姓名の欧文表記

甲斐素直

 私のホームページのアドレスはhttm://www5a.biglobe.ne.jp/~kaisunao/index.htmです。つまりアドレスとして、私の姓名を、そのままの順序でローマ字化したものを使っています。ローマ字表記なのに、なぜsunaokaiではなく、kaisunaoとなっているのだと思いますか。これは私の年来の主義主張によるものです。つまり、私は日本人であり、日本人の名前は姓が先に、名が後に来るものだから、ローマ字で書くときにも当然その順序を変えるべきではない、と考えているのです。

 このような表記を始めたのは、大学時代からで、中学、高校時代までは、欧文表記の時は普通に名・姓という順に書いていました。しかし、その当時においてもかなり抵抗感をもっていました。なぜなら、日本にいる欧米人は、どれほど長く日本にいようとも、例えば「ケント・ギルバート」というように名・姓という順で書き、姓・名という順序で書く人は滅多にいないからです。彼ら欧米人が日本流の書き方をしないのに、なぜ日本人は欧文表記するときに、欧米流に名・姓と書かねばならないのでしょうか。これは絶対におかしなことです。

 とはいうものの、欧米人は夜郎自大ですから、日本流の書き方をして通じないのでは困ります。仕方がないから欧文表記する際には逆転させるのもやむを得ない、とその頃は考えていたのです。

 欧文表記をするときにも姓・名という普通の順序で書くようになったきっかけは、「大脱走」という映画のリバイバル上映を見たことでした。

 この映画は、この文を書く必要から調べてみたら、日本で最初に上映されたのは1963年のことです。その時点ではスティーブ・マックウィーンとかチャールズ・ブロンソンは日本での知名度が低く、広告には名前が出ていなかったのを覚えています。その頃は私はまだ小学生で英語を習ってはいませんでしたから、ひたすら字幕に頼って映画をみました。リバイバル上映が行われたのは1970年のことですが、その時になると、最初の上映時のポスターには大きな活字で名前の出ていたリチャード・アッテンボロー(脱走の指導者役)がポスターから消えてしまい、変わってマックウィーンやブロンソンが主役として大きく書かれるように変化していたのが、短い期間での彼らの知名度の上昇ぶりを示していて、印象的でした。その頃になると、何とか英語の耳ができてきたので、せりふをある程度まで直接聞いて楽しむことができるようになっていました。

 映画の最後の方で、脱走に参加して虐殺された将兵の名前を、捕虜収容所内で脱走しなかった捕虜たちを整列させた上で、一つ一つ読み上げて通告するシーンがあります。捕虜側の責任者が極力無表情で淡々と名前を呼び上げるのが、かえって悲劇を盛り上げて非常に感動的なシーンです。聞いているうちにはっと気がついて驚いたのが、すべて、姓・名という順序で名前を読み上げていたのです。それまで欧米では、常に名・姓と呼ぶものだとばかり信じていたので、これは非常な驚きでした。

 そこで、その後、注意して外国映画を見ていると、名・姓という順序で名前を読むのはアンフォーマルな場合だけで、正式に名前を呼ぶときとか、改まった場面では、たいていの場合、姓・名という順序である、ということが判ってきました。実際に欧米に行ってみると、正式に自分の名前を書くときには、常に姓・名という順序で書くものだ、ということを確認することができました。

 欧米人自身が正式場面ではそうしているのならば、日本人である私が名前を欧文表記するときに、何も名・姓という順序にする必要はないはずだ、と考えたのです。少なくともそれで通じないわけがない、と考えて、以来、姓・名という順序で必ず自分の名前は書くようにしています。

 しかし、その頃はまだ、そうするのが望ましいというレベルで考えていたに止まりました。それが確信犯?に変わったのは、つまり日本人である以上そう書かねばならない、と考えるようになったのは、1979年に最初のドイツ留学をしたときです。

 ボン大学で憲法の講義を聴いていたら、その最初の時間に当然のことながらドイツ建国当時の世界情勢の話になりました。アジア情勢の説明の中で、教授がさかんに「チャン・カイ・チェッキ」という名前を口にするのです。最初、誰のことかさっぱり判りませんでした。しかし、それと対にする形で「マオ・タク・トン」の名前がでてきたことからはっと気がつきました。前者が中華民国の指導者であった蒋介石であり、後者が中華人民共和国の指導者であった毛沢東であるわけです。つまり、中国人の名前については、ドイツ人はそのまま姓・名という順序で普通に呼んでいるのです。一方、同じ講義の中で、日本人名に関しては「シゲル・ヨシダ」という式に、名・姓と順序を逆転させて呼ぶのです。つまり、憲法の教授ほどの知識人でさえも、日本人の場合には欧米人と同じで、名・姓というものだと考えていることが判ったのです。

 これに気がついたときには、思わず全身が熱くなる思いをしました。つまり、中国人は誇り高く自らの民族式の読み方で世界中を押し通しているので、今日では欧米人は、少なくとも欧米の知識人は、中国人の名前はまず姓があって、次に名が来るのだ、ということを常識として知っているのです。驚いて調べてみると(ボンは当時首都でしたから、アジア人も多数在住しており、サンプルを確認するのに苦労しませんでした)こういう風に自分の国の流儀を欧文表記の時にも押し通しているのは、中国人だけではありません。韓国人でもベトナム人でも、つまりアジア民族で、姓・名順に名乗るのが普通の国民は、欧文表記に当たっても、自分の名前を姓・名の順序で書くのが普通なのです。

 つまり、姓・名という順序で自国では書く習慣を持っている民族の中で、我が日本人だけが欧米人の習慣に迎合して、逆転させているのです。ところが、我々は明治以来、この長き期間にわたって、常に欧米追随の形で自分の名前まで名乗ってきたものですから、欧米人は、かなりの知識人でも、日本での本当の表記は姓・名という順序なのだ、ということは知らないのです。

 これを国辱といわずして、何を国辱と言うべきでしょうか。名前は人の根本的なアイデンティティです。その段階で既に誇りを持たない国民が、いったい自分の国の文化の何を誇ることができるのでしょうか。だからいつまでも日本のイメージといえば、冨士山芸者どまりになるのだ・・というところまで進めると少々話が行き過ぎるかもしれませんが、とにかくこれは何とかしなければいけない、とそのとき痛感したのです。以来、自分の権限の及ぶ範囲内で自分の名前を欧文表記するときには、名刺でも何でも、必ず姓・名の順序で記するようにしています。

 実を言うと、私の姓は、そういうことをするのに実に不向きです。なぜなら、ドイツの非常にありふれた男性の名前にKaiというのがあるからです。だからドイツ人はカイという名前を聞くと、ごく普通の感情として姓ではなく、名だという印象を受けてしまうのです。私の場合には、その上に、姓・名という順序で名刺に書いてあるのだから、その印象をいよいよ強めてしまう、というわけです。そこで名刺を印刷するにあたっては、姓の方は KAI というようにすべてを大文字にし、他方、名の方はsunaoとすべて小文字にするという使い分けをすることで、何とか正しいメッセージを伝えようと努力しています。それでもわざわざコメントするまで逆に思っている人も少なくないので、今では名刺交換と同時にそのことをコメントするのが習慣となってしまいました。

 いったい誰がこのような国辱的な習慣を作りだしたのか、と調べてみたところ、どうも鹿鳴館が犯人であるようです。

 日本人が自分の姓名をローマ字で表記した早い時期の例は1600年前後にありますが、すべて姓・名順です。だから、当時は、外国人も日本で呼ばれるままを紹介していました。だからイエズズ会の宣教師の報告書などをみると逆に、当時の日本人の名前の正しい発音が判ったりします。たとえば黒田官兵衛については、今日我々はカンベエと発音しますが、イエズス会の報告書にはクァンピョウエという表記で書かれています。

 幕末における欧米との交渉時においても、日本側はすべて姓・名の順序で記述しています。たとえば、欧米へ派遣した留学生のサインでも、あるいは政府高官のサインでも、欧文表記をする場合には、姓・名という順序で書かれています。

 明治に入っても状況は変わりません。その結果、少なくとも明治初期においては、欧米側でも、日本人の名前は、姓・名の順であると認識されていました。

 例えば、わが国が明治18年4月18日に「専売特許条例」というものを布告しました。これは今日の特許法に相当するもので、その国際性の故に、その英文への翻訳がその約1ヶ月後の5月16日に発行された米国官報(Official Gazette)に掲載されているのですが、そこでは布告責任者として内閣総理大臣三条実美と、農商務大臣松方正義の名が、ちゃんと姓・名の順序で掲載されています。

 それが鹿鳴館の国辱外交を契機として、以後、きわめて急激なカーブを切って、名・姓時代へと突入するのです。 それが原因で、日本語の人名をローマ字で書く際、西欧にならって名・姓の順で書くようにと、学校の英語教育でも教えられ、外国人から申そう思われるようになったわけです。このように、鹿鳴館の害悪が今日まで尾を引いているとは、わたしも予想していなかったところです。

 ついでに言えば、国としての公式文書、すなわち英文の条約への署名に関しては、昔から今に至るまで、一貫して姓・名の順序で行われてきています。

 日本人名を欧文表記するに当たっては姓・名で書くべきだ、というのは決して私の創見ではありません。私より遙か以前から同じようなことを考えて実行してきた人は多くいます。比較文化関係の学者、文化人などに多いのは、やはり私と同じように、海外で活動すると、わが国の姓名表記方法が国辱的だということが痛感されるからでしょう。

 経済人の場合には、商取引の円滑ということがどうしても念頭にありますから、欧米流の表記に迎合する人が多くなりますが、それでも昭和電工の鈴木治雄名誉会長などは1982年ごろから姓・名順のローマ字表記を採用しており、同社役員の約半数が同調している、と新聞に出ていたのを呼んだ記憶があります。

 また、一部の刊行物、たとえば朝日新聞社発行の「ジャパン・クオータリー」は、1954年の創刊以来日本人の名前はずっと姓・名順です。「毎日ウィークリー」も1990年からは姓・名という順を採用しているそうです。公的機関では、国際交流基金が、従来から海外向け刊行物においても、日本人の名前は姓・名順で必ず書いてきているそうです。

 もっとも、先に学校教育で教えている、と書きましたが、この表現は厳密にいうと正確ではありません。なぜなら、文部省初等中等教育局教科書課によれば、「英語教育で日本人の名前の表記は姓名、名姓、どちらの順という原則はない」ということになっているからです。にもかかわらず、事実上は、これまでの教科書は「名・姓」順ばかりでした。というのも、文部省における国語教育のご意見番である国語審議会の腰が、この問題については完全に引けていたからです。

 国語審議会は、この問題を初めて取り上げたのは、なんと1993年になってからです。しかも、情けないことに、その時点では、どちらがよいか決められない、として継続審議にしたのです。しかし、その腰の重い国語審議会も、2000年9月8日、とうとう、日本語の人名をローマ字で表記する場合、姓・名の順で書くのが望ましく、学校でもそう指導するように求める、という方針を決めました。もっとも望ましいというレベルに止まっているのは、依然として腰が引けている、という感を否めません。

 実をいうと、学校教育の場でも、必ずしも名・姓派一辺倒ということではありませんでした。英語教科書に姓・名順を取り入れたのは三省堂の「ニュー・クラウン」が一番早いと考えて良さそうです。なんでも1978年ころから、比較文化の視点から考えて、日本人の名前の表記を欧米式に逆転させるのが妥当かどうか検討してきたのだそうです。そして87年度版から、導入時期と判断して、付録の手紙の書き方などに「姓・名」順を取り入れ、国語審議会がこの問題を俎上に挙げた93年度版からは、本課本文に入れたのだそうです。すなわち登場人物の加藤健を「Kato Ken」と表記した上で、「Ken Kato」と「このように英語式に並べてもよい」と注を添えるというやり方を採ったのだそうです。「ニュー・クラウン」は中学英語教科書の16%を占めていますから、皆さんの中にもこのやり方を習ってきた人もいるはずです。

 しかし、このようにどちらでもよい、というやり方ではかえって混乱を助長することになると私は考えています。著名な日本文学の研究者であるドナルド・キーン氏が、安部公房の作品を海外に紹介するに当たり、コーボー・アベが正しいのか、アベ・コーボーが正しいのか、と悲鳴を上げたのは、まだ記憶に新しいところです。

 国語審議会も、せっかくきちんと答申を出すなら、この際、日本人の姓名は、漢字で書くと欧文表記をするとに関わりなく、常に姓・名の順が日本文化のあり方として正しいと、ちゃんと明言してほしかったものだ、と考えています。

 皆さんも、日本人としての誇りを込めて、欧文表記の際にも、姓・名、という順序で書くという習慣を身につけてください。