれが集会用施設として利用に供されている場合にも、その施設が予定している集会以外の類型の集会を拒むことは可能である。例えば、地方自治体がある施設を図書館として建設した場合に、その中の集会室を、一般の集会施設として使用させろ、という要求は原則として拒むことが出来る(すなわち違憲審査基準として、狭義の合理性基準で十分である)。同様に、地方公共団体が、ある施設を結婚式場(結婚式や披露宴という集会)として建設した場合には、葬儀や追悼集会等の不祝儀用の集会場として使用することを拒める。しかし、近時建設されることの多い、多目的ホールの場合には、その境界が曖昧なため問題となることが多い。上尾市福祉会館事件(最判平成8315日)においては、この点が争点となった。

四 文面審査と適用審査

(一) 文面審査の問題

 [はじめに]に述べたとおり、一般論として、時・所及び方法の規制の場合には、21条に関する形での文面審査の議論は必要がない。ここで大事なことは、内容中立規制の立法の適用の問題を素直に展開することである。

 しかし、泉佐野市民会館事件最高裁判所判決では、実際問題としては、利用の拒絶の根拠として、市立泉佐野市民会館条例が21条に違反するとする、文面違憲の主張が上告人によってなされいる。その点に関する判決理由を見ることにしたい。

「集会の用に供される公共施設の管理者は、当該公共施設の種類に応じ、また、その規模、構造、設備等を勘案し、公共施設としての使命を十分達成せしめるよう適正にその管理権を行使すべきであって、これらの点からみて利用を不相当とする事由が認められないにもかかわらずその利用を拒否し得るのは、利用の希望が競合する場合のほかは、施設をその集会のために利用させることによって、他の基本的人権が侵害され、公共の福祉が損なわれる危険がある場合に限られるものというべきであり、このような場合には、その危険を回避し、防止するために、その施設における集会の開催が必要かつ合理的な範囲で制限を受けることがあるといわなければならない。そして、右の制限が必要かつ合理的なものとして肯認されるかどうかは、基本的には、基本的人権としての集会の自由の重要性と、当該集会が開かれることによって侵害されることのある他の基本的人権の内容や侵害の発生の危険性の程度等を較量して決せられるべきものである。」

 回りくどい議論をしているので、判りにくいと思うが、ここで延々と論じているのは、適用違憲審査の方法論である。そして、この議論を受ける形で、次のように述べている。

「本件条例7条による本件会館の使用の規制は、このような較量によって必要かつ合理的なものとして肯認される限りは、集会の自由を不当に侵害するものではなく、また、検閲に当たるものではなく、したがって、憲法21条に違反するものではない。」

 ここに言及されている市民会館条例7条は、表現の自由からアプローチしていけば、必然的に過度に広汎な規定として、文面違憲の結論が出るはずの文言である。しかし、最高裁判所は、これに対して、合憲限定解釈の手法を導入することで、合憲といっているのである。諸君のよく知るとおり、文面審査とは、萎縮効果を防ぐために合憲限定解釈を禁ずる理論のことである。したがって、これは、冒頭に強調したとおり、時・所及び方法の規制にあたっては、文面審査→文面違憲の理論を適用するのは不適切である、という前提が存在している、ということが読み取れるであろう。

 したがって、適用審査→適用違憲の問題だけが残るのである。

(二) 比較考量論の類型と適用

 適用審査に当たっては、上記引用箇所は、基本的に比較衡量で決すると述べている。比較衡量の対象になるのは、一方が「集会の自由の重要性」であり、他方が「当該集会が開かれることによって侵害されることのある他の基本的人権の内容や侵害の発生の危険性の程度等」とされている。

 普通、比較衡量というと、博多駅ビデオフィルム提出命令事件に代表される個別の利益衡量論(ad hoc balancing test)で論ずるのが普通である。事件ごとに、その事件限りの基準を開発し、それにより事件を解決する、という手法である。しかし、そうした手法に頼らなければならないのは、事件ごとに衡量の対象となる問題が違っていることが大きな原因である。

 それに対して、時・所及び方法の規制の場合、比較するべき一方は固定されている。表現の自由(本問であれば、そのうちの集会の自由)である。しかも、それについては、概念内容が固定されているので、実際問題として、衡量するべきは、他の秤の方だけということになる。

 このような場合、表現の自由については定義を与えて固定する、という手法を採るので、このような比較衡量論は「定義づけ比較衡量論」と呼ばれる。大分県屋外広告物規制条例事件(百選[第5版]128頁参照)において、伊藤正己判事が示した見解が代表的なものである。すなわち、

「それぞれの事案の具体的な事情に照らし、広告物の貼付されている場所がどのような性質をもつものであるか、周囲がどのような状況であるか、貼付された広告物の数量・形状や、掲出のしかた等を総合的に考慮し、その地域の美観風致の侵害の程度と掲出された広告物にあらわれた表現のもつ価値とを比較衡量した結果、表現の価値の有する利益が美観風致の維持の利益に優越すると判断されるときに、本条例の定める刑事罰を科することは、適用において違憲となるのを免れないというべきである。」

 このように定義づけ比較衡量にとどまるのは、純粋パブリック・フォーラムの場合には、本来の用途は集会ではないため、表現の自由が他の利益に一般的に優越するとは断定できないからである。そのため、他の利益との比較衡量に当たっては、基本的に等価的な比較衡量とならざるを得ない。

 しかし、本件のような準パブリック・フォーラムの場合には、さらに踏み込んだ比較衡量が可能となる。なぜなら、本問の場合であれば、施設の設置目的そのものが集会だからである。その結果、施設管理者は基本的に表現の自由を尊重し、施設を貸与するべき義務を負っているからである。地方自治法244条が、次のように定めているのは、この理を示している。

「普通地方公共団体は、正当な理由がない限り、住民が公の施設を利用することを拒んではならない。」

 泉佐野市最高裁判所判決は、この点について次のように述べる。

「このような較量をするに当たっては、集会の自由の制約は、基本的人権のうち精神的自由を制約するものであるから、経済的自由の制約における以上に厳格な基準の下にされなければならない。」

 本講冒頭で、時・所・方法の規制の場合には、二重の基準に論及しなければいけない、と述べたが、本問に関して言えば、それはこの一文を書けるようにするためである。これを受けて登場するのが、「重み付け比較衡量論」と呼ばれる手法である。すなわち、比較衡量に当たっても、予め表現の自由に優位性を与えた形での衡量が要求されることになる。それが泉佐野市最高裁判決中、次の最初の下線部が述べていることである。

「本件条例7条一号は、『公の秩序をみだすおそれがある場合』を本件会館の使用を許可してはならない事由として規定しているが、同号は、広義の表現を採っているとはいえ右のような趣旨からして、本件会館における集会の自由を保障することの重要性よりも、本件会館で集会が開かれることによって、人の生命、身体又は財産が侵害され、公共の安全が損なわれる危険を回避し、防止することの必要性が優越する場合をいうものと限定して解すべきであり、その危険性の程度としては、前記各大法廷判決の趣旨によれば、単に危険な事態を生ずる蓋然性があるというだけでは足りず、明らかな差し迫った危険の発生が具体的に予見されることが必要であると解するのが相当である。そう解する限り、このような規制は、他の基本的人権に対する侵害を回避し、防止するために必要かつ合理的なものとして、憲法21条に違反するものではなく、また、地方自治法244条に違反するものでもないというべきである。

 そして、右事由の存在を肯認することができるのは、そのような事態の発生が許可権者の主観により予測されるだけではなく、客観的な事実に照らして具体的に明らかに予測される場合でなければならないことはいうまでもない。」

 表現の自由に優位性を与えるといっても様々なレベルがある。その点に関する基準を述べたのが下線部である。純粋パブリック・フォーラムにおいては、中間審査基準、すなわち厳格な合理性基準が求められるにとどまる。しかし、わが国最高裁判所は、準パブリック・フォーラムにおいては、施設本来の目的が集会の自由に奉仕することであるために、表現の自由を尊重するべき必要性が純粋パブリックフォーラムよりも高いことから、要件をさらに強化したのである。ただし、普通であれば、厳格な合理性基準を強化すれば、厳格な審査基準になる。しかし、それでは、表現行為の内容規制と同一になる。基本的に狭義の合理性基準が妥当する問題で、そこまで厳しくするのはおかしい。そこに最高裁判所の苦心がある。

 第一の下線部で述べていることは、生命、身体、財産の侵害という具体的な問題が対象になるということであり、町の美観を害するとか治安が悪化する恐れがあるといった抽象的概念であってはならない、ということである。諸君は、刑法学において、具体的危険犯と抽象的危険犯という概念を学んだことと思う。その用語を当てはめるなら、集会の自由と比較対象になる利益は、生命、身体、財産に対する具体的危険性の存在が要件だ、としたのである。

 第二の下線部で述べていることは、先に言及した厳格な合理性基準より強く、厳格な審査基準よりは弱い審査基準として、明白かつ現在の危険という基準を導入したということである。

 逆の意味に理解している人が良くいるので、繰り返し強調するが、ここで登場した明白かつ現在の危険理論は、厳格な審査基準に比べると、一段緩やかな審査基準である。すなわち、アメリカにおいて、表現の自由に厳格な審査基準を適用すると、違憲という結論が導かれるような案件において、合憲という結論を引き出すための手法として案出されたのが、この審査基準である。防諜法違反事件における、O.W.ホームズ判事による次の説明はあまりにも有名である。

「すべての行為の性格は、それが行われるときの状況いかんによって決定される。言論の自由のもっとも厳格な保護も、劇場において偽って火事だと叫び、パニックを引き起こした者を保護しないであろう。(中略)問題は、いかなる場合にも、用いられた言葉が連邦議会が防止する権限を持つ実質的な害悪を生み出す明白かつ現在の危険を生ぜしめる状況において用いられ、かつそのような性質のものかどうかである。それは近接性と程度の問題である。」

 本問を、時・所及び方法の規制論ではなく、表現の自由からアプローチした人の場合には、何とかして文面審査の問題を突破しても(実際には単に無視するという方法に依ることが多いのだが)、どうしても、審査基準としては厳格な審査基準が導かれる。しかし、泉佐野市事件最高裁判所判決で明白かつ現在の危険を採用していることを知っているものだから、前者からいきなり後者へと話をつなげる、という木に竹を接ぐような強引な論法をする人が良くいる。しかし、これは上記の理由から致命的なミスである、ということを理解しておいて欲しい。

 なお、念のため付言する。準パブリック・フォーラムにおいては、純粋パブリック・フォーラムにおける厳格な合理性基準よりさらに厳格度を増すべきである、というところまでは理論として言える。しかし、それが具体的には、明白かつ現在の危険基準であるべきだ、ということは、理論として言えることではない。この問題に対するわが国最高裁判所の作り出した基準である、というに尽きる。明白かつ現在の危険基準の採用自体が理論的要求である、という書き方をする人が良くいるが、その意味で妥当ではない。

 この明確かつ現在の基準は、その依って立つ視点により極端に結論が左右されるという欠陥を有している。先にホームズ判事の見解を引用したが、この防諜法事件に始まる一連の米国連邦最高裁判例は、その視点を判事の主観に委ねたため、大きな問題を引き起こした。それを避けるため、最高裁は、この基準は客観的に運用されねばならないことを明記した。それが第3の下線部である。

五 本問への適用

 本問の場合、YXの利用を拒んだのは、Xが施設を利用しようとすると、同時にこの施設を利用する他団体が反発し、混乱が生じるからである。しかし、ここで看過してはならないことは、Xが積極的に騒ぎを起こしているのではなく、むしろXは被害者だということである。

 最高裁判所は、そのように集会主催者が被害者である場合に、なおかつ混乱を避けるために施設利用を阻むことができるか、という問題に対しては、次のように述べている。

「主催者が集会を平穏に行おうとしているのに、その集会の目的や主催者の思想、信条等に反対する者らが、これを実力で阻止し、妨害しようとして紛争を起こすおそれがあることを理由に公の施設の利用を拒むことができるのは、前示のような公の施設の利用関係の性質に照らせば、警察の警備等によってもなお混乱を防止することができないなど特別な事情がある場合に限られるものというべきである。」

 この基準による場合には、警察力では間に合わない特別な事情があるか否かは、本設問の限りでは、明確には判らない。しかし、よほど異常な団体でない限り、警察力を導入しても押さえきれないほどの騒動を起こすとはとうてい考えられない。そして、そのような団体があり、その団体が騒ぎを起こす「明白かつ現在の危険」がある場合には、そちらの利用を不許可とするべきであって、Xに不許可処分を下したのは失当である。

 また、Yは、不文の内規である「男女別室ルール」に、同性愛者の場合には実質的に抵触するという主張を行っている。しかし、施設秩序を現実に乱し、あるいは管理に大幅な支障が生じない限り、個人の私的な行動を、施設側としては、規制する権限を持たないことはいうまでもない。そして、前年度において利用した際に、そうした施設秩序を乱す行動があり、当該年度においても同様に「明白かつ現在の危険」があるとでもいうのでない限り、単なる蓋然性が存在するを根拠に、集会の自由という重大な人権を制約することは許されない。