泉佐野市民会館事件

準パブリックフォーラムにおける審査基準

甲斐素直

 団体Xは、A市の近くに建設されるB空港新設に反対して、一連の爆弾テロを行うなど、過激な闘争を展開してきた。そして、その反対闘争の一環として、○○年○月○日にA市立市民会館の大ホールで「B空港反対総決起集会」を開催することを企画し、市民会館に対して、同ホールの使用許可申請を行った。

 本件会館は、A市が市民に芸術性の高い文化に触れる機会を提供し、市民自らが文化活動を展開することによって、文化の創造及び振興を図ることを目的として設置したもので、市内最大の繁華街に位置している。

 会館側では、申請された日の使用予定が無いところから、いったん使用許可を与えたが、その後に、Xが過激な活動を行っている団体であることに気がついた。そこで、A市長Yは、Xに本件会館を使用させると、不測の事態が憂慮され、その結果、周辺住民の平穏な生活が脅かされるおそれがあること、また対立する他の過激派団体による介入も懸念されることなどを根拠として、A市民会館使用条例第31項一号及び三号を準用する第4条一号に基づき、使用許可を取り消す処分を下した。

 これに対し、Xは、本件条例4条が準用する31項一号及び三号は、極めて曖昧な内容であるが故に憲法211項に違反して無効であり、また本件不許可処分は、同条2項前段の禁止する検閲に当たり、地方自治法244条に違反すると主張して、処分取り消しの訴えを提起した。

 この事案における憲法上の問題点について論ぜよ。

参照条文

 A市民会館条例

3条 市民会館大ホールを使用しようとする者は、あらかじめ指定管理者の許可を受けなければならない。ただし、次の各号のいずれかに該当するときは、使用を許可しない。(1) 公の秩序又は善良な風俗を害するおそれがあると認めるとき。

(2) 施設、附属設備その他器具備品等(以下「施設等」という。)を汚損し、破損し、又は滅失するおそれがあると認めるとき。

(3) 管理上支障があると認めるとき。

(4) その他指定管理者が適当でないと認めるとき。(2項以下略)

(許可の取消し等)

4条 指定管理者は、使用の許可を受けた者(以下「使用者」という。)が、次の各号のいずれかに該当するときは、使用の許可を取り消し、又はその使用を制限し、若しくは停止し、若しくは退去を命ずることができる。

(1) 前条第1項各号のいずれかに該当する事由が生じたとき。

(2) 前条第3項による条件に違反したとき。

(3) この条例又はこれに基づく規則に違反 したとき。

[はじめに]

(一) 問題の背景となる判例について

 本問は、泉佐野市民会館事件を、原告側の主張も含めて簡略化して再現したものである。もっともアップ・ツー・デートなものにする狙いから、同市の現行の条例に差し替えてある。

 泉佐野市民会館事件は、国家試験の領域では頻出問題の一つで、司法試験の場合、最近では、平成8年に出題されている。参考までに、問題文を示しておく。

 団体Aが、講演会を開催するためY市の設置・管理する市民会館の使用の許可を申請したところ、Y市庁は、団体Aの活動に反対している他の団体が右講演会の開催を実力で妨害しようとして市民会館の周辺に押し掛け、これによって周辺の交通が混乱し市民生活の平穏が害される恐れがあるとして、団体Aの申請を不許可とする処分をした。

 また、団体Bが、集会のために右市民会館の使用の許可を申請したところ、市民会館の使用目的がY市の予定している廃棄物処理施設の建設を実力で阻止するための決起集会を開催するものであることが判明したので、Y市庁は、団体Bの申請を不許可とする処分をした。

 右の各事例における憲法上の問題点について論ぜよ。

 この問題は、泉佐野市民会館事件最高裁判決(平成737日)と同時期に出され、この判決と相まって判例法を確立した感のある上尾福祉会館事件(最判平成8315日)をミックスしたものとなっている。すなわち、団体Aが上尾事件で、団体Bが泉佐野事件である。

 以下では、この問題についても、問題意識を持ちつつ説明する。

(二) 論点の所在

 出題に当たって、本問は、準パブリックフォーラムが最大の論点になるとアナウンスしたのが逆目に出て、全く問題文を無視して、いきなり準パブリックフォーラムと叫んで書き始める、という答案が続出した。

 しかし、もちろんそれでは合格答案たり得ない。もちろん、準パブリックフォーラムであることを全く無視しても、同じく合格答案たり得ない。

 問題文を読むと、Xは、A市条例が表現の自由を規制していることを根拠に、文言審査を行うべきだと主張し、文言審査を行えば、曖昧性の故に条例は無効になるから、Yの不許可処分自体が無効になり、当初の許可が有効になると主張している。だから、最低限そのような理屈は成り立たない、と書いてくれて、初めて答案たり得る。

 以下、簡単にあるべき答案構成の一つを紹介する(もちろん他の答案構成もあり得る)。

第一に本件条例は、時・所・方法の規制であるから、それ自体としては文言審査の対象にはならないこと、

第二に、しかし、そのような条例が表現の自由の規制に適用される場合には、適用違憲となる可能性があること、

第三に具体的に適用違憲となるか否かの判断に当たっては、二重の基準の論理から、より厳格度を上げた審査を行うのが適当であること、

第四に、どういう場合に厳格度を上げるべきかの識別基準としてはパブリックフォーラム論を適用するのが妥当なこと、

第五に、本件施設は地方公共団体が住民の表現の自由に奉仕する目的で設置したものであるので、いわゆる準パブリック・フォーラムと呼ばれるものに該当し、厳格度はより高く考えるべきであること、

 

一 表現の自由の規制について

 諸君の中のかなりの人が答案を、いきなり準パブリックフォーラムで書き出した最大の理由は、そもそも諸君がXが何を主張しているのかを、さっぱり理解しなかったためではないか、と私は憶測している。そこで、まずXの主張の説明からスタートすることにしよう(要するに、この段は、諸君に問題文の意味を理解してもらう目的で書いているのであって、諸君の答案に書かねばならないことではない)。

 Xが主張しているのは文面審査(facial scrutiny)という概念である。文面審査とは、定義的にいえば

「法令の合憲性を、その事件から離れて、法令そのものの文面において審査する」

ということである。

 本来、わが国の憲法訴訟は、付随的憲法訴訟とされる。すなわち、具体的な事件が生じた場合に、その事件を解決するのに必要な限度で違憲審査を行うのが本来の姿である。そうであれば、違憲審査は、当該法令がその事件に適用される限度で審査(適用審査)すれば、それで十分というべきである。換言すれば、限定合憲解釈を採ればよい。

 ところが、表現の自由の場合には、事情が異なる。そこでは事前抑制禁止の法理が採用されるからである。

 事前抑制禁止法理については、北方ジャーナル事件(最判大法廷昭和61611日判決)における最高裁の説明が非常に判りやすいので、以下に引用する。

「表現行為に対する事前抑制は、新聞、雑誌その他の出版物や放送等の表現物がその自由市場に出る前に抑止してその内容を読者ないし聴視者の側に到達させる途を閉ざし又はその到達を遅らせてその意義を失わせ、公の批判の機会を減少させるものであり、また、事前抑制たることの性質上、予測に基づくものとならざるをえないこと等から事後制裁の場合よりも広汎にわたり易く、濫用の虞があるうえ、実際上の抑止的効果が事後制裁の場合より大きいと考えられるのであつて、表現行為に対する事前抑制は、表現の自由を保障し検閲を禁止する憲法21条の趣旨に照らし、厳格かつ明確な要件のもとにおいてのみ許容されうるものといわなければならない。」

 ここで上げられている理由は、いずれも事前抑制が禁止される重要な理由であり、事前抑制がテーマになっている論文を書く場合には、どれも漏らしてはいけない(この箇所が、なぜか百選では引用されていないので、この機会にしっかり覚えてほしい)

 この結果、表現の自由に関しては、合憲限定解釈は許されない。なぜなら、それは事後に裁判所の審査を受けて、はじめて合憲の範囲が明らかになるという意味において、事後抑制になるからである。

 今度は、裁判所が違憲立法審査権を有する、ということの意味を考えなければならない。繰り返すが、それが付随的憲法訴訟である限り、その目的が私権の救済に向けられていることは明らかである。しかし、憲法訴訟の今ひとつの重要な意義に憲法保障機能があることもまた疑う余地がない。

 内容が不明確な立法を放置する時には、国民としては具体的にどのような行為が抑制されるかを知ることができないために、表現活動を萎縮させざるを得ない(萎縮効果chilling effect)。萎縮効果があるということは、それが事前抑制足る機能を発揮することになる。したがって、それが誤っていれば、是正することもまた、裁判所として行うべき重要な活動である。その結果、事件を離れて、法令の文言が合憲か否かの審査を行う必要がある。

 以上の説明から判るとおり、その場合に使用する審査基準は、過度の広汎性の理論ないし明確性の理論である。過度の広汎性の理論とは、次のように定義される。

「表現活動を規制するある法律の適用範囲が過度に広汎であり、そのためにそれが憲法上保護されているはずの表現活動をも規制・禁止するものとなっている場合には、その法律は『過度の広汎性の故に無効』(void for overbreadth)とされる」(藤井俊夫「過度の広汎性の理論及び明確性の理論」芦部信喜編『講座憲法訴訟第2巻』347頁)

 これに対し、明確性の理論は次のように定義される。

「本来は、刑罰法規はそれによって禁止・処罰を受ける個人に対して何が禁止された行為なのかが十分に判るような明確な文言で定められていなければならないとするものであり、したがって、不明確な文言が使用されていることにより、それが個人に対して『公正な警告』を発しているといえない場合には、その刑罰法規は『あいまいさの故に無効』(void for vagueness)とされる」(同上)

 つまり、21条の表現の自由が問題になる場合には過度の広汎性の理論で対応し、31条の罪刑法定主義が問題になる場合には明確性の理論で対応するのが、本来は正しい。しかし、両者の内容は、実体面ではともかく、手続面で見れば類似したものがあるので、個々の言葉遣いに神経質になる必要はない。なお、この問題についてきちんと理解したい人は、芦部信喜『憲法学V』388頁以下も参照してほしい。

 このような文面審査がわが憲法訴訟において認められることは、例えば徳島市公安条例事件(最大昭和50910日)や税関検査事件(最大昭和59122日)など、最高裁判所も繰り返し確認しているところである。

 以上のことから、本問のXの主張は、A市条例にいう「公の秩序又は善良な風俗を害するおそれがある」が過度に広汎であって、具体的にXがどのような集会を開こうとしているかに関わりなく、違憲・無効と判断すべきだという内容であることが判る。

 確かに、A市条例が、表現の自由規制立法であるならば、上記文言は過度に広汎で、何が規制されるのかが運営者の恣意的判断で決まることになる(裁判所がそれが恣意的判断で許されないと決定した時には、もはや期日を徒過していて訴えの実益が失われ、無意味になる)ので、それが違憲・無効であることは疑う余地がない。したがって、諸君の論文は、Xの主張は誤っており、A市条例は、そもそも表現の自由規制立法ではない、と論証するところからスタートしなければならないことが判って貰えると思う。

 

二 時・所・方法(time, place and manner)の規制の概念

 時・所及び方法の規制は、表現内容中立規制、すなわち、「表現をその伝達するメッセージの内容もしくは伝達効果(communicative effect or impact)に直接関係なく制限する規制」の一種である(芦部信喜「憲法学V」431頁以下参照)。

 時・所及び方法の規制は、その名のとおり、表現の自由とはまったく関係のない法律が、結果として表現の自由を規制してしまう場合の処理方法を開発することを狙った理論である。だから、本件条例が、この種立法であると言えば、上記論証ができたことになる。すなわち、時・所・方法の規制立法であれば、文言審査は基本的に必要ではない。時・所及び方法の規制についての議論は、常に適用審査の問題になるのである。

 時・所及び方法規制が問題になる典型的な法律が、道路交通法や軽犯罪法であることを考えれば、そのことは明らかであろう。道路交通法は、路上での交通秩序の維持という表現の自由とはまったく関係のない法的目的実現のための法律である。したがって、道交法の場合に、表現の自由との関係において厳格な構成要件を要求し、それに厳密に該当しない限り自由に交通秩序を破壊しうるというような立法は、法の目的に照らし、明らかに好ましくない。同様に、軽犯罪法の場合、日常発生する様々な可罰的違法性を有する軽微な犯罪行為を包括的に規制することを目指しているから、ここでも表現の自由との関連で厳格な構成要件を要求するような理論は妥当ではない。

 誤解を避けるために強調するが、時・所及び方法の規制を行っている法令について、文面審査の問題が発生しないと言っているわけではない。ここに例示した2法は、いずれも刑罰法令であるから、憲法31条との関連においては、上述した明確性の理論にしたがった明確性を有するものでなければならない。例えば、徳島市公安条例事件で、条例の「交通秩序を維持すること」という文言の明確性が問題になったのは、その典型である。そして、一般人を標準として31条の限りでは明確性があるとしたものであった。公安条例であるから、当然、その運用によっては表現の自由に対する抑制となる。しかし、21条との関連における明確性は論じられていないことは、承知していると思う。

 要するに、このように、表現の自由の規制を目指すのではない立法では、一般に表現内容そのものの萎縮効果を考える余地はないから、表現の自由との関係では、文面違憲理論を適用する余地はないのである。

 しかし、そのような法令であっても、それが表現行為に適用され、表現の自由を規制するような結果をもたらした場合に、そのことをまったく度外視して、精神的自由権の規制ではない場合における本則に則って、狭義の合理性基準で処理するのは妥当とは言えない。例えば、道路交通法の適用に当たり、暴走族が道路を占拠する場合と、デモ行進が道路を占拠するのを同じ基準で規制するのは不当であろう。

 そこで、これらの立法が、結果として表現の自由を規制するような場合に、一般の場合と分けて異なる審査基準を導入して、適用違憲とする余地を見いだそうという理論的努力が展開されることになる。この理論的努力を総称して「時・所及び方法の規制」という。

 

三 二重の基準

 概念を説明したら、次に必要になるのが、結果として精神的自由権の原則に該当する場合の審査基準の議論である。なぜ、結果として表現の自由を抑制する場合について、他の自由を抑制する場合と異なる扱いが必要なのか、という説明として必要になるのである。

 これについては、単純に二重の基準論を展開すれば十分である。ここから、時・所及び方法の規制立法を、表現の自由に適用する場合に、通常の場合よりも、厳格度を増した審査を要求する根拠として記述することになる。

 それをどのように記述すれば良いか、という点に関しては、多くの諸君が自家薬籠中のものとしていると思われるので、ここでは触れない。

 但し、いくつかの点を注意しておきたい。

 第一に、精神的自由権が、経済的自由権に対して優越的な地位を有しているので厳格な審査を必要とする、と論じる人が良くいるが、これは誤りである。少なくとも芦部信喜に代表される通説は、二重基準の根拠を投票箱の論理に求める。すなわち、経済的自由権の場合には、それが侵害されて問題があれば、国民は、投票箱を通じてその意思を国会に表明し、その立法を改正させることが可能である。そこで、非民主的な機関である裁判所としては、立法の合憲性はそうした民主的なプロセスに任せ、判断を自制することが求められる。これに対し、精神的自由権の場合には、それが侵害されると、国民の意思が投票箱を通じて国会に反映されるプロセスに影響を与える。したがって、そうした立法が投票箱により是正される可能性は低いものとなる。そこで、残る唯一の国家権力である司法権が、積極的に合憲性判断を行う必要が生じる、と論じるのである。

 なお、本問の場合には、A市条例は、決して経済的自由権の規制立法ではないから、厳密に言うと、経済的自由権との比較論は間違いで、一般的な人権との対比での自制論であるべきである。しかし、後述するように、泉佐野事件判決では、最高裁判所自身が経済的自由権との比較で論じているから、あまり神経質に考えなくとも良い。

 第二に、この二重の基準から、厳格度を増した審査基準を導くという段階を飛ばす傾向を示す人があることである。しかし、それでは合格答案にはならない。論文は基本書のダイジェストでなければならない。確かに本の中で、時・所・方法の規制について書いてある箇所を読むと、いきなり緩和した基準を使うべきか否かについて議論されるが、それは本では別の箇所で二重の基準論が論じられているからである。関係箇所参照と書くことのできない諸君の論文としては、そこをきちんと述べないと議論の飛躍と批判されることになるのである。

 第三に、これは本問の主要論点ではないから、どこまで切りつめて書くかが勝敗の分かれ目になるということである。10行以上もこの点につぎ込んだりするのは論外である。そんなことをすると、肝心のパブリック・フォーラム論に投入できる時間や紙幅が足りなくなり、議論が手薄になってしまうからである。

 

四 時・所・方法の規制の審査基準=パブリック・フォーラム論

 ここまで準備の議論を重ねて、ようやく本論である、本当の審査基準論に入ることができる。この場合に、どのような審査基準を使用するのが妥当か、という問題である。ここで話のポイントは、時・所・方法の規制に対しては、一律に取り扱うのは妥当ではない、という点である。この点を書かない人が圧倒的に多かったが、ここを外してしまうと、そもそもパブリックフォーラム論を導入することができず、論文として破綻してしまうので注意してほしい。

 常識的に考えて、相対的に緩やかな審査をするのが妥当な場合と、厳しい審査をするのが妥当な場合とがあることは判ると思う。例えば、深夜の住宅街や病院・学校のすぐ脇で、拡声器を使ってがなり立てるような行為を規制する立法は、そこでなされる言論の内容を論ずるまでもなく、妥当である、と考えられるであろう。他方、選挙になれば、どの候補者も駅前広場にやってきて政見を発表するものである。だから、そういう場所での演説の禁止や拡声器使用の禁止は、明らかに民主制の過程に大きな影響を与えるもので不当といえる。あるいは、深夜の住宅街であっても、自らの意見を書いたビラを貼る行為は、少なくとも時間を理由として規制する必要はない。

 もう少し本問に密着した例を挙げれば、市が図書館や結婚式場として建設した施設で、本問のような集会を開かせろという要求に対する拒否処分に対しては、厳格度を増した審査をする必要はない。

 時・所・方法の規制とは、このように、同じ内容の表現であっても、その行われる時間帯、その行われる場所、あるいは方法により、規制立法の同一の法文に対して、異なる審査基準を適用しようという考え方なのである。

 このことも、この種法令を、表現の自由の規制立法として捉えることが許されない根拠である。表現の自由から論文を書き始めた場合には、どんなに例外的な場合でも、狭義の合理性基準を許容できる場合は発生しないであろう。

 問題は、その使い分けの基準論である。いくつかの説が存在するが、我が国で区分の基準として強力に論じられるようになったのが、伊藤正己判事が現JR吉祥寺駅構内でのビラ配布が鉄道営業法違反とされた事件に関して補足意見で、次のように述べて展開したパブリック・フォーラム(Public forum)論である。

「ある主張や意見を社会に伝達する自由を保障する場合に、その表現の場を確保することが重要な意味をもつている。特に表現の自由の行使が行動を伴うときには表現のための物理的な場所が必要となつてくる。この場所が提供されないときには、多くの意見は受け手に伝達することができないといつてもよい。」

 こうしてわが国で広く認知されるようになったパブリック・フォーラム論であるが、かなり複雑な内容を持つ。本問の中心論点である準パブリック・フォーラムである。

  •  「公会堂、公立劇場、公立学校講堂等のように、国ないし地方公共団体が自発的に公衆の表現活動の場として利用に供してきた公共の場所は、「指定された(designated)」もしくは「限定された(limited)」広場として考えられなければならない。その場合、その場所の管理者は公開性を維持しなければならない、という義務を負担するものではないが、公開原則を維持する限り、上記と同様に、規制の合憲性を厳格に検討することが求められる。」(芦部信喜『憲法学V』444頁)

  •  この場合の典型的な事件が、泉佐野市市民会館事件である。準パブリック・フォーラムとは、集会に使用することを本来の目的として建設されたものである点に、純粋パブリック・フォーラムとの違いがある。

     これらに該当する場合に求められる、より厳格度を増した審査とは、アメリカ連邦最高裁の判例によれば、一般的には次の内容を持つ。すなわち、時・所・方法の規制を行うことは許されるが、許されるためには、その規制は

    (1) 重要な公共的利益に役立つべく厳格に定められており、

    (2) 他の選びうる十分なコミュニケーションの経路を残すものでなければならない。

     この(1)の基準は、厳格な合理性基準に相当するものである。表現の自由に対する直接的な規制立法であれば、厳格な審査基準を採用するはずだから、それに比べると、一段階低い審査を実施していると言うことになる。しかし、表現の自由からアプローチした場合には、なぜ審査基準を通常よりも軽減するのか、という説明に窮することになる。時・所及び方法の規制の場合には、通常よりも、厳格度を増した審査という方向で理解する、という点にポイントがある。

     後の(2)の基準がいわゆるLRA基準であることがわかると思う。ただし、この場合には典型的なLRA基準とは逆に、他の代替手段の存在することが規正を合憲化する方向に働くことを看過してはいけない。なぜ、この場合のLRA基準をこう考えるべきかは容易に判ると思う。本問のケースで、例えばこの市民会館が駄目なら隣接する他市の市民会館を借りられるという条件があれば、本件不許可処分の問題性は低減するであろう。それに対して、この市民会館だけが唯一利用可能な施設である、ということになれば、不許可処分は、事実上、集会の禁止を意味することになってしまうのである。ついでに言えば、現実の泉佐野市民会館事件の場合であれば、集会は海岸で行われた。さらに言えば、本問の事実関係にそうしたことは書かれていないから、本問は、その点で、事実関係に関する最終的な解答を求めたものでないことは明らかといえる。

     せっかくLRAまで論じながら、機械的に普通のLRA論を展開してしまっている人が目立つ。しかし、時・所及び方法の規制を論ずる場合には、それでは点にならないどころか、マイナス要素になりかねない。

     このパブリック・フォーラム理論に対しては、学説的には批判がある(例えば判例百選の時・所及び方法の規制に関連する各判例の解説参照)。しかし、判例としては確立した感があり、通説でもあるので、学生の論文としてはこれに依拠した形で論ずるのが一番無難な論じ方であろう。

     

    五 準パブリック・フォーラムについて

    (一) 準パブリック・フォーラム性

     準パブリック・フォーラムを論ずる場合において最も重要なことは、ある施設が、準パブリック・フォーラムに属するか否かは、基本的には施設設置者の意思で決まると言うことである。例えば、小中学校の講堂が、学校の休みの時には、市民の集会施設として通常使用されているという条件下では、その講堂は準パブリック・フォーラムである。しかし、一般への貸し出しは、通常行っていない場合であれば、それはノン・パブリック・フォーラムであって、その貸し出しを求めて拒絶されても、それを問題視することは出来ない。

     先に述べたように、準パブリック・フォーラムとは、集会の用に供することを本来の目的とする施設であるが、それにもいくつかの類型がある。その場合、その施設が、本来の目的とする類型の集会以外の類型の集会を、拒むことは可能である。例えば、地方自治体がある施設を図書館として建設した場合に、その中の学習用の集会室を、一般の集会施設として使用させろ、という要求は原則として拒むことが出来る。同様に、ある施設を結婚式場(結婚式や披露宴という集会)用として建設した場合には、葬儀や追悼集会等の不祝儀用の集会場として使用することを拒める。

     しかし、近時建設されることの多い、多目的ホールの場合には、その境界が曖昧なため問題となることが多い。本問施設の設置目的である「市民に芸術性の高い文化に触れる機会を提供し、市民自らが文化活動を展開することによって、文化の創造及び振興を図る」というのも、まことに曖昧そのものであり、この文言に関する市側の一方的な解釈で集会を拒んだりすることができないことは言うまでもない。

     それにもかかわらず、この文言から拒めると論じた人があったので、上尾市福祉会館事件(最判平成8315日=LEX-DB28010411)における最高裁判所の見解を示しておく。すなわち、同施設は、結婚式関係の施設については、年間約300組の利用客があった。これに対して、葬儀については、特に功績のあった元市長等の市民葬や準市民葬に用いられたことがあったのを除き、従来一般の葬儀のために使用されたことはなかった。そういう施設で、葬儀を行おうとして拒絶されたのである。葬儀に貸し出した場合には、同時期に結婚式を行うことが困難となり、結婚式場等の施設利用に支障が生ずることが、拒絶理由の一つとされたのである。これについて、最高裁判所は次のように述べた。

    「本件会館のような公の施設の供用に当たって、当該施設の設置目的を専ら結婚式等の祝儀のための利用に限るとか、結婚式等の祝儀のための利用を葬儀等の不祝儀を含むその他の利用に優先して認めるといった運営方針を定めることは、それ自体必ずしも不合理なものとはいえないものというべきところ、被上告人は、本件会館の運営に当たり、基本的には葬儀のための利用には消極的であり、一部の例を除き、本件会館は従来一般の葬儀のために使用されたことはなかったというのである。しかし、本件会館には、斎場として利用するための特別の施設は設けられていないものの、結婚式関係の施設のほか、多目的に利用が可能な大小ホールを始めとする各種の施設が設けられている上、一階の大ホールと二階以上にあるその他の施設は出入口を異にしていること、葬儀と結婚式が同日に行われるのでなければ、施設が葬儀の用にも供されることを結婚式等の利用者が嫌悪するとは必ずしも思われないこと(現に、市民葬及び準市民葬が行われたことがある。)をも併せ考えれば、故人を追悼するための集会である本件合同葬については、それを行うために本件会館を使用することがその設置目的に反するとまでいうことはできない。」

     要するに、最高裁判所は、多目的ホールの場合には、広義の使用目的に反しない申請を拒絶することは出来ないとしたのである。

    (二) 文面審査の問題

     本問では、先に説明したとおり、利用の拒絶の根拠として、市条例が文面違憲とする主張がXによってなされいる。これは泉佐野市民会館事件における上告人の主張そのものであるので、その主張に対する最高裁判所判決理由を見ることにしたい。

    「集会の用に供される公共施設の管理者は、当該公共施設の種類に応じ、また、その規模、構造、設備等を勘案し、公共施設としての使命を十分達成せしめるよう適正にその管理権を行使すべきであって、これらの点からみて利用を不相当とする事由が認められないにもかかわらずその利用を拒否し得るのは、利用の希望が競合する場合のほかは、施設をその集会のために利用させることによって、他の基本的人権が侵害され、公共の福祉が損なわれる危険がある場合に限られるものというべきであり、このような場合には、その危険を回避し、防止するために、その施設における集会の開催が必要かつ合理的な範囲で制限を受けることがあるといわなければならない。そして、右の制限が必要かつ合理的なものとして肯認されるかどうかは、基本的には、基本的人権としての集会の自由の重要性と、当該集会が開かれることによって侵害されることのある他の基本的人権の内容や侵害の発生の危険性の程度等を較量して決せられるべきものである。」

     回りくどい議論をしているので、判りにくいと思うが、ここで延々と論じているのは、適用違憲審査の方法論である。つまり、文面違憲の主張は完全に無視されているのだということが判る。そして、この議論を受ける形で、次のように述べている。

    「本件条例7条による本件会館の使用の規制は、このような較量によって必要かつ合理的なものとして肯認される限りは、集会の自由を不当に侵害するものではなく、また、検閲に当たるものではなく、したがって、憲法21条に違反するものではない。」

     ここに言及されている市民会館条例7条は、本問同様、「公の秩序をみだすおそれがある場合」には、会館使用を許可しないと言っており、これは、表現の自由からアプローチしていけば、必然的に過度に広汎な規定として、文面違憲の結論が出るはずの文言である。しかし、最高裁判所は、これに対して、合憲限定解釈の手法を導入することで、合憲といっているのである。先に説明したとおり、文面審査とは、萎縮効果を防ぐために合憲限定解釈を禁ずる理論のことである。したがって、この文章の前提に、時・所及び方法の規制にあたっては、文面審査⇒文面違憲の理論を適用するのは不適切である、という前提が存在している、ということが読み取れるであろう。

     いつも強調するとおり、諸君の論文では、消極的=否定的な議論を書く必要はないから、文面審査には始めから触れなくて良い。したがって、書くべき論点としては、適用審査⇒適用違憲の問題だけが残るのである。

    (三) 適用審査における問題点

     適用審査に当たっては、上記引用箇所は、基本的に比較衡量で決すると述べている。比較衡量の対象になるのは、一方が「集会の自由の重要性」であり、他方が「当該集会が開かれることによって侵害されることのある他の基本的人権の内容や侵害の発生の危険性の程度等」とされている。

     普通、比較衡量というと、博多駅ビデオフィルム提出命令事件に代表される個別の利益衡量論(ad hoc balancing test=単純な利益衡量論)で論ずるのが普通である。事件ごとに、その事件限りの基準を開発し、それにより事件を解決する、という手法である。しかし、そうした手法に頼らなければならないのは、事件ごとに衡量の対象となる問題が違っていることが大きな原因である。

     それに対して、時・所及び方法の規制の場合、比較するべき一方は固定されている。表現の自由(本問であれば、そのうちの集会の自由)である。しかも、それについては、概念内容が固定されているので、実際問題として、衡量するべきは、他の秤の方だけということになる。

     このような場合、表現の自由については定義を与えて固定する、という手法を採るので、定義づけ比較衡量論と呼ばれる。大分県屋外広告物規制条例事件において、伊藤正己判事が示した見解が代表的なものである。すなわち、

    「それぞれの事案の具体的な事情に照らし、広告物の貼付されている場所がどのような性質をもつものであるか、周囲がどのような状況であるか、貼付された広告物の数量・形状や、掲出のしかた等を総合的に考慮し、その地域の美観風致の侵害の程度と掲出された広告物にあらわれた表現のもつ価値とを比較衡量した結果、表現の価値の有する利益が美観風致の維持の利益に優越すると判断されるときに、本条例の定める刑事罰を科することは、適用において違憲となるのを免れないというべきである。」

     このように定義づけ比較衡量にとどまるのは、純粋パブリック・フォーラムの場合には、本来の用途は集会ではないため、表現の自由が他の利益に一般的に優越するとは断定できないからである。そのため、他の利益との比較衡量に当たっては、基本的に等価的な比較衡量とならざるを得ない。但し、一方に載っているのが表現の自由であるために、より厳格度を増した審査が当然に要請されることになり、「原告側が違憲性を証明しない限り、合憲」というような判断には間違ってもならない。むしろ、国側が反対側の秤に載るものを積極的に証明しない限りにおいて、違憲と判断されることになるはずである。

     しかし、本件のような準パブリック・フォーラムの場合には、さらに踏み込んだ比較衡量が可能となる。なぜなら、施設の設置目的そのものが集会の自由に奉仕することだからである。その結果、施設管理者は基本的に集会の自由を尊重し、施設を貸与するべき義務を負っているからである。道路や公園のような別の使途は存在していないのである。地方自治法244条が「普通地方公共団体は、正当な理由がない限り、住民が公の施設を利用することを拒んではならない。」と定めているのは、この理を示している。

     泉佐野市最高裁判所判決は、この点について次のように述べる。

    「このような較量をするに当たっては、集会の自由の制約は、基本的人権のうち精神的自由を制約するものであるから、経済的自由の制約における以上に厳格な基準の下にされなければならない。」

     先に、二重の基準に論及しなければいけない、と述べたが、本問に関して言えば、それはこの一文を書けるようにするためである。諸君の論文でも絶対に落としてはならない一文である。

     これを受けて登場するのが、「重み付け比較衡量論」と呼ばれる手法である。すなわち、比較衡量に当たっても、予め表現の自由に積極的に優位性を与えた形での衡量が要求されることになる。

    「右のような趣旨からして、本件会館における集会の自由を保障することの重要性よりも、本件会館で集会が開かれることによって、人の生命、身体又は財産が侵害され、公共の安全が損なわれる危険を回避し、防止することの必要性が優越する場合をいうものと限定して解すべきであり、その危険性の程度としては、前記各大法廷判決の趣旨によれば、単に危険な事態を生ずる蓋然性があるというだけでは足りず、明らかな差し迫った危険の発生が具体的に予見されることが必要であると解するのが相当である。そう解する限り、このような規制は、他の基本的人権に対する侵害を回避し、防止するために必要かつ合理的なものとして、憲法21条に違反するものではなく、また、地方自治法244条に違反するものでもないというべきである。」

     この下線部を付した部分が、本判決の白眉であり、この言葉が諸君の論文に書かれていなければ、自動的に落第答案と言って良い。

     パブリックフォーラム論においては、先に説明したとおり、一般には中間審査基準、すなわち厳格な合理性基準が求められるにとどまる。しかし、わが国最高裁判所は、準パブリックフォーラムにおいては、表現の自由を尊重するべき必要性が高いことから、要件をさらに一段強化して、いわゆる「明白かつ現在の危険」という基準を導入したのである。

     この基準は、米国において、防諜法違反事件におけるO.W.ホームズ判事による次の説明で、導入されたものである。

    「すべての行為の性格は、それが行われるときの状況いかんによって決定される。言論の自由のもっとも厳格な保護も、劇場において偽って火事だと叫び、パニックを引き起こした者を保護しないであろう。(中略)問題は、いかなる場合にも、用いられた言葉が連邦議会が防止する権限を持つ実質的な害悪を生み出す明白かつ現在の危険を生ぜしめる状況において用いられ、かつそのような性質のものかどうかである。それは近接性と程度の問題である。」

     これは極めて悪名高い論理でもある。ここで登場した明白かつ現在の危険理論は、厳格な審査基準に比べると、一段緩やかな審査基準なのである。戦時下という特殊性を根拠に、本来なら厳格な審査基準で判断するべき表現の自由規制立法に、合憲という結論を引き出すための手法として強引に案出されたのが、この審査基準である。第二次大戦後においても、数多くの反共立法の合憲化にこれが利用された。そこでの最大の問題は、何が明確かつ現在の危険なのか、に関する判断が、完全に判事の主観に依拠しているという点である。

     わが国最高裁も、この弱点は承知していて、上記引用箇所に続けて、次のように述べている。

    「そして、右事由の存在を肯認することができるのは、そのような事態の発生が許可権者の主観により予測されるだけではなく、客観的な事実に照らして具体的に明らかに予測される場合でなければならないことはいうまでもない。」

     さらにもう一つ強調しておきたいことは、明白かつ現在の危険基準は、理論的必然として導かれたものではなく、あくまでもこの判決が開発した基準だと言うことである。すなわち、準パブリック・フォーラムにおいては、純粋パブリック・フォーラムにおける厳格な合理性基準よりさらに厳格度を増すべきである、というところまでは理論として言える。しかし、それが具体的には、明白かつ現在の危険基準であるべきだ、ということは、理論として言えることではない。この問題に対するわが国最高裁判所の選択である、というに尽きる。だから、諸君の論文にも、理由としてそのことを明記し、客観的妥当性等から、この基準を支持すると言うように述べる(あるいは不徹底なものであり、厳格な審査基準を使用するのが妥当とまで述べる)のが正しい。

     本問を、時・所及び方法の規制論ではなく、表現の自由からアプローチした人の場合には、どうしても、審査基準としては厳格な審査基準が導かれる。他方、泉佐野市事件最高裁判所判決で明白かつ現在の危険を採用していることを知っているものだから、前者からいきなり後者へと話をつなげる、という強引な論法をする人が良くいる。しかし、これは上記の理由から致命的なミスである、ということを理解しておいて欲しい。

     

    六 司法試験問題への適用

     問題の団体AとBでは、拒絶の理由がまったく違う点を注目するべきである。ここまで泉佐野市事件を説明してきたので、泉佐野市の事件に近い性格を持つ、団体Bの場合について先に検討し、ついで上尾市福祉会館事件に準拠した事例と言うべき団体Aに及ぶこととする。

    (一) 団体Bの場合には、自らが実力行動を起こすための決起集会として市民会館を使用しようとしている。したがって、会場として使用させることにより、「単に危険な事態を生ずる蓋然性があるというだけでは足りず、明らかな差し迫った危険の発生が具体的に予見される」と評価しうる可能性が大きい。もし、この可能性が十分に大きいならば、使用を拒否することに相当の理由があると言うことができる。

     答案の技術的に言えば、この「可能性の大小」という表現を覚えておいて欲しい。問題文における記述だけでは、拒否が許されるとも、許されないとも、絶対に断言できないのである。どちらに断言した場合にも、ミスと評価される。こういうところが、手続法的な要素のある問題に対して注意するべき点である。

    (二) 団体Aの場合には、騒乱状態の発生に関する限り、完全に受け身の立場である。このように受け身の場合に、どう考えるべきかについて、上尾市福祉会館事件において、最高裁判所は次のように述べている。

    「主催者が集会を平穏に行おうとしているのに、その集会の目的や主催者の思想、信条等に反対する者らが、これを実力で阻止し、妨害しようとして紛争を起こすおそれがあることを理由に公の施設の利用を拒むことができるのは、前示のような公の施設の利用関係の性質に照らせば、警察の警備等によってもなお混乱を防止することができないなど特別な事情がある場合に限られるものというべきである。」

     この基準による場合には、警察力では間に合わない特別な事情があるか否かは、本設問の限りでは、団体Bにおけると同様、明確には判らない。したがって、上記と同様に不許可処分が違憲である可能性が高い、というところまでが言える限度ということになる。

     諸君としては、この表現を記憶にとどめて記述すれば、国家試験レベルにおいては、十分に合格という評価を受けるであろう。

     しかし、私自身は、この点については、もう一歩踏み込んで、京都府立勤労会館が、日教組大会の開催を右翼の妨害を理由に拒んだ事件において、京都地方裁判所平成2220日判決(LEX-DB27807270)が述べたところに賛同するのが正しいと考えている。すなわち、

    「およそ表現の自由ないしその一つである集会の自由は、日本国憲法のとる民主主義の根幹をなし、民主主義社会を支える基礎をなすものであって、公権力はもとより、他の個々人又はその集団から憎まれ、排撃される言論ないし集会を保障することにこそ表現の自由を保障する意義がある。もし、反対勢力ないし団体の違法な妨害行為を規制することの困難さやそのための出費を理由として安易に集会や言論の制限を許すならば、結局それは間接的にせよ集会やそこで行なわれる言論の内容が右反対勢力に嫌悪されていることによる規制を行なう途を拓くことになり、憲法の保障する集会ないし言論の自由の趣旨に反する。このような場合、国又は地方公共団体が右の反対勢力による違法な実力行使を規制し、治安を維持して、集会、言論が平穏裡に行なわれるようにすることが、集会、言論が保障された民主制社会の治安を維持すべき国又は地方公共団体の責務でもある。したがって、被申立人の主張する右事由は地方自治法2442項の公の施設の利用を拒むことができる正当な理由に当たらない。」

     このように、より明確に、準パブリック・フォーラムにおける表現の自由の優越理念を述べた点で、この判決は、高く評価出来るであろう。

     これを本問に適用すれば、団体Aに対する不許可処分が違憲・無効であることは明らか、と言うことができるであろう。