マスメディアへの反論文掲載請求権

甲斐素直

問題

 政党甲は、国会において多数の議席を有する与党である。甲は、近づいてきた選挙戦に向けて、議席をさらに伸ばすために、野党第一党である政党Xを批判する次のような意見広告を多数の新聞社に掲載するよう求めた。

 その内容は、「X政党は、議席さえ取れればそれでいいのか。選挙戦が近づいても甲政党に対する批判ばかりをしていて、具体的に対立案・方針を出してこない。唱えている政策は甲との相違を強調するためであって、現実的には実現不可能な主張ばかりではないか。このような政党に政権を任せていいのか。」といったものであった。

 これを載せることは、加入している日本新聞協会の新聞倫理綱領に反するとして、ほとんどの新聞社がこれを拒否した。

 しかし、Y新聞社だけは、これを事実に基づいた主張であり、公益性の高い正確・公正で責任ある言論と認め、意見広告の掲載を認めた。

 これに対して、Xは本来公平・中立を旨とするYのような報道機関が、より力の強い一方に肩入れすることはあってはならないとして、この広告を載せたYに責任を求め、問題となった広告と同じスペースの反論文を新聞紙上に載せるよう求めた。

 しかし、Yは反論文の掲載を強制されることは、紙面のスペースの面で負担を強いられることになり、また、今後の批判的記事の掲載を躊躇することにつながり、その結果間接的に表現の自由が侵害されるとして、これを拒否した。

 そこで、Xは、反論文掲載請求を求めて、Yに対して訴えを提起した。

Xの主張する反論文掲載請求権が認められるか否かについて論ぜよ。

[はじめに]

 表題に付けたとおり、これはマスメディアについてのみ問題になる。なぜなのか、という点については、本文で述べるが、とにかく、その結果、Yがマスメディアなのかどうかは議論の対象になる。すなわち、本問では、マスメディアとは何か、という定義論も必要となる。電波メディアの場合には、わが国の現状としてはすべてマスメディアと見てよいが、印刷メディアの場合には、常にマスメディアというわけではない。

 放送法は、携帯用の小型六法には掲記されていない法律であるにもかかわらず、マスメディアへのアクセス権の関連においては、必須の法律である。過去にも司法試験で放送法の知識をズバリ問う問題が出題されている。すなわち、司法試験平成7年度の次の問題がある。

 放送法は、放送番組の編集にあたって「政治的に公平であること」「意見の対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること」を要求している。新聞と対比しつつ、視聴者及び放送事業者のそれぞれの視点から、その憲法上の問題点を論ぜよ。

 本問は、そこで問題になった政治的意見などにおける公平性を、印刷メディアにおいてテーマとしている点が特徴であるが、基本的には上記司法試験問題と同様のアプローチで差し支えない。つまり、本問には電波メディアと対比して論ぜよ、というような指定はないが、本問でもやはり対比の中から問題点が見えてくることになる。

 すなわち、本問の論点は次のようになる。

 第一に、アクセス権を認める根拠は何か、である。知る権利というのが答えになるが、どの程度詳細に論じるかが答案構成上、もっとも神経を要するところとなる。ここが手薄であれば、その段階で落第答案となり、ここで詳しすぎると、第二以下の、本問におけるメインの論点をきちんと論じきれずに、やはり落第答案となるからである。

 第二に、なぜ放送法は、電波メディアにおける表現の自由の制限が肯定されるのかが問題となる。電波は希少な資源であるから、電波メディアは高い公共性が肯定される、と一般にいわれる。なお、上記司法試験の場合には、これに対して、印刷物自体は希少なメディアとはいえないから、公共性を直ちに云々されることはあり得ないことから問題が発展することになるが、本問では論及する必要はない。

 第三に、仮にアクセス権が認められるとして、それは具体的権利性があるのか、という問題である。同じ知る権利から発展した権利としての情報公開請求権は、それ自体としては抽象的権利に留まり、情報公開条例あるいは情報公開法という実定法の制定を待ってはじめて具体的権利性が承認された。

 電波メディアの場合には、放送法4条という実定法があることが、少なくとも訂正請求権という形のアクセス権を承認する上で議論を容易にしている。それに対して、印刷メディアではどうなるのだろうか。

 そして、本問で最大の論点となるのが、問題文中にずばり書かれているとおり、反論権という形のアクセス権が認められるか、である。最高裁判所は、サンケイ新聞事件で、名誉毀損の要件を充たした場合に、これを肯定する口吻をしめしているが、諸君はそれをどう評価するか、という問題である。

一 知る権利

 知る権利もプライバシーと同じく、憲法の明文の根拠というよりは、学説や判例の生み出したものである。そこで、それを論ずるに当たっては、明確に二つの異なる型の知る権利が存在していることに注意する必要がある。それは何れも20世紀における「思想の自由市場」の崩壊現象を踏まえて説かれるようになったものである。が、その内容は相当違うので、両者をきちんと区別して理解しておかないと混乱するのは必至である。

 第一の型は、コミュニケーションの前提としての知る権利である。それを具体的権利とする必要性は、20世紀においては社会全体の情報量が膨大となったために、発信に先行する情報収集自体が非常に多くのエネルギーを必要とするようになってきた点にある。特に問題は、現代福祉国家が、私人に関する情報を膨大に収集、蓄積、利用しているにも拘らず、そのほとんどに守秘義務をかぶせて国民に公開していない点にある。この状態を放置したのでは、国民は国の情報操作の客体にされるだけで、国政の主体とはなり得ない。こうした状況の下で、国民の主権者たる地位を確立するためには、国の独占する情報へのアクセス権を確立する必要がある。この権利は通常は報道機関によって行使され、これを普通は取材の自由と呼ぶ。したがって、この型の知る権利は、この段階では、一般国民にとっては抽象的な権利にすぎなかった。

 しかし、後には、個々人の具体的権利としても考えられる段階に発展していく。最初は、例えば拘置所収容者の新聞を読む権利など、情報収集を国が妨げないことを要求する権利であった。が、やがてさらに積極的に国が保有する情報の公開を請求権する権利として認識されるようになってくる。

 第二の型は、報道機関のマス・メディア化、すなわち20世紀になって、巨大な情報産業が出現し、情報の発信を独占する傾向が非常に強くなったことを前提として考えられるようになった知る権利である。本来、表現の自由は、あらゆる人間が情報の発信源となりうる状況を前提に、その自由を保障することによって、国民の知る権利が実質的に保障されることを予想していた。ところが、今日においては巨大情報産業が発達したために、情報の発信源としての地位を事実上それら情報産業が独占するようになり、送り手と受け手の分離が大幅に進んだ結果、表現の自由概念を大きく再構成する必要が発生した。すなわち、これらマスメディアは、その収集した情報を、その編集権に基づいて自由に選択し、あるいは加工することによって、国民が実質的に入手する情報を大幅に操作可能である。そうした情報操作を否定し、個々の国民の知る権利を確保するには、マスメディアの編集権及び思想良心を発信する自由を否定し、中立・公正な情報を提供するべき義務を観念する必要が生じた。それが知る権利として主張されるのである。ここにアクセス権を考える必要が生じてくる。

二 マスメディアへのアクセス権

(一) 報道の自由

 知る権利は、本来はマスメディアが自分の取材の自由を確保するための理論的支柱として開発したものであるが、理論は常に一人歩きする。そして、第二の型の知る権利はその生みの親のマスメディアを制約する理論として登場してくる。

 アクセス権は、このマスメディアの有する報道の自由理論の展開の中から生まれたものである。報道の自由は、決して本問の中心論点ではない。中心論点の一つ上にある理論である。だから、詳しく書くのは好ましくないが、全く手抜きをすれば、それだけで即落第答案と評価されることになる。しかし、諸君から出てきた論文が、報道の自由という概念についての無知を示していたので、少し詳しく説明しよう。

 報道の自由とは、「報道機関が国民に対して事実の伝達をする自由」を意味する。すなわち、一般の表現の自由に比べて、伝達内容が、思想・信条ではなく、単なる事実である点に第一の特徴があり、その主体が、不特定の国民ではなく、報道機関という特定の私人である点に第二の特徴がある。

 いつも強調しているように、定義は真空中から生まれるものではない。定義を下したら、必ず、何故その様に定義を下すことができるのか、ないし下すべきであるのか、の理由を述べなければいけない。

 第一の事実という点を検討してみよう。

 かつては、表現の自由は、憲法19条の思想信条の自由を受けて、これを外部的に表白する自由を意味すると解されていた。その前提の下においては、純然たる事実の伝達は、そのままでは表現の自由の保護客体とならない。そのため、かっての学説は「事実の報道と思想・信条の発表の区別は困難である」、というような詭弁を弄して、無理にその保護対象に取り入れていた(たとえば宮沢俊義『憲法2』有斐閣法律学全集参照)。このような説明の下においては、報道の自由は、自民党の自由新報や共産党の赤旗のように、特定の主義主張の下に、必要とあらば真実をねじ曲げる編集をするような報道姿勢の場合には保護対象となりやすいが、報道の自由の理念に忠実に、純粋に客観的真実の報道に徹すれば徹するほど、保護から遠のくという奇妙な結論が導かれる。また、石井記者事件最高裁判決に端的に現れているように、取材の自由までは保障しないという結論が容易に導かれることになる。

 なお、どのように論ずるにせよ、報道の自由について論ずるためには、その前提として表現の自由概念そのものを論じなければならない。表現の自由をどのような概念か、まったく述べずに、いきなり上記の「事実と思想の区別は難しい」というような議論を始めるのは、基本的に間違っている。

 今日、我々は、従来の狭い、文字通りの表現行為の自由に代わって、今日的な表現の自由として、知る権利を包含する形の表現の自由という概念を知っている。ドイツ憲法(基本法)第5条が表現の自由の内容として「一般に近づくことができる情報源から妨げられることなく知る権利」を保障したのは、憲法レベルにおいて、かっての表現の自由概念から訣別し、知る権利を正面から肯定した最初の例である。こうした発展を受けて、国際人権B規約(昭和41年制定、わが国の批准昭和54年)192項は表現の自由の概念そのものが、「あらゆる種類の情報及び考えを求め、受け及び伝える自由」と定義する。すなわち、人権規約のいう表現の自由は、わが国の伝統的な理解に比べると、第一に、思想・信条、すなわち「考え」に限定されるわけではなく、「情報」にまで拡大されている点、第二に、「求め、受ける自由」も含む総合概念となっている点に大きな相違がある。

 この「求め、受ける自由」のことを、今日では知る権利という。

 このように知る権利概念を使用する場合には、その権利の内容として事実の伝達が含まれることは当然のことであって、先に論及した事実と思想の区別困難というような有害無益な説明をする必要は完全に失われているのである。

 表現の自由の享有主体は、あらゆる私人である。そして、表現の自由が情報の伝達を含む概念である以上、一般私人が、その表現の自由権行使の一形態として客観的真実の伝達を行うことも多い。しかし、その様な活動のことを報道の自由の行使という必要はない。わざわざ、事実の伝達活動を、通常の表現の自由とはことさらに分けて、「報道の自由」というとき、それは、報道機関という特別な機関による事実の伝達活動をいうものと理解すべきである。それは、報道機関が行う事実の伝達活動は、一般私人が行う事実の伝達活動に比べて、憲法上、特別の保護と、制約が課せられるからである。

 その相違は、一般私人が行う事実の伝達活動は、上述したところから明らかなように、純然たる表現の自由そのものであるのに対して、報道機関の行う事実の伝達は、知る権利に奉仕する権利という点に由来する。つまり、報道の自由は211項の自由そのものではなく、それに奉仕する権利という、一段階下の、それとは若干異質な自由である。

 この報道機関の自由を理解するには、現代社会の持つ二つの大きな特徴に論及する必要がある。第一に、かつての夜警国家と異なり、今日の福祉国家においては、国家は膨大な量の情報を独占するようになったという点である。第二に、今日の複雑化から、誰もが情報の発信者であることは困難になってきたため、報道機関がその情報発信者としての地位を独占し、一般国民はもっぱら受け手としての立場に留まるようになってきた、ということである。この結果、主権者たる国民に対して、国政を決定するにあたって必要は情報を供給するのはもっぱら報道機関の役割となってきたのである。このことを、例えば博多駅事件における取材フィルムの提出に関する最高裁判所決定(昭和441126日、百選158頁参照)は次のように述べている。

「報道機関の報道は、民主主義社会において国民が国政に関与するにつき、重要な判断の資料を提供し、国民の『知る権利』に奉仕するものである。」

 この判例について注意するべき点がある。それは、民主主義云々という表現は、こうした現代社会の特徴から発生する、報道機関の持つ自由の特殊性を説明するための論理として登場するのであって、知る権利そのものの内容ではない点である。それを理解せず、知る権利の根拠としてこのことを書く人が良くいるから、注意してほしい。

 この報道機関の持つ、特別の地位から、報道の自由は、一方において特別の保護が与えられる。なぜなら、上述のようにマスメディアが今日では情報の発信を独占しているが故に、その持つ報道の自由を特別に保護することによってしか、我々国民の知る権利を実効的に保障することはできないからである。

 その報道機関に対する特別の保障の結果、例えば、通常人が行えば犯罪となる場合にも、報道機関により報道の自由の一環として行われているが故に、正当業務行為とされる場合がある。その中心にあるのが、本問取材の自由という概念の下に、特に論ぜられる様々な特権である。

 他方、この知る権利への奉仕者としての地位から、報道機関の、思想・信条の表現の自由の発信は大幅に制限される。例えば、原則的に不偏・不党が要求される。その結果、マスメディアには、編集の自由はない。すなわち、編集者の主義主張ではなく、国民の知る権利の充足という観点に立って、紙面(あるいは放送)の編集は行われなければいけない。このように、編集の自由が憲法的に認められないところから、現実に不偏・不党という要求に反した報道がなされた場合には、国民にはその報道を修正し、不偏・不党ではない報道を行うよう、請求する権利が国民にあるといえる(もし、表現の自由がマスメディアに認められる場合には、その表現の自由と国民の知る権利の比較考量という議論をしなければいけない。しかし、繰り返し強調するが、そもそもマスメディアの報道の自由は、国民の知る権利に奉仕するために認められているから、表現の自由はその限度で否定されており、したがって比較考量という議論は、そもそも出てこない。)。

(二) 不偏不党性の保障手段としてのアクセス権

 この不偏不党性という、知る権利から導かれる重要な国民の権利を実効的に担保する手段として、本問で問題になっている国民からのアクセス権という概念が登場することになる。

 そこでの問題は、マスメディアにおける報道の不偏不党性をどのようにして保障するか、である。方法は、大きく分けて三つ知られている。

 第一に、国家機関そのものがマスメディアに介入して、変更した情報を発信した場合に、それを抑圧する、という方法がある。例えば、テレビ朝日報道部長が政治的に偏向した報道をあえて行ったと公言したため、同人を国会が喚問して究明しようとした、という事件がある。この場合には、国会が報道の不偏・不党性を担保するために活動したことになる。

注1:平成57月の第40回衆議院議員選挙において、自民党は223議席に止まったのに対して、共産党を除いても野党の合計議席数は243議席に達し、自民党は政権の座から滑り落ちた。この選挙では、テレビが重要な役割を果たしたといわれた。そこで、民放連の作っている放送番組調査委員会は、921日、「政治とテレビ」をテーマとして取り上げ、テレビが演じた役割とともに、今後の政治報道のあり方について検討を行った。その場の報告者であった椿貞良・テレビ朝日報道局長が、選挙報道の編集にあたり、例えば「なにがなんでもやっぱりその五五年体制を突き崩すようなそういう形の報道に視点を置いていこう」など、偏向した姿勢を貫いた旨の発言を行ったことが、問題となった。

 しかし、このような方法をとる場合には、報道の自由そのものが国家権力により歪む可能性があり、一般論としては妥当ではない。

 第二に、政府や国会から独立した独立行政委員会によって規制する、という方法がある。アメリカでは現在は連邦通信委員会(Federal Communications Commission)がその任に当たっている。例えば、アメリカであるテレビ局が社説放送を行ったのに対して、テレビ局に思想・信条等の表明の自由はない、として連邦通信委員会がそのテレビ局の免許を取り消した事件がある。この決定は連邦最高裁によっても支持された。

 わが国でもかつては電波監理委員会が存在していたが、現在は廃止されたから、この方法は、現行実定法的には不可能である。

 第三の方法が、本問のメインテーマであるマスメディアに対するアクセス権である。報道が偏向しており、誤った情報がその受け手に供給された場合には、国民としてマスメディアにアクセスし、正しい情報を誤った情報と同一の手段、規模で報道し直すように要求する具体的な権利を肯定するのである。そのような再度の報道は、マスメディアにとって非常に大きな負担となるから、当然、情報の変更を避けるために大きな努力を払うことになる。すなわち、マスメディアへのアクセス権を承認することは、報道の不偏不党の重要な担保手段と考えることができる。この場合、報道が偏向した誤ったものであったか否かは、最終的には裁判所による判定を待つことになる。

 マスメディアに関して、現行実定法は大きく異なる二つのスタンスをとっている。電波メディアに関しては、実定法そのものが詳細な規定をおいている。これに対して、印刷メディアに関しては、何の規定もない。

2:明治初期においては、新聞の多くは自由党系のもので、その政治的立場から、激しく政府攻撃をしていた。これに対し、政府は新聞条例でその不偏・不党性を確保するための法的規制を行い、その一環として非難された者による反論掲載請求権を認めていた。しかし、その後、新聞業界において、紙面が不偏不党性を確保するように自主規制するとともに、政府の方では法的規制を行わないことで妥協が成立した。現在の新聞倫理綱領は昭和21723日、日本新聞協会の創立に当たって制定されたものある。しかし、社会・メディア状況が激変するなか、旧綱領の基本精神を継承し、21世紀にふさわしいものとして、平成12621日に全面改正され、現在の新聞倫理綱領となっている。

 そこで、考えやすい電波ディアの方から、ここでは検討してみよう。もちろん、諸君としては電波メディアに関する議論は、本問の解答では書く必要がない(平成7年司法試験問題だと、書かねばならない。)。

(三) 電波メディアにおける訂正請求権

 報道内容の不偏不党という要求は、電波を媒体としたメディアには、法的に認められている。なぜなら、電波というのは極めて限られた周波数しか使用可能ではない、という意味で、貴重な公共の財産であり、その本質から電波媒体を利用したメディアは必然的にマスメディアになるからである。このような貴重な公共材の私物化は到底許容できない、という事情から、これに対する中立性の要求は容易である。どこの国でも似たりよったりだが、わが国放送法第1条は次のように規定する。

「この法律は、左に掲げる原則に従って、放送を公共の福祉に適合するように規律し、その健全な発達をはかることを目的とする。

一 放送が国民に最大限に普及されて、その効用をもたらすことを保障すること。

二 放送の不偏不党、真実及び自律を保障することによって、放送による表現の自由を確保すること。

三 放送に携わる者の職責を明らかにすることによって、放送が健全な民主主義の発達に資するようにすること。」

 さらに、314号は、「意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること」と定めて、聴視者の、知る権利を確保することを要求している。これはさらに443項以下の規定によって詳細化されている。この結果、電波媒体によるメディアでは「社説放送」をすることは不可能になっている。

 このような条文を見た後ならば、テレビ朝日報道部長の、情報操作により自民党を敗北に導くことができた、という趣旨の不用意な発言をした場合、それがなぜ国会喚問という事態を招いたのか、容易に理解できるであろう。あれは実定法上、明確に違法な行為だったからである。喚問が表現の自由に対する国家権力の介入というとらえ方をされなかったことは、この第2の型の知る権利が、十分に確立していることを端的に示している。

 このように、電波メディアにおける表現の自由は厳しく制約される結果、誤った報道、あるいは偏った報道が行われた場合には、それによって被害を受けた者は、電波メディアへのアクセス権が認められている。すなわち放送法4条は次のように定める。

1項 放送事業者が真実でない事項の放送をしたという理由によって、その放送により権利の侵害を受けた本人又はその直接関係人から、放送のあった日から二週間以内に請求があったときは、放送事業者は、遅滞なくその放送をした事項が事実でないかどうかを調査して、その真実でないことが判明したときは、判明した日から二日以内に、その放送をした放送設備と同等の放送設備により、相当の方法で、訂正又は取消の放送をしなければならない。

2項 放送事業者がその放送について真実でない事項を発見したときも前項と同様とする

 そして同法56条では、これに違反した場合には20万円以下の罰金に処することになっている。実定法が、このように明確にアクセス権を認めているのである。

三 印刷メディアにおけるアクセス権

 印刷メディアにおいても中心論点となる反論権については説明の要はないであろうが、その前提となるアクセス権がそもそも成立するのか、という点について以下説明する。

 電波が極めて希少な資源であるのに対して、印刷物そのものはだれもが利用できる媒体である。したがって、印刷物における表現の自由は広く認められている。それがメディアであっても事情は変わらない。

 仮に問題としている印刷メディアが自由民主党の機関誌「自由新報」や共産党の機関誌「赤旗」であった場合、それぞれの政党が自らの政権という偏った情報をそこに提供し、対立する政党の情報をきちんと報道しなかったからといって、それは各メディアの表現の自由の問題にすぎない。したがって、自民党が赤旗紙上において非難されたからといって、それを名誉毀損として損害賠償の訴えを提起したりすることは考えられるとしても、赤旗の紙面を割いて自民党に反論記事を載せろという要求はそもそも考える余地がない。

 あるいは月刊誌文芸春秋が田中角栄の金権疑惑を追及するという編集方針を立て、毎月それを指弾する記事ばかりを掲載するのも、同誌の表現の自由の問題に過ぎない。田中角栄側として反論したいといい、月刊誌側がその編集権の行使の一環として、その原稿を受け入れることはありえても、角栄側が、その固有の権利のとして反論権の掲載を要求できるとは一般的には考えられない。

 しかし、すべての印刷メディアについて同様にいいうるかは疑問である。特に日本の場合、読売、朝日、日経、毎日、サンケイのような全国紙、あるいは特定の地域において極めて独占性の高いマスメディア、例えば秋田における魁(さきがけ)とか、名古屋における中日新聞などについては、表現の自由の抑制を十分に肯定する余地があるであろう。

 なぜなら、これらの新聞は、第一に不偏不党性をそのセールスポイントとしており、したがって我々一般国民としては、その報道が電波メディアの場合と同じく、不偏不党なものであると期待する権利があるといって良い。第二に、これらのマスメディアは極めて情報の独占性が高い。先に例示した月刊誌の場合であれば、それだけをニュースの情報源として生活するという人はまず考えることができないが、日刊紙の場合には、日々の情報の大半をそれに依存するのがむしろ普通といえる。

 こうした点から、印刷メディアの場合にも、高度の情報独占性を有する巨大メディアの場合には、電波メディアに準じて、放送法の要求するのと同様の表現の自由の制約が認められるべきであろう。

四 反論権

(一) アクセス権の一環としての反論権

 問題は、訂正請求権というレベルのアクセス権が認められることと、反論権が認められるということは、決してイコールではないということである。

 単に訂正請求をするにとどまらず、さらに進んで、誤った報道が行われたのと同等の手段をXに与えて、反論する権利を肯定するという方法が考えられることになる。

 これは、基本的には名誉毀損における対抗言論の議論から生まれてきた議論である。 すなわち、公然と人の名誉が毀損された場合にも、例えば公開の場における討論などのように、名誉権の侵害行為の両当事者が同じ立場にあるにおいて、名誉権が侵害された場合には、ただちに言論によって反撃することで、名誉権を守ることができる。したがって、一般的にはそうした形で自助努力を払うことを期待するべきであって、訴訟という形で解決するのが適当とは認められない。これを対抗言論という。

 しかし、対抗言論という議論が成り立つためには、対等に言論が交わせる者同士であるという前提が必要である。公的コミュニケーションであっても、普通の本や新聞などの印刷メディア、テレビやラジオなどの電波メディアによる情報の発信は、単方向的なものであるため、名誉を毀損された者が、直ちに同じ手段で反論を行うのは不可能である。そこで、反論を行うには、限られた場合を除き、裁判を通じて名誉毀損の成立を争う必要がある。そして、傷つけられた名誉の回復手段として、謝罪広告を求める代わりに、反論権の行使を裁判所によって許容されて、はじめて可能になる。

 しかし、マスメディアへのアクセス権の一態様として、そのまさに同じメディアを使って反論が可能になれば、マスメディアにおける紛争解決として最適の手段となる。つまり、この場合におけるアクセス権とは、対抗言論の自由の確保と言うことになる。

 これがわが国で最初に問題になったのは、自由民主党が産経新聞に、共産党を狙い打った意見広告を掲載したのに対して、共産党が産経新聞に、同じ位置に同じ大きさの広告を無料で乗せるように請求した事件である(最判昭和62424日=百選第5170頁)。

 最高裁は、サンケイ新聞事件において、最高裁判所は次のように述べた(理解しやすいように、実際に述べた順序を変更してある)。

 第一に、反論権というものが、マス・メディアによる誤った報道を抑止する上で有益な手段であることは認める。

「新聞の記事に取り上げられた者が、その記事の掲載によつて名誉毀損の不法行為が成立するかどうかとは無関係に、自己が記事に取り上げられたというだけの理由によつて、新聞を発行・販売する者に対し、当該記事に対する自己の反論文を無修正で、しかも無料で掲載することを求めることができるものとするいわゆる反論権の制度は、記事により自己の名誉を傷つけられあるいはそのプライバシーに属する事項等について誤つた報道をされたとする者にとつては、機を失せず、同じ新聞紙上に自己の反論文の掲載を受けることができ、これによつて原記事に対する自己の主張を読者に訴える途が開かれることになるのであつて、かかる制度により名誉あるいはプライバシーの保護に資するものがあることも否定し難いところである。」

 第二に、しかし、この方法には弊害も大きいと指摘する。

「この制度が認められるときは、新聞を発行・販売する者にとつては、原記事が正しく、反論文は誤りであると確信している場合でも、あるいは反論文の内容がその編集方針によれば掲載すべきでないものであつても、その掲載を強制されることになり、また、そのために本来ならば他に利用できたはずの紙面を割かなければならなくなる等の負担を強いられるのであつて、これらの負担が、批判的記事、ことに公的事項に関する批判的記事の掲載をちゆうちよさせ、憲法の保障する表現の自由を間接的に侵す危険につながるおそれも多分に存するのである。このように、反論権の制度は、民主主義社会において極めて重要な意味をもつ新聞等の表現の自由に対し重大な影響を及ぼすものであつて、たとえ被上告人の発行するサンケイ新聞などの日刊全国紙による情報の提供が一般国民に対し強い影響力をもち、その記事が特定の者の名誉ないしプライバシーに重大な影響を及ぼすことがあるとしても、不法行為が成立する場合にその者の保護を図ることは別論として、反論権の制度について具体的な成文法がないのに、反論権を認めるに等しい上告人主張のような反論文掲載請求権をたやすく認めることはできないものといわなければならない。」

 その結果、第三に、現行法の下において、反論権が承認されるための条件を述べた。

「人格権としての名誉権に基づいて、加害者に対し、現に行われている侵害行為を排除し、又は将来生ずべき侵害を予防するため侵害行為の差止を請求することができる場合のあることは、当裁判所の判例(北方ジャーナル事件判決参照)とするところであるが、右の名誉回復処分又は差止の請求権も、単に表現行為が名誉侵害を来しているというだけでは足りず、人格権としての名誉の毀損による不法行為の成立を前提としてはじめて認められるものであつて、この前提なくして条理又は人格権に基づき所論のような反論文掲載請求権を認めることは到底できないものというべきである。」

 要するに、現行法の下においては、反論権は、名誉毀損の成立する場合に限られるというのである。

 要するに、反論権という権利をマス・メディアに対するアクセス権から導くことはできるが、その濫用等を防止するための立法が必要で、それなしにアクセス権の一環として反論権を認めることは許されず、国に対する情報公開請求権の場合と同じように、立法を必要とする、としている。

 そこで、電波メディアについては、前記放送法4条が、そうした授権立法といえるか、という問題が生ずるので、この問題に言及している。結論としていえば、同条も反論権までも肯定するものではない、とする。

「放送法4条は訂正放送の制度を設けているが、放送事業者は、限られた電波の使用の免許を受けた者であつて、公的な性格を有するものであり(同法443項ないし5項、51条等参照)、その訂正放送は、放送により権利の侵害があつたこと及び放送された事項が真実でないことが判明した場合に限られるのであり、また、放送事業者が同等の放送設備により相当の方法で訂正又は取消の放送をすべきものとしているにすぎないなど、その要件、内容等において、いわゆる反論権の制度ないし上告人主張の反論文掲載請求権とは著しく異なるものであつて、同法4条の規定も、所論のような反論文掲載請求権が認められる根拠とすることはできない。」

 以上のことから、本問に対する回答としては、Xは訂正請求権までは問題なく認められるが、さらに進んで反論権を主張するには、名誉毀損の成立が必須のものということができる。

 同様に、謝罪放送や謝罪広告は、民法723条の定めるところにより名誉毀損が成立することを前提として認められるのであるから、これも名誉毀損の成立が要件となる。なお、前述のとおり、マス・メディアに思想・信条を表明する自由がない、ということは、謝罪広告事件における19条の問題もまた発生しないと言うことを意味しているから、謝罪放送等を求めることについては特に問題はない。

(二) 意見広告の自由

 確かに、一般的に反論権を認めたのではメディア側の編集権というものが抜本的に否定されることになりかねないし、やたらと無料記事を義務づけたのでは、最高裁の言うとおり、広告収入で成り立っている民間メディアの存立の基礎を揺るがすことにもなりかねない。請求権を否定することになるという問題がある。

 それは、意見広告を乗せる権利というものを、アクセス権の一環として保障できるか、という問題である。これは基本的に肯定すべきだろう。それこそが、商業主義に基づくメディアと表現の自由の接点だと思うからである。そして、それこそが、サンケイ新聞事件において、自由民主党の行使した自由である。これを新聞倫理綱領を根拠に拒むことができるのか、というのは難しい問題になるので、ここでは触れない。諸君自身で考えてみてほしい。

 問題は、意見広告の自由という者が認められる場合に、サンケイ新聞事件における共産党の主張するような反論権を認めると、広告主は通常の何倍か(反論者の数だけ)の広告料を払う立場に追いこまれ、結局意見広告権を否定する結果になる。つまり、共産党の主張は、意見広告の自由の事実上の否定に他ならないのである。

 したがって、反論も自腹でするべきだという理屈になる。しかし、これに対しては、金持ちの意見掲載権だけを認めることになる、という厄介な問題もあり、さらに各社の内部的な倫理綱領をどの限度で認めるか(上記共産党事件の場合、大手他社はすべて掲載を拒んでいるが、それは自民党の権利を侵害したことにはならないか?)という問題も絡んで、まだ解決がついたといえる状況ではない。

 しかし、少なくとも、アクセス権のような積極的な権利について、その具体的要件を法が明確に定めることなく、広く認める場合には、最高裁の指摘するとおり、社会の木鐸として、書くべき批判記事等の掲載に当たって躊躇させるなどの萎縮効果を発生させ、報道の自由を阻害する危険性が存在することは否定できない。したがって、印刷メディアに対する一般的なアクセス権は、抽象的権利に留まるというのが妥当である(この点について「雑誌「諸君!」反論文掲載請求事件」がある=最判平成10717日。第1審判決=東京地方裁判所平成4225日=について戸松秀典・平成4年度重要判例解説(ジュリスト臨時増刊1024号)2425頁参照)。

五 一般的なアクセス権

 マスメディアへのアクセス権という概念それ自体を、本講で論じた反論権や訂正請求権に限られると誤解している人がいるので、簡単に全体概念を説明する。今日のように、マスメディアに情報の発信を独占されている社会においては、我々は自分の意見を人に知ってほしかったら、マスメディアにアクセスする他はない。

 一番簡単なアクセス方法は、マスメディアが掲載を拒否できないようなニュース性のある事件を起こすことである。多くの人を集めてのデモ行進から始まって、公衆の面前での焼身自殺に至るまで、マスメディアに報道させるための意図的手段は数多い。そこまで過激な手段を執りたくない人のためには、新聞の投書欄その他の投稿欄は、そうした目的から存在している。

 ここからさらに進んで、一定の場合に、マスメディアに法的に強制して報道させると言うことが考えられる。代表的なものに、公職選挙法が保障する、選挙広告の掲載権も、こうしたアクセス権の一環である。こういう幅広いアクセス権の中に、反論権もある、と考えてほしい。