ヘボン式か訓令式か

甲斐素直

 欧文で文章を書く際に、我々の姓名や住所その他、日本の事物を表記するに当たっては、ローマ字を利用するほかはありません。その際、少々混乱が起こります。ローマ字にはヘボン式と訓令式の2種類があるからです。しかもどちらを標準とすべきかについて、わが国官庁の間にさえ、意見の対立があるからです。すなわち、文部省は訓令式を妥当と考えていて、小学校では訓令式によりローマ字を教えています。これに対して、外務省の方ではヘボン式を妥当として、旅券申請その他でヘボン式の使用を事実上強制しています。もっとも、外務省も、訓令式が絶対に駄目、といっているわけではありません。有効な旅券を期間内に切り換える場合には、原則として戸籍謄本の提出を省略できるのですが、非ヘボン式表記希望者の場合には戸籍謄本の提出を省略できない、という少々裏口的、あるいはいびり的手段でヘボン式を強制しているのです。

 社会の一般慣行としては、最近ではヘボン式が優勢であるように感じます。先日、ローマ字表記のある名刺を注文する際に、ちゃんと原稿は訓令式で書いてもっていったのに、勝手に名刺屋がヘボン式で作っていたので、印刷し直させる、という経験を持ちました。つまり、名刺屋が版下を作る際に、手が勝手にヘボン式に動いてしまうほどに、名刺ではヘボン式が普及している、ということのようです。

 しかし、私はかなり頑固な訓令式の支持者です。なぜなら、今の日本はグローバル化を切実に要求されており、ヘボン式の表記ではグローバリズムに対応できない、と考えているからです。

 こういうと、おそらく、話は逆ではないか、という反応が返ってくると思います。すなわち訓令式よりもヘボン式の方が外国人にとって読みやすい表記法なのではないか、だからこそ外務省も海外に出ていく人の旅券にヘボン式を強制しているのではないか、という反論です。

 それは間違いです。実は、ヘボン式というローマ字表記にはグローバリズムという観点から考えた場合、二つの致命的な欠陥があるのです。

 その第1は、ヘボン式が英語表記に密着しすぎている、ということです。ヘボンという式ローマ字は、幕末に日本に来たアメリカ人宣教師ヘップバーンが考案したものです。ヘップバーンという名前の発音が、当時の日本人に聞き取れず、ヘボンと呼ばれたのを彼自身が面白がって、例えば日本語の文章に自分を意味する語として「平文」と書いたりするほどに使ったことから、ローマ字の名称としても、この通称の方が正式化したものです。このようにアメリカ人が考え出した結果、ヘボン式ローマ字は、英語を話さない国民には非常に読みにくい表記法なのです。例えば町という言葉をヘボン式ではmachiと書きます。これをフランス人に読ませれば、マシと発音するでしょうし、ドイツ人に読ませればマヒと発音するでしょうし、イタリア人に読ませれば、マキと発音するでしょう。この点、訓令式でmatiと書けば、どこの国の人が読んでもマチという音にかなり近い音を出してくれるはずです。このような例はいくらでも上げることができますが、このように、訓令式の方が、より多くの国民に、我々日本人が期待している発音を期待しうる、という点で、訓令式の方が、グローバリズムという観点に立った場合、優れているのです。

 このようにいうと、しかし、今、英語が事実上のインターナショナル・スタンダードになっているのではないか、したがって、英語を読み書きできる人々に確実に読んでもらえる、という点で、実際上はヘボン式の方が優れているのではないか、という反論がくると思います。

 実はそこにヘボン式の第二の欠点が存在しています。すなわち、ヘボン式では、英語国民に正しい発音は期待できない、ということです。例えばさっきの町machiという表記を英語国民に読ませてご覧なさい。間違ってもマチとは発音してくれません。どう聞いてもメチといっているように聞こえます。理由はきわめて単純で、英語では普通、Aは、アルファベットの発音通り、エーと発音するのであって、アーとは発音しないからです。

 同じように、Iという文字も英語ではアイと発音するのであって、イーとは発音しません。例えばLionはライオンと読むのであって、リオンではないのです。このため、ヘボン式でイと読ませるつもりでIを書いてもたいていの場合、英語国民はイとは発音してくれません。例えば五十嵐さんが自分の名前をIgarashiとつづると、確実に「アイガラシ」と呼ばれることになります。私の知人は、何度訂正しても米国人にアイガラシと呼ばれるのに頭に来て、とうとうローマ字表記そのものを変えることで、ようやく少なくとも自分自身の耳には正しく呼ばれているように聞こえる発音をさせることに成功しました。

 どう変えたか、想像がつきますか?Egarashiと書いたのです。Eという文字はご存じのとおり、英語のアルファベットではイーと発音しますから、Iの代わりにEを使えば、彼らはすんなりとイガラシと読んでくれるわけです。

 このように説明すれば、当然エと読ませたいときにEと書けば何が起こるかも判ってもらえると思いますから、これについては説明を省略します。

 ウと読ませたいときにUと書くのも、やはり問題ある表記です。英語国民は多くの場合に、Uは、アと読むか、アルファベット表記にしたがってユーと読むからです。upとかunderstandという言葉を考えれば、アという発音が出てくる理由は判りますね。だから例えば「運命」をヘボン式で書けば、たいていの英語国民は、アンメーあるいはアメーと発音しているように聞こえる音を立てるので、我々日本人は何をいっているのか判らなくてきょとんとする羽目になります。あるいは「鵜飼」さんという名前を呼んでいるときには、どう聞いても「愉快」さんと呼ばれているようで、おかしくなります。

 こうして、ヘボン式を使うときには日本語の5個の母音のうち、日本人の期待通りに発音してもらえるのはOだけということになります。

 以上を要約すれば、ヘボン式の子音は、英語の表記に密着しすぎているために、英語国民以外には正確な発音はできない点に第一の欠陥があり、ヘボン式の母音は英語の発音と離れすぎているために、英語国民にも正確な発音は期待できないという第二の欠陥があることになります。したがって、ヘボン式は、英語国民にも、非英語国民にも、すなわち誰にも正しい発音を期待することができない欠陥表記である、という結論が出ます。ここまで説明すれば、グローバリズムの下にあってはヘボン式は不適当である、と主張する意味が判ってもらえると思います。

 この「あいうえお」という日本語母音に「AIUEO」という母音を対応させる結果、英語国民には正確に読めないという第二の欠陥は、確かに訓令式も共通してもっています。しかし、非英語国民、例えばドイツ、フランス、イタリアなどの諸国語では、これらの母音で、ほぼ日本語の音に近い発音を期待することができます。そして、子音の発音という点では、英語国民も含めて、どの言語使用者でも、訓令式の方が平均的に正しい発音を期待できるのです。

 したがって、訓令式の方が欧米人に日本の人名や地名を紹介する際に、訓令式の方が優れています。すなわち、グローバリズムという観点の下においては、疑う余地なく妥当な表記法である、と結論づけることができます。

 そこで名刺を作る際には、私はヘボン式でushiku-shiとしたりせず、訓令式でusiku-siと原稿を書くわけです。

 皆さんも、将来、海外で何らかの形で活躍したい、と考えているのであれば、今のうちから、ローマ字を使用するときには訓令式の表記法になれるようにしておいてください。