政治的ビラ配布の自由と住居の平穏

ノン・パブリック・フォーラムにおける表現の自由

甲斐素直

問題

 平成○○年○月○日午後2時前後に、Xは、AB市にあるCマンションに、某政党のA県議会報告及びB市議団だより等計4点の政治的ビラを配布する目的で立ち入った。

 Cマンションは、地上7階、地下1階建ての鉄筋コンクリート造りの分譲マンションであり,すべて住宅として分譲されている。Cマンションは、1階西側にガラス製両開きドアの玄関出入口があり,そこを入ったところが玄関ホールになっていて、その右側の壁には掲示板と集合郵便受けが設置されている。集合郵便受けは,縦に6列,横に8列ずつ並んだ合計48個の各住戸ごとの郵便受けからなっている。

 その奥にさらにガラス製ドアがあり、このドアを開けてさらに進むと,右側にエレベーター,左側に階段があり,2階以上に上がることができる。このドアは居住者の出入りのため常に無施錠である。

 1階玄関ホール入口ドアには「関係者以外立入禁止」と書かれたB4判大の黄色地の紙が貼られており、また玄関ホール右側の掲示板にはA4判大の白地の紙に「チラシ・パンフレット等広告の投函は固く禁じます」と黒色の文字で記載された本件マンションの管理組合名義のはり紙がある。また、その上部には「近隣マンション盗難!多発注意!」と赤色の文字で手書きされたはり紙、「不審な人を見かけたら,110番しましょう」と記載されているはり紙等が貼付されている。

 Xはこの日、Cマンションの隣にある同様の構造のDマンションを最初に訪れていた。そこでは、玄関ホールの奥のドアがオートロックになって入れなかったため、集合郵便受けにビラを投函した。しかし、Cマンションでは、上述の通り奥のドアが無施錠であったので、そのドアを通ってエレベーターに乗り、7階まで行って,7階の全居室の玄関ドアのドアポストに本件ビラを投函し、その後、階段で下の階に降りて順次各階の全居室のドアポストに本件ビラを投函しようとした。しかし、3階まで降りて2戸の居室のドアポストに本件ビラを投函した段階で、Xを見とがめたCマンション居住者E110番通報した。その結果駆けつけた警察官により、Xは住居侵入罪(刑法130条)の現行犯として逮捕され、起訴された。

 これに対し、Xは政治的なビラ配布行為は、憲法21条の保障する表現の自由により保障されている行為であり、無罪であると主張した。

 この事案における憲法上の問題点について論ぜよ。

[はじめに]

(一) 表現の自由の規制について

 意外に難問だったようで、諸君から出てきた論文で、合格レベルのものは残念ながら無かった。

 私が難問とは思っていなかったにもかかわらず、諸君にとって難問であった理由は、表現の自由の規制というものの基本的な枠組みが諸君にわかっていない為と思われるので改めてその点を簡単に説明する。

 1 諸君は、表現の自由の規制の合憲性審査においては、厳格な審査基準を使用すると考えている。それ自体は正しい。しかし、これに関して、諸君の意識からこぼれている点がある。それは、これが裁判所による違憲立法審査権の行使にあたっての理論だ、ということである。すなわちこれは、表現の自由を規制する法律がある場合に、その法律が合憲か違憲かを決定するための基準となる理論なのである。したがって、これについては、法律の適用以前の段階で、そもそも法律の文言そのものの合憲性を審査する必要がある。これを文面審査という。文面審査の結果、文面違憲だという結論が出れば、裁判所は、それが実際に適用された際の合理性の判断を行うこと無しに、違憲判決が下して、事件は終わることになる。

 文面審査に当たって使用されるのは、明確性の法理あるいは過度の広汎性の法理と呼ばれるものである。すなわち、法律の文言が過度に広汎で、何が禁止されている行為なのか、ということが判らない場合には、一般国民にとって何が禁止されている行為であるかが判らなくなり、萎縮効果が発生するので、文面違憲と判断されるのである。

 ここで注意してほしいのは、問題になっている立法とは、表現の自由そのものを規制する立法のことだ、ということである。たとえば、第二次世界大戦の際に、米国で防諜法(スパイ防止法)が制定された。そして、この法律では戦争に反対する言論はスパイと同じだと定められた。その結果、兵役志願を募集する事務所の前で、反戦ビラを撒いた米国社会党書記長が、防諜法違反で逮捕されるという事件が発生したりした。こういうのが、典型的な表現の自由の規制立法である。

 これに対し、わが国に存在するほとんどの法律は、表現の自由の規制を目的として制定されたものではない。刑法は社会の治安を維持することを目的として、軽犯罪法は日常生活における刑事犯罪とまでは言えない軽微な犯罪を取り締まることを目的として、そして道路交通法は道路交通を安全・迅速に確保することを目的として、それぞれ制定されているのであって、決して表現の自由を規制する目的で制定されているわけではない。

 しかし、本問のように、刑法が表現の自由の規制に使用される場合がある。あるいは路上におけるデモ行進の規制に道路交通法が使用され、民家の塀へのビラ貼りに軽犯罪法が適用されることがある。

 こういう表現の自由の規制を目的としていない法律は、もちろんどのような表現内容を規制するのか、という点に関しては全く条文中に記述がない。したがって、文面審査を行えば、自動的に文面違憲の結論が出る。つまり、たとえば本問の場合であれば、住居侵入罪は、そもそもその構成要件の段階で違憲だから、実際の適用を考えることなく、違憲と判断されることになる。その結果、一切の住居侵入行為が取締不可能になる。これは、諸君の常識に反する結論であろう。その常識外れの結論が生じるのを防ぐにはどうしたらよいのだろうか。

 2 憲法の講義では、憲法訴訟論を体系的に習うわけではない。すなわち、その基礎となる理論体系からは離れて、表現の自由の箇所でいきなり二重の基準論を習う。憲法を教壇上で講義する際に憲法訴訟に論及するには、それしか手が無く、私も憲法の体系を講義する際にはそういう教え方をする。しかし、実はこれは不正確である。

 理論的には、まず自制説というものが出てくる。これについては、詳しくは憲法ゼミナール下巻513ページ以下に詳しく書いておいたから、きちんと理解したい人はそちら(あるいは小売市場事件最高裁判決)を見てほしいのだが、簡単に言うと、裁判所が民主主義的基盤を持たない等の理由から、裁判所は基本的には立法府の判断を尊重して審査すべきだという考え方である。これを合理性基準と結びつけると、違憲立法審査権の行使にあたっては、原則として狭義の合理性基準を使用するべきだ、という結論になる。

 これに対し、精神的自由権を規制する立法の場合には、投票箱による是正機能が阻害されるから、国会や内閣による自発的な修正を期待できない。そこで、残る唯一の国家権力機関である裁判所が積極的に違憲審査をするべきである。…というのが、実は二重の基準論の本当の意味である。それを精神的自由権のところで説明するものだから、経済的自由権と対比して説明しているに過ぎない。

 この結果、先に上げた刑法、軽犯罪法、道路交通法などは、経済的自由とは必ずしも結びつかない法律であるが、これらの法律によって、司法審査を行う際にも、二重の基準論的には経済的自由の規制と結びつけられている狭義の合理性基準で行うのが、理論的に正しいということになる。

 3 しかし…と、ここからが本問のポイントなのだが…そのような法律であったとしても、それが結果として表現の自由の規制手段として適用される場合に、依然として、適用審査に当たって、狭義の合理性基準を使用するだけで十分なのだろうか。少なくとも、場合によってはより厳格度を上げた審査基準を使用するべきではないだろうか、という疑問が生じる。

 これが、内容中立規制における審査基準という問題である。先にも触れたとおり、今日のわが国には、現実問題として、表現を直接規制する立法というものはあまりない。国家公務員の政治活動を(人事院規則という迂回路を通してはいるが)全面的に禁止している国家公務員法102条はそれに当たる(猿払事件最高裁判決=百選[第5版]32頁参照)。そのほかでは、破防法とか、「無差別大量殺人行為を行った団体」(要するにオーム真理教)を取り締まる法律が、それに当たるのではないかと論じられる程度である。だから、現実に起こる事件では、たいていの場合、憲法学における理論体系では例外に属する内容中立規制立法による表現の自由の問題になるわけである。

 学部学生である諸君の多くは、この論理の流れが理解できず、表現の自由だから厳格な審査基準であるが、時・所・方法の問題だから厳格な合理性基準である、という式に、理由も何も無しに書くものが多い。これはもちろん完全に間違っている論文である。しかし、この間違いを犯す学生があまりにも多い結果、この記述での減点は国家試験において致命的なものとはならず、その結果、こう書いて無事に合格したから自分は正しい理解をしているのだ、と信じて疑わない司法修習生、さらには判検事、弁護士までがいることは事実である。しかし、いくら間違った理解をするものが多くとも、それが正しいことにはならない。

 4 刑法や道路交通法が、何かの行為を禁止している場合、そこには、その禁止によって守ろうとしている一定の法益が存在している。したがって、これらの法律の適用審査においては、常にその法益と表現の自由の比較衡量という問題になる。本問は最終的には比較衡量論になると述べたのは、それが理由である。

(二) ビラの配布について

 マスメディアの発達した今日、自らの意見を広く大衆に伝えるもっとも効率的な手段は、そのマスメディアを通じることである。これが、「マスメディアへのアクセス権」として知られる重要な問題である。マスメディアを利用して、意見を伝えるもっとも代表的な手段が意見広告と呼ばれるものである。しかし、これには多額の費用がかかり、貧しいものが利用することはできない。

 その結果、貧しい者の意見表明の自由を実質的に確保する手段として、ビラの配布や立て看板といった、人手を惜しみさえしなければ誰にでも利用できる情報伝達手段は極めて重要なものとして、保護の対象にしなければならない。

 他方、極めて大量の情報が社会の中にあふれている今日、情報受領を拒絶する自由というものを守る手段を確保することは、極めて重要な問題である。たとえば右翼の街宣車による街頭演説、市町村の設置する防災無線と称する設備からの垂れ流し状態といいたくなるような放送、逃げ場のない車内における放送などは、すでに一つの社会問題となっていまる(囚われの聴衆と呼ばれる)。

 今日におけるビラ配りの多くは、本問のような紙の形ではなく、携帯やパソコンに対するメイルの送付という形で行われる。あまりに迷惑メイルが来るので、泣く泣く携帯の番号を変えてもらったという経験のある人が、諸君の中にもいると思う。こうした被害を防止するために、国は迷惑メイル取締法を定め、従来から取り締まっていたが、あまり効果がないので、2009年には違反業者への罰金額の上限を100万円から3000万円へと大幅に引き上げることにした。

 仮に本問が、紙のビラ配りではなく、政党あるいは政治家がメイルという形で行っていて(たいていの代議士はやっています。小泉さんが始めた首相官邸のメルマガなんてのもその一つ)、受信者の受領拒絶にもかかわらず、なおもメルマガを送りつけていたために、迷惑メイル防止法違反で起訴され、3000万円の罰金を求刑されたのに対して、被告は表現の自由を主張した、という事例でも、本問の場合と理屈は本質的には一緒である。

 このように説明すれば、ビラの配布が、表現の発信者と受領者の間で厳しく利害が対立する可能性のある問題であることが判ると思う。

一 時・所・方法の規制の概念

 時・所・方法の規制は、表現内容中立規制、すなわち、「表現をその伝達するメッセージの内容もしくは伝達効果(communicative effect or impact)に直接関係なく制限する規制」(芦部信喜「憲法学Ⅲ」431頁より引用)の一種である。

 諸君に認識して置いて欲しい基本的な問題把握として、時・所及び方法の規制の理論とは、本来は表現の自由とはまったく関係のない法律が、結果として表現の自由を規制してしまう場合の処理方法を開発することを狙ったものだということである。時・所及び方法規制が問題になる典型的な法律として、例えば道路交通法や軽犯罪法がある。道路交通法は、路上での交通秩序の維持という表現の自由とはまったく関係のない法的目的実現のための法律である。したがって、道交法の場合に、表現の自由との関係において厳格な構成要件を要求し、それに厳密に該当しない限り自由に交通秩序を破壊しうるというような立法は、法の目的に照らし、明らかに好ましくない。同様に、軽犯罪法の場合、日常発生する様々な可罰的違法性を有する軽微な犯罪行為を包括的に規制することを目指しているから、ここでも表現の自由との関連で厳格な構成要件を要求するような理論は妥当ではない(誤解を避けるために強調するが、ここに例示した2法は、いずれも刑罰法令であるから、憲法31条との関連においては明確性を有するものでなければならない。ただ21条との関連における明確性は要求されない、ということである。)。

 要するに、このように、表現の自由の規制を目指すのではない立法では、一般に表現活動の萎縮効果を考える余地はないから、表現の自由との関係では、文面違憲理論を適用する余地はない。しかし、そのような法律であっても、それが結果として表現の自由を規制するような結果をもたらした場合に、そのことをまったく度外視して表現の自由の本則に則って狭義の合理性基準で処理するのは妥当とは言えない。他方、それが表現の自由の表現行為としての性格を有しているということを無視して、一般の規制対象と同じように扱うのが妥当とも思われない。

 例えば、暴走族が道路を占拠する場合と、デモ行進が道路を占拠するのを同じ基準で規制するのは不当であろう。そこで、これらの立法が、結果として表現の自由を規制するような場合に、一般の場合と分けて異なる審査基準を導入して、適用違憲とする余地を見いだそうという理論的努力が展開されることになる。この理論的努力を総称して「時・所及び方法の規制」という。このような問題でも、表現の自由の規制と言うことを理由に構わず文面違憲という議論を各人がいるが、時・所及び方法の規制の問題だと判ったら、その段階で、文面違憲等という結論が出るわけがない、ということを理解して置いて欲しい。

二 二重の基準論と審査基準論

 概念を説明したら、次に必要になるのが精神的自由権の原則に該当する場合の審査基準の議論である。単純に二重の基準論を展開すれば十分である。すなわち、司法権の持つ憲法審査権について、原則として司法消極主義=自制説を採用した上で、精神的自由権の問題に関しては、例外としてより厳格度を増した審査を必要とすると論ずる。

 ここで、先に説明した時・所・方法の規制の特殊性が表れる。すなわち、この種立法は、本来、表現の自由の規制を目的としたものではないから、原則である司法消極主義を採用するから、表現の自由との関係での文面審査は行わない(誤解を避けるために強調するが、刑罰法規という観点からの文面審査は必要である。)。しかし、その法令を、表現の自由の規制目的で適用する場合には、その適用が合憲か否かの審査に当たり、原則的場合の審査基準よりも、より厳格度を高めた審査を必要とする。

 常識的に考えて、相対的に厳しい審査をするのが妥当な場合と、緩やかな審査をするのが妥当な場合とがあることは判ると思う。すなわち、深夜の住宅街や病院のすぐ脇で、拡声器を使ってがなり立てるような行為を規制する立法は、そこでなされる言論の内容を論ずることなく、妥当である、と考えられるであろう。他方、選挙になれば、どの候補者も駅前広場にやってきて政見を発表するものであって、そういう場所での演説の禁止や拡声器使用の禁止は、明らかに民主制の過程に大きな影響を与えるもので不当といえる。したがって、時・所・方法の規制という類型を肯定するからと行って、あらゆる場合に同一の審査基準を適用しようと考えるのは、明らかに不当なのである。

 そこで我が国で区分の基準として強力に論じられるようになったのが、JR吉祥寺駅構内でのビラ配布が鉄道営業法違反とされた事件(百選[第5版]130頁参照)に関して伊藤正巳判事が補足意見で展開したパブリック・フォーラムPublic forum論である。

「ある主張や意見を社会に伝達する自由を保障する場合に、その表現の場を確保することが重要な意味をもつている。特に表現の自由の行使が行動を伴うときには表現のための物理的な場所が必要となつてくる。この場所が提供されないときには、多くの意見は受け手に伝達することができないといつてもよい。一般公衆が自由に出入りできる場所は、それぞれその本来の利用目的を備えているが、それは同時に、表現のための場として役立つことが少なくない。道路、公園、広場などは、その例である。これを『パブリック・フォーラム』と呼ぶことができよう。このパブリック・フォーラムが表現の場所として用いられるときには、所有権や、本来の利用目的のための管理権に基づく制約を受けざるをえないとしても、その機能にかんがみ、表現の自由の保障を可能な限り配慮する必要があると考えられる。道路における集団行進についての道路交通法による規制について、警察署長は、集団行進が行われることにより一般交通の用に供せられるべき道路の機能を著しく害するものと認められ、また、条件を付することによつてもかかる事態の発生を阻止することができないと予測される場合に限つて、許可を拒むことができるとされるのも、道路のもつパブリック・フォーラムたる性質を重視するものと考えられる。」

 ところで、これも誤解を避けるために強調するのだが、パブリックフォーラム性を有する空間か否かは、表現行為に使用する媒体によって異なる。上記伊藤意見は、集会の自由を念頭に置いて書いているから、道路、公園、広場などがパブリックフォーラム性を有することになる。これに対して、他の型の表現の自由の場合には、その選ぶ媒体により、異なる空間がパブリックフォーラムか否かを巡って論じられることになる。

 かつて、司法試験で次の問題が出たことがある。

「市の繁華街に国政に関する講演会の立て看板を掲示した行為が、屋外広告物法及びそれに基づく条例に違反するとして有罪とされても、表現内容に関わらないこの種の規制は、立法目的が正当で立法目的と規制手段の間に合理的な関連性があれば違憲ではないからやむを得ない。」との見解について論評せよ。

 なお、「小中学校の周辺では扇情的な広告物の掲示は出来ない。」との規制の当否についても論ぜよ。(平成3年 司法試験 第1問)

 この問題は、大分県屋外広告物規制条例事件(百選[第5版]128頁参照)をベースにしてつくられたもので、立て看板という媒体を使用した表現の自由が問題になっている。この場合には、音を立てたり、交通を邪魔したりするわけではないから、たとえば深夜の住宅街であってもパブリックフォーラム性があるといえる。それに対して、例えば戦争反対という真摯な目的であっても、R指定を受けるような惨死体の写真を使った立て看板を立てることは、なお書きに出てきた小中学校周辺という空間にはパブリックフォーラム性がないので許されない、ということになる。

 JR吉祥寺事件から、伊藤判事の議論の続きを見よう。

「もとより、道路のような公共用物と、一般公衆が自由に出入りすることのできる場所とはいえ、私的な所有権、管理権に服するところとは、性質に差異があり、同一に論ずることはできない。しかし、後者にあつても、パブリック・フォーラムたる性質を帯有するときには、表現の自由の保障を無視することができないのであり、その場合には、それぞれの具体的状況に応じて、表現の自由と所有権、管理権とをどのように調整するかを判断すべきこととなり、前述の較量の結果、表現行為を規制することが表現の自由の保障に照らして是認できないとされる場合がありうるのである。」

 以上を整理すると、次のようにいえる。

(1) 街路streetおよび公園parkのような、伝統的に表現活動と結びついている公共用物は、「もっとも純粋なquintesssential」公共の広場public forumである。そこで行われる表現活動の規制については、合憲性を厳格に検討することが求められる。

 上記駅構内は、この意味で問題となるのである。また、

(2) 公会堂、公立劇場、公立学校講堂等のように、国ないし地方公共団体が自発的に公衆の表現活動の場として利用に供してきた公共の場所は、「指定されたdesignated」もしくは「限定されたlimited」広場として考えられなければならない。その場合、その場所の管理者は公開性を維持しなければならない、という義務を負担するものではないが、公開原則を維持する限り、上記と同様に、規制の合憲性を厳格に検討することが求められる。

 この(2)の場合に関して出たのが、泉佐野市市民会館事件(最判平成737日=百選[第5版]178頁)等である。

 ここで、規制の厳格な審査とは、次の内容を持つ。すなわち、時・所・方法の規制を行うことは許されるが、許されるためには、その規制は

(1)重要な公共的利益に役立つべく厳格に定められており、

(2)他の選びうる十分なコミュニケーションの経路を残すものでなければならない。

 この最初の基準が厳格な合理性基準に該当するものであり、後者の基準がいわゆるLRA基準を求めているものであることがわかると思う。ただし、これの場合には典型的なLRAとは逆に、他の代替手段の存在することが規正を合憲化する方向に働くことを看過してはいけない。せっかくLRAまで論じながら、普通のLRA論を展開してしまっている人が目立ったが、それでは点にならない。

 これに対して、

(3) 上記のようなパブリック・フォーラムに該当しない場所では、このような厳格な合憲性の審査は要しない。例えば住宅地の私人の塀に勝手にビラを貼る行為を禁ずる軽犯罪法の規定は合憲性が推定されることになる。

と論ずることになる。

三 設問に対する解答

(一) マンション共用空間のパブリックフォーラム性

 本問の場合には、私人の所有に属する空間とはいえ、マンションの共有空間としてのエレベータ、廊下や階段が、そのようなパブリックフォーラム性を有している、ということになれば、上記伊藤意見がいうところの「較量の結果、表現行為を規制することが表現の自由の保障に照らして是認できないとされる場合がありうる」ことになる。

 この点で、最大の問題になり、本問のベースとなった事件(東京地方裁判所平成18年8月28日判決=以下「本件事件」という)でも、裁判所は「各住戸は,その玄関ドアによって完全にパブリックな空間とプライベートな空間とに隔てられていると見ることもできないのであって,通路部分は,いわば両者の中間的な性格を有するスペースであると考えざるを得ない」として、両者のいずれとも決めがたい、いわばグレーゾーンというべき空間であると認定している。

 本問の場合、そのグレーゾーン性をそのままにしておいたのでは解答不可能なので、類似のDマンションとの対比を問題文中に取り込んで、論点を明確にしてみた。残念ながら、誰もその点に気がついてくれなかった。これは、ひょっとすると、ここに書かれているオートロックという言葉の意味がわからなかったせいなのかもしれない。マンション等でオートロックという場合、これは玄関ホールで、特定の住居の呼び出しボタンを押し、そこの住人が入り口の鍵を解除しない限り、エレベータホール等の共用空間に入ることができない構造になっていることを意味する。この場合、個々の住居前の共用廊下等が、誰でも立ち入り可能なパブリックな空間ではなく、共用ではあるが何人も住人の個別の許可なくして立ち入りが許されないプライベートな空間であることは疑う余地がない。そこで、XDマンションにおいては、玄関ポストへの投入を断念し、集合ポストへの投函にとどめたわけである。今、仮にXDマンションにおいて、他の訪問客のためドアの鍵が解除されたのを奇貨として、その人の後についてドアを抜け、Cマンションにおけると同様な行動に出た場合、これが住居侵入罪に該当することは問題がないであろう。

 ここで諸君に考えてほしいのが、そのようなオートロックの不存在が、住居侵入罪の成立を阻却する事由といえるだろうか、という点である。

 例えば、飲食店や小売店などで、Staff Onlyという札のついたドアがあったとする。たいていは、従業員の更衣や休憩のためにも受けられている空間である。小さな店だと、そういうところにしかトイレがないこともあり、客であっても、従業員の許可を得て、そうしたドアの奥のトイレの使用ができる場合がある。しかし、そうした許可がない場合には、店内への立ち入りには個別の許可を要しない(たいていそうだ)客であっても、そうした空間に立ち入れば、住居侵入罪が成立する。そのことは、鍵の有無とは関係がない、ということは、刑法の時間に習ったと思う。

  本問のCマンションの場合に、玄関ホールからさらに奥に入るドアがオートロックになっていないが、それだけを根拠に、その奥の空間が個別の許可なく立ち入ることが許される空間と考えるのは、上記理由から無理があるというべきである。

 なお、本件事件第1審判決では、以上とは逆に結論的に出入り自由な空間という認定を下しているが、それはこのマンションが1階部分が商店になっているいわゆる下駄履きマンションであり、かつつぎのような構造上の特殊性があるという理由からである。

「本件マンションは,1階の出入口にオートロック等の設備はなく,1階のエレベーターへの通路は玄関ドアにより外部と隔てられている構造となっているが2階以上は外階段で上り下りができるような構造になっており,外観上部外者の立入りが禁止されていることが明らかなような外部と隔絶した構造のマンションであるとはいえない」

決してオートロックの不存在だけを理由に、パブリックフォーラム性を肯定したわけではない。そこで、本問の作問に当たっては、完全にこの二重のドア以外には外部と隔絶した構造として、このような迷いをなくしたのである。

 以上のことから、Cマンションの共用廊下等は、Dマンションと同様に、パブリックフォーラム性がない空間(ノン・パブリックフォーラム)と考えるべきである。

 ノン・パブリックフォーラムであれば、狭義の合理性基準で判断するべきである。ここからいきなり住居侵入罪の成立を認めた人がいたが、それは議論の飛躍である。

 出題時に大分県屋外広告物規制条例事件判決における伊藤正己判事の補足意見を紹介した狙いはこの先にある。緩やかな基準とはいえ、とにかく、表現の自由を規制する以上は、比較考量という操作が必要なのである。

 メイルに書いた定義づけ比較考量というのは、同判決を引用すれば、次のような考え方である。

「それぞれの事案の具体的な事情に照らし、広告物の貼付されている場所がどのような性質をもつものであるか、周囲がどのような状況であるか、貼付された広告物の数量・形状や、掲出のしかた等を総合的に考慮し、その地域の美観風致の侵害の程度と掲出された広告物にあらわれた表現のもつ価値とを比較衡量した結果、表現の価値の有する利益が美観風致の維持の利益に優越すると判断されるときに、本条例の定める刑事罰を科することは、適用において違憲となるのを免れない」

 事案が違うので、少し判りにくいかもしれないが、一方は表現の自由の有する価値ということで固定されている(これが定義づけという意味)ので、他方の法益だけを考えて、どちらが重いかを考慮すればよい、というやり方である。

 但し、先に述べたとおり、パブリックフォーラム性を有する空間においてすら、表現の自由に関する代替性を考える必要があった。大分県の場合、伊藤判事は次のように述べる。

「本条例の定める一定の場所や物件が広告物掲出の禁止対象とされているとしても、これらの広告物の内容を適法に伝達する方法が他に広く存在するときは、憲法上の疑義は少なくなり、美観風致の維持という公共の福祉のためある程度の規制を行うことが許容されると解されるから、この点も検討に値する。」

 本問の場合だと集合ポストという代替手段が用意されており、Dマンションの場合には、X自身もそれで十分と考えていたのであるから、Cマンションの場合に、さらに奥まで立ち入らねばならない必然性は乏しいものといえる。

 したがって、住居侵入罪の構成要件該当・違法という点については、肯定できると考えて良い。同罪の構成要件の用語を使用するならば、立入に当たっての正当事由は無い、といえる。

(二) 可罰的違法性について

 問題はこの先にある。正当事由がないということが、ただちに刑事罰を以て処断するほどの可罰的違法性を持つ行為である、ということを意味するかという問題である。すなわち、表現の自由の行使という目的に基づいて行われる場合に、それを刑罰を持って禁圧するほどの反社会的な行為と認定するのが正しいのか、という問題である。

 この問題意識は、憲法では多くの場合に現れる。例えば、民間企業で許されるストライキを公務員が行うのは違法であるが、その違法行為が刑罰を以て処断するほどの重大問題か、というような形で論じられる。

 大分県の事件の意見中で、伊藤判事は次のように述べる。

「行政的対応と並んで、刑事罰を適用することが禁止目的の達成に有効であることはたしかであるが、刑事罰による抑制は極めて謙抑であるべきであると考えられるから、行政的対応のみでは目的達成が可能とはいえず、刑事罰をもつて規制することが有効であるからこれを併用することも必要最少限度をこえないとするのは、いささか速断にすぎよう。表現の自由の刑事罰による制約に対しては、その保護すべき法益に照らし、いつそう慎重な配慮が望まれよう」

 伊藤判事は大分県の事件の場合、結論的には刑事処罰を認めているが、それは次のような理由からである。

本件立て看板が「掲出された街路樹に比べて不釣合いに大きくて人目につきやすく、周囲の環境と調和し難いものであること、本件現場付近の街路樹には同一のポスターが数多く掲出されているが、被告人の本件所為はその一環としてなされたものであることが認められ、以上の事実関係の下においては、前述のような考慮を払つたとしても、被告人の本件所為の可罰性を認めた原判決の結論は是認できないものではない。」

 この考え方を本件事件に当てはめて考えると、少なくとも初犯の場合には、警官を呼んでつまみ出す程度で十分であって、長期にわたって未決勾留をしたり、起訴して刑事責任を追及するのは、犯したとされる行為の反社会性の程度を考える時、バランスを失していると考える余地が十分にあると言うことである。

 本問の場合、既に起訴されているので、起訴猶予等の解決が不可能であり、裁判所としては有罪か無罪かのいずれかの判定を下さざるを得ない。可罰的違法性の不存在という点を重視するならば、無罪判決ということになる。それに対して、犯状を重く評価する場合には有罪ということになろう。その点については、本問では十分な事実関係がしめされているわけではないので、判定不可能というのが正解ということになる。

 つまり、可罰的違法性の有無について裁判所としては慎重に事実関係を精査すべきだ、という答えが妥当である。学生諸君は、ややもすると、確定的に有罪無罪を書く傾向があるが、それは多くの場合に、無理な認定ということを記憶してほしい。