団体自律権と構成員の人権

南九州税理士会事件

補論=群馬司法書士会事件

甲斐素直

問題

 税理士会Yは、税理士法49条に基づき、A国税局管内の税理士を構成員として設立された法人であり、日本税理士会連合会の会員である。

 日本税理士政治連盟は、日本税理士会連合会に対応する政治資金規正法上の政治団体で、税理士の社会的、経済的地位の向上を図り、納税者のための民主的税理士制度及び租税制度を確立するため必要な政治活動を行うことを目的として設立された。これに対応して、Yも、同会に対応する政治資金規正法上の団体として、税理士政治連盟Bを設立した。Bは日本税理士政治連盟の構成員である。

 日本税理士会政治連盟では、○○年、税理士法の改正を推進する目的から政党Cに、例年より多額の政治献金を行うことを決定し、これを構成する各政治連盟に通知した。

 これを受けて、Yでは同年の定期総会において、税理士法改正運動に要する特別資金とするため、会員から特別会費5000円を徴収する旨の決議をした。そして、右決議に基づいて徴収した特別会費全額をBに寄付することとした。

 Xは、従来からYの会員である税理士であるが、本件特別会費を納入しなかった。

 Yの役員選任規則には、役員の選挙権及び被選挙権の欠格事由として「選挙の年の331日現在において本部の会費を滞納している者」との規定がある。

 Yは、右規定に基づき、本件特別会費の滞納を理由として、○○年以降の各年度における役員選挙において、いずれもXを選挙人名簿に登載しないまま役員選挙を実施した。

 そこで、Xは、YBに金員を寄付することは、Yの目的の範囲外の行為であり、そのための本件特別会費を徴収する旨の本件決議は無効であるとして、XYに本件特別会費の納入義務を負わないことの確認を求め、さらに、Yが本件特別会費の滞納を理由として上記各役員選挙において上告人の選挙権及び被選挙権を停止する措置を採ったのは不法行為であると主張し、Yに対し、これにより被った慰謝料等の一部として500万円と遅延損害金の支払を求める訴えを提起した。

 Xの訴えに含まれる憲法上の問題について論ぜよ。

参照条文 税理士法

49  税理士は、国税局の管轄区域ごとに、一の税理士会を設立しなければならない。(2項以下略)

49条の2  税理士は、税理士会を設立しようとするときは、会則を定め、その会則について財務大臣の認可を受けなければならない。

2  税理士会の会則には、次の事項を記載しなければならない。

 名称及び事務所の所在地

 入会及び退会に関する規定

 役員に関する規定

 会議に関する規定

 税理士の品位保持に関する規定

 会員の研修に関する規定

 会員の業務に関する紛議の調停に関する規定

 税理士業務に係る使用人その他の従業者に対する監督に関する規定

 委嘱者の経済的理由により無償又は著しく低い報酬で行う税理士業務に関する規定

 会費に関する規定

十一  庶務及び会計に関する規定

3  税理士会の会則の変更(政令で定める重要な事項に係るものに限る。)は、財務大臣の認可を受けなければ、その効力を生じない。

49条の6  税理士は、登録を受けた時に、当然、その登録を受けた税理士事務所又は税理士法人の事務所の所在地を含む区域に設立されている税理士会の会員となる。 2項以下略)

49条の11  税理士会は、税務行政その他租税又は税理士に関する制度について、権限のある官公署に建議し、又はその諮問に答申することができる。

49条の13  全国の税理士会は、日本税理士会連合会を設立しなければならない。

2  日本税理士会連合会は、税理士及び税理士法人の使命及び職責にかんがみ、税理士及び税理士法人の義務の遵守及び税理士業務の改善進歩に資するため、税理士会及びその会員に対する指導、連絡及び監督に関する事務を行い、並びに税理士の登録に関する事務を行うことを目的とする。

3  日本税理士会連合会は、法人とする。

4  税理士会は、当然、日本税理士会連合会の会員となる。

[はじめに]

(一) 本問の出題に当たり、私は諸君に問題文を送るメイルに、解答に当たって留意するべき点を書いておいた。それを簡単に整理すると、本問は、

1 本問は南九州税理士会事件をベースにしていること

2 民法34条の憲法学的な理解が論点の一つになること

3 八幡製鉄政治献金事件を参考にしてはいけないこと

4 国労広島事件及び三井美唄事件を参考にすべきこと

ということになる。ところが大変驚いたことに、これらの注意点をすべてきちんと押さえて論文を書いてくれた人は皆無であった。特に、わざわざベースになっていると断った南九州税理士会事件最高裁判決を読んだ形跡が全くない論文、それでいて、これまたわざわざ参考にしてはいけないと明記した八幡製鉄政治献金事件最高裁判決に乗った形の論文が続出した。具体的には政治献金は目的の範囲内の行為であり、したがってYXに対する処分は正しいと論じるという形のものである。私がわざわざ注意書きした点を無視して論文を書いていて、一体私から何を学ぼうと考えているのだろう、と首を捻っている。

 なお、わざわざ説明する必要があるとは予想していなかったのだが、なぜ民法34条が問題になるのか自体が判っていない形跡のある答案が目立った。人権というのは権利の一種である。だから、権利能力の主体になれない限り、人権も享有できない。そして、民法34条は、法人は定款の目的の範囲内でしか権利能力を持てないと書いてある。したがって、そのまま読むと、法人は定款の目的の範囲内にある人権しか享有できないことになる。そう理解するのが正しいのかどうか。それが南九州税理士会事件と八幡製鉄政治献金事件という二つの最高裁判決の大きな対立点であり、したがって本問の論点であると述べただけなのだが…。

(二) 団体の人権享有主体性は、国家試験で極めて頻出する領域といって良い。以前から出題されているが、近年の主要な例を挙げると次のものがある。

 法律上強制加入団体であるさる専門職業団体は、自己の活動分野の拡充を図る目的で、それに理解を持つ政治団体に政治献金を行うために特別会費を徴収することとし、また、大規模な自然災害にあった地域における同業者支援の寄付をするために特別負担金を集めることとした。この職業団体の行為に関し、憲法上問題となり得る点を挙げ、論評せよ。

平成14年度国家1種法律職試験問題

 法律上強制加入とされている団体が,多数決により,特定の政治団体に政治献金を する旨の決定をした。この場合に生ずる憲法上の問題点について、株式会社及び労働組合の場合と比較しつつ、論ぜよ。

平成13年度司法試験問題

 八幡製鉄政治献金事件判決に準拠した論文を書いた諸君はおそらく、これらの問題でも、単にそこに書かれていることが目的の範囲内かどうかを論じておしまいにするのではないかと私は危惧するのだが、それはもちろん不合格答案である。本問同様、団体と構成員の関係はどうなるのか、というところまでをきっちりと論じなければ、合格答案にはならない。なお、国1問題が後半で言及しているのは群馬司法書士会事件(最高裁判所第一小法廷平14425日判決)である。そこで、本講では、それに対する問題意識も持って説明していくことにする。

(三) このように頻出する理由は、現代社会における法人ないし団体の重要性が背景にある。さらにいえば、それにも拘わらず、それに関する憲法学的な理論整備が進んでいなかったことにある。

 人権の歴史は、自然人に関する権利獲得の闘争の歴史である。従って、それらが法人ないし団体に適用になることは本来予定されていなかった。より正確には、積極的に敵視していた。この点を、樋口陽一は次のように説明する。

「個人の解放と国家への権力集中というあり方を一番徹底的に追求したのは、フランス革命であり、個人と国家のあいだに介在する一切の『中間団体』を徹底的に敵視した。1789年権利宣言のカタログに結社の自由が出てこないのは偶然ではなく、その時点で存在していた結社-すなわち身分制的結合-を解体して、自由な諸個人から成る社会の前提を作り上げることこそが、革命の中心課題とされたからである。総じて、近代立憲主義は、自由な諸個人によってとりむすばれる社会を基本的に想定しているのであり、その障害を排除するためには、国家からの結社の自由ではなく、結社からの国家による自由-国家干渉からの形式的自由でなく、国家による実質的自由-が、市民革命期の課題として追求されたのである。」

(『憲法』創文社1992年刊29頁より引用)

 しかし、今日では、団体や法人は大きな社会的力をもつ存在となってきた。その結果、実定法上、団体や法人に、権利能力主体性を承認する必要のある場合が生じてきた。その延長線上に、人権享有主体性を考える必要のある場合が生ずる。

 そこで、本問における論点の第1は、そうした団体独自の人権享有主体性というものはどのような形で肯定できるのか、という点である。第2として、その人権に対する制限は、自然人と同様のものか、それとは異なる制約に服しうるか、という点である。特に、団体が対社会的な関係で有する人権享有主体性と、対内的に構成員たる自然人との関係で有する人権享有主体性が、同一の理解でよいか、ということが問題となる。そこでのキーワードは「団体の目的」とそれとの関連における自律権の限界である。

一 団体の人権享有主体性

(一) 団体の人権享有主体性をどう考えるべきか

 近代憲法と異なり、現代の憲法上、結社の自由が保障されることを必要とするのは、結社に対し、社会ニーズが存在しているためである。集団としての人には、個人としての人には出来ないことが可能になる。例えば、阪本昌成は次のように論じる。

「1 人びとが人的集団を作り上げる目的は、個々人の基本権をより有効に集団的に行使することにある。

 2 共通目的をもって集結した人の小集団は、個々の構成員の意思の総和以上の意思を実在的に創造する。その実在は、個人(自然人)が基本権主体となると同じように、意思主体、行為主体となって、自由を享受する。すなわち結社自体が構成員の意思から独立した一つの意思主体となるのである(個人の意思に分解できる場合には、構成員全員の契約関係に解消すればすむ。)」

(『憲法理論2』成文堂1993年刊189頁より引用)

 すなわち、集団には、複数の自然人が単に同一の時点で同一の場所にいるという以上の社会的実在性が存在していることは、否定できない事実である。例えば、デモ行進と、ラッシュアワー時の駅頭の群衆の差は、後者が単にばらばらの自然人が同時的に同一の方向に歩いているという現象であるのに対し、デモ隊と呼ばれる自然人の集団は、一個の社会的実在性を有して行動している点にあるとみるべきである。

 したがって、第一に、自然人の集団の機能を、常に、それを構成している個々の自然人に一々分解し、あるいは自然人に還元して理解するのは、明らかに妥当ではない。集団の存在を、憲法レベルでも素直に肯定するのが、憲法の社会規範性の当然の要求である。

 第二に、自然人の集団に、一定の社会的実在性を認めるということから直ちに、その集団に、当該集団を形成している自然人とは別個独立の人権享有主体性を認めるという結論を導びいてはならない。例えば、浦部法穂は次のように説明する。

「個々人の権利・自由だけでなく、団体としての権利・自由を認める必要があることは、疑いない。とくに公権力によって団体活動が不当に制限されるようなことがあれば、団体を結成したそもそもの目的の実現を妨げられることにもなるから、団体としての活動に憲法的保障を認めることの意味は小さくない。しかし他方、団体としての活動が、その構成員たる個人や団体外の人々の人権を侵害するというケースも、稀ではない。この場合に、団体活動の方も『人権』であり個人の方も『人権』である、ということになると、団体による個人の人権侵害という問題は、実は『侵害』ではなく、人権と人権の衝突の問題だということになってしまう。団体は、実際上、個人に対して優位に立っているのがつねであろう。そうであれば、ここでの問題は、『人権同士の衝突』としてでなく、『人権侵害』としてとらえられなければならないはずのものである。団体を『人権』の主体とすることは、団体による人権侵害を相対化してしまうことになるのである。」

(『憲法学教室』全訂第2版日本評論社2006年刊62頁より引用)。

 すなわち、ここでいう人権享有主体性とは、対社会的な関係でのみ肯定されなければならない。集団内部においては、個々の自然人の有する人権に対立する、同等の人権享有主体性を集団そのものに認めることはできない。集団はあくまでも、個々の自然人の人権を対社会的に表現する手段として形成されたものだからである。だから、ある団体にある活動をする自由が認められるということと、それに必要な活動を団体がその構成員に強制できるということとはイコールではない。

 以上の理解を踏まえて、芦部信喜が下している次の定義を読んでほしい。

「法人の活動が自然人を通じて行われ、その効果は究極的に自然人に帰属することに加えて、法人が現代社会において一個の社会的実在として重要な活動を行っていることを考えあわせると、法人に対しても一定の人権の保障が及ぶと解するのが妥当であろう」(芦部信喜『憲法』第487頁より引用。)

 ここで注意するべきは、ここが疑う余地なく擬制説だということである。人権享有主体だといっているのではなく、単に「一定の保障が及ぶ」という表現をとっている点に、そのことが端的に表れている。その理由に上げられているのは、二つの理由である。すなわち、第一の理由は、「法人の活動が自然人を通じて行われ、その効果は究極的に自然人に帰属すること」である。ここで言っていることは、自然人の活動の道具であるのだから一々個人に分解する必要はない、ということである。これは明確に擬制説である。

「法人の概念は、主として、財産権の主体となることにその意味を持つものであるから、人権宣言の規定は、主として財産法上の権利義務に関しては、法人にも適用される結果になる。」(宮沢俊義『憲法2』245頁より引用)

というような主張は、こうした枠内で初めて理解できる。

 注意してほしいのだが、「主として財産権」というのは、精神的自由権における享有主体性を否定する、という意味ではない。例えば、宗教団体に法人格を認める主たる目的が様々な財産権の主体となることを認めることにあることは否定できないが、そのことは宗教法人が信教の自由の享有主体性を保有することを否定するものではない。但し、宗教法人が有する信教の自由は、自然人の持つ信教の自由とは全く異質のものである。自然人であれば、どのような宗教を信じることも、あるいは信じないことも、その人の自由であるという意味である。これに対し、宗教法人は、その特定の宗教を信じる自由しか持たない。例えば宗教法人日本基督教団はキリスト教を信じる自由しか持たず、仏教や回教を信じる自由は持たない。これは、宗教法人格が、その法人に属する信者の道具であるに過ぎないことから出てくる必然の結果である。

 これに対して第二の「法人が現代社会において一個の社会的実在として重要な活動を行っている」という理由は、一見、実在説的な根拠にみえる(実際、受験予備校などではそう教えていると聞く)しかし、そう読むのは間違いである。あくまでも社会の中での活動を評価する、ということにすぎない。社会的実在性と法的実在性は違う概念なのである。先に紹介した浦部の見解にあるとおり、法人(団体)が社会的に実在していることから直ちに、憲法学的にも実在していると考える場合には、団体によるその構成員の人権侵害救済がきわめて困難になるからである。あくまでも、法人の社会的実在性が、第一の理由と合わさって、性質上可能な限り、人権保障を及ぼすべきであると述べているに過ぎないのである。

 このように考えるから、実定法上、自然人とは異なる制限を法人に課することが許されるのである。例えば政治資金規正法による自然人と法人の差別的取扱いが、擬制説ならば許されるのである。

 なお、芦部は、この記述に引き続いて、たとえば政治的行為の自由について、法人(団体)の自由を制限しうる根拠として「法人のもつ巨大な経済的・社会的な実力を考慮に入れる」ということを述べている。今回も、これを受けた論文を書いた人がいた。

 しかし、私は、この説明は積極的に誤っていると考えている。なぜなら、第一に、仮に「巨大な政治的・社会的影響力」を有することが、人権制限の根拠となりうるならば、自然人であって、「巨大な政治的・社会的影響力」を有する者、例えば内閣総理大臣や大企業の社長の政治活動の自由を制限することも許されることにならなければ、理屈が通らない。しかし、自然人の人権をそのような根拠で肯定する者はいないであろう。第二に、逆に、法人や団体であっても、政治的・社会的影響力の小さな者については、その自由を規制することは違憲にならないと、これまた理屈が通らない。現実問題として、政治資金規正法の適用を受ける政治団体のほとんどは、きわめて零細な組織しか有していないのであるから、この理屈からは政治資金規正法違憲論が導かれるはずである。

 このように、法人・団体は、その社会的実在性と言うよりは、自然人の社会目的実現の手段性という点に着目して人権享有主体性を擬制的に肯定するという解釈を採るに当たって、特に注意を要するのは次の諸点であろう。

  1 社団における人権享有主体性の肯定

 団体・法人が人権の主体性を認められるのは、上記の考え方からすると、それが自然人の集合だからである。換言すれば、その社団が個別の法分野において法人格の主体性を認められているか否かはここでは問題にはならない。例えば、法人解散命令を受け、実定法上権利能力を失ったオーム真理教が、その後も依然として、20条の権利の主体として、団体活動ができるのは、そのためである(最決平成8130日=百選第586頁)。

  2 財団における人権享有主体性の否定

 財団は、社団と同じように、法人格を与えられる基礎となる団体であるが、自然人を基本的に要素としていない。したがって、人権の保護は原則的には及ばないと考えるべきである。但し、実定法上財団とされていることを根拠に、例えば大学における学問の自由を否定することは許されない。すなわち、憲法学的な社団性は実定法とは関係なく、憲法学的に考察しなければならない。同様に、例えば株式会社は株主という自然人を構成員とする社団と実定法上は定められているが、憲法学的には必ずしもそれに拘る必要はない(どの側面を捉えて議論しているかに応じて、場合によっては社長以下の被用者集団を社団として捉えるのが妥当する場合もある。)。

  3 自然人のみに保障される基本権

 社団の場合にも、自然人の肉体、あるいは個人的な判断と緊密に結びついている人権、例えば選挙権、被選挙権、婚姻の自由、奴隷的拘束からの自由などは、どのような団体であれ、適用が考えられないと言うべきである。

二 団体の享受する人権の範囲

 団体が社会的活動の自由が認められるということと、団体内部において団体が構成員個人に対し多数決の結果を強制できるということは別問題である。その結果、具体的問題は、主として二つのパターンで発生する。第1のパターンは対社会的関係、すなわち団体とその交渉相手となる私人との関係で、団体がどの限度で人権享有主体性を認めうるか、という形で現れる。第2のパターンは体内関係、すなわち団体が、その構成員(のうちの少数者)と異なる思想、信条の主体として行動しうるか、という形で現れる。

 本節では、その第1の団体の対社会関係について説明し、第2は次節で説明する。

 先に、八幡製鉄政治献金事件最高裁判決を参考にしてはならない、と述べた。しかし、なぜ参考にしてはならないのか、疑問に思う人も多いと思う。そこで、まず八幡製鉄政治献金事件最高裁判決について説明し、その結果を受けて南九州税理士会事件最高裁判決の論理を説明することとしたい。

(一) 八幡製鉄政治献金事件について

団体の対社会関係における人権享有主体性に関するリーディングケースというべき判例は、八幡製鉄株式会社(現新日本製鐵)が自由民主党に政治献金したことに対して、株主が、右寄附は同会社の定款に定められた目的の範囲外の行為であるから、同会社は、右のような寄附をする権利能力を有しないとの理由で、その無効を訴えた事件に関する最高裁判所大法廷昭和45624日判決である(百選第524頁参照)。

 この判決の意味は、単にその文言だけを見てもわかりにくい。そこで、その説明に入る前に、憲法から離れて、他の法律の視点も交えてこの問題を少し考えてみよう。

 会社は営利法人である。取締役は会社に対して忠実義務を負っている(会社法355条)。その結果、仮に会社として政党に政治献金をするとすれば、その効果が会社としての利益の追求に役立つものでなければならない。全く会社の営利に結びつかない政治献金を行えば、それは特別背任行為として処罰される(会社法960条)。したがって、取締役として政党や政治家に政治献金をする場合、それが当該会社の利益につながるよう、請託する必要がある。

 他方、刑法は内閣総理大臣や国会議員といった公務員が、請託を受けて自ら不正な行為を行ったり(受託収賄=刑法197条)、他のものに実行させた場合(斡旋収賄=197条の4)を処罰している。実際、前者の例として大阪タクシー協会事件(大阪タクシー協会事件大阪高等裁判所(控訴審)昭和58210日判決)が、後者の例としてロッキード事件がある。

 要するに、政治献金を会社の利益にならない形で行えば特別背任罪に、会社の利益になるように行えば贈収賄罪が成立するのである。このように会社法や刑法の適用がある場合には、わざわざ憲法論を論じる必要がない(恵庭事件札幌地裁昭和42329日判決参照)。では、八幡製鉄政治献金事件では、なぜ憲法上の人格享有主体性が論じられたのであろうか。その視点から、判決を読んでみよう。

「会社は、他面において、自然人とひとしく、国家、地方公共団体、地域社会その他の構成単位たる社会的実在なのであるから、それとしての社会的作用を負担せざるを得ないのであつて、ある行為が一見定款所定の目的とかかわりがないものであるとしても、会社に、社会通念上、期待ないし要請されるものであるかぎり、その期待ないし要請にこたえることは、会社の当然になしうるところであるといわなければならない。そしてまた、会社にとつても、一般に、かかる社会的作用に属する活動をすることは、無益無用のことではなく、企業体としての円滑な発展を図るうえに相当の価値と効果を認めることもできるのであるから、その意味においてこれらの行為もまた、間接ではあつても、目的遂行のうえに必要なものであるとするを妨げない。災害救援資金の寄附、地域社会への財産上の奉仕、各種福祉事業への資金面での協力などはまさにその適例であろう。会社が、その社会的役割を果たすために相当な程度のかかる出捐をすることは、社会通念上、会社としてむしろ当然のことに属するわけであるから、毫も、株主その他の会社の構成員の予測に反するものではなく、したがつて、これらの行為が会社の権利能力の範囲内にあると解しても、なんら株主等の利益を害するおそれはないのである。」

 ここでの論理の特徴は、「会社に、社会通念上、期待ないし要請されるものであるかぎり」法人の定款記載の目的に比べて幅広く権利能力主体性を肯定した点にある。しかし、あくまでも、その「かぎり」であるから、決して法人実在説が言うような無限定な拡幅ではない。すなわち、ここで、企業が人権享有主体性を持つのは、企業の本来の目的となる活動あるいはそれに直接・間接に役立つ活動を除けば、社会通念上、期待ないし要請される範囲に属する活動だけだと述べているのである。

 したがって、そこにいう社会通念に基づき期待・要請される活動が具体的には何かということが問題となる。本判決がその適例として掲げているのは「災害救援資金の寄附、地域社会への財産上の奉仕、各種福祉事業への資金面での協力」である。

 諸君は、会社法領域で、今日、企業責任ということが論じられていることを承知していると思う。それは極めて多義的な概念であるが、その一環として、企業社会責任(corporate social responsibility)ということが言われる。その重要な分野として説かれる社会貢献活動と呼ばれる一群の活動を、最高裁判所判決は意味している、と考えられる(以後、この例示に含まれる諸活動を『社会貢献活動』と総称する)。この言葉を使って説明すれば、最高裁判所が確実に言っていることは、営利企業に人権享有主体性が認められる範囲は、定款の目的に書かれた行為プラス社会貢献活動だ、ということになる。

 ここで、社会貢献活動の典型に、「災害救援資金の寄附」があがっていることに注目しておいてほしい。これが後述する、群馬司法書士会事件の論点だからである。

 さて、当面の問題は、企業は、政治資金の寄付を行いうるか否かである。八幡製鉄政治献金事件判決は、上記引用箇所に続いて、次のように述べている。

「以上の理は、会社が政党に政治資金を寄附する場合においても同様である。憲法は政党について規定するところがなく、これに特別の地位を与えてはいないのであるが、憲法の定める議会制民主主義は政党を無視しては到底その円滑な運用を期待することはできないのであるから、憲法は、政党の存在を当然に予定しているものというべきであり、政党は議会制民主主義を支える不可欠の要素なのである。そして同時に、政党は国民の政治意思を形成する最も有力な媒体であるから、政党のあり方いかんは、国民としての重大な関心事でなければならない。したがつて、その健全な発展に協力することは、会社に対しても、社会的実在としての当然の行為として期待されるところであり、協力の一態様として政治資金の寄附についても例外ではないのである。」

 簡単に言ってしまえば、最高裁判所は、政党への政治献金も社会貢献活動の一環であると述べていることになる。最高裁判所は、このようなきわめてぎりぎりの論理により、特別背任にも贈収賄にもならない政治献金が例外的にあり得、しかもそれは憲法上も許されると述べているのである。

 しかし、八幡製鉄政治献金事件や住友生命政治献金事件(最判平成15227日)等の判決が、事実として確定しているところによれば、現実には政治献金は、特定の政党に偏って行われている。

 こうしたことから長谷部恭男は、次のように述べている。

「独立の活動主体たる法人が政治献金をしていると見る方が、一部の取締役が反対する株主の存在にもかかわらず株主の財産の一部を自己の支持する政党のために使用しているという見方より果たして現実的であるのか否か疑わしい。」(長谷部『憲法』第3版、新世社2004年刊136頁より引用)。

 少なくともこのような偏った政治献金の結果、当然、潤沢な政治資金を有する政党は安定的な運営が可能になるのに対して、企業からの政治献金を得られない政党は、運営が困難になる。すなわち、企業から見て好ましい政党の活動だけが助長され、そうでない政党の活動は抑えられることになる。これは、議会制民主主義の援助・促進という観点から見た場合には、決して好ましいことではない。

(二) 南九州税理士会事件最高裁判決について

 従来、この事件(最判平成8319日=百選第582頁)は、最高裁判決自身が、税理士を業として行うに当たり、弁理士会が強制加入とされている点を重視して議論を展開したため、団体に加入するに当たって任意性のある八幡製鉄のような営利企業と、その点で異質のものとして論じられてきた。次の下りである。

「税理士会は、法人として、法及び会則所定の方式による多数決原理により決定された団体の意思に基づいて活動し、その構成員である会員は、これに従い協力する義務を負い、その一つとして会則に従って税理士会の経済的基礎を成す会費を納入する義務を負う。しかし、法が税理士会を強制加入の法人としている以上、その構成員である会員には、様々の思想・信条及び主義・主張を有する者が存在することが当然に予定されている。したがって、税理士会が右の方式により決定した意思に基づいてする活動にも、そのために会員に要請される協力義務にも、おのずから限界がある。」

 ここで、判決は、何故強制加入の場合にだけ「協力義務」に差異が生ずるのか、その理由については明確には述べていない。協力義務という文言は、対内関係の議論のように見える。しかし、思想・信条を同じくしているという基準で組織された政治団体を除いて、どんな団体にも、思想・信条の異なる構成員の存在は当然に予定されるはずである。例えば、公益法人である日本大学は決して強制加入型の団体ではないが、仮に日本大学が特定政党へ寄付を行うことを決定し、その原資を得るため教職員や学生に寄付を強請することが許されるか、と考えてみれば、答えは明らかであろう。また、この文を受けての記述に、先に紹介した国労広島地本事件判決を引用している。しかし、労働組合は、税理士会のような意味における強制加入団体ではないから、その意味でも論理が通らない。

 前後を通して読めば、本判決で、強制加入団体という点は、定款の目的を狭く読むと言う点の根拠として使用されていることが判る。

 すなわち、対外関係において、会社の場合には「目的に反しない限り」権利能力がある、と広く解するのが、取引の安全(動的安全)保護の観点から妥当である。その結果、その広い権利能力の範囲において成立しうる人権の享有主体性を肯定することもできる、というのが八幡製鉄政治献金事件最高裁判決の論理であった。

 これに対し、強制加入団体の場合には、その存在理由は、そうした団体の自律により、国家統制を可及的に排除する点にある。それにより、団体の政治的中立性が保障されるのである。したがって、強制加入団体の場合には取引の安全を保護すべき必要は全くない。そうであれば、静的安全の保護を重視すべきことになる。

 この次にある文章は、この観点からすれば、極めて注目するべきものである。すなわち、

「政党など規正法上の政治団体に対して金員の寄付をするかどうかは、選挙における投票の自由と表裏を成すものとして、会員各人が市民としての個人的な政治的思想、見解、判断等に基づいて自主的に決定すべき事柄であるというべきである。なぜなら、政党など規正法上の政治団体は、政治上の主義若しくは施策の推進、特定の公職の候補者の推薦等のため、金員の寄付を含む広範囲な政治活動をすることが当然に予定された政治団体であり(規正法3条等)、これらの団体に金員の寄付をすることは、選挙においてどの政党又はどの候補者を支持するかに密接につながる問題だからである。」

 これは、先に政党への献金は、社会貢献活動であると決めつけた八幡製鉄事件と比べると、完全に一線を画したものとなっている。この点も、群馬司法書士会事件の判決分析の一環として、最後にもう一度触れるので、記憶しておいてほしい。

 上記のとおり定款を文言通り理解すべきか、反しない限りにおいて拡大解釈して良いか、という問に対する明確な回答が次の文章である。

「法は、49条の121項(注:現行法では40条の11)の規定において、税理士会が、税務行政や税理士の制度等について権限のある官公署に建議し、又はその諮問に答申することができるとしているが、政党など規正法上の政治団体への金員の寄付を権限のある官公署に対する建議や答申と同視することはできない。」

 営利企業の場合には、そもそも目的自体を企業関係者の意思で自由に決定できる(例えば、先に言及した住友生命では定款に社会貢献活動をなし得ることが明記してある)し、その結果、書いてない場合にも、目的に反しない限り幅広い活動が許される。これに対して、税理士会のように、目的自体が法律で定められている強制加入団体の場合には、その法定の目的しか定款に書けず、したがってその文言に正確に一致する以外の活動を行うことができないといっているのである。

 ここまでの議論が、民法34条に関する憲法問題として論じてほしいことである。しかし、現実の事件においては、この点は、Xの主張の当否を直接に決定する要因にはならない。なぜなら、税理士会でもそのことを承知していて、政治献金その他の活動は、南九州税理士会の場合であれば、「南九州各県税理士政治連盟」という規制法上の団体を通じて行っているのであって、税理士会そのものは政治活動を行っていないからである。その上で、税理士会で決議を行うことにより、特別会費を徴収し、これを政治連盟に寄付するという手法を採用している。

 ここで、議論のやり方としては法人格否認の法理を使っても良い。すなわち、日本税理士政治連盟及びその構成員であるBの法人格が否認し、Yが政治活動を行ったと論じる方法がある。しかし、その議論に必要な具体的な事実関係は、本問では供給されていないから、その方法で論じた場合には、仮にBが実体のないダミーであれば、というように仮定的な議論とせざるを得ない。

 それに換えて、最高裁判決は、団体内部関係の議論を行っているので、諸君もそちらに論点を移して論じるのが妥当である。

三 団体とその構成員の意見の対立

 団体が対外的に政治活動できるか否かということと、団体と意見の合致しない構成員に対して、団体が団体の決議を強制できるということは異質の問題である。これに関してはいくつかの最高裁判所判決がある。見ていくことにしよう。

(一) 国労広島政治活動資金訴訟にみる対内関係

 団体の活動における二つの関係を明確に区別した判決としてリーディングケースと認められるのは、国鉄労働組合が、政治活動を行うこと及びその原資を組合員から徴収することを決定したのに対して、その違法を争った事件に関する昭和501128日最高裁判所判決である(百選第5328頁参照)。この判決は、南九州税理士会事件判決が、明確にその判決中で引用しており、その意味で、同一の論理と見ることができるという意味で、極めて重要である。

 最高裁判所は、これ以前における三井美唄事件(最大昭和43124日=百選第5326頁参照)において、対外関係に関しては、次のように述べた。

「労働者がその経済的地位の向上を図るにあたっては、単に対使用者との交渉においてのみこれを求めても、十分にはその目的を達成することができず、労働組合が右の目的をより十分に達成する手段として、その目的達成に必要な政治活動や社会活動を行うことを妨げられるものではない」

 すなわち、組合の定款に定める目的に直ちに拘束されることなく、幅広く政治活動の自由を肯定する見解を示した。労働組合では、権利能力の範囲=人権については緩やかに解釈して良い、というのである。

 組合が政治活動の自由を有しているのであれば、常識的に言えば、それに違反する行動を個々の組合員が取ることを認めては、組合の団結が阻害されるから、違反者は統制権に基づいて処分できるはずである。しかし、最高裁判所は、対内的には、組合の統制に従わず立候補した者に対する処分を認めなかった。立候補の自由が人権に属し、処分はそれを侵害することになるという理由からである。

 国労広島地本事件判決では、この延長線上で、様々な特別決議に基づく特別組合費の徴収を整理して対内関係では、対外的な場合の定款の目的の理解とは異なる厳しい判断を行うことを明らかにした。すなわち、

「労働組合は、労働者の労働条件の維持改善その他経済的地位の向上を図ることを主たる目的とする団体であつて、組合員はかかる目的のための活動に参加する者としてこれに加入するのであるから、その協力義務も当然に右目的達成のために必要な団体活動の範囲に限られる。」とし、「多数決原理に基づく組合活動の実効性と組合員個人の基本的利益の調和という観点から、組合の統制力とその反面としての組合員の協力義務の範囲に合理的な限定を加えることが必要である。」

 そして、その一つの限界として政治的活動が存在することを指摘する。すなわち

「政治的活動は一定の政治的思想、見解、判断等に結びついて行われるものであり、労働組合の政治的活動の基礎にある政治的思想、見解、判断等は必ずしも個々の組合員のそれと一致するものではないから、もともと団体構成員の多数決に従つて政治的行動をすることを予定して結成された政治団体とは異なる労働組合としては、その多数決による政治的活動に対してこれと異なる政治的思想、見解、判断等をもつ個々の組合員の協力を義務づけることは、原則として許されないと考えるべきである。かかる義務を一般的に認めることは、組合員の個人としての政治的自由、特に自己の意に反して一定の政治的態度や行動をとることを強制されない自由を侵害することになるからである。」

 この判決で注目すべき点は、第一に、組合の目的に合致している範囲については、組合の自律が認められ、例え個々の組合員が特定のカンパを行うことに反対していても、組合の自律権が優越して、納付が強制される点である。

 第二に、日米安全保障条約反対というような政治的要求は、それが組合の活動としては許されるが、それへの「賛否は、本来、各人が国民の一人として決定すべきことであるから、組合の多数決で組合員を拘束し、協力を強制することは許されない」とした点である。すなわち、第一の点に部分社会法理を読みとることができるならば、第二の点で、組合の目的と合致しない行動については、それが組合の目的に反しない限り、組合としての活動は許されるが、組合員は協力義務を免除されることになる。

 なぜこのように、目的の範囲が、対社会関係と対内関係とで異なる解釈が採られるのか、については判例は特に説明していない。

 営利法人の場合には、それは容易である。対社会関係では、取引の動的安全を考慮すれば、目的の範囲は広義に理解すべきである。それに対し、対内関係においては静的安定を重視すべきであるので、定款等の文言は、厳格に理解されなければならない。

 それに対して、労働組合の政治活動の場合には、保護すべき安全に関しては、特に差異があるとは思えないからである。判例の文言からすれば、対社会関係における政治活動は多数決になじむが、それを個々人に強制するというレベルでは多数決になじまないという説明が一応可能である。しかし、何故そういう差が生じるのかはよく判らない。政治的意思決定の自由は、民主主義の根幹に触れるという意味で、厳格な保護が必要と説明するしかないのだろうか。

 実は、このことも、群馬司法書士会事件で考えなければならない点である。

(二) 南九州税理士会訴訟における対内関係

 南九州税理士会事件でも、結局、先の国労広島事件と同様に、団体の内部自律権がこの場合に認められるか否かの点が、論文後半の中心論点となる。すなわち、

「前記のような公的な性格を有する税理士会が、このような事柄を多数決原理によって団体の意思として決定し、構成員にその協力を義務付けることはできないというべきであり、税理士会がそのような活動をすることは、法の全く予定していないところである。税理士会が政党など規正法上の政治団体に対して金員の寄付をすることは、たとい税理士に係る法令の制定改廃に関する要求を実現するためであっても、法492項所定の税理士会の目的の範囲外の行為といわざるを得ない。」

 つまり、団体の目的に書かれていない活動のための会費の徴収にあたっては、先の国労広島事件と同様に、個々の会員に多数決原理に基づいて協力を義務づけることはできないということになる。判決は、上記引用文の後半で、依然として税理士会そのものが寄付できないことを強調しているが、国労広島地本事件に照らして考えれば、目的外行為であれば、税理士会として活動できるか否かに関わりなく、個々の会員に強制できないというべきで、その点が大事な点と見るべきである。

 八幡製鉄事件との異質性は、八幡製鉄の場合には、先に述べたように政治献金を行うか否かは株主の個人的利益とは直結しないという意味で対外関係だけに属するのに対して、本件事件においては政治献金を行うための原資を会員からの特別会費に依存している、という点で、対内関係も併せて問題になっている点にある。

 そして、八幡製鉄事件のような対外関係では、取引の安全保護のため、定款等の目的に反しないかぎりにおいて、会社の人権享有主体性が肯定される。これに対して、国労広島事件や南九州税理士会事件のように、対内関係が問題になった場合においては、目的外活動に対しては団体の自律権が認められず、裁判所の積極介入が行われるのである。

 更に、南九州税理士会事件が、述べている重要な点がある。

「原審は、南九各県税政は税理士会に許容された活動を推進することを存立の本来的目的とする団体であり、その活動が税理士会の目的に沿った活動の範囲に限定されていることを理由に、南九各県税政へ金員を寄付することも被上告人の目的の範囲内の行為であると判断しているが、規正法上の政治団体である以上、前判示のように広範囲な政治活動をすることが当然に予定されており、南九各県税政の活動の範囲が法所定の税理士会の目的に沿った活動の範囲に限られるものとはいえない。」

 つまり、南九各県税政という団体経由であったとしても、政治献金を行うことは許されない、というのである。つまり、税理士会には、そもそも政治献金は許されないという判断が示されている。

四 補論 自然災害復旧資金と団体の目的

 従来、群馬司法書士会事件は、その寄付金額の大きさが注目されることはあっても、自然災害復旧資金の寄附を肯定したこと自体は特に問題とされてこなかった。しかし、ここまでの判決の流れをみると、かなり問題のある論理であることが判るであろう。

 第1審前橋地方裁判所平成8123日判決では、南九州税理士会事件を受けて、このような性格の資金は、強制加入団体である司法書士会の目的の範囲外として、許されない、とした。これに対して、第2審東京高裁平成11310日判決では、これが会員の思想、信条の自由に対する何らかの制約になるとしても、その程度は軽微であって、思想・信条等の自由を根本的に否定するほどのものではないから、司法書士会の目的の範囲外で無効とはいえない、として決議を有効とした。

 そして、最高裁判所第1小法廷平成14425日の判決は、次のように述べた。

「司法書士会は,司法書士の品位を保持し,その業務の改善進歩を図るため,会員の指導及び連絡に関する事務を行うことを目的とするものであるが(司法書士法142項),その目的を遂行する上で直接又は間接に必要な範囲で,他の司法書士会との間で業務その他について提携,協力,援助等をすることもその活動範囲に含まれるというべきである。そして,3000万円という本件拠出金の額については,それがやや多額にすぎるのではないかという見方があり得るとしても,阪神・淡路大震災が甚大な被害を生じさせた大災害であり,早急な支援を行う必要があったことなどの事情を考慮すると,その金額の大きさをもって直ちに本件拠出金の寄付が被上告人の目的の範囲を逸脱するものとまでいうことはできない。したがって,兵庫県司法書士会に本件拠出金を寄付することは,被上告人の権利能力の範囲内にあるというべきである。」

 ここでは、まず目的の範囲内にあるか否かが論じられている。法14条に言う「会員の指導及び連絡に関する事務」という言葉は、その会に属する会員との連絡の意味であって、本来、司法書士会相互の連絡を含む意味でないことは文脈上明らかである。まして、他の司法書士会に対して援助をすることが、連絡という概念に含まれるわけがない。だから、法律所定の目的の範囲を厳格に解すべきだ、とする南九州税理士会事件判決に従う限り、明らかに第1審裁判所が正しいと言うべきであろう。結局、この判決は、災害復旧の援助という社会貢献活動は、目的の範囲内に含まれるという八幡製鉄事件における論理が、強制加入団体の場合にも認められていると述べているに他ならない。

 南九州税理士会事件だけを読むと、強制加入団体と営利企業では、定款の目的に明記されていない事項について、どこまで人権享有主体が認められるかには違いがあるといっているように見える。ところが、群馬司法書士会事件では、上記のとおり、社会貢献行為は目的に明記されていなくとも、目的の範囲内であるといっている。したがって、社会貢献行為に関する限り、強制か営利かの別なく、活動可能だといっていることになる。

 この二つの判例が矛盾していないと考えるためには、南九州税理士会事件において、実は八幡製鉄事件の判例が変更になっており、社会貢献行為に政治献金は含まれないとしたと考える必要がある。事実、南九州税理士会事件は、先に引用したとおり、政治献金については批判的であったのである。南九州税理士会事件は小法廷判決であるので、大法廷判決である八幡製鉄政治献金事件における最高裁判所判決を変更したと真っ正面から表現することはできないが、八幡製鉄事件判決が出た後に行われた政治資金規正法の改正により、八幡製鉄事件判例の先例性が、今日においては、事実上失われていることを考えると、これが素直な理解なのかもしれない。

 上記文章を受けて、最高裁判所は、内部関係について、次のように言う。

「そうすると,被上告人は,本件拠出金の調達方法についても,それが公序良俗に反するなど会員の協力義務を否定すべき特段の事情がある場合を除き,多数決原理に基づき自ら決定することができるものというべきである。」

 ここで、民法90条を云々する表現を憲法に翻訳する手段として原審判決を利用するならば、これが会員の思想、信条の自由に対する制約になるとしても、その程度は軽微であって、思想・信条等の自由を根本的に否定するほどのものではないから、司法書士会は、その決定を、反対する構成員に強制できるということが述べられているのである。

 この点も、判例の流れの中では、重要である。先に指摘したとおり、八幡製鉄事件判決は、社会貢献行為は定款に直接書かれていなくとも営利企業は行えると述べただけで、そのための原資負担を、反対する構成員に強制できるということまでは述べていなかった。それに対して、本判決は、社会貢献活動の場合には、それをするべきか否かに関する個人の自由を侵害しても、反対する構成員に強制できるというところまでを明言したのである。これは、社会貢献活動の特殊性を考えないと説明困難である。すなわち、社会的実在性から導かれる団体の社会責任を重視した結果、手段性を超えた活動権限と、構成員としてそれを支える義務というものを考えて、はじめて理解できる判決である。

 また、国労広島事件における説明の中で、政治的意見の特殊性ということを指摘した。それが、対社会関係と、対内関係で、目的の範囲に関する解釈を異にする理由ではないか、ということである。社会貢献活動をいかに行うべきかという点に関する個人の見解は、多数決で押し切りうる程度の問題という理解がここには存在していることになる。

 最後に余計な説明。

 寄付が、金額的に妥当か、という問題が群馬司法書士会事件にはある。しかし、それは基本的に、団体に人権享有主体性及びそのための原資負担義務が肯定された後において、司法書士会法における妥当性の範囲の問題として考えられるべきであって、憲法上の問題と把握するべきではない。だから、群馬司法書士会事件が出題されたとした場合にも、そこまで書く必要はない。