私企業における女性差別
甲斐素直
問題
そこで、
Xは、Yを相手取り、Xを不採用とした処分は憲法に違反して無効であるとして、Yとの雇用関係確認の訴えを提起した。この訴訟について憲法上の問題を論ぜよ。
[はじめに]
(一) 私企業における性差別が平等原則違反として有名な事件として、日産自動車事件(最高裁昭和
56年3月24日判決=百選[第5版]30頁)がある。この事件では、平等原則違反は民法90条違反として争われ、その旨が確認された。これは、人権の私人間効力と呼ばれる問題である。したがって、ある程度以上きちんと勉強をしていれば、この判例に引っ張られて、諸君がその点の議論を一所懸命にすると、私は予想していた。予想に反して、全く議論をする人がなかったが、それはかなり問題ある状況といえる。
問題は、それについてどの程度の議論をすべきか、という点である。これについては、最低限の減点に押さえつつ、できるだけ簡単に通り過ぎる、というのが常識的な判断といえるであろう。きちんと答案構成をし、すべての論点を正しく把握していればわかると思うが、本問の中心論点は、平等権、すなわち女性に対する差別問題にあり、そこをしっかり書くことが合否の鍵を握っているからである。したがって、中心論点とならない部分はできるだけ記述を減らす、というのが合格のための答案構成というものだからである。ただ、これは間違いなく論点だから、論及しなければかなり大幅減点となる。簡にして要を得た記述をするかがポイントである。
ただし、このレジュメでは、この基本的な問題を、諸君にしっかり理解してもらう良いチャンスなので、ある程度詳しく説明している。
(二) 本問の中心論点が平等権であることは自明であるが、それに関して忘れてならないのは、一連の国連条約の存在であり、本問の場合には女性差別撤廃条約である。それに言及しないと、大幅な減点は必至と理解してほしい。
一般に、諸君は国連条約について、どう議論をしたらよいのか判っていない。条約というと、条約優位説とか憲法優位説という方向に頭が走ってしまい、それと人権論をどう融合させたらよいのか、判らないためにできれば触れたくない、という傾向を示すのである。
しかし、これは難しく考える必要はない。国連条約は、憲法の細則だ、とかんがえてもらえれば良い。例えば、憲法
21条は表現の自由を保障する。しかし、憲法21条には、言論、出版という例示があるにとどまり、表現の自由が具体的にどういう内容の権利であるかは述べられていない。そこで、国際人権B規約19条2項の述べるところにより、あらゆる種類の情報及び考えを求め、受け、伝える自由と考えるわけである。本問の場合であれば、憲法
14条は性に基づく差別を禁止している。しかし、性に基づくどのような差別が違憲のなるのかについては全く述べられていない。そこを補充するのが女性差別撤廃条約である。そして、本問の場合には、この条約の解釈から、男女雇用均等法5条が、「事業主は、労働者の募集及び採用について、その性別にかかわりなく均等な機会を与えなければならない。」と定めているのを、どう解釈すべきかが、中心論点になるのである。同様に、例えば人種差別であれば、人種差別撤廃条約によって、
14条の文言の細部を補充する、という解釈手法をとればよい。 一 私人間効力が問題となる人権とは?人権の私人間効力という言い方を聞くと、まるであらゆる人権について、私人間効力が問題になるような印象を受ける。その結果、学生諸君の中には、私人間で人権が論点になる問題にぶつかると、それが何であれ、構わず私人間効力について記述する者をよく見かける。しかし、今日においては、私人間効力が問題となる人権は、意外に少ない。そのあたりからまず説明してみよう。
近代市民革命は、国家の権力から人民を解放することを目的として行われた。そうした自由主義の理念を根本原理とする夜警国家にあっては、国家の機能は治安の維持と国防に限定される。憲法は、国家から個人の権利を守るために存在しているのであるから、互いに対等な地位に立つ私人間にそれが適用にならないのは、当然のことということができる。
しかし、
19世紀末から今世紀にかけての資本主義経済の発達は、国家と人民との中間に位置するいわゆる中間大規模組織の発生・発達をもたらした。これらの組織は、一面においては、自然人の人権行使手段として、人権享有主体性までも一定の範囲で認められる(これが団体の人権享有主体性の問題である)。同時に、その構成員である自然人の自由を、一定範囲で制限する機能を有する。この結果、単に国家が私人間の問題に介入しないという政策(レッセ・フェール)を維持しているだけでは、必ずしも自然人の自由を確保することを意味しないということが明らかになってきた。他方、同時に起きた民主主義の発達は、国家が人民の権利を抑圧するものではなく、それどころかその権利を擁護する味方として機能することを、人民として信用できる状態をもたらした。こうして、国家が人権の擁護者として積極的に私人間に介入する積極国家が誕生するに至った。
積極国家の下においては、憲法そのものにより、国家に積極的に私人間に介入することが命じられている人権(すなわち社会権)については、私人間での効力が肯定されることは当然のことであって、改めて議論する必要すら存在しない。
また、わが国憲法の根本原理である個人主義に照らし、個人の尊厳そのものを踏みにじるような形態の私的自治が、憲法のレベルにおいても許されないことも当然である。私法上、生命権や貞操権、あるいは私法上のプライバシーに代表される人格権と呼ばれる権利の使用、収益、処分を内容とするものがこれに当たる。人格権は、それが尊重されることは憲法上あまりにも当然であるため、ほとんど憲法に規定はなく、明文があるのはわずかに奴隷的拘束の禁止(
18条)程度に止まる。しかし、その他の権利についても同様に、私人間においても直接適用があると考えるべきである。さらに、積極国家の基礎を形成している健全な民主主義を揺らがすような行為は、私人間で行われることが多い。それは民主主義の直接的な脅威であるが故に、憲法レベルにおいて禁止されるのは当然である。これもあまりに当然のことであるために、憲法に明文があるのは、選挙権の行使に私的にも責任は問われることはない(
15条4項)という程度に過ぎない。しかし、その他の参政権行使を妨げる行為についても同様に考えるべきである。例えば、選挙において立候補する自由は、次の通り、人権として直接私人間にも適用がある、と最高裁は述べている。「選挙に立候補しようとする者がその立候補について不当に制約を受けるようなことがあれば、そのことは、ひいては、選挙人の自由な意思の表明を阻害することとなり、自由かつ公正な選挙の本旨に反することとならざるを得ない。この意味において、立候補の自由は、選挙権の自由な行使と表裏の関係にあり、自由かつ公正な選挙を維持するうえで、きわめて重要である。このような見地からいえば、憲法
最大昭和
43年12月4日(三井美唄事件=百選第5版326頁参照)そしてこの立候補の自由を侵害しない限度でしか、労働者の団結権から導かれる労働組合の統制権を認めなかったのである。
結局、私人間効力が問題となる種類の人権とは、消極国家において、従来厳密に国家が私人間に介入することを禁じられていた一連の基本権-そのほとんどは論理の必然から自由権及び自由主義的平等権-である。
今一つ、積極国家であることから、私人間に国家が積極的に介入するという立法を、国会が行うこと自体は当然に合憲であるという前提が存在しているということに注意するべきである。近時、高橋和之は無効力説を説いているが、その高橋も、立法者の立法義務の問題と捉えてこれを肯定する。
例えば、家は個人の城であるから、家庭内の問題に国家権力が介入するのは許されない。しかし、夫婦喧嘩でも、女性が一方的に被害者になる自体が多発しているのを放置できないとして、「配偶者からの暴力の防止及び被害者の保護に関する法律」(いわゆる
DV法)を制定することができる。ちなみに同法前文は次のように述べている。「我が国においては、日本国憲法
このような国家権力の家庭内への介入を許容する立法が、どの限度で許容されるかについては、それ自体が憲法学的に検討しなければならない問題であり、この前文の存在は、立法者自身にも同様の問題意識があることを示している。しかし、ここで諸君に見て欲しいのは、そのような問題についても、人権の直接適用を認める立法が厳に存在しているという事実である。
したがって、いわゆる人権の私人間効力と呼ばれる問題を厳密に表現し直すならば、
「歴史的に国家と国民の関係だけを規律するとされている種類の基本権が、国会の立法を待たずして、私人間に適用になることはあるか。あるとすれば、それはどのような形を採用して行われるべきか。」
ということになる。私人間効力論とは、その程度の問題なのであって、私人の間で人権が論じられさえすれば、常に論点になるというものでは決してない。
* * *
人権の私人間効力は、上述のとおり、もっぱら自由権及び自由主義的平等権で問題になる。本問では、労働の権利における平等だから、福祉主義的平等の問題になっていると捉えることができる。そう捉えた場合には、したがって私人間効力は問題にならない、と結論することになる。それも一つの論文であり、十分合格答案たり得る。
ただ、本問をもう少し細かく読むと、
Yは男性と女性とで、試験制度を異ならせていることが問題になっている。すなわち、機会の平等に反しているのである。機会の平等とは自由主義的平等概念である。したがって、その点を重視していけば、判例の言うとおり、私人間効力の問題と捉えることも、決して間違いではない。しかし、そう考えた場合も、本問では、私人間効力の論理を適用すべきではない。なぜなら、男女雇用機会均等法が存在しているからである。すなわち、先に述べたとおり、国会が立法により、私人間に国家が介入すべきであると定めた場合には、私人間効力の論理は適用されないのである。
二 法の下の平等の理念
(一) 本問の中心論点は、女性差別撤廃条約と男女雇用機会均等法の解釈論であって、平等権は、その導入部に過ぎない。だから、論文としては、平等権に関してはできるだけさらっと通り過ぎて、中心論点に行数を投入するのが正しい。ところが、女性差別撤廃条約についてはよく判らないものだから書きようが無く、均等法についてはその存在に気がつきもしないところから、平等権に関してやたら詳しく論じる諸君が続出した。それが正しければよいのだが、間違った理解としか思えないものが多かった。そこで、以下では、予定を変更し、少し詳しい説明を述べる。
(二) 諸君の論文で、最大の問題は、
14条が相対的平等を定めている、ということを、単に絶対的平等を考えることができないから…という式の形式論理で説明する癖が身に染みついている、ということである。絶対的保障というのは、君たちが形式論理で考えるほど突飛な概念ではない。
15条以下の有名基本権について考えてみれば、それは直ちに判る。例えば信教の自由の侵害が成立する為には、他人の信教の自由が侵害されているかどうかを考える必要はない。それが、信教の自由という権利が絶対的に保障されている、という意味である。しかし、信教の自由が絶対的に保障されていると言うことは、それを行使することで他者の人権を侵害できるということを意味するものではない。だから、加持祈祷で他人を殴り殺したり、宗教団体から脱走した信者を暴力を持って連れ戻す自由は認められない。その意味では、信教の自由も相対的保障にすぎないといえるかもしれない。つまり、憲法学で絶対的平等が保障されるという場合、それは決して一切の差別が禁止されるという意味ではない。他者との比較を抜きにして、平等権侵害の成立を考えることができるか、というだけの議論なのである。それを肯定するのが平等「権」説であり、それを否定して、平等とは他者との比較において異なる取り扱いがなされていることを言う、と考えるのが、平等「原則」説なのである。
通説は平等原則説をとっている。すなわち、平等権は、常に他者との比較においてのみ成り立つものであり、したがって実体的な権利性を持たない、とする。そこで、平等権はそれ自体としては無内容(あるいは無定型)であり、単一の権利概念としては成り立たないから、憲法
14条は端的に平等原則を定めたものと解しておけば足りると考えるのである。権利ではなく、関わり合いのある権利・利益に対する規制の不合理さをいっているに過ぎないからこそ、他者との比較で不合理である(相対的平等)、という主張が可能になる。権利である限り、その絶対的な保障状態を考えることは可能なはずなのである。平等権という表現は、こうした平等原則に従った処遇を主張する権利程度に理解すればよい。ある者に対して優遇的処遇をすることもまた、平等原則違反状態である。これに対して、少数説は、平等権とは文字通り権利である、と主張する。その説の内容としては次の
2点がある。すなわち、第一に、権利侵害といわなければ司法救済が得られないのではないか、という点である。これを受けて、平等原則説との相違として、第二に、平等権として権利救済が得られるのは、平等原則違反の場合よりも狭くなる、と主張する。すなわち、平等権侵害を主張できるのは冷遇されているものだけであり、求める内容は標準的処遇までである、とするのである(少数説にたつ代表的な論文として、川添利幸「平等原則と平等権」公法研究45号1頁=1983年=がある)。したがって、こちらの説を採る場合には、優遇的処遇をすることは、何の憲法問題も引き起こさないことになる。(三) 合理的差別
平等原則説にたつ場合には、当然、相対的平等という概念が導かれる。先に、法とは正義の意味であると述べた。アリストテレスによると、公法の領域を支配している形式的意味の正義は「配分的正義」と呼ばれるもので、これは「等しきものは等しく、等しからざるものは等しからざるように扱え」という法諺により有名である。この法諺に端的に示されているとおり、憲法や民法のような基本的な法律は別格として、それ以外の法は、すべて人を何らかの基準により様々な類型に分けた上で、その類型に該当する人に、類型的に同一の取り扱いをするものである(二重の一般性)。すなわち、類型化せずにすべての人を完全に平等に取り扱うということは、実は法律の制定権を否定する、ということになる。したがって、平等主義の要求というのは、近代国家においては、上記類型分けが正義にかなったものであることを要求するにとどまる。正義にかなっている状態を、普通「合理的な区別(差別)」と呼んでいる。前に平等権とは、平等原則の意味である、と述べたのは、結局、近代法における正義理念といっているのと同じことになる。
すなわち、「法の下の平等」という場合における、法とは、法の支配
rule of lawとか、法定の手続きの保障 due process of lawというときの法law の意味であって、自然法思想では絶対的に無謬の法のことである。しかし、わが国は基本的に自然法思想を取らず、実証法思想を取る。その場合には、実質的正義そのものと理解するべきである。したがって、行政や司法のみならず、立法もこの平等原則に従う必要がある。法律が実質的正義に背馳する内容のものであれば、当然に本条に違反して違憲と評価されることになる。この結果、憲法
13条と同様に、14条もまた、包括的基本権の1種であると考えられる。憲法は公法秩序を定める法規範であるから、そこに保障される人権は当然すべて配分的正義の実現を目指している。そこで、ほとんどの場合には、14条に言及するまでもなく、個別の具体的権利の中で平等原則を読み切れる。例えば、三菱樹脂事件の場合、思想・信条に基づく差別的取扱いであるから、広い意味では間違いなく平等原則違反の事件であるが、解釈論的には19条の思想・信条の自由に対する侵害として把握すれば十分であって、14条に言及する必要はない。が、例えば議員定数違憲訴訟における47条のように、その権利の歴史的あるいは文言的理由から個別の人権では読み切れない場合には、14条を使用して権利を保護する必要が生ずる。あるいは従来の人権カタログでは確立された人権とは認識されてこなかった新しい人権については、事件の内容によって、13条を使用するのが適当な場合もあるが、内容的に平等原則が問題になる場合には、14条を使って解釈論を展開する方が妥当なのである。本問の場合に、論文の書き方としては、憲法
27条の労働の権利として議論する方法が考えられる。その場合には、27条の内容として、そこで要求される平等を論じれば足り、憲法14条に論及する必要はない。三 女性差別
(一) 総論
平等原則の内容が、相対的平等である、ということは、具体的な場合に何が上記憲法原理に合致した合理的な区別といえるのか、という問題は、その概念を支える社会の価値観によって大きく左右される。その結果、時代による差異というものも大きなものとなる。
米国で、一番最初に女性差別問題を扱ったのは
1873年のBradwell v. Illinois事件である。イリノイ州が女性に弁護士資格を争った事件で、連邦最高裁判所は、修正14条が「いかなる州も、合衆国市民の特権又は免除の制限をする法律を制定し、又は執行してはならない」という平等原則保障規定の解釈として、単に州弁護士会への入会は合衆国市民としての権利ではないから、修正14条の保護対象ではない、という形式論理で退けた。しかし、この判例が有名なのはそれに付されたブラッドレー判事の補足意見のためである。すなわち、男性は女性の保護者であり守り手であること、女性の性格が社会的職業に不適切であること、女性の役割は家庭内のことに属し、それが女性らしさにもっとも適合すること、等、今日から見れば明らかに女性差別と断ぜざるを得ないことが堂々と述べられて、それが合理的区別の根拠とされたのである。もちろん、この意見は突出した意見ではなく、これがその時代においての標準的な見解であった、ということができる。ご存じのとおり、今日の米国では、その修正14条の解釈として、軍人になる道を女性に閉ざすことさえも、女性差別と考えられていることを思うと、社会における価値観の激変がよく判る。これほど極端なものではないまでも、わが国現行憲法
14条の解釈にも、社会の価値観の変化は顕著に認めることができる。すなわち、14条が性差別を明確に禁じているにも関わらず、労働基準法は、第6章女子及び年少者という規定を設けて、年少者と並んで女子に対して幅広く特別の保護ないし制約を加えてきた。これに対して、かっては次のように説明されてきた。「成年の女子を特別に保護することは、一見男女平等主義に反するように見えるが、女子の肉体的、生理的脆弱性に基づく合理的差別であるので憲法違反の問題は起こり得ない。」 山本浩三「『法の下の平等』に関する立法及び判例の動向」清宮四郎・佐藤功編『憲法講座』第
今日、このような肉体的、生理的脆弱性は、合理的区別の根拠足り得ないとして否定されている。すなわち、女性だけが妊娠し、出産するという男女の生物学的差違が男女間に存在することは明らかである。これに基づく差別は明らかに合理的である。これに対して、ここで言及されている肉体的、生理的脆弱性は最終的には個人差に帰着する。平均的男性より肉体的、生理的に強靱な女性がいる一方、平均的女性より脆弱な男性もまたいるからである。したがって、こうした平均的女性像という観点からの差別は、むしろそうした能力において男性を上回る女性の社会進出を阻む作用を果たすことになるからである。
女子差別撤廃条約(
1979年国連総会採択、日本は1980年署名、1985年国会承認)は次のように定めて、そのことを明確にしている。「
すなわち、女性に対する優遇を定めるものであっても、それが母性保護以外の根拠の場合には、本条の反対解釈から、それは性による差別となる。本条につき、反対解釈をすべきであることは、その立法過程に明らかである。すなわち原案は、肉体的、生理的脆弱性にもとずく保護も許容するものであったのが、まさに上述の問題点が指摘された結果、現行の条文のとおり、母性保護にのみが許容されるという表現に修正されたからである。
本問とは議論がずれるが、女性に対するアファーマティブ・アクションがどの限度で認められるかについては、女子差別撤廃条約では次のような形で立法的に解決していることも記憶にとどめてほしい。すなわち、
「
このことから、現に性による差別状態が存在しているときに、それを早期に解消する手段として女性に対し、一時的に優遇措置を与えることは、平等原則違反とはならない、ということができる。例えば、国家公務員Ⅰ種試験法律職では、女子は受験者の
3割弱にすぎず、合格者に占める割合ではさらに大幅に低下して2割弱にすぎない。このような場合には、女子に対する優遇措置を考慮する余地はあるであろう(考慮しなければ違憲ということではない)。以上のことから、冒頭に述べた男女雇用機会均等法
5条の解釈に当たっては、母性保護の目的から採用試験に差異をもうけることは認められるが、それ以外の一切の差別的取り扱いは、同条に違反し、違法と評価されることになる。四 私人間効力の考え方
男女雇用機会均等法がなければ、依然として日産自動車事件の論理が通用する余地があることを先に説明した。そこで、そのような事例であれば、どのように論じるべきかを、この機会に説明しておきたい。
近代憲法においては、基本的人権規定の「名宛人」は、本来国家であり、したがってそれが適用されるのは、公権力と国民との関係と、現行の憲法理論においては捉えられてきた。つまり私人間に人権の効力は及ばない、というのが近代市民国家における憲法の常識といえる。平等権であれば、これは国家が国民を平等に扱うことを求める権利であって、私人間に適用になるものではない。だから、例えばトヨタ自動車が、豊田一族の御曹司を、他の候補者を押しのけて社長に据えても、何ら平等違反という問題にはならない。しかし、中間団体の持つ重要性から、私人間にも人権の適用を認めるべきではないか、という問題意識が、第
2次大戦後に、米国とドイツで、これに対する問題意識が芽生えた。そのうち、米国におけるものは、「スティト・アクションの法理」と呼ばれるものである。しかし、諸君は、ドイツ流の間接的効力説に関心があると思われるので、ここでは、間接効力説とはどのような考え方なのか、という点だけを次に説明する。(一) ドイツにおける私人間効力論
日本語では、法と権利は別の言葉で表現されている。ところが、ドイツ語では、法も権利も同じ“
Recht”という言葉で表現される。これはドイツ人にとっても、少々紛らわしい。そこで、議論しているのが、法なのか、権利なのかを特に明確にする必要がある場合には、法については“objektives Recht”(すなわち客観的な法)、権利については“subjektives Recht”(主観的な権利)と呼んで区別する。日本語で、基本的人権という場合、それが主観的な権利について論じていることは明らかである。ところが、ドイツでは上記の理由から、それが主観的な権利を意味しているのか、客観的な法を意味しているのかは、文言だけからでは決定できない。その結果、憲法学説は、むしろ、基本的人権という概念には、主観的な権利としての側面と、客観的な法秩序としての側面の二つがある、と一般に考えるようになった。そして、主観的権利としての基本権は国家に対してしか効力を持たないが、客観的法としての側面は、全法秩序に対して効力を持つという考え方が発展した。
その場合、その客観的法秩序が私人間に直接に効力を持つのか(直接効力説)、間接的な効力にとどまるのか(間接効力説)が論じられるに至った。諸君の論文を見ると、直接効力説とは、人権が直接効力を持つ、という前提で非難しているものがよくあるが、これは、完全な間違いなのである。これに対して、二つの側面を分割することなく、そもそも人権は私人間には効力を持たないという考え方も存在する。これが無効力説であり、近時、高橋和之がこの説を採ることを明らかにしたことで、広く学界の関心を呼んでいる(「『憲法上の人権』の効力は私人間に及ばない-人権の第三者効力論における『無効力説』の再評価」ジュリスト
1245号=2003年6月1日号137頁以下に収録の論文参照)。この点を巡って、ドイツ連邦憲法裁判所で争われたのがリュート判決(
Lueth-Urteil, BVferGE 7,198)である。これは、ハンブルク州広報室長であるリュートが、公開の席や新聞紙上で、ナチス時代にユダヤ人迫害映画を作成した映画監督ハーランを名指しにして、彼がドイツ映画界に再登場することは、ドイツの国際的評価を破壊するとして、彼の映画のボイコットを呼びかけたのに対して、ハーランの映画の配給会社が訴えた事件である。この判決において、ドイツ連邦憲法裁判所は次のように述べた。「基本権は、基本権思想史・制定史、憲法異議申立制度の趣旨からして、第
このように、憲法裁判所判例が明確に間接効力説を採用したことも大いに寄与して、ドイツでは、間接効力説が、通説的地位を持つようになった。
この説で判りにくいのは、客観的法は何故直接適用されないのか、と言う点である。この点については、明確に述べている者はいない。高橋和之は、先に紹介した論文の中で、次のように述べている。
「おそらく、それはこの法的価値が未だ抽象的な段階のものであり、現実の適用を見るためには『具体化』されなければならないからであろう。その具体化は、一方で、『主観的な基本権』規定として憲法の中で争われるが、他方で、私人間については、私法の一般条項への価値充填という操作を通じて行われるという構想なのであろう。」
このような考え方にはいろいろな問題を含んでいるが、諸君のレベルで、そこまで掘り下げる必要はないであろう。
(二) 挙証責任の配分
間接適用説をとる場合、その訴訟はいわゆる憲法訴訟ではなく、純然たる民事訴訟となる。したがって、憲法訴訟で説かれる審査基準論はここでは不要である。その代わりに、それと同様の重要性を持つのが、挙証責任の配分の問題である。
考え方としては二通りあり得る。基本的に私的自治が優越している法領域であるから憲法規範が劣後すると考えるか、それとも憲法規範は公序となっているとして私的自治に優越すると考えるか、である。
前者の考えを採ると、人権の間接適用を主張する側が挙証責任を負うと考えるべきことになる。これに対して、後者の考えを採ると、私的自治を主張する側が当該場合において憲法が公序ではない、と挙証する責任を負うべきことになる。
例えば三菱樹脂事件仙台高裁判決は「社員採用試験の際、応募者にその政治的思想、信条に関係のあることを申請させることは、公序良俗に反し、許されない」として、企業側に挙証責任を負わせた結果、原告が勝訴した。これに対して、同事件の最高裁は、個人の基本的自由や平等に対する侵害の態様・程度が「社会的に許容しうる限度を越える」ときは、「場合によっては、、私的自治に対する一般的制限規定である民法
1条、90条や不法行為に関する諸規定等の適切な運用によって」私的自治の原則と人権との適切な調整を図る方途も存すると指摘して、原則的に私的自治を優越させた結果、挙証責任を従業員側に課した結果、企業側が勝訴している。公序良俗というものが、とらえどころのない抽象的な概念であることを考えると、現実の裁判においては、その内容の積極的な証明は至難の技であり、したがって、挙証責任の配分が決定的な重要性を持つ。そのことは、上記三菱樹脂事件の下級審と最高裁の判決の差に明らかであろう。
私人間効力一般としては、どちらと解すべきかを一律に決定することは困難であろう。すなわち、個々の人権ごとに、さらには個別の事例ごとに、個別に決定されるべきである。例えば、三菱樹脂事件のような、雇用関係における思想信条の問題であれば、一般的には、内心の自由の重要性に鑑み、それを侵害するような行為には公序良俗違反性が推定されると言うべきであり、したがって企業側が自らの行為が公序良俗に違反しないことを証明する義務を負うと言うべきである。しかし、問題となっているのが、いわゆる傾向企業である場合には、企業は自らが傾向企業であることさえ証明すれば、原則的には思想信条を調査するような行為が許容されるというべきである。したがって、その場合には逆に従業員側が、その調査が例外的に公序良俗違反となることを挙証する責任を負うと考える。
場合によっては、立法的に解決されている場合もある。例えば、企業が性に基づく差別を行っている場合における挙証責任の配分に関しては、今日においては、女子差別撤廃条約が立法的に解決している、というべきである。すなわち同条約
2条eは、企業が性差別を撤廃するためのすべての適当な措置をとることを求めており、その措置の内容として「女子に対する差別を撤廃する政策をすべての適当な手段により、かつ、遅滞なく追求する(2条本文)」義務を締約国に課している。これは、私人間においても、性差別の存在は原則的に公序良俗違反と評価すべきことを要請していると考える。したがって、企業側が合理的差別であることを挙証する義務を負うのである。挙証に失敗すれば、そのような就業規則は自動的に公序良俗違反と評価されることになる。また、近時有力になりつつある
14条列挙事項特別意味説にしたがえば、性別など、そこに列挙されているものは、その歴史的背景から、私人間においてもそれに抵触する行為に対しては公序良俗違反という推定が働き、それとは異なる主張をする側が、公序良俗該当性を挙証する責任がある、というべきことになろう。