障害者の教育を受ける権利
甲斐素直
問題
Z
県の県立A高校は新入生の選抜方式として、学力検査のための試験の成績と、それらの他に受験生本人の心身の状態も重視し、その記録と併せて総合的に合否判定を決定する方式をとっていた。このA高校を進行性のデュシェンヌ型筋ジストロフィー症を持ったXが受験した。Xの結果は学力試験の成績は、合格基準を大きく上回る好成績であった。しかし、Xは小学校5年生に進級するころから常に車椅子を必要とする状況になり、中学校3年間でさらに病状が進行して、受験時には腕を挙げることができなくなり、背柱の弯曲が顕著になり、同一姿勢の保持が困難になったほか、少し筆圧が弱くなったが、頁をめくる、読む、書く等の動作には全く支障がなく、書いた文字も全て判読できる状況であった。現在のわが国のデュシェンヌ型筋ジストロフィーの死亡平均年齢は20歳と考えられていること、Xの症状が現在よりさらに悪化することは確実であるが、その場合、A高校には適切な介護ができる施設、職員がいないこと等諸般の事情から、A高校の全過程を無事履修する見通しがないと判断し、A高校校長YはXに対し入学不許可処分を下した。Xは、この処分は身体的障害を唯一の理由とするもので、憲法26条1項、14条及び教育基本法3条に違反するとして、Yにその取消しを求めると共に、国家賠償法1条1項に基づいて、Z県に対し、入学不許可処分を受けたことによりXが被った精神的損害に対する慰謝料の支払いを求めた。
上記訴訟における憲法上の問題点について論ぜよ。
[問題の所在]
本問は、百選
304頁(ないしは平成4年度重要判例解説31頁以下)の事件に題材をとって出題されたものであることは、きわめて明白で、その点では論文構成の手がかりを得やすい問題といえる。しかし、その文中及び文末につけられた参考文献を見るだけでも膨大な量があり、決して平易な問題ではないことが判ると思う。また、このような判例解説は、あくまでもその事件が判例集に搭載される理由となった点に集中して議論を展開している。しかし、諸君の論文では、判決文のように、この点については、過去の判例を読めとか、私の基本書を読め、とは言えないから、その前提となる部分も書き込まない限り、基本的に合格答案となり得ないことは繰り返し強調したとおりである。
本問に即してこの点を説明すると、これは基本的には「教育を受ける権利」をめぐる議論であるから、論文の導入部は通常の「教育を受ける権利」に関する議論をそのまま展開する必要がある。ただ、本問では障害者の教育を受ける権利の内容が最大の論点となるので、その前段階、特に導入部をいかに簡略化するかが、諸君の腕の見せ所となる。しかし、本問は最終的に教育を受ける自由と教育を受ける権利の関係を巡る議論なので、あまり簡略化しすぎると論点そのものがぼけてしまうことになるので十分に注意する必要がある。
一 教育を受ける自由と教育を受ける権利の関係
(一) 基本的概念の整理
憲法
26条の保障する教育権は、生存権的基本権ないし社会権と呼ばれる権利の一種と理解されている。すなわち、健康で文化的な最低限度の生活を現代社会においておくるには、社会の中にあふれている情報を適時適切に理解し、それに基づいて行動する能力を有していなければならないことは当然のことである。そのための能力を身につける権利が教育権である。諸君は一般に生存権的基本権ではなく、社会権ととらえる立場にあると思われるので、以下、それについて説明する。社会権として捉えた場合、社会権たる教育を受ける権利が存在するための論理的前提として、それとは別に、自由権としての教育を受ける自由を考えることができる。両者が同じ
26条で保障されていると考えるのである。自由権から社会権に、どのような契機で転換するかが、教育権に関して常に論点となる。本問でもそれは変わらない。生存権的基本権の理論と混同して、社会権的側面というような言葉を書く人がいるが、それは即不合格と判定されかねないとんでもない誤りであることを、十分に理解しておいてほしい。諸君が論文に書くのは、次のところからである。(二) 教育を受ける自由と「私教育」
教育権の主体は、本人である。すなわち、本人が自分の受けるべき教育内容を決定する権利を持つ。すなわち、人はその全生涯にわたって、自らを教育する自由を有する。
ただし、本人が幼児その他の若年者であるため、自分がどのような教育を受けるのが適当かについて十分な判断能力を持たない場合には、親または親権者がその教育内容を決定する権限を持つ(民法
820条)。これは家族を基本とする身分権を、人格権の拡張としての人格的共同体と把握した場合に、その必然的結果として導かれるものである。なお、世界人権宣言26条3項は「親は子に与える教育を選択する優先的権利を有する」としている(なお、児童の権利に関する条約5条はより包括的な表現を採用しているが、同趣旨と理解して良いであろう)。憲法26条2項は、逆に親の教育の義務の側から定めているが、これも、その権利性を肯定した上での規定と理解することができる。本来、教育は私人がその教育の自由の行使として、私人としての立場から行うものであった。これを「教育の私事性」と言い、こうした教育の原点としての教育理念を「私教育」という。家庭内において、親が子に行う躾その他の教育は、その典型である。
(三) 教育を受ける権利と「公教育」
教育を受ける自由を個人の力で実現できる範囲には、しかし限界があるところから、社会権が現れる。この結果、国として、各人の能力に応じた教育を受ける権利を保障する義務を負うことになる。このように、福祉国家理念の下に、児童生徒の教育を受ける権利を保障するものを「公教育」という。教育基本法
6条は「法律に定める学校は、公の性質をもつ」と定めて、国公立の教育機関ばかりでなく、私立の学校法人によって行われる教育も含めて、すべての学校教育は、この公教育に属することを宣言している。(四) 私教育と公教育の接点
憲法
26条2項は義務教育を定めているが、この規定は、子に対する教育内容の決定権という親の権利が、初等・中等教育という一定の限度で公法上の義務に転換していることを示している。ここに教育の私事性、すなわち私教育と公教育の接点を端的に見ることができる。今日の教育問題を考えるに当たり、教育の私事性と公教育という、教育の基本的な、しかし、互いに相矛盾する概念をどのように調和させるかが、最大の問題となる。
旭川学力テスト事件最高裁判所判決(最大昭和
51年5月21日=百選300頁)は、この点について次のように述べる。「子どもの教育は、子どもが将来一人前の大人となり、共同社会の一員としてその中で生活し、自己の人格を完成、実現していく基礎となる能力を身につけるために必要不可欠な営みであり、それはまた、共同社会の存続と発展のためにも欠くことのできないものである。この子どもの教育は、その最も始源的かつ基本的な形態としては、親が子との自然関係に基づいて子に対して行う教育、監護の作用の一環としてあらわれるのであるが、しかしこのような私事としての親の教育及びその延長としての私的施設による教育をもつてしては、近代社会における経済的、技術的、文化的発展と社会の複雑化に伴う教育要求の質的拡大及び量的増大に対応しきれなくなるに及んで、子どもの教育が社会における重要な共通の関心事となり、子どもの教育をいわば社会の公的課題として公共の施設を通じて組織的かつ計画的に行ういわゆる公教育制度の発展をみるに至り、現代国家においては子どもの教育は、主としてこのような公共施設としての国公立の学校を中心として営まれる」
諸君の論文にも、これを簡略化したものを必ず書かねばならない。
(五) 公教育の特殊性
公教育は、国家として行う教育であるが故に、私教育にない様々な制約に服する。代表的な制約を示せば、次のとおりである。
1 教育の機会均等
(1) 男女共学
(2) 障害児童に対する教育
2 義務教育の無償
3 教育の中立性
(1) 宗教的中立性
(2) 政治的中立性
これらは、いずれも私教育が公教育に転化したことによって発生する制約である。公教育が機能する範囲においては、私教育は認められなくなるので、私教育を支える様々な自由もまた否定されることになる。
例えば、男性は女性に比べて優れた性であるという信念を持つ親がいたとして、その親が家庭内教育の場で、その信念を子供に教えるのは、その自由であるが、その信念の故に、思想・良心の自由(憲法
19条)を主張して、男女共学の公立校であることをもって就学を拒否し、家庭内教育をする自由は認められない。本問の場合には、上記のうち、1の教育の機会均等から導かれる(2)の問題としてこの部分を展開すればよい。
二 障害者の教育を受ける権利
本問の中心論となる障害児童の教育を求める権利は、こうして公教育概念の一環としてとらえられることになる。
(一) 統合教育と交流教育
かつて、わが国で、障害者教育を言うとき、そこでは、「能力に応じた教育」という点が重視され、障害者は障害の種類及び程度に応じて、特殊学級、聾唖学校、盲学校、養護学校等の特殊教育施設で教育されることとされてきた。このような教育観の下では、本問で問題となった普通高校で教育を受ける権利などというものは考えられず、養護学校で、普通高校レベルの教育が受けられるか否かが議論の焦点となったはずである。
しかし、その後、大きく教育観が転換した。児童の権利に関する条約23条1項は次のように述べる。
「締約国は、精神的又は身体的な障害を有する児童が、その尊厳を確保し、自立を促進し及び社会への積極的な参加を容易にする条件の下で十分かつ相応な生活を享受すべきであることを認める。」
この背景にある問題意識は、障害者は、社会から隔離された状態の中で教育を受ける場合には、社会の大多数を構成する非障害者と接触する機会を失い、あるいは極めて乏しくなる結果、その自立、社会参加を確保することが困難になる。
北海道留萌市における精神薄弱児童の特殊学級への編入をめぐって争われた事件(以下、「留萌事件」という。旭川地方裁判所平成5年10月26日判決=横田守弘・ジュリスト1048号75頁以下参照)において、父母は普通学級で学ぶ権利を主張したが、その前提として次のように述べている。
「人間は、他者との交流の中で生活しているのであるから、子どもも他者との交流の中で成長してこそ完全な人格を形成していくことが可能となり、その意味で、子どもが普通教育を受けるに当たっては、子どもに対し、人間の成長にとって不可欠な共同性の保障が必要であり、したがって、他者と十分に交流し得る状況の存在することが、普通教育においては不可欠である。」
このようなふれあいの必要性は障害者の側にだけ存在するのではない。障害者の自立・積極的な社会参加は、障害者の努力だけで可能なのではなく、非障害者側の支援が絶対に必要であることを考えると、非障害者にもまた必要と言える。そのためには、非障害者としても、障害者とともに活動する訓練を、教育課程の一環として受ける必要が存在している。
こうした双方向的な問題を解決するためには、障害者と非障害者がともに学ぶ「統合教育」、あるいは聾唖学校や盲学校に在籍する障害児が、非障害児や地域の人々とともに活動し、相互に交流する「交流教育」というものが、障害者教育の中心とならねばならない。もっとも、交流教育は次善の手段であって、もっとも好ましいのが統合教育であることはあきらかである。留萌事件で、父母は交流教育について次のように述べている。
「このような普通教育は、普通学級において生活することによってこそ十分に達成され得るのであり、子どもが憲法26条によって普通教育を受ける権利を有するということは、とりもなおさず普通学級で教育を受ける権利を有することを意味する。これに反し、心身障害を有する子どもを普通学級とは分離された特殊学級に所属させるならば、不当な疎外の状況にさらされ、たとえ一定の教科について普通学級との交流が認められても、普通学級に所属する子どもの集団とは十分になじむことはできず、子どもに所属集団が本来別のものであるような印象を与え、屈折した心理のもとに子どもを置くことになって、前記学教法18条一号、36条一号各所定の中学校の目標を達成できず、ひいては憲法26条が保障する教育を受ける権利を侵害する結果となる。」
この主張は、普通学級における教育と、統合教育とを混同している。すなわち、普通学級に単純に進学することを認めれば、その障害者は、障害に対し、何ら特別の介護を受けることができない。それに対し、通常学級に基本的には在籍しながら、障害に対する特別の教育や介護を行うのが統合学級である。しかし、その点を度外視すれば、なぜ交流教育よりも統合学級の方が優れているかという点の優れた説明である。
したがって、障害児に対する第1の教育手段は通常学級に在籍させることである。文部科学省では、原則として通常の学級に在籍させ、重度の障害のため、通常の学級における指導だけではその能力を十分に伸ばすことが困難な児童に対してのみ盲・聾学校、養護学校、特殊学級などによる教育を行うこととしている(例えば平成14年度文部科学白書第2部第2章第5節参照)。
ここから新たに発生する問題が、では、普通学校で学ぶか、特殊教育施設で学ぶかを決定する権限を誰が持つか、という点である。それこそが、本問の論点に他ならない。そして、ここでの論争は、普通学校における教育内容決定権に関する論争と、きわめて類似した構造をとる。すなわち、児童及び父兄側では、それを決定する権限を有するのは本人及びその利益を代表する親であると主張するのに対して、教育機関側では、それは国であると主張することになる。したがって、諸君としては、旭川学力テスト最高裁判決にあてはめて議論を展開すればよい。
この点に関しては、本問は、第一に筋ジストロフィーという特殊な病気である点、及び義務教育ではない高校の入学拒否である点に特殊性があり、少し難しい問題になる。そこで、典型的な議論の展開をしている「留萌事件」に沿って、まず紹介し、それを本件に展開する、という形で以下説明したい。これに対して、
三 留萌事件判決
(一) 本人及び親の教育内容決定権の主張
問題は、法律論として親の選択権をどのような形で導くか、という点にある。この点について、留萌事件では、父母は26条と13条を併せ主張している。
まず26条を根拠とする主張を見よう。
「憲法26条は、子どもの親に対し、自己の子女に施す教育について、公権力から干渉されない自由を保障しているところ、この自由の内容として、親は、子どもに対して施す教育内容を決定する権利及び公権力や学校に対し子どもに前記教基法1条所定の目的達成を目指す教育を施すよう要求する権利を有する。このような親の自由・権利は、子どもの権利を制約したり、その尊厳を侵すような場合を除き、公権力の介入を許さないもので、最低限子どもに与える教育の目的を設定し、その教育目的に沿った具体的内容を選択、実行する権利を含み、更にこの権利の内容として、親は、学校において、心身障害を有する子どもを普通学級と特殊学級とのいずれに所属させるかを選択する権利を有する。いずれを選択するかは、子供の成長にとって重大な影響があり、実質的にも子供の教育を受ける権利を第一義的に充足させるべき責務を負い、かつ、子供の最善の利益を決し得る親がその任務をよく果たし得るのである。」
しかし、ここで問題となっているのは公教育で、決して私教育ではないから、この主張には無理があるというべきである。
そこで、これを補完するために13条を根拠に自己決定権を主張する。
「 憲法13条後段が保障する幸福追求権は、人間が人格的自律の存在として自己を主張し、そのような存在であり続ける上で必要不可欠な権利、自由を包摂する包括的権利であるが、具体的内容を持った法的権利であって、憲法に個別に列挙された権利と同等の内容を持ち、かかる幸福追求権の内容として、国民には、一定の個人的事柄について公権力から干渉されることなく自ら決定する権利、いわゆる自己決定権が認められる。この自己決定権は、その性質上当然に、国民がその選ぶところに従って適切な教育を受ける権利をその内容中に包含し、教育を受ける権利の主体である国民、なかんずく子どもをして、自己の望むところにより学校や学級を選択することを可能ならしめるものであるから、心身障害を有する子どもにおいても、普通学級を選択する権利を有するというべきである。」
しかし、これも、そもそも社会権の場面において、13条が適用になるかという基本的な問題も含めて様々な問題があることはあきらかである。また、これらの主張の問題点は、すべて自由権としての教育内容決定権であって、公教育の内容決定権という形になっていない点であることは、諸君も直ちに気がつくと思う。
(二) 国の教育内容決定権
市側の主張は、これに対して国(地方公共団体)に決定権があると主張する。
「親は、子どもに対する自然的関係により、子どもの将来に対して最も深い関心を持ち、かつ、配慮すべき立場にある者として、子どもの教育に対する一定の支配権、すなわち教育の自由を有しているが、このような親の教育の自由は、主として家庭教育等学校外における教育や学校選択の自由にあらわれ、右自由や一定範囲で認められる私学教育における自由や教師の教授の自由以外の領域については、国が、憲法上、子ども自身の利益の擁護のため、子どもの成長に対する社会公共の利益と関心にこたえるため、必要かつ相当な範囲において、教育内容についてもこれを決定する権能を有する。
原告の主張する親の選択権は、主として家庭教育等学校外における教育や学校選択の自由に認められる権利というべきであって、心身障害児をどの学級に入級させるかという教育措置については、親にこれを選択する権利はなく、当該校長の権限に属する事項である〈中略〉
また、国は、教育における機会均等を実現する必要上、合理的な範囲で、教育内容・教育方法等についても決定すべき権能を有し、ことに、教育施設の設置管理等のいわゆる教育の外的事項については、教育行政本来の任務である。」
これが家永教科書訴訟における高津判決に見られたものと基本的に同じ主張であることはあきらかであろう。
判例の解説で出てくる自由裁量を巡る議論は、このように、選択権が憲法上国側に帰属するという結論を導いた場合に生じてくる問題である。仮に親の側に選択権がある、という結論を下す場合には、そもそも自由裁量という問題そのものが生じない。
(三) 裁判所の採用した中庸説
教育権の所在につき、裁判所は旭川学力テスト判決を引用して私教育と公教育の概念区別に関する議論を展開し、社会権という見地から、父母の主張を次のように否定する。
「憲法26条1項の『教育を受ける権利』を子どもの学習する権利を中心として考えなければならないとしても、同条が、子どもに対し、自己に施されるべき教育の環境ないし教育内容を、当該子ども自らが決定する権能まで付与したものであるとの解釈は、前述した同条の社会権的性格に照らし、到底導き出すことができない。
また、実質的に考えても、子どもが学習権の主体であるからといって、人格の未熟を前提にその完成を目指すために教育を受ける子どもが、自ら教育環境も含めた教育内容を決定できるという議論は、およそ健全な社会常識に合致しないものと思料される。」
社会権というアプローチをとる限り、これが順当な解釈であることはあきらかといえる。他方、市側の、全面的に国に決定権があるという主張も次のように退ける。
「子どもは可塑性を持つ存在であり、子どもにどのような教育を施すかは、その子どもが将来どのような大人に育つかに対して決定的な役割を果たすから、子どもの教育の結果に利害と関心を持つ関係者が、それぞれの教育内容及び方法に深い関心を抱き、それぞれの立場からその決定、実施に対する支配権、発言権を主張するのは自然な成り行きであるが、何が子供の利益であり、また、そのために何が必要であるかについては、意見の対立が当然生じ得るのであり、そのために起こる教育内容の決定につき矛盾、対立する主張の衝突を一義的に解決する一定の基準を憲法は明示していないから、憲法の次元での解釈としては、関係者らの主張のよって立つ憲法上の根拠に照らして、各主張の妥当すべき範囲を画するのが合理的な解釈である。」
このように、国家教育権説と国民教育権説に相当する主張をそれぞれ退けた後、学級編成県に関する議論に入るのであるが、以下の議論は少々国の側に偏りすぎている感がある。
「 具体的には、親は、子どもに対する自然的関係により、子どもの将来に対して最も深い関心を持ち、配慮すべき立場にある者として、子どもに対する支配権、すなわち子女の教育の自由を有するが、これは、主として家庭教育等学校外における教育や学校選択の自由に現れる。また、私学教育における自由や学校において現実に子どもの教育の任に当たる教師の教授の自由も、教育の本質的要請に照らし、教授の具体的内容及び方法につきある程度自由な裁量が認められなければならないという意味において、限られた一定範囲で妥当するが、それ以外の部分においては、一般に社会公共的な問題について国民全体の意思を組織的に決定、実現すべき立場にある国が、国政の一部として広く適切な教育政策を樹立、実施すべく、また、し得る者として、憲法上は、あるいは子ども自身の利益の擁護のため、あるいは子どもの成長に対する社会公共の利益と関心に答えるため、その目的達成に必要かつ相当な範囲で教育内容についてもこれを決定する権能を有すると解するのが相当である」
子の最善の利益を目指して、親、教師、国の三者にそれぞれ判断権がある、と論ずる点については、たしかに最高裁判所判決を踏まえたものとなっている。しかし、本判決の問題は、結論としては、全面的に国(地方公共団体)の権限であると断定する点である。
「心身障害を有する子どもの教育においては、〈中略〉いわゆる障害児教育に関する科学と実践及び学校教育体系との関わりにおける様々な評価や、これについての利害関係者の議論を踏まえた上で、心身の障害の実態に即したきめ細かい教育課程が実施されるよう、いっそうの教育内容及び指導方法の改善・充実を図り、心身障害を有する子どもに対する教育条件の整備に努めなければならないのであるから、かかる教育内容を決定する権能は、かかる責務の担い手たる国に帰属するといわざるを得ない。
したがって、心身障害を有する子どもが、学校において、普通学級に所属すべきか特殊学級に所属すべきか、また、それを誰が決定すべきかは、まさに心身障害を有する子どもに対する教育の内容にかかわる事項であるから、親が憲法26条を根拠に、これを自ら選択・決定する権利を有するということはできず、結局、憲法26条は、心身障害を有する子どもに対し、どのような内容の教育を施すかについて国の立法の判断に委ねていると解するのが相当である。」
このように、全面的に国の立法裁量に服するとした結果、国家教育権説とこの問題に関する限り、まったく違いがないことになる。こう解することが果たして旭川学力テスト判決で示された中庸説の本件における正しい適用であるか否かは疑問のあるところである。
こうして結論的には国側の行政裁量も肯定するようになる結果、自由裁量権を巡る議論が、この判例の立場では生じてくることになる。
学説は、何らかの形でもう少し父母の意見を反映する権利を認めるべきだとする見解を採っている(この点について、先に紹介した横田論文特に77頁参照)。このように、何らかの論理で裁量権を制約すれば、純然たる自由裁量ではなく、羈束裁量になるから、その限度で国側の裁量権が制約されるということになるはずである。
(四) 私見
この判決ではまったく論及されていないし、判決に関する判例評釈等でもあまり論じられていないが、社会権の場合は、自由権と異なり、それを実現するのに費用がかかるという点を忘れてはならない。そうしたコストを考慮する必要がないのであれば、先に述べたとおり、統合教育の方が、障害者の自立・積極的社会参加を確保する上で優れていることは疑いないからである。そして、仮に費用の点を度外視して差し支えないのであれば、どれほど重度の障害児であろうとも、それに対する介護・支援体制を確立することにより、常に普通学級で統合教育を行うことが可能になるからである。
したがって、ある障害児を普通学級に在籍させることが可能か否かの判断基準に最終的になるのは、障害児童が普通学級に在籍するために発生する様々なコストが、特殊学級・学校に在籍させる場合に比べてどの程度増大するか、という点であろう。すなわち、本件で本当に論じなければならない点は、どこまでのコストに、障害者のために国家として耐えることを要求されるか、という点である。
この点に関して、ドイツ憲法裁判所1997年10月8日判決(BVerfGE96.288)は、参考になる。
「ニーダーザクセン州学校法が、障害者の統合教育を、組織的、人的及び物的な諸条件から見て可能な限りという留保の下においていることには、憲法上の疑義はない。〈中略〉立法者は、その決定の自由の枠内で、そのような統合的形態の実現を、教育学的な根拠から、あるいはまた組織的、人的、財政的な根拠から支持できないと考える場合には、その導入を見合わせることができる。そのためには、残されている統合的な育成及び授業の可能性が、障害を持った青少年の利益を十分に考慮したものであることが条件となる。」(宮地基「障害者の不利益処遇禁止と特殊学校への転校処分」自治研究77巻5号143頁以下より引用)
こうした判断が、ここでも必要になるというべきであろう。こうした統合教育を行う場合のコストが論じられていない点で、この判決の確定した事実の限りでは、特殊学級に編入するとした国側の判断が妥当性を有するか否かを決定することはできないのである。もっとも、ここで、司法審査基準で狭義の合理性基準を採用することとすればその議論は不要となる。しかし、本件で問題となっているのは、教育という個人の人格的自律の利益に直接関わる問題であるから、より厳格度を増した審査基準を使うべきだと言える。
なお、障害児教育が国の財政能力と密接に関係あること自体は、次の判決が明言している。
「障害児、健常児の綜合教育が理想であるといつても、現在の教育機関の人的、物的設備は、その必要をみたすにははるかに及ばないものである。人的、物的に設備を整えるためには、当然のことながら巨額の費用を伴なうものであつて、一朝一夕にこれを実現することは困難であり、段階的にその実現をはかることもやむを得ないと思われる。現にその設備の整備については、養護学校の都道府県単位の設立すら、昭和54年4月1日以降において実現したにすぎないのであつて、現在の普通小学校のすべてに、障害児のための物的設備を新たに設置することは、望ましいとしても直ちに実現できるとは、到底考えられないのである。やはり、それは順序を追つて整備すべきことであつて、このように考えると、現在実施されているように、障害児は養護学校小学部に、健常児は小学校に就学すべき制度も、現在の教育制度の発達の段階においてみるときは、けだしやむを得ないところであつて、本件金井康治の障害の程度に則して具体的に考察するときは、かかる分離による特殊教育が、直ちに憲法14条、25条、26条に違反し、教育基本法10条に牴触するということはできない。」(東京高裁昭和57年1月28日判決=判例タイムズ474号242頁)
四 本問における特殊性
冒頭に述べたとおり、本問は、こうした典型的な障害児教育の問題に比べて、二つの点で特殊性がある。
第一は、Aの罹患しているのが筋ジストロフィーである、という点である。これは、症状面で言うと次のような病気である(http://www.saigata-nh.go.jp/nanbyo/pmd/pmdindex.htmより引用)。
「小学校入学時頃から歩行が目に見えてぎこちなくなります。階段の昇降時には片方の手で手すりにつかまることが必要となり、やがては両手で手すりにつかまるようになります。次には階段昇降ができなくなり、床からの起立が不能となります。次には椅子からも、立てなくなります。平均9歳で歩行が不可能となり、車椅子上生活となってしまいます。車椅子生活に移行すると、肥満が出現したり、脊柱側弯症(背骨が曲がること)が急速に進行する症例が多く認められるようになります。車椅子に乗車直後は四這いやいざりは可能ですが、これもやがて不可能となり、進行すれば座ることや車椅子の操作も不能となります。やがては、後述する左心不全や、呼吸不全でほとんどの患者が死亡してゆきます。現在のわが国のデュシェンヌ型筋ジストロフィーの死亡平均年齢は20歳と考えられています。」
実際、本件のAの障害はかなり進んでいて、判決が認定しているところによると、次のような状態であった、という。
「 原告は、昭和55年にデュシェンヌ型筋ジストロフィー症との診断を受け、昭和61年に小学校5年生に進級するころから常に車椅子を必要とする状況になった。
原告の機能障害の程度は、中学校3年間で進行し、腕を挙げることができなくなり、背柱の弯曲が顕著になり、同一姿勢の保持が困難になったほか、少し筆圧が弱くなった。しかし、頁をめくる、読む、書く等の動作には全く支障がなく、書いた文字も全て判読できる状況であった。」
学校側が「その身体的状況により、高校における全課程を履修することは困難である」という認定を下した理由は、このようにAが20歳までに死亡してしまう可能性が大きいことを意味している。単に、車椅子を使用しなければならない重度の身体障害者である、という理由ではない点に注意してほしい。
現実の事件においては、判決は、Aが卒業可能であるという判定を下し、高校に在籍し続けることが不可能と判断したことを事実誤認とした。このことは、逆から言えば障害の程度が重く、在籍がきわめて危ぶまれるような障害者であれば、排除することが認められるのであろうか。あきらかに不当であろう。それでは中退したものには何の価値も認められなくなってしまう。教育を受ける権利が保障するのは、日々に自己を研鑽する権利であり、決して卒業その他、社会的に認証できる資格を取得する権利ではない。そもそも、どれほど健康なものであっても、入学時点で必ず卒業可能である、という判定を下すことは不可能であることを考えれば、入学の目的が卒業にあるとすることは、誤りであることは明らかと言える。
この点、例えば、大橋洋一は、本判決の評釈で次のように述べている。
「ここでの争点は、高校教育の目的が卒業にあるのか、それともそこに至る過程自体に価値が認められるのか、という点である。例えば、筋ジストロフィーの進行が進み、本判決の要請しているような専門医の診断で3年間の履修の見込みが立たないが、それでも健常者と一緒に大学受験を想定したような程度の高い授業に参加し、自らの能力を高めたいと考える志願者をどのように扱うのか、という問題である。本判決によれば、入学は否定されることになろう。しかし、高校教育の目的を卒業認定に限定せず、日々の研鑽の中にも認める立場からすれば、入学時に履修可能であれば、後は志願者の意思に任せるのも一つの考え方であるように解される。」(大橋・判例時報=判例評釈404号19頁より引用)
大橋教授は行政法学者なので、憲法上の権利という点に関しては少々腰が引けている表現をしているが、基本的趣旨は同じであることが判ると思う。
ここで問題となるのは、本件のような意欲を持つAにとっては、養護学校が代替施設とはならない、という点である。大学に進学するためには、普通高校が事実上唯一の選択肢だからである。したがって、本件事例では、留萌事件のように、特殊学級か普通学級かという選択の問題ではなく、高校進学を認めるか、拒否するか、という一点が問題になっているのである。このように高校進学の自由そのものが問題になる場合に、学業成績その他の客観的基準をどのように設定するかについて国側に裁量権が存在することは明らかであるが、それが充足されている状況下で、ことさらに障害の存在を理由にする拒絶権に関しては、国側の裁量権はゼロに収束している、というべきである。
もう一つ、本判決で注目するべき点は、学校の施設面の負担について論じている点である。先に紹介した東京高裁判決は、障害者のための十分な施設を整える必要を論じ、そのための設備負担は養護学校程度でなければ実現できないとした。これに対して、本判決では、裁判所は次のように述べた。
「障害を有する個々の児童、生徒につき、具体的にどのように教育を受ける権利が実現されるべきであるかについては議論があるところであり、当裁判所も、障害を有する児童、生徒を全て普通学校で教育すべきであるという立場に立つものではない。しかし、本件に関していえば、学校教育法施行令22条の2は、その上位規範である学校教育法71条、71条の2からも明らかなように、少なくとも高等学校入学の学齢に達した障害者につき養護学校等へ就学させる義務を規定したのではなく、障害者の普通高等学校への入学を否定する法令も存しない。そして、たとえ施設、設備の面で、原告にとって養護学校が望ましかったとしても、少なくとも、普通高等学校に入学できる学力を有し、かつ、普通高等学校において教育を受けることを望んでいる原告について、普通高等学校への入学の途が閉ざされることは許されるものではない。健常者で能力を有するものがその能力の発達を求めて高等普通教育を受けることが教育を受ける権利から導き出されるのと同様に、障害者がその能力の全面的発達を追求することもまた教育の機会均等を定めている憲法その他の法令によって認められる当然の権利であるからである。」
すなわち、本判決では、進学が障害者の側の権利である以上、障害者を受け入れた高校で個別に障害者受け入れ施設の整備を図らなければならない、としたのである。確かに、養護学校のような充実はそこでは期待できないが、障害者が学業を図るに必要な最低限度の施設整備の義務を肯定した、といってもよい。ここでも、先にドイツ憲法裁判所判決に紹介したのと同じ判断基準が明確に見て取ることが出来る。
本件事例の場合、たまたま、Aとは種類が異なるが、同校にやはり筋ジストロフィー患者が在籍していたことがあり、そのおかげで設備がある程度充実しているという特殊事情がある。しかし、Aが最初の入学者であった場合にも、当然、そうした設備工事を国は義務づけられているものと考えるべきである。実際、Aに先行する生徒の時にはそうした工事を実施したのであった。一般的に、普通学校で学ぶ障害者は、学校側にそうした設備を要求する権利がある、といえる。わが法学部の建物にも、車椅子を利用する障害者のためのスロープ等が設置されていることは諸君の知るとおりである。