校長の裁量権と文化祭
甲斐素直
10年度司法試験問題) 問題
公立A高校で文化祭を開催するにあたり、生徒から研究発表を募ったところ、キリスト教のある宗派を信仰している生徒Xらが、その宗派の成立と発展に関する研究発表を行いたいと応募した。これに対して、校長Yは、学校行事で特定の宗教に関する宗教活動を支援することは、公立学校における宗教的中立性の原則に違反することになるという理由で、Xらの研究発表を認めなかった。
右の事例におけるYの措置について、憲法上の問題点を指摘して論ぜよ。
(平成
[問題の所在]
本問は、問題を見れば、信教の自由に解釈に関する校長の裁量権が認められるか否かが論点であることは極めてはっきりしている…と思っていた。だから出題に当たっては、神戸高専剣道必修事件最高裁判所判決を熟読すること、というヒントを付しただけで、特にそれ以上掘り下げた解説は書かなかった。
その結果、予想外の答案が続出することになった。すなわち、
Xに23条の学問の自由の主体性を考えることができるとするものである。憲法
23条は、そこから当然のごとくに大学の自治という概念が導かれることから判るとおり、学問的真実の研究がその保障内容である。だから大学より上の高等研究機関(大学以外では例えばシンクタンク)の活動の自由を保障するためのものである。もちろんまちの発明家などの自由を否定するものではないが、あくまでも新規性・独創性があるような学問を念頭に置いているのである。だから、その主体となりうるのは、ぎりぎりで大学院生であり、大学生は、一般的にはその主体性はない。まして、本問は高校生であるので、それについて23条の主体性を考える余地は、一般論としてはない。年齢的には高校生であっても、『神様のパズル』の主人公のように超天才であれば、もちろん23条の主体性を考えることが可能である。しかし、そういう極めて独創的な研究だ、というような断り書きは問題にはない。だから、本文で言う研究とは、高校の文化祭で行われている普通の「研究発表」なるものと考えればよい。君たち自身がついこの間まで高校生をやっていたのだから、普通に文化祭での研究発表のほとんどは、単に既往の刊行物を適当に切り貼りして作り出したに過ぎず、何の新規性も独創性もないものであることは、良く承知しているはずである。なぜ高校では、そのような「研究発表」を「文化祭」でやらせるのだろうか。普通の高校教育は、文科省の検定を通った教科書を使い、指導要領にしたがって行われる。そこに教師の側の創意工夫の余地は乏しい。まして、生徒の側では、常に受動的に教えられるばかりである。そこで、わずかではあっても、生徒が積極的に勉強する機会を与えて、大学以降への教育に繋げたいという考えが生じる。これが文化祭というものの教育上の意義である。だから、文化祭の実行そのものも、たいていの高校が生徒側の責任で行わせようとするのである。すなわち、文化祭とは、校長の責任において行われる全校的な教育活動の一環と考えて良い。これに対して、
Xらの有しているのは、いわば自らの教育内容を決定する権利とでもいうべきものである。この二つが対立していると考えてくれればよい。本問は、そういうわけで、基本的には「教育を受ける権利」をめぐる議論であるから、論文の導入部は通常の「教育を受ける権利」に関する議論をそのまま展開する必要がある。ただ、本問では公立高校として政教分離にどの限度で配慮する必要があるかが最大の論点となるので、その前段階である導入部をいかに簡略化するかが、諸君の腕の見せ所となる。なお、現実問題として、本問では信教の自由そのものは論じなくて良い。
一 教育を受ける自由と教育を受ける権利の関係
(一) 基本的概念の整理
憲法
26条の保障する教育権は、生存権的基本権ないし社会権と呼ばれる権利の一種と理解されている。すなわち、健康で文化的な最低限度の生活を現代社会においておくるには、社会の中にあふれている情報を適時適切に理解し、それに基づいて行動する能力を有していなければならないことは当然のことである。そのための能力を身につける権利が教育権である。諸君は一般に生存権的基本権ではなく、社会権ととらえる立場にあると思われるので、以下、それについて説明する。社会権として捉えた場合、社会権たる教育を受ける権利が存在するための論理的前提として、それとは別に、自由権としての教育を受ける自由を考えることができる。両者が同じ
26条で保障されていると考えるのである。自由権から社会権に、どのような契機で転換するかが、教育権に関して常に論点となる。本問でもそれは変わらない。生存権的基本権の理論と混同して、社会権的側面というような言葉を書く人がいるが、それは即不合格と判定されかねないとんでもない誤りであることを、十分に理解しておいてほしい。諸君が論文に書くのは、次のところからである。(二) 教育を受ける自由と「私教育」
教育権の主体は、本人である。すなわち、本人が自分の受けるべき教育内容を決定する権利を持つ。すなわち、人はその全生涯にわたって、自らを教育する自由を有する。
ただし、本人が幼児その他の若年者であるため、自分がどのような教育を受けるのが適当かについて十分な判断能力を持たない場合には、親または親権者がその教育内容を決定する権限を持つ(民法
820条)。これは家族を基本とする身分権を、人格権の拡張としての人格的共同体と把握した場合に、その必然的結果として導かれるものである。なお、世界人権宣言26条3項は「親は子に与える教育を選択する優先的権利を有する」としている(なお、児童の権利に関する条約5条はより包括的な表現を採用しているが、同趣旨と理解して良いであろう)。憲法26条2項は、逆に親の教育の義務の側から定めているが、これも、その権利性を肯定した上での規定と理解することができる。本来、教育は私人がその教育の自由の行使として、私人としての立場から行うものであった。これを「教育の私事性」と言い、こうした教育の原点としての教育理念を「私教育」という。家庭内において、親が子に行う躾その他の教育は、その典型である。
(三) 教育を受ける権利と「公教育」
教育を受ける自由を個人の力で実現できる範囲には、しかし限界があるところから、社会権が現れる。この結果、国として、各人の能力に応じた教育を受ける権利を保障する義務を負うことになる。このように、福祉国家理念の下に、児童生徒の教育を受ける権利を保障するものを「公教育」という。教育基本法
6条は「法律に定める学校は、公の性質をもつ」と定めて、国公立の教育機関ばかりでなく、私立の学校法人によって行われる教育も含めて、すべての学校教育は、この公教育に属することを宣言している。
(四) 私教育と公教育の接点
憲法
26条2項は義務教育を定めているが、この規定は、子に対する教育内容の決定権という親の権利が、初等・中等教育という一定の限度で公法上の義務に転換していることを示している。ここに教育の私事性、すなわち私教育と公教育の接点を端的に見ることができる。今日の教育問題を考えるに当たり、教育の私事性と公教育という、教育の基本的な、しかし、互いに相矛盾する概念をどのように調和させるかが、最大の問題となる。
旭川学力テスト事件最高裁判所判決(最大昭和
51年5月21日=百選300頁)は、この点について次のように述べる。「子どもの教育は、子どもが将来一人前の大人となり、共同社会の一員としてその中で生活し、自己の人格を完成、実現していく基礎となる能力を身につけるために必要不可欠な営みであり、それはまた、共同社会の存続と発展のためにも欠くことのできないものである。この子どもの教育は、その最も始源的かつ基本的な形態としては、親が子との自然関係に基づいて子に対して行う教育、監護の作用の一環としてあらわれるのであるが、しかしこのような私事としての親の教育及びその延長としての私的施設による教育をもつてしては、近代社会における経済的、技術的、文化的発展と社会の複雑化に伴う教育要求の質的拡大及び量的増大に対応しきれなくなるに及んで、子どもの教育が社会における重要な共通の関心事となり、子どもの教育をいわば社会の公的課題として公共の施設を通じて組織的かつ計画的に行ういわゆる公教育制度の発展をみるに至り、現代国家においては子どもの教育は、主としてこのような公共施設としての国公立の学校を中心として営まれる」
諸君の論文にも、これを簡略化したものを必ず書かねばならない。
二 校長の裁量権(留萌事件の場合)
上述のとおり、現在の通説的理解に依れば折衷説、すなわち、教育内容は初等中等教育であれば、国・教師及び親が協同して実現していくことになる。本問の場合、文化祭であるので、ここのクラス単位の活動ではなく、また、生徒有志による研究発表というテーマであるため、教師の有する教育内容決定権がどの範囲かということは問題にならない。だから、ここで対立してくるのは、本人(親)と国の教育内容決定権の対立である。その場合の「国」という概念が、現場レベルで見た場合に校長の裁量権と呼ばれることになる。
ここでは身障者の教育を受ける権利を巡って、校長と本人側の教育内容決定権が争われた留萌事件と呼ばれる判例(旭川地裁平成
5年10月26日判決)を参考に見てみよう。教育権の所在につき、裁判所は旭川学力テスト判決を引用して私教育と公教育の概念区別に関する議論を展開し、社会権という見地から、父母の主張を次のように否定する。
26条1項の『教育を受ける権利』を子どもの学習する権利を中心として考えなければならないとしても、同条が、子どもに対し、自己に施されるべき教育の環境ないし教育内容を、当該子ども自らが決定する権能まで付与したものであるとの解釈は、前述した同条の社会権的性格に照らし、到底導き出すことができない。 「憲法
また、実質的に考えても、子どもが学習権の主体であるからといって、人格の未熟を前提にその完成を目指すために教育を受ける子どもが、自ら教育環境も含めた教育内容を決定できるという議論は、およそ健全な社会常識に合致しないものと思料される。」
社会権というアプローチをとる限り、これが順当な解釈であることはあきらかといえる。他方、市側の、全面的に国に決定権があるという主張も次のように退ける。
「子どもは可塑性を持つ存在であり、子どもにどのような教育を施すかは、その子どもが将来どのような大人に育つかに対して決定的な役割を果たすから、子どもの教育の結果に利害と関心を持つ関係者が、それぞれの教育内容及び方法に深い関心を抱き、それぞれの立場からその決定、実施に対する支配権、発言権を主張するのは自然な成り行きであるが、何が子供の利益であり、また、そのために何が必要であるかについては、意見の対立が当然生じ得るのであり、そのために起こる教育内容の決定につき矛盾、対立する主張の衝突を一義的に解決する一定の基準を憲法は明示していないから、憲法の次元での解釈としては、関係者らの主張のよって立つ憲法上の根拠に照らして、各主張の妥当すべき範囲を画するのが合理的な解釈である。」
このように、国家教育権説と国民教育権説に相当する主張をそれぞれ退けた後、学級編成県に関する議論に入るのであるが、以下の議論は少々国の側に偏りすぎている感がある。
「 具体的には、親は、子どもに対する自然的関係により、子どもの将来に対して最も深い関心を持ち、配慮すべき立場にある者として、子どもに対する支配権、すなわち子女の教育の自由を有するが、これは、主として家庭教育等学校外における教育や学校選択の自由に現れる。また、私学教育における自由や学校において現実に子どもの教育の任に当たる教師の教授の自由も、教育の本質的要請に照らし、教授の具体的内容及び方法につきある程度自由な裁量が認められなければならないという意味において、限られた一定範囲で妥当するが、それ以外の部分においては、一般に社会公共的な問題について国民全体の意思を組織的に決定、実現すべき立場にある国が、国政の一部として広く適切な教育政策を樹立、実施すべく、また、し得る者として、憲法上は、あるいは子ども自身の利益の擁護のため、あるいは子どもの成長に対する社会公共の利益と関心に答えるため、その目的達成に必要かつ相当な範囲で教育内容についてもこれを決定する権能を有すると解するのが相当である」
子の最善の利益を目指して、親、教師、国の三者にそれぞれ判断権がある、と論ずる点については、たしかに最高裁判所判決を踏まえたものとなっている。
三 校長の裁量権(神戸高専事件の場合)
前述の通り、高校教育は基本的には文科省の定めた指導要領を、それぞれの学校ごとに校長の責任で実現していく。そして、文科省の定めたカリキュラムをを履修することができないという生徒がいた場合に、それに対して代替措置を執ることが許されないのか、ということも、基本的には、それは校長の裁量に服する。最高裁判所はいう。
「校長の裁量権の行使としての処分が、全く事実の基礎を欠くか又は社会観念上著しく妥当を欠き、裁量権の範囲を超え又は裁量権を濫用してされたと認められる場合に限り、違法であると判断すべきものである」
この意味では、一般的には自由裁量行為に属する。しかし、退学の場合には別だと最高裁判所はいう。
13条3項も4個の退学事由を限定的に定めていることからすると、当該学生を学外に排除することが教育上やむを得ないと認められる場合に限って退学処分を選択すべきであり、その要件の認定につき他の処分の選択に比較して特に慎重な配慮を要するものである」 「退学処分は学生の身分をはく奪する重大な措置であり、学校教育法施行規則
こうして、退学処分に関しては羈束裁量と考えるべきことになる。
Xが退学処分になったのは、Xが一般的に学則に定める退学事由である「学力劣等で成業の見込みがないと認められる者」に該当するというわけではなく、保健体育の成績だけが問題なのであり、これが問題になったのは、実技に代替措置を認めなかったためである。ここまで話が進むと、問題の結論は諸君の目にもはっきりと見えて来たと思う。一般論としていえば、高校の内部において、事実認定は基本的に学校長の権限であり、他の国家権力の介入を認めるべきではない(いわゆる部分社会論)。そして、その校長が、発表内容を見て、政教分離原則上、問題があると認定したのであるから、特段の問題がない限り、その判断を尊重するのが正しい。
特段の問題とは、例えば、この問題をきっかけに、
Xらの信仰そのものに干渉したとか、XらがYの禁止を無視して発表を強行したために退学処分に付された、とかいう場合である。しかし、本問ではそうしたことはないも書かれていないから、Yの行為は教育内容決定権の当然の範囲内と考えて良い。