住民投票条例の拘束力

ー法律と条例ー

甲斐素直

問題

 BA市にはJRCA市駅がある。A市駅東口はロータリーが設けられていて広々しており多くの商店が軒を連ねている。これに対し西口は、駅前広場の敷地面積が狭く、商店も数えるほどしか見当たらず、また、近くに踏切があるため車の渋滞が西口の常態となっていた。この事態を憂えていた周辺住民にとって駅西口の開発は悲願であった。

 平成○○年、A市長Yは、A市駅西口において、都市再開発法にいう第1種市街地再開発事業(権利変換方式) に基づく再開発事業を、市の直営事業として実施することを決定した。西口に商店がたくさん入ったビルを建設するという計画に、当初は住民は賛成するものが大半で、開発反対の声は上がらなかった。

 しかし、開発が進むにつれ、実際の開発と住民が思い描いていた開発に齟齬が存在することが明らかになっていった。すなわち、西口駅前に関連する多数の地権者をすべて収容し、かつ再開発事業に必要な経費を捻出するために、新しく建てられるビルは予想をはるかに超える100mあるビルであることが判明した。また、住民の悩みの種である踏切の整備は、JRがこれに同意しなかったため、開発対象から除外されることとなった。その結果、新しいビルへの集客により、踏切の渋滞は、従来より遥かに深刻になることが予想された。

 そこで開発を止める必要があると判断した西口駅前地区の住民たちは西口再開発反対の住民団体を組織し、西口開発の是非を住民投票にかけようという条例案を、地方自治法第74条で定められた制度にのっとって市長Yに提出した。条例案の案文を巡ってYと議会とが折衝した結果、「西口開発を続けるか否かについては、市長は住民投票の結果を尊重しなければならない」と規定された。

 議会では賛成多数で議決され、Yも拒否権を発動しなかったので、条例は成立した。

 そこで、その条例によって西口開発の是非についての住民投票が実施された。住民投票では、有権者の61%が投票し、投票総数の76%が開発に反対であった。

 しかし、市長は、「地権者の説得を得るのに費やした苦労が水の泡になること」、「地元が何十年もかけて進めてきたこと」、「国からの補助金が得られていること」「この機会を逃したら次がいつ来るかわからない」「踏切については、今後も継続的にJRとの交渉を行う予定であること」等の理由を述べ、西口開発を当初の計画通り進めていくことにした。そして、E建設会社とのビル建設請負契約を締結し、着工に踏み切った。

 A市の住民Xは、市長Yの行為は住民投票に違反し、違法もしくは不当な債務の負担であるとして、地方自治法第242条に基づき、監査委員に監査請求を行った。しかし、監査委員がこれを棄却したので、地方自治法第242条の21項に基づき、当該工事の差し止めを請求する訴訟を提起した。

 住民Xの主張に含まれる憲法上の問題について論ぜよ。

[問題中の法令の説明]

 日本では市街地再開発事業を行うため「都市再開発法」があり、第1種及び第2種市街地再開発事業について規定している。市街地再開発は、市街地の土地の合理的かつ健全な高度利用と都市機能の更新とを図るため、都市計画法及び都市再開発法で定めるところに従って行われる建築物及び建築敷地の整備並びに公共施設の整備に関する事業並びにこれに附帯する事業をいう。本問に現れた鉄道駅の周辺で駅前広場を造るとともに商業ビル等を建設する駅前再開発が典型的なものである。この場合、狭隘な地区に多くの住宅等が密集していると、単純に区画整理を行うだけでは、多くの地権者を収容し、かつ広い駅前広場を建設することはできない。そこで、中高層の施設建築物(いわゆる再開発ビル)を建設し、再開発の区域内の土地・建物等の権利者は、再開発事業前のそれらの権利の額に対応する再開発ビルの床(権利床)及びそれに対応する土地持分を、事業者から取得する(これを権利変換という)ことで、従来の不動産上の権利に替えるという方法で、対応する。これが、問題文にある第1種市街地再開発事業である。権利変換を希望しない者は事業者から権利額に相当する金銭等を受け取る。再開発ビルの建設に当たっては、権利床に加えて余分の床(保留床)を建設し、これを売却することによって事業費を調達する方法が通常とられている。

 再開発事業は、通常は地元地権者で結成する市街地再開発組合、あるいは再開発会社の手によって行われる。しかし、それでは問題作成者の意図に反し、住民投票の問題にはならないので、ここではあまり行われない方法ではあるが、地方公共団体の直接施行(同法51条)で行うものとして、作問した。

[論点の所在]

 本問での一つのポイントは、「結果を尊重する」という漠然とした表現にある。これが尊重することを義務づけていると読めば住民投票は市長を拘束すると読む余地が出てきて、無視したのは条例違反となる。しかし、尊重するとは結果を遵守することを義務づけるものではないと読めば、単なる諮問であるから、本問後半にあるようにそれを無視した行動に出ても条例違反ではない、ということになる。

 この解釈のいずれが妥当かは、結局現行憲法下において、首長の行動を義務づける住民投票条例の制定が許されるか否かにかかっている。現行地方自治法に住民投票を予定する一般的な規定は存在していないから、住民投票を実施するには、住民投票条例を制定する以外に方法はない。結局、本問は条例制定権の限界に関する問題ということになる。すなわち、副表題に明記した、条例と法律の関係である。条例という言葉を見ると、直ちに憲法94条から「法律の範囲内」でしか地方自治体には条例制定権がない、ということが頭に浮かぶはずである。そして、地方自治法には、住民投票を一般的に予定した条文が存在しない以上、住民投票について定めた条例は、そもそも違法(従って憲法94条違反)ではないかという疑問が生ずることになるのである。

 しかし、今日においては、横出し条例等の理論があるから、地方自治法に規定がない、というだけのことから直ちに条例を否定することはできない。地方自治法の立法趣旨等から決定しなければならないのである。そして、それは、地方自治の本旨以下の議論を通じて初めて決定できる。

 そこで、この中心論点に入るのに先行して、しっかりとそれらの議論を展開し、その論理的帰結として結論を導くことが、合格答案には必要とされるのである。

一 地方自治の本旨

 いつも強調するとおり、地方自治の問題の場合には、常に92条の地方自治の本旨から書き始める。本問もその例外ではない。

 地方自治は、憲法で保障するまでもなく、わが国でも他の国々でも、以前から法律のレベルではある程度保障されていた。現行憲法92条は、地方自治をわざわざ憲法で保障しながら、内容は法律で定めるとする。したがって、国会の立法裁量を無制限に認める場合には、憲法編入をしなくとも同じで、その意義が失われる。そこで、立法裁量権に限界を課する必要があるとして工夫されたのが、制度的保障説である。この説に立つ場合、立法権によっても侵すことのできない制度の中核を、92条は「地方自治の本旨」と呼んでいる、と読むことができる。

 この地方自治の本旨は、従って当然地方自治を憲法に編入した理由そのものである。その第一が地方分権である。第二次大戦において、世界はナチズムや日本の軍国主義に代表される全体主義の恐怖と直面した。その際に、中央集権制度は、全体主義に対して大きな脆弱性を示すことを痛感した。中央集権制度の下においては、全体主義政党は中央政府さえ乗っ取れば、それにより全国支配が可能になる。それに対して、地方自治が保障されている国家においては、中央政府だけではなく、すべての地方政府も個別に支配して始めて全国支配が可能になるのである。したがって、地方政府に対する中央政府の干渉を排除する法制度を構築することが大事なのである。これを憲法学では、団体自治と呼ぶ。

 第二に、わが憲法の根本原理の一つたる民主主義の要求から、その団体における意思決定は、団体を構成する者(これを憲法は住民と呼んでいる)が決定するべきである。これを憲法学では住民自治と呼ぶ。

 第三の中核概念として補完性ということがいわれる。個々の国民が幸福に暮らす権利というものを考えてみよう。その権利と行政の関係を考えた場合、原則として身近の団体からサービスを受けるのが、もっとも迅速かつ個別対応性が高く、好ましいといえるであろう。次いで、その団体では不十分な問題について、より広域の団体からのサービスを受けるという方式であろう。つまり、身近なところで不足するところを補完するところに、広域団体の意義はある。この考え方は、EUにおいて、EU、国家、地方自治体の相互関係を説明する補完性原理(Subsidiaritätsprinzip=補充性と訳すこともある)理論として発達した。そして、わが国現行地方自治法も取り入れている。すなわち、普通地方公共団体を、市町村と都道府県の二層構造を持つものとしてしている。両者の関係については次のように定めている。市町村は、「基礎的な地方公共団体」なので、自ら処理するのが適当なものは、原則として、何でも行うことができる(地方自治法23項)。これに対して、都道府県は「市町村を包括する広域的な地方公共団体」なので、その権限は、「広域にわたるもの」とか、「市町村の連絡調整にあたるもの」に代表される、規模や性質から市町村が処理するのに適当ではないものだけが権限内容となる。このように、都道府県の活動は、市町村を補う性格を持っている。このようなやり方で重層的な地方制度を作る考え方を、補完性原理という。補完性原理を採用している限り、都道府県が条例で定めた事項は、同じ都道府県の中で、統一的に取り扱う方が妥当な事項、換言すれば各市町村がバラバラに条例で定めるのには適さない事項に限られる。したがって、都道府県の条例と、市町村の条例が抵触すれば、都道府県の条例の方が優越し、その限度で市町村の条例は無効になる(地方自治法216項なお書き参照)。

 国と地方公共団体の関係について補完性原理の存在を認める場合には、同じことが言えるはずである。国が法律で定める事項は、都道府県以上に広域的な事項や都道府県や市町村の連絡調整など、規模や性質が全国統一的に定めるのに適している事項に限られている。したがって、国の法律と地方自治他の条例が抵触するような場合には、法律を優越させる方が、国民の利益になるのである。例えば徳島市公安条例事件判決(最判昭和50910日=百選第5484頁)の考え方も、この判例によらない限り理解することはできず、極めて重要である。同じ「法律と条例」というテーマでも、上乗せが可能な条例を議論する場合には、これが極めて重要な論点となる。しかし、本問はそれとは逆のナショナルミニマムが論点なので、結果としていえば、これは重要ではない。

 本問は、これらのうち、あまり議論をしていない住民自治の概念を巡る議論が中心論点となる点で、難しい。なぜなら、住民自治概念の基礎である民主主義における考え方には、直接民主制と間接民主制の二種類があり、本問で問題となる住民投票とは、直接民主制の要請として把握することができるからである。仮に、間接民主制が基本的に要請されている、と考える場合には、住民投票を導入すること自体が違憲となる。したがって、序論における住民自治の説明を、意識的に手厚くするとともに、主権論をどう捉えているかということが必要となる。

二 主権論

 制度的保障説は基本的に伝来説であるから、国の制度と地方の制度は基本的な原理のレベルでは、同一でなければならない。その結果、国政レベルにおける主権論としてどのような考え方を採用するかに応じて、結論が分かれることになる。

 憲法93条等にいう「住民」とは、「地方公共団体の区域内に住所を有する日本国民を意味するものと解するのが相当であ」る(平成7228日最高裁判所第三小法廷判決=外国人地方参政権請求事件=より引用)。

 この結果、住民投票が許容されるか否かは、国民投票が承認されるか否かという議論と基本的には同一の論理構造にしたがうことになる。したがって、本問の第二の論点は、国民主権概念における対立(狭義の国民主権vs人民主権)ということになる。

 二つの主権概念のうち、どちらを採用するのか、その理由は何か、という点については諸君の論文においては当然に書き込まれねばならない。しかし、きちんと説明するとかなり膨大な議論となる。あまり判っていないという人は「国権の最高機関」(『憲法演習ゼミナール読本(上)』15頁以下)あるいは「定住外国人の参政権」(同217頁以下)参照して貰うことにして、この点の説明はここでは省略する。

 ここでは、現行憲法の解釈として、いずれかの説を採用することを諸君がきちんと理由とともに明記してくれたと仮定して、そこから先の議論だけを以下には説明しよう。

三 狭義の国民主権説からのアプローチ 

(一) 住民投票条例の制定権

 諸君の多くは、狭義の国民主権説にたつであろう。その場合には、基本的に間接民主制を中央政府においても地方政府においても採用することになる。この場合、直接民主制に属する住民投票は、憲法的には否定されるか、あるいは間接民主制を補完するものと位置づけられることになる。

 すなわち、純粋代表制を考えれば、直接民主制的な制度は一切禁じられるから、国政レベルにおける国民投票や、地方政レベルにおける住民投票は、例え諮問的な性格しか持たせず、拘束力を認めないものでも許されない、という結論が必然的に導かれるはずである。解釈論的には、憲法41条及び591項は明確に国会単独立法の原則を定めているから、国民投票が国会の立法権を法的にであれ、事実上であれ、拘束する、ということは憲法に違反するという結論が導かれる。

 しかし、現行憲法は、半直接代表制を定めている。すなわち、国政レベルにおいても、普通選挙制度を明確に採用し、さらに国民審査(79条)や憲法改正(96条)において国民投票の制度を予定している。このように、国家機関としての国民の存在を認めている以上、国政レベルにおいても事実上の拘束力を持つに過ぎない諮問的な国民投票制を法律で導入することは許されると解する余地が存在することになる。

 実際、内閣法制局長官もかつて次のように述べたことがある。

「憲法は間接民主制を国の統治の機構の基本原理としており、第96条、第79条、第95条はその例外を限定的に容認しているものであるから、法的な効力を持つ国民投票制度には否定的に解さざるを得ないが、第41条の原則に触れない形において、個別的な事案について国民全体の意思をご審議の参考にされるために国民投票に付するという制度を立てることは憲法違反になるとは考えない。」(197823日の衆議院予算委員会におけるの真田内閣法制局長官の答弁)

 これが有権解釈であり、また、同時に、おそらくは通説である、と考える。

 地方政レベルにおいても、同様の解釈を採ることは可能なはずである。すなわち、憲法93条は議事機関としての議会を設置することを予定している。したがって、この規定に41条、591項と同様の意味を読み込めば、同一の結論を導くことが許される。94条は条例制定権の内容として枠立法、すなわち法律に抵触しない範囲での自由な条例制定権を認めているが、現行地方自治法に住民投票条例の制定を禁止する規定はないから、上記と同様の、個別的、かつ諮問的な住民投票条例の制定は、許容されているという結論が導かれる。

 さらに踏み込むと、わが憲法は、確かに931項において原則として間接民主制を予定しているが、同時に、932項や95条において、明確に地方自治体の機関としての地位にある住民という存在を予定している。ここから、国政レベルと違い、幅広く直接民主制を認める余地があるといえる。

 現行地方自治法は、このような考え方から、多くの直接民主制的制度を導入している。たとえば、町村においては、議会を設置する代わりに町村総会で対応が可能であり、また、その他の地方自治体の場合にも、住民による、リコール制度や、本問中でも明記されている条例等の制定に関する直接請求の制度が存在している(同法74条参照)。こうしたことからいえば、国政の場合と違って、地方政レベルでは、拘束力ある住民投票制度を定めることもまた、憲法的には禁止されていない、と解することが出来る。

 現実にも、現行地方自治法は、例えば長のリコール後の住民投票(同法81条参照)という拘束力ある住民投票制度を定めている。同様に、個別の立法で認めている例も多い。例えば「市町村の合併の特例に関する法律」は、市町村の合併に関する住民投票の制度を定め、これは拘束力がある(同法4条参照)。

 しかしながら、現在は、そのように拘束力ある住民投票制度は、個別に定められているにとどまり、地方自治法は一般的な制度としては予定していない。そして、条例制定権は「法律の範囲内」(憲法94条)で認められる結果、現行地方自治法の解釈としては、拘束力ある住民投票条例の制定は禁止されている、と読むことになる。

 ただし、この点に関しては、都道府県や市と、町村では、現行地方自治法の下における解釈を変える余地が存在する。すなわち、地方自治法94条は町村の場合には議会の代わりに住民全体で組織する町村総会の制度を導入することを許容している。このような直接民主制に基づく制度を現行法が許容している以上、町村総会と同じ機能を果たす制度である住民投票を例外的に導入することが禁じられるわけがない。あるいは、住民投票という形式で町村総会の議決を行う、と解してもよい。そして、町村総会が議会の全権を有する機関である以上、議会が町村総会制を導入する代わりに、住民投票制度を一般的に定めても、そしてその結果に長や議会を拘束する効力を定めても、それは許容される、という結論が導かれる可能性を考えることができる。

 しかし、ここでも団体自治から来る「法律の範囲内」が大きな壁となる。すなわち、町村総会と議会を併存するという制度は現行地方自治法上予定されていないからである。結局、諮問的性格を持つ住民投票条例以外には、認める余地はない、という結論が導かれる。

 したがって、狭義の国民主権説に立つ限り、諮問的な条例と読まざるを得ず、その結果、市長がその結果を無視しても、条例違反という問題が生ずることはない、という結論が導かれる。

(二) 適正手続

 本問では、冒頭に述べたとおり、「尊重する」という曖昧な表現が使用されているので、この言葉をどう理解するかが一つの論点とならざるを得ない。一般的には、これは事実上の拘束力を定めたにすぎず、法的拘束力を有するものではない、と述べれば十分であろう。

 しかし、ここに一つの注目すべき説がある。巻町原発住民投票条例(注:現在新潟市の一部となっている旧西蒲原郡巻町において、原子力発電所の用地として町有地を売却するか否かを巡って、1996年に住民投票が行われ、全国的に反響を呼んだ)が採用した、本問でも論点となっている「尊重する」という表現に対して、横浜国大の三辺夏雄がしめした極めてユニークな見解なので、諸君の将来のために紹介する。ただし、間違っても諸君の国家試験の論文に書くべきではない。論点が多くなりすぎて、時間と紙幅の枠内には収まらなくなるからである。

 行政庁に『尊重』義務を課す諮問型審議会の答申尊重の意義について、最高裁は群馬バス事件(昭和50529日判決=行政判例百選収録)において、一般に法的意味があるとした。このことに論及した上で、三辺は次のように述べる。

「むろん審議会答申の尊重義務と住民投票結果のそれとを単純に同視できるものはない。だが、本判決は行政庁の意思決定における更生手続きを問題としているのだから、手続き的観点から町長の住民投票結果の尊重義務を捉えれば、やはり町長には町有地の売却等につき住民投票結果を尊重し得ない場合には、そこに『特段の合理的な理由』を必要とし、条例上、町長にはその旨の説明義務が課されていると解するべきである。」(三辺「巻町原発住民投票の法的問題点」ジュリスト110043頁より引用)

 このような見解をとった場合には、本問で、市長が特段の理由を示さずに住民投票の結果を無視したことは、条例違反と評価されることになるであろう。なお、この説に対しては、阿部泰隆による厳しい批判がある(阿部「住民投票制度の一考察」ジュリスト110341頁以下参照)。

 このように、行政行為に憲法31条の適正手続き条項を適用する、という手法は、以下のどの説を採用する場合にも共通して現れてくるが、ここに代表して紹介する。

四 人民主権からのアプローチ

 人民主権説では、基本的に直接民主制を採用すべきであると考える。ただ、現代国家のように規模が大きく、かつ複雑な活動の主体である団体では、直接民主制が実行困難であるところから、次善の策として間接民主制が採られているに過ぎない。この場合には、住民投票は原則として肯定されることになる。

 しかし、この説に立った場合でも住民投票を無条件で肯定するわけではない。例えば辻村みよ子は次のように述べる。

「『人民主権』の立場を基底におきつつ地方自治の本旨としての住民自治原則を直接民主制の契機として重視し、法律や条令による住民投票を原理的に認めてゆくことが望ましいと思われる。ただし、その場合でも、具体的な方法や対象についての限定を付さずに住民投票を幅広く容認する趣旨ではない。仮にこの立場に立っても、レファレンダムの実施については、それがフランスでいうプレビシット(plébischite)として機能する危険性等から慎重な判断が要請されることは繰り返し指摘してきた。」

(辻村「『住民投票』の憲法的意義と課題」ジュリスト110337頁より引用)

 ここに出てきたプレビシットというのは、レファレンダムの悪用形態のことで、ナポレオンやヒトラーに、独裁者への道を開いた国民投票のことをいう。プレビシットを防ぐと抽象的にいわれても判りにくいので、杉原泰雄の説くところを紹介しておく。

「住民投票の悪用を避けるためには、特に以下の諸点を充足することが求められる。

1) 公平な設問

2) 住民の知る権利を保障するために、a議会による投票対象についての事前の公開の審議の保障、b学識経験者や政党などによる投票対象に対する認識・評価等の情報の保障、c自由で公平な宣伝・批判の保障など

3) 投票の発案権を一定数の住民にまで認め、権力担当者による投票実施の有無と時期の恣意的な決定を排除すること

4) 投票の秘密と自由の保障

5) 一定数の住民の投票参加の要件

6) 公正な集計手続の保障」

(杉原「国民主権と住民自治」法学教室19923頁より引用)

 このうち②の要件からすると、杉原の場合にも一般的な住民投票条例の制定については否定的な考えであることが判る。ただし、本問の場合、個別的な住民投票条例の制定によるものであれば、設問そのものは①の要件を充たしていると思われるから、③以下の要件を満たしている、という条件付きでプレビシットには該当しないと主張可能であり、したがって諸君が杉原説を採る場合には、本件のような場合には、住民投票の結果に拘束力を認めると考えることも可能と思われる。

 しかし、ここで忘れてならないことは、この説も制度的保障説を前提としている、ということである。現行地方自治法が住民投票を例外的に限定的にしか承認していないことは明らかである。プレビシットに対して強い警戒を示す結果、法律の具体的な授権を抜きにしては、住民投票の結果に拘束力を認めないという結論は、やはり同一となる。したがって、法律が具体的に授権した場合以外には、住民投票に拘束力を認めることはできない、という結論が導かれる。

五 行政法学の立場から

 これまで説明してきたのは、制度的保障説の立場であった。制度的保障説を超えて新固有権説を採る場合には、その基礎となる学説次第であるが、国と地方の制度が同一であると考える必要はなくなる。その結果、中央では間接民主制を採用していても、地方の制度としては直接民主制を採用するという結論を下す余地が生じてくる。

 行政法学者の場合、こうした伝来説に対する批判を抜きにして、単に地方は直接民主制を原則とする、とするスタンスが目立つ。例えば兼子仁は、住民自治を次のように定義する。

「『住民自治』原理はいずれ、自治体(地方公共団体)の地方自治が住民の自治でなければならないということであるが、その住民主体性とは、直接民主制を必須不可欠とすることを意味すると説明されるべきであろう。すなわち、『住民自治』とは、自治体の政治・行政がなるべく直接に住民の意思に基づいて行われるべきこと、であると定義されてしかるべきであろう。」(兼子「自治体住民の直接民主主義的権利」東京都立大学法律雑誌3218頁より引用)

 そして、そのことの憲法的な説明としては次のように述べる。

「国政が国会中心主義で議会制民主主義を明確な制度的原理とし、直接民主主義はそれと並ぶ制度的原理となっていない(補充原理にとどまる)のに対して、自治体の地方自治に関しては、憲法92条に含まれる『住民自治』原理として『直接民主主義』もまた、議会制民主主義と並列的に並ぶ制度的基本原理をなしている、と解されるのである。」

 ここでは、伝来説をどのように評価するかの議論はまったく考慮されていない。したがって、仮に諸君がこの説に依拠するとすれば、その欠落は自分で補う他はない。私としては、このような冒険を憲法の論文で書くのはあまりおすすめしたくない。しかも、この並列的基本原理という言葉はあまり強い意味は持たないらしい。住民投票に関しては次のように述べるからである。

「住民直接請求または議会委任により自治体の重要施策・事務執行につき一般的に住民投票に付しうる旨を定めるような、一般的住民投票制度条例については、現行法律の代表民主制に反し直接民主主義の補完原理性を逸脱するものとして、違法論が出されている。なるほど、そうした一般的住民投票は、法廷権限機関に対する参考的・助言的・諮問的効果のものでも、現行法律上の間接民主制とまったく矛盾しないと考えることは、前述のように直接民主主義を代表制・議会制民主主義と並列的基本原理と解した程度では、なお困難であろう(自治体の公的アンケート調査を住民投票形式にすることは別論である)。」(同32頁)

 この程度の結論しか導けないのであれば、地方自治について国政レベルとは違う別の原理が支配している、というほどの必要があるのか、私には良く理解できない。とにかく、結論として、個別的諮問的住民投票以外は、現行の地方自治法の下では許されない、という点では、これまでに紹介した説と違いはない、ということのようである。

[おわりに]

 以上のように、どの説を採っても、この問題では個別諮問型の住民投票のみが現行の地方自治法の下においては許される、という結論になる。それだけに、その理由付けをどのようにきちんと説明するかが合否を分けることになる。制度的保障説や主権論に言及していない論文が合格答案と評価されることはあり得ない、といって良い。