いわゆる部分社会と大学の自治

甲斐 素直

問題

 A大学法学部大学院には、専攻科と呼ばれる制度がある。これに入学した者は、1年間、特定の教授の講義を履修し、当該科目の単位を履修したと認定されれば、修了資格が得られる(学則参照)。

 Xは、平成○○年度に、本専攻科に入学し、415日に、B教授担当にかかる演習および研究報告10単位を取得すべく、Y法学部長兼大学院長宛に右各科目の履修票を提出した。

 ところが、Bが既往年度において不正行為に関与した疑いが生じたため、Yは、同年95日に、Bに対して同学部教授会及び大学院分科委員会への出席停止の措置をなし、さらに疑いが確実なものとなったため、同年1226日に、Bの授業科目および演習などの授業の各担当を停止する措置をしたうえ、学生に対しては代替の授業科目および演習を履修するように指示を行った。

 しかし、Xは、その指示に従わず、前記のとおり履修票を提出したB担当にかかる演習および研究報告10単位の授業に出席を続けたうえ、Bの実施した試験を受け、Bから合格の判定を受けた。そしてBYに右科目の成績票を提出した。それにもかかわらず、その後、現在に至るまで、YXが右各単位を取得したことの認定を行わず、したがってXが右専攻科を修了したことの認定も行っていない。

 そこで、Xは、Yに対し、右単位の認定並びに専攻科の修了決定をしないことが違法であることの確認を求めて、訴えを提起した。

 これに対し、Yは、単位授与(認定)行為は、純然たる大学内部の問題として大学の自主的、自律的な判断に委ねられるべきものであつて、裁判所の司法審査の対象にはならないと反論した。

 Yの主張に含まれる憲法上の論点について論ぜよ。

   A大学学則抜粋

60条 専攻科の教育課程は、別に定めるところによる。

61条 専攻科に1年以上在学し所定の単位を履修取得した者は、課程を修了したものと認め修了証書を授与する。

[はじめに]

 平成2年の旧司法試験に次のような出題があった。

「いわゆる部分社会における法律上の係争は、その自主的、自律的解決にゆだねるのが適当であり、裁判所の司法審査の対象とはならない。」という見解について、事例を挙げて論ぜよ。

 こういう問題だと、いわゆる部分社会論というのがどういうものかを紹介し、それに対する私見を述べるという形の答案構成になる。

 それに対して、本問では、別にいわゆる部分社会論について論じることは要求されていない。聞かれているのは、「単位授与(認定)行為は、純然たる大学内部の問題として大学の自主的、自律的な判断に委ねられるべきものであつて、裁判所の司法審査の対象にはならない」という主張に対する私見を述べることである。このYの主張は、判例だといわゆる部分社会論で処理することになる。しかし、本問は、平成2年司法試験問題と違って、いわゆる部分社会論に論及することを要求してはいないから、それに拘ること無しに、こうした問題に対する諸君の基本的な説を述べればよいのである。

 すなわち、いわゆる部分社会論に関する学説の対応は、大きく二つに分けることができる。原則的肯定説と、否定説である。否定説はさらに大きく二つに分けられる。第一は有害説である。すなわち、過度の司法消極主義の原因となり、あるいは裁判を受ける権利の侵害になるので有害であり、速やかに放棄すべきである、とする(戸波江二)。第二は、無益説である。地方議会の自律については地方自治の本旨(92条)から、大学の自律については大学の自治(23条)からそれぞれ部分社会論を使用した場合と同様に処理しうるので、このような統一理論は不要とする立場である(芦部信喜、佐藤幸治、樋口陽一等おそらくこれが通説である)。

 もし、諸君が原則肯定説をとるならば、最初に判例の理論の紹介を行うべきである。その上で、どのあたりに問題があるかを指摘して、判例の立場を修正し、それを本問の事案に適用して、どういう答えになるかを論じる、というのが標準的な答案構成となるであろう。すなわち、この説の場合には、分野別に説明すれば、憲法訴訟論に属する論文を書くことになる。

 それに対し、否定説を採る場合には、問題文がいわゆる部分社会論に言及することを要求していない以上、そのの紹介に紙幅を割く必要はない。もちろん、自分の説をしっかり論じた上で、いわゆる部分社会論にも若干言及すれば、それによる加点を期待することはできる。しかし、その逆、いわゆる部分社会論をひたすら紹介し、最後にそれを否定する説をとると簡単に述べる場合には、評価できる部分は全くなく、単純に零点と評価されることになる。

 では、否定説を採る場合には、どんな論文になるのであろうか。

 有害説の場合には、司法権の本質を論じる論文になる。この説は、いわゆる部分社会論を採用した場合には「団体によって不利益処分を受けた構成員の救済が図られない(戸波江二[新版]436頁)」と主張している。すなわち当事者間に具体的事件性ある法律上の紛争がある以上、裁判所は司法審査を拒絶することはできず、必ず判決を下さねばならない、と論じるはずである。したがって、その論文は、司法権概念の定義からはじまる統治機構論中の「司法」に属するものとなる。

 無益説の場合には、本問は憲法23条に関する論文になる。すなわち、学問の自由から大学の自治を導き、司法権も国家権力の一部である以上、大学の自治に属する事項について司法審査を認めることは、結局、大学の自治に対する国家による侵害となると論じる、という答案構成になるはずである。

 今回、諸君から出てきた論文は、皆、最後の無益説を採るものであった。

 そこで、以下においては、まず判例が展開したいわゆる部分社会論がいかなるものであるかを説明し、その後に、それとは別に、大学の自治論を説明する。

一 答案作成上の留意点について

(一) 部分社会論の本質について

 裁判所というものの持つ様々な性格上の限界から、裁判所が、司法判断を下すことを回避するという結論を下す場合が良くある。例えば、私が諸君に対し、不可という評価を与えたとする。それに対し、いや自分は絶対に優のはずだ、と訴えても裁判所は取り合ってくれない。成績評価は、学問的な問題であって、法的判断になじまないという理由からである。本問は、それによく似ている。

 しかし、教員による成績評価の当否自体が争われているのではなく、学内における行政処分で、教員の成績評価権を認めないとしていることが争われている。その結果、法的判断にはなじみうることになる。しかし、学内における処分それ自体が、司法判断を下すのに適当な問題なのか、という基本的な疑問が存在する。

 この判決以前においては、このような場合に、司法介入を回避するという結論を説明する手段として、判例は二通りの論理を持っていた。私立大学の場合には、私人間効力論である。昭和女子大事件を思い出してほしい。それに対し、国公立大学の場合には、特別権力関係論を採用していた。富山大学単位認定事件の第1審、第2審は、いずれもその立場である。しかし、拘置所における在監者の人権に関して、判例は特別権力関係論を否定しているのに、国公立大学で認めては理論的な一貫性に乏しい。そこで、本判決で、それに代わって登場したのが、いわゆる部分社会論である。

 そして、判例はこの理論は、単に国公立校だけではなく、私立校にも適用になると明言している。つまり昭和女子大事件も、この判決理論のうちに含めて考えていかねばならない。そこで、問題は、この事件の射程距離がどこまであるか、である。

 上記昭和女子大事件の場合、学生は退学になっている。あるいは、後で説明する日本共産党・袴田事件では、袴田里見は共産党から除名になっている。つまり、本事件の論理的を当てはめれば、どちらも一般社会との交わりがある処分である。それでも裁判所は、いずれについても司法判断を拒否している。特に、袴田事件の場合には、本判決と同じ、いわゆる部分社会論を使用しているだけに、統一的な説明の必要に迫られることになる。

 富山大学単位認定事件の場合にも、経済学部事件だけではなく、本問で取り上げた大学院専攻科事件においても、いわゆる部分社会論の結論として、司法判断の回避という結論を下す余地はあったのである。これについては、私立大学と国公立大学では、司法介入を許す余地に違いがあると立論して、富山大学大学院専攻科事件と昭和女子大事件の落差を説明する方策を採用することもできる。とにかく、この判例だけを見るのではなく、一連の最高裁判決の流れの中で、この判決の射程距離を見極めて論じる必要がある。

(二) 自律的法規範の存在と司法審査の限界の関係

 諸君の論文では、部分社会に自主的、自律的な法が存在している、ということを認定すれば、そこから、いきなり司法審査の限界になることを肯定する、という書き方をしている。これは、「いわゆる」の付かない普通の部分社会というものを理解していないことから来た誤りである。

 部分社会というものは、どれでも、それ固有の自主的・自律的な法を有している。それが部分社会というものの基本的な定義だからである。すなわち、そうした自主的・自律的な法の存在をメルクマールとして、社会の他の部分と識別できる部分集合のことを部分社会と呼ぶのである。

 普通、部分社会において紛争が生じた場合には、裁判所は、その部分社会の自主的、自律的な法を把握し、それを基準に紛争を解決する。たとえば、売買契約をメルクマールとする部分社会であれば、その当事者が合意した契約内容を把握した上で、それを基準に紛争を解決する。株式会社内部の紛争であれば、取締役会や株主総会決議の内容を把握してそれを基準に紛争を解決する。ただし、たとえば契約内容が公序良俗に違反していたり、少数株主権を侵害していたりすれば、裁判所は、その部分社会の法を排除して、全体社会の法である民法や商法の規定を直接適用して、紛争を解決することがある。しかし、部分社会が自律的法規範があることを理由に、裁判所が司法審査を拒否することはあり得ない。そんなことを認めたら、民事訴訟はすべて司法審査の対象外になると言える。主観訴訟とは、特定の部分社会内部の紛争というのと同義だからである。

 したがって、司法審査権の限界を導くには、単なる部分社会と異なる、「いわゆる部分社会」にだけ存在する特殊性を指摘する必要がある。これが「いわゆる」という言葉をくどいほど付さねばならない理由なのである。だから平成2年司法試験問題でも「いわゆる」部分社会という言葉が使われている。単に「部分社会」といったら、減点になると記憶してほしい。

二 判例の見解

いわゆる部分社会の法理が、判例の発展の中から現れてきたことについては疑問の余地がない。したがって、どのような判例で、どのような議論を行ってきたかを理解しておくことが必要である。関係する重要な判例はたくさんあるが、紙幅の都合もあるので、次の三つの判例に限定して説明する。すなわち、①村議会議員懲罰事件、②富山大学単位認定事件および③日本共産党袴田里見事件である。

(一) 村議懲罰事件(昭和351019日大法廷判決、百選[第5版]414頁)

 この判決は、最高裁判所が初めていわゆる部分社会の法理を使用することを述べた、という点で重要である。新潟県の村議会が、それに属する議員に対し、出席停止という懲戒処分を行ったことの合法性が争われた事件で、最高裁は次のように述べた。

「司法裁判権が、憲法又は他の法律によつてその権限に属するものとされているものの外、一切の法律上の争訟に及ぶことは、裁判所法三条の明定するところであるが、ここに一切の法律上の争訟とはあらゆる法律上の係争という意味ではない。一口に法律上の係争といつても、その範囲は広汎であり、その中には事柄の特質上司法裁判権の対象の外におくを相当とするものがあるのである。けだし、自律的な法規範をもつ社会ないしは団体に在つては、当該規範の実現を内部規律の問題として自治的措置に任せ、必ずしも、裁判にまつを適当としないものがあるからである。本件における出席停止の如き懲罰はまさにそれに該当するものと解するを相当とする。」

 すなわち、この判決ではすべての部分社会ではなく、「自律的な法規範をもつ社会」においては、その内部自律に関する紛争は「必ずしも、裁判にまつを適当としないものがある」と述べたのである。下線を付した箇所に明らかなとおり、自律的法規範を持つ社会であれば、すべてが「いわゆる部分社会」になると述べたのではなく、あくまでもその中には、そういう特殊な類型があると述べただけである。そして、その司法審査に対象外となる特殊類型の部分社会と、司法審査の対象となる一般的な部分社会との間に、どのような違いがあるかは全く述べなかった。単に、村議会はその独立類型のに属する、と宣言しただけなのである。

 この判決では、それに先行する青森県議の米内山除名事件や板橋区議除名事件という懲戒処分の合法性が争われた事件で、同じ行政処分でありながら、それらでは司法審査を肯定したのと違いを説明する目的から、傍論としてであるが、次のように述べた点にもう一つの特徴がある。

前述した二件の事件では、「議員の除名処分を司法裁判の権限内の事項としているが、右は議員の除名処分の如きは、議員の身分の喪失に関する重大事項で、単なる内部規律の問題に止らないからであつて、本件における議員の出席停止の如く議員の権利行使の一時的制限に過ぎないものとは自ら趣を異にしているのである。従つて、前者を司法裁判権に服させても、後者については別途に考慮し、これを司法裁判権の対象から除き、当該自治団体の自治的措置に委ねるを適当とするのである」。

 要するに、出席停止だから司法権は及ばないのであって、除名では及ぶのである。しかし、どのような点で重大性があれば、司法権が及ぶことになるのかについても、この判決でははっきりしない。

(二) 富山大学単位認定事件(昭和52315日大法廷判決)

 この判決は、いわゆる部分社会の法理の内容を、明確に確立した最高裁判決という意味で重要である。そして、内容的には、同じ単位認定事件でありながら、卒業資格に直結する大学院専攻科の学生と、直結しない学部の学生とで区別して論じた、という点でも重要である。学部の学生に関しては、最高裁は次のように述べた。

「裁判所は、憲法に特別の定めがある場合を除いて、一切の法律上の争訟を裁判する権限を有するのであるが(裁判所法31項)、ここにいう一切の法律上の争訟とはあらゆる法律上の係争を意味するものではない。すなわち、ひと口に法律上の係争といつても、その範囲は広汎であり、その中には事柄の特質上裁判所の司法審査の対象外におくのを適当とするものもあるのであつて、例えば、一般市民社会の中にあつてこれとは別個に自律的な法規範を有する特殊な部分社会における法律上の係争のごときは、それが一般市民法秩序と直接の関係を有しない内部的な問題にとどまる限り、その自主的、自律的な解決に委ねるのを適当とし、裁判所の司法審査の対象にはならないものと解するのが、相当である。」

この判決でも、主体となる部分社会そのものは、単に「自律的な法規範を有する特殊な部分社会」と呼ばれているだけで、その「特殊」性がどのような内容なのかについては、はっきりしない。しかし、大学のもつ特殊性がどこにあるかは、次のように明言された。

「大学は、国公立であると私立であるとを問わず、学生の教育と学術の研究とを目的とする教育研究施設であつて、その設置目的を達成するために必要な諸事項については、法令に格別の規定がない場合でも、学則等によりこれを規定し実施することのできる自律的、包括的な権能を有し、一般市民社会とは異なる特殊な部分社会を形成しているのであるから、このような特殊な部分社会である大学における法律上の係争のすべてが当然に裁判所の司法審査の対象になるものではなく、一般市民法秩序と直接の関係を有しない内部的な問題は右司法審査の対象から除かれるべきものであることは、叙上説示の点に照らし、明らかというべきである。」

 すなわち「学生の教育と学術の研究とを目的とする教育研究施設」という点が、その根拠だというのである。その後の「法令に格別の規定がない場合」云々という下りはあまり意味がない。なぜなら、先に説明したとおり、部分社会はどれでも、法例に格別の規定がない場合に自主的・自律的法規範を制定できる点に、その概念の基礎があるからである。しかし、このあたりの記述から、普通の司法審査の対象となる「自律的な法規範を有する部分社会」と、対象とはならない「自律的な法規範を有する特殊な部分社会」の違いは、「大学の自治」に求められるらしいことはわかるのである。

 また、司法権の及ぶ限界については明確になった。すなわち、「一般市民法秩序と直接の関係を有しない内部的な問題にとどまる限り、その自主的、自律的な解決に委ねるのを適当とし、裁判所の司法審査の対象にはならない」というのである。この点から、この判決では大学院専攻科の学生については、卒業に直結することから、一般市民法秩序の問題と位置づけて、次のとおり司法審査を肯定した。

「思うに、国公立の大学は公の教育研究施設として一般市民の利用に供されたものであり、学生は一般市民としてかかる公の施設である国公立大学を利用する権利を有するから、学生に対して国公立大学の利用を拒否することは、学生が一般市民として有する右公の施設を利用する権利を侵害するものとして司法審査の対象になるものというべきである。」

 これは、第一の事件で、除名と懲罰とを区別して論じていた点とも対応する議論となる。つまり、この判決までであれば、判例の論理は一貫していると一応言いうる。

 ところで、本判決に、この引用した下りに奇妙な表現が現れる。大学を卒業する権利のことを、学生が一般市民として有する「公の施設を利用する権利」だといっているのである。公の施設を利用する権利とは、例えば、地方自治法244条が明言している権利である。すなわち、

「普通地方公共団体は、住民の福祉を増進する目的をもつてその利用に供するための施設(これを公の施設という。)を設けるものとする。

 普通地方公共団体は、正当な理由がない限り、住民が公の施設を利用することを拒んではならない。

 普通地方公共団体は、住民が公の施設を利用することについて、不当な差別的取扱いをしてはならない。」

 公の施設とは、図書館とか公民館というように、誰でも利用できる施設のことで、だからこそ、「明白かつ現在の危険」の存在も認められない状態で、施設側の一方的判断で使用を拒めば、例えば泉佐野市民会館事件判例で最高裁判所が明言したように、違憲とされるのである。

 しかし、大学というものは、本当に一般市民の誰もが自由に利用できる施設なのだろうか。大学側の一方的判断で使用を拒まれることはないのだろうか。例えば、諸君が富山大学を受験して成績不良で落ちた場合に、入学許可処分を求めて訴訟を起こしたら、本当に裁判所は、泉佐野市民会館事件判決の論理に従い、諸君を入学させても明白かつ現在の危険が発生するとは認められないから、入学拒否は違憲であるといって救済してくれるのだろうか? 明らかに違う。つまりこの論理は、難しい法律論を展開するまでもなく、明らかにおかしい。

 何でこんなおかしなことを最高裁判所が言うのかというと、それは東大ポポロ事件(最大昭和38522日=百選[第5版]188頁)のためである。この事件で、学生側は、警察の活動が大学の自治を侵害していると主張した。それに対し、最高裁判所は、学生に大学の自治の主体性を否定し、学生の権利は、単なる公の施設の利用権であると論じたのである。大学の自治論でこの問題を解決する場合に、こういうおかしな所をそのまま論文上に再現してはいけない。

(三) 日本共産党袴田里見事件(昭和631220日第3小法廷判決)

 この判決は、除名が明確にいわゆる部分社会の問題になる、と判決した点で重要である。最高裁は次のように述べた。

「政党の結社としての自主性にかんがみると、政党の内部的自律権に属する行為は、法律に特別の定めのない限り尊重すべきであるから、政党が組織内の自律的運営として党員に対してした除名その他の処分の当否については、原則として自律的な解決に委ねるのを相当とし、したがって、政党が党員に対してした処分が一般市民法秩序と直接の関係を有しない内部的な問題にとどまる限り、裁判所の審判権は及ばない」

 この判決は、司法審査の対象とならない「特殊な」部分社会に政党が属する根拠として、「政党の結社としての自主性」に求めた。

 この判決では、一見すると、第一及び第二の判決と同じ論旨を展開しているように見える。しかし、決定的な一点で異なっている。それは、袴田氏が日本共産党から除名されているにも関わらず、それを「一般市民法秩序と直接の関係を有しない内部的な問題にとどまる限り、裁判所の審判権は及ばない」という理由の下に救済を拒否している点である。先に強調したとおり、第一及び第二の判決では、裁判所は懲罰と除名あるいは単に認定と卒業認定を区別して、後者については司法権が及ぶという姿勢を示した。第二の判決では実際にその旨の本案判決を行っている。ところが、本判決では、除名に対して司法権が及ばない、と明言したのである。この二つの判決の論理は明らかに違う。

しかもこれは判例変更ではない。すなわち、先の二つの判決がいずれも大法廷判決であるのに対して、これは第3小法廷判決なのである。したがって、市民法秩序との関わりという点において、部分社会の種類によって異なる判断を許容する、という姿勢が裁判所には存在している、と見ることができる。だから、諸君が判例を肯定するというスタンスで論文を書く場合でも、最低限この袴田事件とのずれは説明しない限り、論文として成り立たないことは、理解してくれると思う。

三 原則承認説

 冒頭に説明したとおり、このようにいわゆる部分社会の判例の論理を紹介する場合には、議論としては原則承認説へと至ることになる。すなわちこの判例の立場をそのまま全面的に承認する学説は存在しない。では、どの当たりに問題を見いだして論じるのかを、以下に説明しよう。この説を理解するには、いわゆる部分社会論に対して否定説がどのように問題を指摘しているかを知らなければならない。

 有害説の代表というべき戸波江二の主張するところから、それを見てみよう。

 1 いわゆる部分社会とされる団体には、地方自治体の議会、国立大学の一学部、政党というような異質のものが混在しており、論理的一貫性がない。すなわち政党はともかく、前2者は通常の場合には、通常は団体の一部であって、団体とは認められていないのである。

 2 司法権が及ばないとする根拠が大雑把にすぎ、説得力がない。内部自律には及ばない、というが、それがどのような場合なのかは、日本共産党事件と他の事件とで矛盾を示しているように、統一ある理論を構築できていない。

 3 大学や労働組合の処分で、司法審査を行っている事例もあり、どのような場合にいわゆる部分社会論が妥当するか、はっきりとしない。

というようなことを書いていけばよいわけである。

 この批判が基本的に正しいことは否定できない。そこで、原則的肯定説の代表的論者である伊藤正己は次のようにいう。

「部分社会と司法権の関係については共通の問題があることを意識しつつも、これを一律に考えるのではなく、当該団体の目的、性格、社会的役割などを考慮して判断することになろう」(憲法[第3版]268頁)

すなわち、部分社会という認定の下に機械的に同一に扱おうとするのではなく、個々の問題についてそれぞれの特徴に応じて個別に処理することを肯定しつつ、そこに特定の性格の部分社会としての共通性を認めているに過ぎない。したがって、共通性の承認という点を除くと、この説と無益説とはかなり近い考え方を示すことになる。現実の判例は、前述のとおり、この説で理解しやすい。すなわち、部分社会という概念で画一的に一定の範囲について司法審査を排除するのではなく、部分社会の性質に応じて、その範囲が変化するからである。

 いわゆる部分社会論の難点の一つは、「自律的な法規範を持つ社会」と述べるだけで、その概念を明確化していない点にある。

 しかし、それをいきなり判例に期待するのはそもそも無理と考える。これは、具体的事案を離れた過度の一般化を禁ずるブランダイスルール3の要求するところだからである。そもそも憲法訴訟における様々の理論、すなわちブランダイスルール、二重の基準、合理性基準などは、いずれも、単一の判決によって一挙に成立したものではなく、数多くの判例の積み重ねの中から、徐々に構築されてきたものである。いわゆる部分社会論も、同様に、そうした判決の積み重ねの中からその含意するところを把握し、構築していくべきものであって、いきなり完成品を望むのは妥当な姿勢とは言えない。

 司法権が及ばない、とする根拠が大雑把である点も、同様に、判例の積み重ねの中で解決されるべき問題であろう。実際に、判例はきめ細かな対応を示している。国や地方公共団体の機関における除名や退学には司法審査が及ぶとする一方で、日本共産党のようなきわめて政治色の強い団体については、除名までも内部自律の問題とする。同様に、昭和女子大事件では、私立大学からの退学は人権の私人間効力の否定から、やはり司法審査が及ばない、とした。

 このような問題について、果たして個別の法理でどこまで対応できるのかは疑問である。例えば、同じく地方自治の尊重といっても、県議会内部における懲罰と、知事部局における懲罰とでは異質のものがあり、92条だけからそのことを説明しきれるとは思えない。むしろ、いわゆるいわゆる部分社会という共通性からアプローチをとる余地が十分にあり得るのではないか、と私は考えるのである。その上で、個々の団体の性質に応じて、きめ細かく適用限界を定めていくべきであり、そこに学説の使命があると考える。

四 学問の自由と大学の自治のかかわり

 今度は、無益説を前提として、この問題をどう論じるべきかを考えてみよう。無益説は、この問題では、いわゆる部分社会論など不要であり、大学の自治で司法審査権の限界は説明できるとする立場である。

(一) 欧米における歴史とわが国における継受

 大学の自治(英語でacademic freedom、ドイツ語でakademische Freiheit)は、学問の自由の核心として発展してきた。学問の自由は、ドイツとアメリカでは異なる発展の歴史を経た(その詳細については、芦部信喜『憲法学Ⅲ』220頁以下参照)。それを簡単にいえば、ドイツでは国家権力から教会類似の独立性を有する存在として大学の自治が保障され、そこで行われる学問の研究は、大学教授が有する特権の結果として保護の対象となった。これに対して、アメリカの場合には表現の自由の一亜型として学問の自由がとらえられ、その学問研究の中心の場所として大学の自治が考えられた。したがって、ドイツ型の場合には、大学以外の場における学問研究はあまり保護の対象とならない、という弱点を有し、アメリカ型の場合には、広く学問の自由が保障される代わりに、大学の自治は建前上は重視されなかった。

 わが国は、戦前、ドイツの強い影響下に大学の自治の理念が導入された。他方、現行憲法は、アメリカの強い影響下に、文言的には学問の自由だけが論及され、大学の自治については全く述べられていない、という構造を持つ。それにもかかわらず、わが国憲法学界は、当初から学問の自由の一環として大学の自治を読む、という点について全く異説を見ない。すなわち、わが国憲法解釈としては、ドイツ流の強力な大学の自治とアメリカ流の広範な学問研究の自由の保障が、同時に肯定されて、いわば両者の長所を兼ね備えた強力な保障が存在している、と理解することができる。

 学問の自由の基本的概念内容は、すべて表現の自由の中に含まれている。その意味では、表現の自由から当然に導くことのできる下位概念である。このため、独立の条文としてこれを保障している憲法は、世界的にみても少ない。非常に詳細な人権カタログを持つ国際人権規約においても、学問の自由の保障は行われていない。わが国でこれがわざわざ明文化されたのは、天皇機関説事件に代表されるように、戦前のわが国で、大学における研究活動に対して露骨な干渉が存在していたため、特にこれを保障する独自の意義の存在が認められたからである。その意味で、学問の自由を表現の自由から独立して保障する意義は、主として大学の自治を中心として発生する。

 表現の自由は、人権規約にあるとおり、今日においては「あらゆる種類の情報及び考えを求め、受け及び伝える自由を含む」ものと理解されている。これを学問の自由に投影して考えれば、情報を求め、受ける活動に対応するものとしては「学問的真実の研究の自由」が考えられる。もちろん研究そのものは内心の自由の形態をとって行われる部分もあるが、それは独立の概念として把握する必要はない。また、その成果を他に伝える自由に対応するものとしては「研究成果の発表の自由」を考えることができる。要するに学問の自由はこの二つの下位概念に分解して理解するのが妥当である。このうち、後者の研究成果発表の自由の重要な内容としては、さらに「教授の自由」と「成果刊行の自由」がある。これらの自由に対する国家の干渉を禁じることが、大学の自治概念の中心となる。

五 大学の自治

(一) 大学の自治の保障根拠

 大学の自治について、学問の自由の一環として簡単に論ずる場合には、単純に制度的保障説に依って議論を展開すれば十分であろう。しかし、本問のようにもっぱら大学の自治を論ずることを要求されている場合には、そのような安直な態度は許されない。

 例えば一番簡単なコンメンタールであり、したがって国家試験受験生諸君であれば当然にもっていると思われる「基本法コンメンタール=憲法」第4版、日本評論社刊147頁を開いてみると、この問題に関しては、通説である①制度的保障説の他に、②機能的自由説(高柳信一他)、③23条・26条説(兼子仁、永井憲一他)、④教師団自治説(佐藤功)など多数の異説が存在していることが直ちに判るはずである。更に同書に載っていない異説として⑤結社の内部運営の自由説(阪本昌成)等も存在している。

 諸君が使用している基本書は、おそらくほとんどが制度的保障説であろうから、これら異説の内容をさしあたり理解する必要はない。それら異説から制度的保障説に対してどのような批判が行われているかを知っていれば、それだけで十分異説を意識した理由付けが可能になるはずである。

 先に紹介した他説から、制度的保障説に対して指摘される問題点は次のものである。

第一に、制度的保障といいながら、その不可侵の中核が何かを論じていない。

第二に、仮に大学制度が、制度的保障にいう制度であるとするならば、小学校教育から大学教育までの全ての制度が制度的保障の対象となるのではないか。

 これらの指摘はまことに鋭い。特に第一の指摘はもっともで、制度的保障説という以上、どのような点が不可侵の中核であり、どの点については立法等により侵害可能であるかをきちんと説明しなければ、説として成立し得ない。困ったことに、制度的保障説を採用している学者で、こうした疑問点に対する回答をきちんとした形で論じている者は管見の限りでは見あたらない。そこで、以下に述べるのは私見である。

 私は、この問題は、地方自治との比較論で理解するのが一番妥当と考えている。すなわち、地方自治制度を制度的保障ととらえる場合、住民自治と団体自治の二つの概念を、その制度の中核を構成する概念ととらえている。この二つの理念は、単に地方公共団体に限らず、およそあらゆる団体における自治を考えるに当たり、普遍妥当する理念であると考える。住民自治とは、すなわち、団体内部における意思決定は、その団体を構成する者の合議によって決せられるべきである、という意味であり、団体自治とは、その団体の意思形成に、外部勢力、特に国家が介入することを禁ずるという意味である。大学の自治においても、この二つが同じように、不可侵の制度的中核として存在する。

 第二の問題については、家永教科書訴訟における中心論点となった重大な問題なので、簡単に説明することはできないので、ここでは触れない。

 大学の自治をどのように把握するにせよ、いわゆる法人の人権享有主体性と結びつけて論ずるのは間違いである。むしろ、法人の人権主体性では説明不可能な問題であるからこそ、制度的保障としての大学の自治がいわれると考えた方がよい。

 本来の大学の自治に関する議論だと、ここから自治権の主体は誰か、特に学生はそれに含まれるか、ということが中心論点となる。しかし、本問では、これは関係がないので、割愛する。

 大学の自治権の重要な要素として、自主立法権を考えることが出来る。通常、学則と言われるものである。この自主立法権としての学則を、一般の部分社会における自律的法規範と比べると、学則制定権は、大学の自治という憲法上の根拠に基づいて認められる点が、一般の部分社会の法規範との最大の相違である。その結果、学則の当否に対する司法審査が大学の自治の侵害と校正されることになる。

 同様に重要な要素として、自主行政権を考えねばならない。本問で問題となっている、特定教員の成績評価権を奪うという教授会の決定は、まさにこの自主行政権だからである。

 この点について、昭和女子大事件最高裁判所判決(昭和49719日=百選[第5版]28頁)は次のように述べた。

「大学は、国公立であると私立であるとを問わず、学生の教育と学術の研究を目的とする公共的な施設であり、法律に格別の規定がない場合でも、その設置目的を達成するために必要な事項を学則等により一方的に制定し、これによつて在学する学生を規律する包括的権能を有するものと解すべきである。」

 これが大学の自治に基づく自主行政権による学生規律権と言うことになる。最高裁は、それは無限定のものではない、という。

「学校当局の有する右の包括的権能は無制限なものではありえない。在学関係設定の目的と関連し、かつ、その内容が社会通念に照らして合理的と認められる範囲においてのみ是認されるものであるが、具体的に学生のいかなる行動についていかなる程度、方法の規制を加えることが適切であるとするかは、それが教育上の措置に関するものであるだけに、必ずしも画一的に決することはできず、各学校の伝統ないし校風や教育方針によつてもおのずから異なることを認めざるをえないのである。」

 この判決当時においては、最高裁判所はまだ部分社会という概念をとっていなかったので、そのことは明言されていない。しかし、冒頭にも述べたとおり、この判決は、明らかにいわゆる部分社会論と同一の基本的問題意識の下に書かれており、実質的にはいわゆる部分社会論と理解することができる。

 しかし、このように、自主立法に基づく自主行政権の発動と考えた場合、そして、特に後に現れる袴田里見事件判例までも合わせ考えるとき、なぜ本問の大学院生が異なる考慮の対象となるのかはよく判らない。学部学生の場合でも、必修科目を落とした場合には、卒業に必要な単位を獲得していても、卒業できないという点において、専攻科学生と何ら違いはないからである。したがって、大学の自治を尊重するという立場から、大学当局の単位認定権を考える場合には、専攻科学生の場合にも、自主行政権を尊重し、やはり司法審査の対象とはならないと考えるのが妥当であろう。