営業の自由と酒税法
10条11号甲斐素直
問題
Xは、平成○○年に、国(Y)に対し、酒税法(以下「法」という。)9条1項に基づき、A市に所有する店舗における酒類販売業免許の申請をした。しかし、Yは法10条11号に該当することを理由として、右免許を拒否する旨の処分をした。拒否した根拠は次のとおりである。
Yは11号に規定する「酒税の保全上酒類の需給の均衡を維持する必要がある」の意義について、「新たに酒類の製造免許又は販売業免許を与えたときは、地域的又は全国的に酒類の需給の均衡を破り、その生産及び販売の面に混乱を来し、製造者又は販売業者の経営の基礎を危くし、ひいては、酒税の保全に悪影響を及ぼすと認められる場合」をいうとした。そして、需給調整上の要件の判断基準として、全酒類小売業の免許の付与は、申請販売場の小売販売地域内に所在する全酒類小売業者の販売場から、その地域の小売基準数量の10倍以上の数量の販売実績を有する大規模な既存小売販売場を除外した残りの全酒類小売販売場の最近1箇年における総販売数量に酒類消費量の増減率を乗じて算出される数量を、その販売場の数に申請販売場数を加えた数で除して得た数量が地域ごとに定められた小売基準数量以上であること(以下「小売基準数量要件」という。)、申請時に最も近い時における申請販売場の小売販売地域内の総世帯数を、既存小売販売場数に申請販売場数を加えた数で除して得た数が地域ごとに定められた基準世帯数以上であること(以下「基準世帯数要件」という。)、のいずれかに該当する場合に限ることとし、そのただし書(以下「本件ただし書」という。)として、これらの要件に合致する場合であっても、既存の酒類販売業者の経営実態又は酒類の取引状況等からみて、新たに免許を与えるときは、酒類の需給の均衡を破り、ひいては酒税の確保に支障を来すおそれがあると認められる場合は免許を与えないこととする旨の運用指針を規定していた。
そして、本件申請に係る販売場の属する小売販売地域における小売基準数量は年間
24kl、基準世帯数は200世帯であった。これに対し、本件申請に係る販売場の小売販売地域内に所在する小売販売場は7場であり、小売基準数量の10倍以上の数量の販売実績を有する販売場はない。右7場の合計酒類販売数量は申請の前々年においては231.846kl、前年においては235.775klと横ばいの状態であった。また、同小売販売地域内の世帯数は、申請時点で1495世帯であるが、前年は1419世帯、前年は1468世帯とやはり横ばいであった。既存業者7者の平均営業所得は年間250万円程度であり、うち4者の販売数量は年間24kl未満である。Xの販売見込数量は、年間67.609klであり、右四者の合計販売数量に匹敵する。この拒否処分に対し、
Xは、Yを相手取り、その取消を請求して訴えを提起した。訴えにおいて、Xは、「酒類の需給の均衡を維持する必要がある」、「免許を与えることが適当でない」という抽象的な文言をもって規定されている免許拒否の要件を拡大して解釈適用するときは、既存業者の権益を保護するため新規参入を規制することにつながり、憲法の保障する営業の自由を侵害する、と主張した。Xの主張の当否について論ぜよ。
[参考条文 酒税法]
第
9条 酒類の販売業又は販売の代理業若しくは媒介業(以下「販売業」と総称する。)をしようとする者は、政令で定める手続により、販売場(継続して販売業をする場所をいう。以下同じ。)ごとにその販売場の所在地(販売場を設けない場合には、住所地)の所轄税務署長の免許(以下「販売業免許」という。)を受けなければならない。〔後略〕(製造免許等の要件)
第
10条 第7条第1項、第8条又は前条第1項の規定による酒類の製造免許、酒母若しくはもろみの製造免許又は酒類の販売業免許の申請があつた場合において、次の各号のいずれかに該当するときは、税務署長は、酒類の製造免許、酒母若しくはもろみの製造免許又は酒類の販売業免許を与えないことができる。一~十 略
十一
酒税の保全上酒類の需給の均衡を維持する必要があるため酒類の製造免許又は酒類の販売業免許を与えることが適当でないと認められる場合[はじめに]
営業の自由については、かつての小売市場距離制限合憲判決及び薬局距離制限違憲判決並びに共有林分割制限違憲判決というスタンダードな三つの判決がある。これらの判例については、どの教科書でもかなりの議論を展開している。したがって、普通の問題であれば、諸君としては基本書の説をなぞりつつ、その事案の内容に応じて、この三つの判決のどれかに準拠して議論を展開すれば、合格答案を書くことが可能である。…と無造作にいっても、結構ややこしい議論なので、本講でも、先ずその点について説明する。
ところが、本問に現れる税収確保目的制限の事案については、基本書レベルではほとんど議論が書かれておらず、また、上記判例の論理に当てはめることも不可能なので、かなりの難問となる。
このように、基本書がきちんと論じてくれていない問題の場合には、諸君としては、判例を調べ、その論理を追って論文を書くのが、一番無難な対策となる。
この問題については、二つの重要な最高裁判決がある。第一は、平成
4年12月15日第3小法廷判決(百選[第5版]210頁参照)である。これについては、その読み方について、特に問題はない。そして、百選にはこれしか載っていないから、ややもすれば、諸君はこの判決にだけ依拠して論文を書こうとする。しかし、それは間違いである。第二の平成
10年7月16日第一小法廷判決が、既にこの分野には存在しているからである。これは一見すると、本件事例において、上記平成4年判決を継承し、酒税法を合憲としている判例のように見える。しかし、これは実質的には違憲判決であり、この判決を受けて、国税庁の酒類販売許可行政は大きく転換する。以前は、スーパーやコンビニ等では、酒類は販売されていなかったが、今日では、どこでも売られていることは、諸君自身が実感しているところであろう。その変化をもたらしたのが、この判決である。つまり、今日という時点において、平成4年判決に準拠した論文を書けば、それは必然的に落第答案になる、ということである。合憲、違憲いずれの結論でも良いが、平成10年判決に依拠したしっかりした論理を展開しなければならない。以下では、諸君のほとんどが初学者であることを考慮し、基本的な概念から説明していくが、本問に対する解答としては、酒税法に直結する憲法論以外は書く必要がないのは、改めて強調するまでもなく、当然のことである。
一 営業の自由の概念
酒類販売の自由の制限が、憲法上、営業の自由と直結した問題であることはいうまでもない。営業の自由は、営業という概念を前提としている。ここに営業とは、専ら商法が対象とする概念である。例えば日本評論社『新法学辞典』は次のような定義を与えている。
「利益を得る目的で同種の行為を継続的反復的になすことである。営利目的がある限り現実に利益を得たことは必要ではなく、また継続・反復の意思がある限り実際に反復することを要しない。しかし営利を目的とするすべての職業が営業となるわけではなく、医師・弁護士・画家などの職業は営利を目的としても一般に営業とは見られない。」
憲法学においても、同様の理解と解して良いであろう。この営利追求性が定義自身の中に明確に含まれている点に、営業の自由を経済的自由の一環として把握できる根拠が存在しているので、本問で冒頭に定義を掲げるのは必須の要求と言うことができる。
諸君は―かなり勉強している人でも―極めて自明のことを述べるような調子で、ほとんど理由も示さないままに、営業の自由の根拠を憲法
22条に求める傾向がある。しかし、後述する学説史上の事件に加えて、最高裁判所が、共有林分割制限違憲判決において、営業の自由に属する事案を29条の問題として解決したことから、今日の学説の多数説は、22・29条説であり(学者によっては「通説」と表現する)、22条説が少数説に転落していることは間違いない。したがって、営業の自由を
22条のみに求める説を墨守する場合には、自分なりに工夫して、何らかの理由を述べる必要がある。そうしたことも考慮し、以下では節を改めて、少し詳しく学説の変遷を紹介する。二 営業の自由概念に関する学説の変遷
(一) 明治憲法下における規定と学説
明治憲法は、今日的な意味における職業の自由については、明確な保障規定を持たなかった。すなわち、
19条において、「日本臣民は法律の定むるところの資格に応じ、均しく文部官に任せられ及其の他の公務に就くことを得」として公務就任権だけが保障されていた。しかし、本来自由主義の下においては、国家は私人間の自由に干渉しないものであることを念頭に置いて考えれば、職業選択の自由も国家と国民の関係において保障されれば十分であるといえる。なぜなら、通常、国民の職業選択の自由を制限する必要は、主として他の一般国民に何らかの影響が生ずることを根拠として発生するからである。したがって、純然たる自由主義的な意味においては、職業選択の自由は、明治憲法においても明確に保障されていたといえる。また、その文言からして、営業の自由がそこで保護されていると読めないこともまた明らかであった。また、現行憲法
22条1項の定める今一つの内容である居住及び移転の自由については、奇しくも同じ22条において明確に保障をしていた。そして、伊藤博文は、これを「本条は居住移転の自由を保明す。封建の時、藩国
と解説していた(『憲法義解』より引用)。すなわち、伊藤博文の意図では、居住、移転の自由を保障することにより、営業の自由を保障することを目的としていたのである。
したがって、すくなくとも明治憲法の起草者の意図においては、職業選択の自由と居住移転の自由は何れも保障対象とされていたことが明らかである。また、営業の自由は、職業選択の自由の一環ではなく、居住移転の自由の一環として認識されていたことも注目されるべきであろう。
このことから、明治憲法下では、営業の自由が臣民の権利として、保障の対象となるか否かについて議論の対象となった。積極的に否定する見解も存在していた。肯定する場合にも、財産権の一環として肯定するにとどまる場合が多く、全体として余り活発な議論の対象とはならなかった。
(二) 現行憲法における営業の自由の根拠規定に関する学説
1 職業=営業説
憲法
22条の保障する職業選択の自由を、職業遂行の自由も含めた職業の自由と読み替え、次に、職業の自由を単純に営業の自由と読み替える説がある。古くは美濃部達吉や註解日本国憲法の採る立場である。職業の自由に対する制約は、上述した明治憲法下の状況に明らかなとおり、歴史的には財産権、特に所有権に対する様々な制約と並んで、封建体制の特徴をなすものであった。そのため、職業の自由の保障こそが、近代資本主義経済の法的前提条件であったのである。ここから営業の自由と職業の自由を同義と考えるのである。したがって、医師・弁護士・画家や研究職に就く自由などは、そもそも
22条の保障対象外と考える。2 職業遂行=営業説
同じ
22条でも、職業選択の自由は職業一般を保障するものと理解しつつ、職業遂行の自由だけを営業の自由と解する説がある。この説の場合には、したがって、商店を開店すること自体は営業行為ではないことになる。宮沢俊義が創唱した説である。芦部信喜は「自己の選択した職業を遂行する自由、すなわち営業の自由」と表現し(芦部『憲法』第4版210頁)、また伊藤正己は「営業とは、職業遂行上の諸活動のうち、営利を目指す継続的で、自主的な活動をいう」と定義する(伊藤『憲法』第3版、360頁)など、いまも使われている教科書にも、この立場をとる者がかなりある。この説は、説の詳しい内容を述べている者がなく、このままでは意味が判らない。私の想像では、この説は、前説と同じ前提、すなわち、職業選択の自由の段階ですでに営利を目的とする行為だけを対象とするものと理解し、その上で、先に定義に示したように継続反復する行為を営業とするのだから、遂行段階だけを営業の自由と呼ぶのだ、として、言葉の意味に即した理解をしようとしたのであろう。すなわち、この説では、医師や弁護士、教師、宗教関係者など、一般に非営利行為と理解されているものについては、そもそも前説同様、職業選択の自由の対象とは考えない、と理解しないと、極めて不合理なことになるからである。
佐藤幸治は、表現的には微妙にこの説と違う表現を採るが、基本的にはこの説と同じく
22条が営業の自由の根拠規定と考える立場である。その説明によれば、営業の自由は、職業選択の自由に含まれるが、職業選択の自由には、そのほかすべての職業選択の自由が含まれるので、職業=営業説は誤りである。しかし、研究者の研究活動の自由などは「学問の自由」に含まれる。だから、職業遂行の自由と営業の自由はほとんど同義である、とする(佐藤『憲法』第3版、558頁)すなわち、厳密に言うと佐藤説では、職業遂行の自由の方が、営業の自由よりも広い概念である。同様に、阪本昌成は職業の自由は、「『職業活動の自由』は、営利追求を目的として主体的に職業を継続する『営業の自由』を含む」とする(『憲法理論』Ⅲ
225頁より引用)。常識的にはこれが一番判りやすい言い方であろう。この説の場合には職業遂行の自由には、営業の自由に属さない自由も含まれていることになる。3 営業=公序説
こうして、比較的初期から営業の自由は
22条の職業選択の自由の一環として読むと言うことでほぼ固まっていた学説が大きく動き出すきっかけを与えたのは、憲法学から見れば門外漢である経済史学者の岡田与好が昭和44年に書いた「『営業の自由』と『独占』及び『団結』」と題する論文であった(東京大学社会科学研究所編『基本的人権の研究』第5巻129頁以下参照)。その以前においては、営業の自由については、当然に職業選択の自由に含まれるので、22条1項で読めるという見解に対して、異論はなかった。これに対して岡田は、営業の自由という概念は、本来は、独占企業に対して、あるいは労働者の団結に対して、人々の営業の自由を保障するものだったという。すなわち営業の自由は、歴史的には、反独占を貫徹する公序(public policy)として、上から求められたものであって、人権として形成されたのではない、という歴史的事実が指摘して、憲法学説の問題性を鋭く批判した。すなわち、営業の自由という概念は、本来は、独占企業に対して、あるいは労働者の団結に対して、人々の営業の自由を保障するものだったという。この批判に対し、憲法学者は、まったく無視することはできなかった。成立史と解釈は別であるという反論はその一つの現れである。いつも強調するように、国家試験レベルの論文では、他説に対する批判を記述する必要はないが、どのような反論があるかを知っていることは大切である。そこで、判りやすい反論例を一つ紹介しておきたい。
「確かに歴史的に見た場合、営業の自由は、独占からの自由を意味したと解するのが正しい。ところが、独占は、
(阪本昌成『憲法理論』Ⅲ
225頁)また、もう一つの転機になったのが、伊藤正己が同じ
22条で保障している居住・移転の自由に精神的自由権としての側面があることを論証したことである。それをきっかけに、従来、経済的自由として疑われることのなかった営業の自由に対して、精神的自由権としての側面が承認されるようになった。この時点以降、新たな学説が、岡田説の衝撃による自己批判の中から誕生してきた。
4 営業=
22/29条説これは、営業の自由を営業する自由と営業活動の自由に分けることができ、前者の自由は
22条の自由であるが、営業活動の自由は29条の財産権の保障の中で読むべきであるとする説である(今村成和「『営業の自由』の公権的規制」ジュリスト460号41頁以下参照)。もう少し砕いて表現すると、次のように言える。
「憲法
この説の基本的な理由付けとしては、次のものが簡明で判り易いであろう。
「この見解は、職業選択の自由が、人間がその能力発揮の場の選択を保障するものとして、いかなる社会体制にも通用する普遍的原理であるのに対して、営業の自由は資本主義社会に固有の原理であるという基本的認識が根底にあり、また、権利の制約の範囲について、前者は、それが、人間の能力の発揮の場であるのに鑑み、その自由は、十分に尊重されなくてはならないのであるが、精神的自由とは異なり、他人の生活に密接な関連を有するものであるのに対して、後者については、資本財としての財産権行使の自由には、自由主義経済の法的支柱としての役割があるために、高度の統制を必要とするというのである。このような見解は、同じく経済的自由といっても、憲法
(樋口陽一他著『憲法Ⅱ』注解法律学全集
2、青林書院91頁=中村睦男執筆分)この説は、法人の営業活動を考えた時、もっとも妥当性を発揮する。すなわち、
22条の権利は、本来職業選択の自由の延長線上に考えられるものであり、職業選択の自由は「人間がその能力発揮の場の選択を保障する」というところに本質があるから、自然人にしか考えることができない。したがって、法人が営業活動を行うのは、29条によってしか説明できないのである。この
22/29条説は、先にも述べたとおり、共有林分割制限違憲判決の採るところとなり、最近では渋谷秀樹が明確にこの説を採る(『憲法』有斐閣、274頁)ことを明言しているなどからみて、これが少なくとも現時点での多数説・判例であることは疑う余地がない。浦部法穂は、1988年に書いた『憲法学教室』の段階で、すでにこれが通説だといっている(同書268頁)。5 営業=
29条説営業の自由は
29条で考えるのが正しい、とする説がある。営業の自由は、明治憲法下において27条の所有権の不可侵から導出される自由と解釈されてきたという歴史的経緯を形式的根拠に、そして「営業活動・企業活動をおこなうのは、とりもなおさず、みずからの所有権(財産権)を行使することにほかならない」という点を実質的根拠に、29条の財産権の不可侵の一環として、財産権を行使する自由として営業の自由を把握することを主張する(奥平康弘『憲法Ⅲ 憲法が保障する権利』有斐閣法学叢書221頁)。* * *
一流の学者によって、通説が何かについて異なる判断がなされているという事実は、この問題には通説と言えるほどのものがない、ということを端的に示している。したがって、この営業の自由の根拠をどこに求めるかについては、慎重な配慮を行わなければならない。基本書が十分な説明をしていない場合には、自分自身で様々な書を調べて、自分として納得のいく説明を工夫しておく必要がある。
(三) 営業の自由と精神的自由権としての側面
前に述べたとおり、今日においては、営業の自由を単純に経済的自由として扱うことは許されず、精神的自由権としての側面の存在を考えなければならない。もっとも、一般には、表現の自由に代表される精神的自由権との混同を嫌って、人格的価値という言い方をする。
すなわち、確かに職業は「人が自己の生計を維持するために行う継続的な活動」であるから、その選択の自由は、封建制との決別という歴史的意義はともかく、今日における法的機能としていうならば、人の経済的生活の基盤を提供するものとして意義を無視できないから、二者択一を強制するならば、経済的自由の一環に属するとして判断することが許されるであろう。しかし、単なる経済的自由権として評価することは許されない。なぜなら、人の職業は、「各人が自己の持つ個性を全うすべき場として、個人の人格的価値とも不可分の関連を有する」からである(「」内は、昭和
50年4月30日最高裁薬事法判決から引用)。すなわち、人は単に営利の目的で職業を選択するのではない。各人の人格の社会的表現の形態として、人は職業を選択するのである。だからこそ、職業に貴賤はないという建前にもかかわらず、あまり経済的には報われない職業が社会的尊敬の対象となり、一方、経済的には非常に有利な職業があまり重要視されないという、単に営利目的の活動であれば矛盾ともいえる現象が起こるのである。こうして職業の自由ないし営業の自由は、本質的には経済的自由に属するとはいうものの、精神的自由としての側面をもつ、いわば複合的な自由であることを看過してはならない。
純粋の精神的自由、例えば内心の自由は基本的に社会との関わりが小さい。表現の自由でさえも、それが社会に対して明白かつ現在の危険をもたらすような場合でない限り、対社会的影響を、その解釈に当たって考慮する必要は原則的としてない。ところが、職業ないしその経済的表現としての営業活動は、上記のような意味で各人の人格の社会的表現であり、しかもそれが持続的に行われるところに特徴がある。そのため、表現の自由で想定しているような一過性のものではないから、それだけに広く社会的関係が発生するところに特徴がある。この対社会性の大きさが、純粋の精神的自由権と切り離した議論が必要な理由であるが、そのことは決して、単なる経済的自由として全面的に制約を認めて良いということを意味するものではない。
この精神的自由権としての側面を、国家試験で許されるわずかな紙面と、限られた時間の中でどこまで書き込むかは難しい問題である。本問で一段の加点を期待する場合には、この論点を避けて通ることはできない。それに対して、本問では確実に合格点をとれば十分という守りの姿勢で書く論文の場合には、例えば定義の段階で、例えば、営業の自由とは経済的自由のことを言い、精神的側面は職業の自由で読む、と断って、その論点の存在は知っているが本問の論点からは理由があって外すのだ、ということを明確にした上で、避けてとおる、というような工夫をすることも可能と考える。
三 営業の自由の限界
(一) 「公共の福祉」文言の意義
憲法
22条及び29条という、営業の自由の根拠規定と目される条文は、いずれも13条とは別に、わざわざ「公共の福祉」による制約文言を有している。これについては、一般に、表現の自由などに比べて、より強い制約を受けることを肯定している趣旨であると説明される。例えば、高見勝利は次のように言う。「憲法
これは、基本的に薬局距離制限違憲判決で最高裁判所が次のように述べたところから、通説化している。
「本質的に社会的な、しかも主として経済的な活動であつて、その性質上、社会的相互関連性が大きいものであるから、職業の自由は、それ以外の憲法の保障する自由、殊にいわゆる精神的自由に比較して、公権力による規制の要請がつよく、憲法
このように、消極、積極
2種類の規制がそこに存在していると説かれるわけである。しかし、諸君は、現実の規制形態を知らないので、議論がややもすると空転する傾向を示す。今日のように、事例問題が国家試験における基本となっている時代に、規制形態が抽象的に何を意味するかが判らなくては話にならない。そこで、営業の自由の審査基準を論ずる前に、そもそも営業の自由に関して、どのような形態で制限が発生するのかを検討しておこう。その制限の発生形態に対応した形で審査基準は考えられねばならないからである。以下の記述は、国家試験では不要であるが、その意味からある程度詳細に紹介している。
(二) 営業の自由の規制形態
1 消極規制
消極規制とは、職業活動のもたらす社会的弊害を防止するという観点から、職業ないし営業に加えられる規制を意味する。すなわち、他者の自由権を侵害する事態を防止することがこの種規制の目的である。この目的で行われる規制の態様として、現在存在しているものとしては、次のものがある。
(1) 禁止: 反社会性の強い職業(例えば売春婦=売春防止法)や職業そのものは社会的必要性が高いものであっても、私人が営業活動として行う場合には弊害が伴いやすい場合(例えば有料職業紹介事業=職業安定法
32条1項))については、それに就くことが全面的に禁止され、例外的にも解除されることがない。(2) 資格制限(個人免許): 人の生命や安全にかかわったり、高度の専門的知識を必要とする職業については、一般的に禁止をし、国が特に十分な能力を有すると認めたものについてのみ、免許という形で営業の許可を与える。医師、薬剤師、弁護士、調理師、教員等の免許がこれである。
(3) 営業に関する免許、許可、登録、届出: 営業に関する規制は、様々な目的からなされ、それに応じて国からの規制の形態も様々である。例えば、上記の資格制限のある職業の場合には、現に営業を行うに当たり、正当な資格を有する者が関与していることを確認する手段として規制をかける場合がある(弁護士会に登録しない限り、弁護士活動ができないという規制)。それに加えて、様々な設備が備わっていることの確認手段として行われるものがある(例えば、調剤設備の存在を確認した上で行われる薬局開設の許可)。問題を起こし易い営業であるため、問題が発生した場合に、その営業の差し止めを行いやすくする目的で行われる場合もある(例えば風俗営業の許可)。
2 積極規制
積極規制とは、福祉国家理念の下に、「国民経済の円満な発展や社会公共の便宜の促進、経済的弱者の保護等の社会政策及び経済政策上の積極的目的を達成するための制約(薬事法判決参照)である。すなわち、他者の社会権が制約原理となる制約である。次のような態様が存在する。
(1) 国家の独占事業: 郵便事業に代表されるもので、これらについては私人が取り扱うことが許されない。これについては、第三の規制類型である国の財政目的が強調された時代もあったが、今日残っているそれは、むしろ「市場の失敗」のために、自由主義経済にゆだねた場合には、すべての者にサービスが提供されなくなる性格を有するために、やむを得ず、国家が担っていると考えるべきであり、典型的な社会国家機能といえる。小泉政権下において、その最後の牙城がゆらぎ始めていることは諸君の知るとおりである。
(2) 特許: 電気、ガス、鉄道、その他の公益事業については、市場競争による事業の失敗などのためにそのサービスの提供が止まることが、一般国民の生存にきわめて深い関わりがある。そこで、特定の者に特許を与えて一定限度で独占を認め、その代償として、料金を認可制にすることによって消費者が独占により被害を受けないようにするものである。その意味で、これも社会国家的観点から承認される規制形態である。
(3) 独占禁止法に基づく規制: 自由競争、すなわち営業の自由を実質的に確保する観点から、私的独占状態の発生を防止する事を目的とする種々の規制がこの範疇に含まれる。公序説による場合には、これが規制の中心ということになるであろう。
(4) その他、社会的経済的弱者保護を目的とした規制: 典型的には過当競争により中小企業の倒産を防ぐことを目的とする規制で、大店法や小売商業調整特別措置法等がそれに当たる。実際の規制の手段としては、消極規制の場合と同じく、免許、許可、認可、届け出制等が使用されることが多い。
(5) 専売:たばこ、塩、樟脳、アルコールの専売は、少なくとも専売制を導入した時点においてはもっぱら国の財源の確保という政策的目的から行われた。しかし、今日では、これらは、例えばたばこ以外に栽培不可能な荒蕪地で農業を営むたばこ農家の保護など、社会的弱者保護を目的としたものに転化しており、積極的規制の一環として理解すべきである。
(三) 営業の自由の多様性の根拠について
このように営業の自由に対しては、多種多様な規制が行われている。
薬局距離制限違憲判決の場合、先に引用した箇所の後に、薬事法の距離制限については、消極的規制に属すると判断し、その判断基準として明確に厳格な合理性基準を採用する。これに対して、昭和
47年の小売り市場判決においては、積極的規制に対して、これも明確に狭義の合理性基準を採用して判断を下す。このことから、判例は、規制の形態に応じて判断基準を2重にする、という解釈が一般に採られるようになった。しかし、なぜおなじ営業の自由の規制でありながら、2種類の基準が現れるのかについては、はっきりしない。なぜなら、経済的自由権の場合には、二重の基準理論によると、裁判所としては、国政への正常な意見反映のメカニズムが破壊されているような場合を除いて、原則として立法府の裁量を尊重し、その裁量の結果が、きわめて明白に違憲と認められるような場合を除いて、憲法判断を自制するのが適切と考えられる。この結果、営業の自由を経済的自由権の一環として理解する限り、消極規制、積極規制の別なく、広く狭義の合理性基準に従って判断すれば足りることとなるはずだからである。実際、松井茂記は、その様な視点から、この
2分説を批判している(『日本国憲法』第3版、有斐閣、576頁参照)。さらに、その後、共有林分割制限という形で林業経営の自由を制限していた森林法の規定の判断にあたり、厳格な合理性基準により違憲判断を下す事例が現れた。これは上記の分類でいえば積極的規制に該当するから、なお、判断が難しい問題である。
この点については現実問題としてほとんど論じられておらず、したがって、通説的な見解はないため、以下においては、基本的に私見によりつつ、説明したい。
1 自由権と消極規制
(1) 精神的自由権的側面の規制
職業等の自由の制限にあたって、問題が複雑になるのは、それに精神的自由権としての側面も存在していることである。精神的側面の規制に関しては、原則として、一般の精神的自由権に関する理論に従うべきである。すなわち、その面に関する限り、厳格な審査基準を使用すべきことになりそうである。
しかし、ここで、職業の自由の持つ大きな特徴のために、異なった解釈が導入されることになる。すなわち、通常の表現の自由権の対社会的行使は、個々単発的なものである。そのため、その表現が「言論の自由市場」に到達するか否かは重要な問題となる。そこで、事前抑制禁止の原則が導かれる。これに対して、職業ないし営業の形式による対社会的な表現活動は、反復継続して実施される点に大きな特徴を示す。このことは、一方において、過去の経験の分析から、過度に広汎にならない範囲での営業の制限を行うことが可能であることを意味する。他方において、反復継続性の結果、不適切な営業活動により、多くの人々に害悪を及ぼす可能性が明白に認められる場合が、類型的に存在している。このため、営業の自由の抑制手段として、事前抑制が一般的に承認されることになる。
このように、類型的に制限可能性が認められる場合には、類型的に制限可能性が否定されている場合に使用される厳格な審査基準が不適切なことはいうまでもない。この結果、一段緩和された厳格な合理性基準が判断基準として使用される妥当性が導かれる。
ただし、現実の判例の中では、この点が正面から説かれて、審査基準選択の根拠となった例はなく、せいぜい次に述べる経済的自由権としての側面において厳格な合理性基準を採用する際の傍証程度に扱われている。
(2) 経済的自由権的側面の規制
経済的自由権としての側面に関する規制についてはどのように考えるべきであろうか。
消極規制は別名、警察規制とも呼ばれる。行政法学上、警察とは「公共の安全と秩序を維持するために、一般統治権に基づき、人民に命令し強制し、その自然の自由を制限する作用(田中二郎『新版行政法下Ⅱ』全訂第
1版、弘文堂253頁)」をいうと一般に定義される。警察権という強大な国家権力については、人民の権利・自由の侵害を保障しようという観点から、警察権の行使をその目的に照らし、必要最小限度にとどめなければならない。そのために、様々な原則の存在が指摘されるが、規制との関係では、行政法上「警察消極目的の原則」と呼ばれるものが重要である。 すなわち、警察は、直接に公共の安全と秩序を維持し、これに対する障害を未然に防止し、除去することを目的とする作用であるから、警察はこの消極的な目的のためにのみ活動することができる。最高裁は、このことを確認して、「個人の経済活動に対する法的規制は、個人の自由な経済活動からもたらされる諸々の弊害が社会公共の安全と秩序の維持の見地から看過することができないような場合に、消極的に、かような弊害を除去ないし緩和するために必要かつ合理的な規制である限りにおいて許されるべき」であるとする(薬事法判決)。この結果、警察規制の場合には、最小限度法則に基づき厳格な合理性基準が要請されることになる。その結果、
LRA基準を使用することが求められることになる。「自由な職業活動が社会公共に対してもたらす弊害を防止するための消極的、警察的措置である場合には、許可制に比べて職業の自由に対するよりゆるやかな制限である職業活動の内容及び態様に対する規制によつては右の目的を十分に達成することができないと認められることを要するもの、というべきである。そして、この要件は、許可制そのものについてのみならず、その内容についても要求されるのであつて、許可制の採用自体が是認される場合であつても、個々の許可条件については、更に個別的に右の要件に照らしてその適否を判断しなければならないのである(薬事法最判)」
つまり、同じ厳格な合理性基準を採用する場合であっても、それが精神的自由権的側面を制約している場合と、警察規制の場合という、二つの異なるメカニズムが働いている、ということができる。
2 社会権と積極規制
営業の自由では、それが対社会的な継続的表現としての機能を有するために、自由権と衝突する可能性だけではなく、他者の有する社会権と衝突する場合が発生する。社会権では、国家が当事者間に積極的に介入して新たな措置をとり、それに伴い、関連する経済的自由権が制約されるという形が発生する。その場合、社会権の保障は、営業の自由に対する制約を最も小さくすればよいというものではなく、むしろ、社会権を最も効率的、経済的に保障できるものがよいということになる。その結果、制約される自由権の側から見ると、単純な最小限度の侵害に止まらない制約を肯定しなければならない場合が発生するのである。例えば、特定の業者の経営の安定を目的とする規制の場合、その業者の生存権を保障しようとしているのであるから、典型的な社会権に基づく規制といえる。
このような場合について、小売り市場判決は次のように述べる。
「憲法は、全体として、福祉国家的理想のもとに、社会経済の均衡のとれた調和的発展を企図しており、その見地から、すべての国民にいわゆる生存権を保障し、その一環として、国民の勤労権を保障する等、経済的劣位に立つ者に対する適切な保護政策を要請していることは明らかである。このような点を総合的に考察すると、憲法は、国の責務として積極的な社会経済政策の実施を予定しているものということができ、個人の経済活動の自由に関する限り、個人の精神的自由等に関する場合と異なつて、右社会経済政策の実施の一手段として、これに一定の合理的規制措置を講ずることは、もともと、憲法が予定し、かつ、許容するところと解するのが相当であり、国は、積極的に国民経済の健全な発達と国民生活の安定を期し、もつて社会経済全体の均衡のとれた調和的発展を図るために、立法により、個人の経済活動に対し、一定の規制措置を講ずることも、それが右目的達成のために必要かつ合理的な範囲にとどまる限り、許されるべきであつて、決して、憲法の禁ずるところではないと解すべきである。もつとも、個人の経済活動に対する法的規制は、決して無制限に許されるべきものではなく、その規制の対象、手段、態様等においても、自ら一定の限界が存するものと解するのが相当である。」
この判決の冒頭で、福祉国家理想と述べているところに、端的に社会権に基づく規制であることが示されている。そして、この社会権に基づく規制の場合における特徴として次のように述べる。
「 社会経済の分野において、法的規制措置を講ずる必要があるかどうか、その必要があるとしても、どのような対象について、どのような手段・態様の規制措置が適切妥当であるかは、主として立法政策の問題として、立法府の裁量的判断にまつほかない。というのは、法的規制措置の必要の有無や法的規制措置の対象・手段・態様などを判断するにあたつては、その対象となる社会経済の実態についての正確な基礎資料が必要であり、具体的な法的規制措置が現実の社会経済にどのような影響を及ぼすか、その利害得失を洞察するとともに、広く社会経済政策全体との調和を考慮する等、相互に関連する諸条件についての適正な評価と判断が必要であつて、このような評価と判断の機能は、まさに立法府の使命とするところであり、立法府こそがその機能を果たす適格を具えた国家機関であるというべきであるからである。したがつて、右に述べたような個人の経済活動に対する法的規制措置については、立法府の政策的技術的な裁量に委ねるほかはなく、裁判所は、立法府の右裁量的判断を尊重するのを建前とし、ただ、立法府がその裁量権を逸脱し、当該法的規制措置が著しく不合理であることの明白である場合に限つて、これを違憲としてその効力を否定することができるものと解するのが相当である。」
すなわち、この場合には、二重の基準論の根拠の中でも、特に、裁判所の判断能力の限界と、同等の専門的国家機関に対する謙譲ということが大きな理由となって、狭義の合理性基準が使用されることになる。
この結果、社会権実現のために立法裁量の幅を広く肯定しなければならないから、単純に
LRAテストを行うことはできないが、それでも「重要な公共の利益のために必要かつ合理的な措置である」かないかの審査は行わなければならない、とする。したがって、通常の合理性基準でいうように、明白性基準だけで合憲とすることはできない。小売市場最高裁判決は、薬事法最高裁判決より3年早く下されているので、この点は文言上明確ではないが、審査内容を見ると、「過当競争による弊害が特に顕著と認められる場合についてのみ、これを規制する趣旨である」ことなどを決め手として合憲としており、既にこの重要な公共の利益という判断が下されていることが判る。その意味で、許可制には一般に厳格な合理性の基準が適用になるといえよう。四 財産権的自由と営業の自由
営業の自由の根拠として
29条をあげる説をとる場合には、29条関連の事例にまで論及する必要があるのは当然のことである。これについての興味ある判例として、森林法が、林業経営の安定、保護育成、という営業の自由に属する活動に関連して、通常の民法の共有物の分割自由の原則の例外として、過半数の持ち分を持つ者からの共有物分割請求権を否定していた点を問題としたものがある(最判昭和
62年4月22日大法廷)。この判決で、最高裁は、
「(財産権に対する)規制は、財産権の種類、性質等が多種多様であり、また、財産権に対し規制を要求する社会的理由ないし目的も、社会公共の便宜の促進、経済的弱者の保護等の社会政策及び経済政策上の積極的なものから、社会生活における安全の保障や秩序の維持等の消極的なものに至るまで多岐にわたるため、種々様々でありうるのである。」
として、消極、積極
2類型の規制が存在することを肯定し、森林法の規定はそのうちで「森林の細分化を防止することによつて森林経営の安定を図り、ひいては森林の保続培養と森林の生産力の増進を図り、もつて国民経済の発展に資することにあると解すべきである」
として積極的な規制に属することを肯定しつつ、
「財産権に対して加えられる規制が憲法二九条二項にいう公共の福祉に適合するものとして是認されるべきものであるかどうかは規制の目的、必要性、内容、その規制によつて制限される財産権の種類、性質及び制限の程度等を比較考量して決すべきものであるが、裁判所としては、立法府がした右比較考量に基づく判断を尊重すべきものであるから、立法の規制目的が前示のような社会的理由ないし目的に出たとはいえないものとして公共の福祉に合致しないことが明らかであるか、又は規制目的が公共の福祉に合致するものであつても規制手段が右目的を達成するための手段として必要性若しくは合理性に欠けていることが明らかであつて、そのため立法府の判断が合理的裁量の範囲を超えるものとなる場合に限り、当該規制立法が憲法二九条二項に違背するものとして、その効力を否定することができるものと解するのが相当である」
として、薬事法判決を引用しつつ、最終的に森林法が
「共有森林につき持分価額二分の一以下の共有者に一律に分割請求権を否定しているのは、同条の立法目的を達成するについて必要な限度を超えた不必要な規制というべきである。」
として違憲判決を下している。
すなわち、ここで注目すべきは、この場合には積極規制であるにも関わらず、二分説を採用せず、薬局距離制限違憲判決と同様に厳格な合理性基準で判断している点である(この判決の読み方として、そうではないと考える学説もあるが、薬事法判決を引用している点から、このように読むのが妥当と解する。)。
問題は、なぜそうなのか、という点である。これについては学説は多岐に分かれ、通説は存在しない。ここでは、私有財産制という基本的な制度に関して、制度的保障が機能していることを看過すべきではない。すなわち、私有財産制の中核部分に触れる規制は、例え社会権保障の目的がある場合にもなお、厳格な合理性基準が妥当し、周辺部分に関する規制に関して、始めて
2分説が機能すると考える。そして、共有林分割制限は、まさに制度の中核である私有財産に関する使用、収益、処分をほぼ全面的に制限する機能を持つ立法であった点に、判例が厳格審査を行った理由を求めることができると考えている。 五 酒税法における規制さて、延々と説明してきたのは、典型的な営業の自由に対する規制の場合に、どう論じるべきか、という問題である。ところが、本問は、酒税法という、国家財政の基盤を確保するための立法及びそれに基づく行政の合憲性という問題だから、上記、積極・消極規制という議論は一切関係ない。
では、ここではどのように論じるべきなのだろうか。冒頭に述べたとおり、判例に依拠して検討していこう。
現在行われている規制の中で、自由権乃至社会権からの内在的制約として説明できず、政策的規制として説明する他はないのが、唯一酒販売の免許制である。少なくとも、政府によれば、そういう説明が行われている。しかし、その場合でも判例は、より多元的な説明を行おうとする傾向を示す。すなわち
「憲法は、租税の納税義務者、課税標準、賦課徴収の方法等については、すべて法律又は法律の定める条件によることを必要とすることのみを定め、その具体的内容は、法律の定めるところにゆだねている(
(最判平成4年12月15日)。
すなわち、判例は、上記のいずれとも異なる独自の基準を立てる。すなわち、租税目的の場合には、その専門技術性に対する尊重から、狭義の合理性基準=明白性基準を採るとするのである。
しかし、租税一般にこのことを認められても、酒税についてもそれが言いうるかどうかは極めて疑問である。確かに、かつては酒税は、国の総税収の3分の1に達するほどの比重を持ち(例えば明治30年)、国税3税の一つといわれた。しかし、近年は精々1兆円程度で推移しているから、国の財政に、やっと1~2%程度の比重しか持っておらず、租税統計を見ても、「その他」の中に埋没している状況である。この程度の税収を確保するために、上記のような議論が必要なのか、という基本的な疑問が存在せざるを得ない。
そのことを、最高裁判所自身が直視し、酒類免許に関して、酒税法自体の合憲性は上記の論理を維持して肯定しながらも、免許行政の運用について、大きく見解を修正したのが、冒頭に強調した、平成10年判決である。それは次のように述べている。
「酒税法10条11号の規定は、前記のとおり、立法目的を達成するための手段として合理性を認め得るとはいえ、申請者の人的、物的、資金的要素に欠陥があって経営の基礎が薄弱と認められる場合にその参入を排除しようとする同条10号の規定と比べれば,手段として間接的なものであることは否定し難いところであるから、酒類販売業の免許制が職業選択の自由に対する重大な制約であることにかんがみると、同条11号の規定を拡大的に運用することは許されるべきではない。したがって、平成元年取扱要領についても、その原則的規定を機械的に適用さえすれば足りるものではなく、事案に応じて、各種例外的取扱いの採用をも積極的に考慮し、弾力的にこれを運用するよう努めるべきである。」
(最高裁判所平成10年7月16日第一小法廷判決)
要するに、法律そのものは合憲だが、その法律の国税庁による運用が硬直化すると、それは違憲になるということである。そして、問題となっている需給調整に関する内規(取扱要領)については、次のように述べた。
「取扱要領は、免許を与えるのは小売基準数量要件又は基準世帯数要件のいずれかを充足する場合に限ることとした上、本件ただし書において、これらのいずれかを充足する場合でも、酒類の需給均衡を破り、ひいては酒税の確保に支障を来すおそれがあると認められる場合は免許を与えないものとする旨定めている。前述したところによれば、右のような取扱要領の定め方が同号の趣旨に沿うものであるかどうかには、問題があるが、小売基準数量要件及び基準世帯数要件自体には、相応の合理性があるものと考えられるから、これらのいずれかを充足する場合、とりわけ需給のバランスを直接的に示す小売基準数量要件を充足する場合には、それでもなお酒類の需給均衡を破るおそれがあることが具体的事実により客観的に根拠付けられて初めて、同号に当たるということができるものと解するのが相当である。本件ただし書きの定めは、極めて一般的抽象的であり、運用指針としての意義に乏しいが、右のような例外的な場合には免許を与えないことができることをいう趣旨に理解するほかはないものというべきである。」
ここで言われていることが、現実の内規の運用と180度逆のことであることは、問題文に照らして明らかであろう。その結果、判決は次のように結論する。
「以上のとおりであるから、原審の確定した事実関係の下において、本件申請が法11条10号及び11号に該当するとして免許を拒否した本件処分に違法はないとした原審の判断には、右各条項の解釈適用を誤る違法があり、右違法は判決に影響を及ぼすことが明らかである。したがって、その余の点につき判断するまでもなく、原判決は破棄を免れない。そして、本件申請が法10条11号に該当するか否かについては、前記四者の総体としての経営状況等を含め、本件申請が小売基準数量要件を充足するにもかかわらず、なお酒類の需給均衡を破るおそれがあるというべき具体的な事由があるかどうかにつき更に審理を尽くして判断する必要があるから,本件を原審に差し戻すこととする。」
要約すれば、国税庁の内規そのものは、その内容の抽象性から辛うじて合憲とされたが、現実の運用は違憲とされたのである。
実は、政府は、このような判決がでることを予め予見し、それを先取りする形で、判決以前に対策を講じていた。すなわち、平成10年3月31日付閣議決定「規制緩和推進3か年計画」に基づいて、一般酒類小売業免許に係る需給調整要件についての緩和がなされた。ただし、激変を緩和するため、次のように漸進的な改革とされた。
1)距離基準(申請販売場と直近酒販店との距離が一定基準以上であること)の廃止(平成12年)
2)免許枠(申請販売場が所在する小売販売地域に、基準人口に照らして決定される免許枠が存在すること)の廃止(平成15年)。
要するに、法律は改正されなかったが、実際にはこの判決に従って、平成15年を以て、この問題に書かれたような需給調整は一切行われなくなったのである。
もっとも、これは、既存の酒類販売業者については、死活問題であった。そこで、国会議員に対する激しい巻き返しが行われ、いわゆる逆特区が作られることになった。平成15年に議員立法により制定された「酒類小売業者の経営の改善等に関する緊急措置法」が根拠法で、それに基づき緊急調整地域が指定された。緊急調整地域においては、酒類小売業免許の付与及び他の地域からの販売場の移転許可を行ってはならないとされている。ただし、この法律は、あくまでも激変緩和を旗印にしていたから、平成17年までの時限立法であった。しかし、業界の働きかけで、平成17年に、同緊急措置法の改正が行われ、平成16年9月1日から平成17年8月31日までの間を有効期間とする緊急調整地域の指定は、平成18年8月31日までの間、指定の有効期間が延長されることとなった。しかし、これも既に失効しているから、この問題に書かれた事態は、完全に過去のものである。
すなわち、平成4年判決は、一見すると平成10年判決においても維持されているように見えるが、その実、完全に覆され、政府も、これを無視できずに、現実問題としては酒税法10条11号に関しては、完全に空文化したのである。
問題を諸君に提示した際にも、平成10年判決については強くアピールしたのであるが、ほとんどの諸君がそれを調べる手間さえもかけなかったことは、残念という他はない。