財産権の保障
甲斐 素直
問題
用地の取得が著しく困難な大都市において、公園及び公営住宅の建設を促進するために、当該都市に所在する私有の遊休土地を市場価格より低い価格で収用することを可能とする法律が制定されたと仮定する。この法律に含まれる憲法上の問題点をあげて論ぜよ。
(司法試験平成6年)
[はじめに]
ひどくポイントを外した答案が続出した。何故だろうと考えて、一つ想像したのが、受験予備校の模範答案を下敷きにしたのではないか、ということである。本問は、以下の解説を読んで貰うと判るが、近年急速に学説が変化しているところである。ところが、受験予備校は、それに気がつかないと、まるでタイムスリップしたように、極端に古い時代の模範解答をそのまま維持してしまうことがよくある。その結果、今日の目から見ると、まるでポイントを外した答案になってしまうのである。
本問を見ると、普通に勉強をしていると、29条3項で論文を書きたい、という誘惑にかられたと思う。本問はちょっと見ると29条3項の議論のように見える。しかし、中心論点は、29条2項を制度的保障と把握した場合における、その侵すことのできない中核とは何かとなる。例によって、確実な理解を図るために、少し基礎的な部分、すなわち、なぜ現行憲法ではフランス人権宣言やワイマール憲法に存在していた所有権の保障に代わって、財産権という漠然とした概念を使用しているのか、という段階から説明を始めてみたい。
一 今日における財産権概念までの発展
近代自由主義社会は、個人の尊厳と所有権の絶対、という二つの概念の上に築かれた。これはそれに先行する封建制のアンチテーゼと理解できる。すなわち、封建所有権は、領主のもつ抽象的な支配権から始まって、現実に土地を耕作する人間の持つ具体的支配権に至るまで、幾重にも重層構造を形成していたために、どのような個人もその財産の自由な使用、収益、処分が許されなかった。このために、そうした制約を否定することが、近代社会の確立に欠くべからざる要求であったのである。
フランス人権宣言17条はは次のように宣言する。
所有権は、神聖かつ不可侵の権利であり、何人も、適法に確認された公の必要が明白にそれを要求する場合で、かつ、正当な事前の補償の下においてでなければ、これを奪われることはない。
これはまさに、こうした近代市民社会イデオロギーの端的な表明である。しかし、資本主義経済の発達とともに二つの変化が発生してくる。
第1は、資本主義の矛盾が拡大し始めたために、財産権に対する公権的な規制が増加し、常態化したという点である。特に、所有権の中核とも言うべき土地所有権は、近代資本主義の原理に反して、どれほど需要が増大しても、それに対応して供給の増大が不可能という特質を有している。その結果、所有権そのものに関してさえも、神聖不可侵であるどころか、大きな制約が認められるようになる。例えば、ワイマール憲法153条は次のように宣言している。
第1項 所有権は、憲法がこれを保障される。その内容及び限界は、法律によって明らかにされる。
第2項 公用収用は、公共の福祉のために、かつ、法律上の根拠に基づいてのみ、これを行うことができる。公用収用は、連邦法に別段の定めのない限り、正当な補償の下にこれを行う。補償の額について争いがあるときは、連邦法に特段の定めのない限り、通常裁判所で争う途が開かれているものとする。連邦、市町村及び公益団体が行う公用収用は、補償する場合にのみ行うことができる。
第3項 所有権は義務を伴う。その行使は同時に公共の利益に役立つべきである。
この特に第1項と第3項の規定は、権利の性格そのものに対する根本的な認識の変化を端的に示している。
第2に、所有権の、経済全体に占める重要性が相対的に低下し、代わって債権がその主要な担い手になってきたことである。物権は強力な権利であるだけに、第三者の権利を害しないように物権法定主義が要求される。その硬直性のために、社会の変化に対応して、新しい内容の権利を保障する必要性が現れてきても、そのニーズに柔軟に対応するのは困難である。それに対して、債権は当事者が納得すればどのような内容の権利でも、保障することが可能である。こうした柔軟性から、現代社会では、債権が物権よりも重要な権利となってくる。これを「債権の優越」と呼ぶ。これに伴い、物権でも、所有権以外の権利、特に債権の確保に奉仕することを目的とする担保物権の重要性が増加してくる。
新しい内容の債権が社会的基盤を確立してくると、法が追随し、そうした新種の権利に物権と同様の強力な保障を与えることが行われる。そうした新しい権利は、従来の物権と異なり、物に関係しない権利なので、一般に「無体財産権」と総称される。特許権や著作権が、その代表的なものである。
このような二つの方向への同時進行的な大きな変化の結果、所有権だけの保障では、今日、ほとんど無意味になったので、現行憲法29条は、広く「財産権」一般を保障するようになってきた。以上の説明から判るとおり、ここでの財産権とは誠に広い概念である。例えば、判例は、行政財産の一時使用許可による利用権もここにいう財産権に含まれ、それを奪うには29条3項に基づく補償が必要であるとする(最判昭和49年2月5日、行政法判例百選T<第5版>186頁参照)。このように保障する範囲が拡大すれば、個々の保障の密度が低下するのはやむを得ないことである。
わが憲法29条を解釈するに当たっては、こうした二つの流れを前提にする必要がある。第1項と第3項だけを読む限り、所有権という言葉を財産権と置き換えている点を除けば、フランス人権宣言から少しも変わっていないように見える。しかし、その間に「財産権の内容は‥法律でこれを定める」というワイマール憲法に直結する表現が飛び込んで来ていることによって、全体の意味が変わる。1項や3項は2項との関連において意味を理解する必要がある。すなわち、今日においては、「私有財産制」は、「労働」とともに、すべての国民に生存を保障する手段として認められる。「財産」と「労働」とが、互いに補足しあって、人類文化の発展の要素たるべきものとされているのである。
二 私有財産制の意義
通説は、第1項に二通りの意義を認める。第1は、個人が現に有する財産権を保障することであり、第2は、私有財産制という制度の保障というのである。これは一つの矛盾である。個別具体的な人権を承認できる場面で、それよりも保障力の低い制度的保障概念を導入する必要はないはずだからである。
そこでの問題は第2項の存在である。財産権の内容を法律で定めるということは、財産権は法律の存在する限りにおいてのみ存在することが出来るという意味である。現に存在している財産権そのものを、法律によって廃止するということは決して不可能ではない。例えば、永小作権は、その歴史的使命を既に終えていると考えて、廃止されても良いかもしれない。したがって、個人の現有財産に対する保障というのは、第1義的には行政や司法に対する保障の意味であって、立法に対する保障とは考えられない。最高裁判所は、共有林分割制限判決で、29条について次のように述べている。
「私有財産制度を保障しているのみでなく、社会的経済的活動の基礎をなす国民の個々の財産権につきこれを基本的人権として保障するとともに、社会全体の利益を考慮して財産権に対し制約を加える必要性が増大するに至つたため、立法府は公共の福祉に適合する限り財産権について規制を加えることができる、としているのである。」
その結果、立法に対する保障は、制度的保障概念に頼らなければならないことになる(これはあくまでも通説・判例の立場で、浦部法穂のような有力な反対説があることを忘れずに文章は書いてほしい)。制度的保障概念は、その周辺部に対しては法律による制限を認めつつ、中核に対しては、立法によっても不可侵なものとして保障する理論だった。その制度的保障の中核が、財産権の個人所有、すなわち私有財産制を内容としているという点では異論はない。問題は、さらにその私有財産制は厳密に言うとどのような概念になるのか、ということが、本問における第一の問題点である。
かつては、私有財産制とは資本主義のことである、とするのが通説であった。しかし、今日においては、社会国家理念の下、各種社会政策が展開される。仮に厳密な意味での資本主義と理解した場合には、わが国の施策の多くは違憲と解釈しなければならない。米国におけるGMの再建のための国家の介入は、明らかに生産手段の国有化に他ならないのである。そのような国家介入が可能な理由は、第一に、生産手段の私有を絶対的に保障していると解するべきなんらの法的根拠も存在しないである。第二に、財産権の社会性から見た場合、個人の生存に直結する財産権の保障までで、制度としては必要にして十分である。こういう二つの根拠から、人間が、人間としての価値ある生活を営む上に必要な物的手段の享有までが保障の対象となると考える。換言すれば、個人の能力によって獲得し、その生活利益の用に供せられるべき財産を、使用、収益、処分する権利と解される。最初にこの学説を出したのは、今村成和『損失補償制度の研究』有斐閣1968年刊、676頁ではないかと思われる。今日では大変多くの著者がこの説を採用している。たとえば、野中俊彦他『憲法T〔第4版〕』有斐閣2006年刊、444頁(高見勝利執筆部分)、辻村みよ子『憲法〔第3版〕』日本評論社2008年刊、265頁、小林孝輔他『基本法コンメンタール憲法〔第5版〕』日本評論社2006年刊、212頁(中島茂樹執筆部分)、樋口陽一他『註解法律学全集 憲法U』青林書院1997年刊236頁(中村睦男執筆部分)等。
芦部は、両説を書いてどちらとも決めていない(
芦部信喜『憲法』第4版、岩波書店2007年刊220頁)が、今日の通説は生活財と独占財に区分するこの説と考えて良い。これに対して、
「現在の高度に複雑化した経済社会を規制する財産法制の大部分は、当該社会のメンバーがそれに従うことに共通の利益を見いだすからこそ存在するものであろう。このような財産法制は、29条2項の定めるように、社会全体の利益つまり公共の福祉という観点から立法府によってその内容を定められ、変更されうる。」(長谷部恭男『憲法〔第4版〕』新世社2008年刊、243頁)
このように、侵すべからざる制度の中核を生活財と考えた場合、本問のような遊休資産は、本質的に生活財たり得ないから、それに対する規制においては、立法府の裁量の幅が大きく広がることになる。
三 財産権の補償
(一) 保障請求権の根拠
次に論じる必要があるのが、憲法29条3項に言う正当な補償とは何か、である。同項は国による適法侵害に対し、補償すると宣言している。例えば所得税は、個人の財産権に対する侵害である。したがって、上述のとおり、健康で文化的な生活を不可能にするほどの課税は、制度の中核を侵害するもので、違憲となる。では、そのレベルに達しない課税は、適法侵害として補償の必要があるか。もちろん無い。仮に所得税による侵害に対して補償が必要とすれば、その補償の原資はさらに別の課税に求める他はない。では、これをどう説明するか。
今日では、これを平等原理を、この問題に投影して理解する。
「公益上必要な事業はそれによって利益を受ける社会の全員の負担において営まれるべきであることは平等の理想の要求するところであるが、しかるに実際においては、例えば事業のために特定の土地を必要とする場合に社会の全員の負担においてその需要を充たすと言うことは事実上不可能であり、しかも事業は公益上経営を必要とするものであるために、やむを得ず、その土地の権利者に一切の負担を負わせ、その犠牲において事業の需要を充たす」ことにならざるを得ない。この結果、「平等の理想は破られるので、この破られた平等の理想を元に復し、特定の一人に帰した負担を全員の負担に転化し、一旦失われた平等の理想を再び回復することがその目的とするところである」(柳瀬『公用負担法』新版、256頁)
いうまでもなく、ここにいう平等原理は、自由国家的平等原理ではなく、社会国家的な平等原理である。
(二) 損失補償要否の基準
抽象的に平等原理が破綻した場合に補償を要する、ということを、個別具体的事例に当てはめるにはもう少し細かな検討が必要である。
1 財産権が剥奪される場合
これは、普通は特別犠牲に入る。ただし、受忍するべき理由のある場合、例えば国家刑罰権の行使による没収や違反建築物の除却の場合に、相手が受忍するべきなのは当然である。しかし、例えば消火のため、まだ燃えていない家を破壊する場合に、どの限度までは受忍するべきであり(消防法29条2項)、どこからは補償の対象となる(同第3項)かは、非常に微妙である(最高裁昭和47年5月30日判決、行政判例百選U<第5版>500頁参照)。さらにややこしいのは、受忍限度内にとどまる場合でも、特別規定により補償される場合もあることである(例えば伝染病予防法19条の2参照)。
2 財産権の制限にとどまる場合
かつては、従来は公共の安全秩序という消極的な目的のために課される財産権の制限(警察制限)に対しては補償は不要であり、他方、公共の福祉の増進のためという積極的な目的のための財産権の制限(公用制限)に対しては補償が必要と言われていた。例えば、奈良県ため池条例判決は、「その財産権の行使を殆ど全面的に禁止」する場合でも堤防の決壊防止のため出あれば無補償でよいとしていた。しかし、河川付近地制限令判決は「その財産上の犠牲は、公共のために必要な制限によるものとはいえ、単に一般的に当然に受けるべきものとされる制限の範囲を超え、特別の犠牲を課したものと見る余地が全くない訳ではな」いとして、この判例を変更した。
また、公用制限でも美観地区や風致地区、市街化調整地区のための利用制限には補償は要しないとされる。こうしたことから、今日ではこうした説明は一般に取られなくなってきた。
結局、今の所、ある程度実用性のある一般基準としては次のようになる。
イ 財産権の剥奪または当該財産権の本来の効用の発揮を妨げることとなるような侵害については、権利者の側にこれを受忍すべき理由がある場合でない限り、当然に補償を要する。
ロ この程度に至らない財産権行使の制限については、
a 当該財産権の存在が、社会的共同生活との調和を保っていくために必要とされるものである場合には、財産権に内在する社会的拘束の表れとして補償を要しないものと言うべく(例えば建築基準法)、
b 他の特定の公益目的のために、当該財産権の本来の社会的効用とは無関係に、偶然に課せられた制限であるときは補償を要する(例えば文化財保護)
今村「財産権の補償」有斐閣『憲法講座』第2巻199頁より紹介)
これをまとめて表現すると、偶発的な特別犠牲については補償を要する、となる。
四 損失保障の内容
(一) 判例の状況
本問の場合、そのための特別の法律により、遊休地であるという認定を受けると公園用地等として収用されてしまうので、それが偶発的かつ特別の犠牲であることは明らかである。その場合に、どの範囲で補償を要するかが本問における最後の論点となる。
これに関する古典的な最高裁判所判決は、諸君も知るとおり、農地改革法判決である。本問についても、その枠組みで論じて差し支えない。しかし、平成14年6月11日に興味ある最高裁判決が下されている。本問も、問題文中に「収用」の語が出てくることで明らかなとおり、土地収用法の特別法が制定されたら、という家庭の問題である。そこで、以下、同判決について説明しよう。
土地収用法は、憲法で保障された個人の財産権と公共の利益との調整を図り、国土の適正で合理的な利用に寄与することを目的として、公共事業に必要な土地を収用(又は使用)するための要件、手続き、効果、損失の補償などについて定めている。
すなわち、道路、河川、下水道などの公共事業のために土地が必要になった場合、通常は、国や地方公共団体など事業の施行者(起業者)が土地所有者や関係人と話し合い、合意の上で契約を結んで必要な土地を取得する。しかし、補償金の額について当事者間で合意が成立しなかったり、土地の所有権について争いがあるなどの理由で、話し合いにより土地を取得できない場合がある。このような場合は、起業者が土地収用法の手続をとることにより、土地所有者や関係人に適正な補償をしたうえで、土地を取得することが可能となる。これが土地収用制度である。
土地収用制度により、起業者が公共事業のために必要な土地を取得する際には、まず起業者が土地収用法に基づき国土交通大臣又は都道府県知事の事業認定を受ける。その後に起業者は、収用委員会に収用の裁決を申請する。収用委員会では、起業者、土地所有者、関係人の意見を聴くための審理や調査などを行い、補償金の額などを決める。これを裁決という。この裁決に従って補償金の支払いなどを行うことによって、起業者は土地を取得できる。
その場合、支払うべき補償額の決定時点として、三つのものが考えられる。第一に事業認定の時点である。第二に裁決の時点である。第三に実際に土地を収用した時点である。いずれを基準時点とするかは、土地価格に著しい上昇傾向がある場合などには、大きな問題となる。
しかも、それに関して、我が国の判例実務は大きく揺れ動いた。すなわち、大審院時代の我が国判例は三番目の収用時主義を採用していた。それに対して、現行土地収用法71条は、当初は二番目の裁決時主義を採用した。その後、昭和42年に一番目の事業認定時主義に改正されて今日に至っている。
このように、基準時点を過去に遡らせた理由はきわめて明白であろう。すなわち、ごね得の防止である。土地価格が右肩上がりの傾向を顕著に示している場合には、基準時点を、実際の収用時点に近づけるほど、用地買収に応じず、長期にわたって粘り続けるものが有利になり、用地買収に協力的なものほど馬鹿を見るという結果が生じるのである。そこで、事業認定の時点を地価判定の基準時点とし、その後、実際に収用するまでの間に生じた価格変動は、一般物価の変動率だけを考慮する、という手法が考案されたわけである。
このような立法の変更は、公共用地の買収の実務的な見地から見ればきわめて妥当なものであるが、憲法29条3項に整合するかは一つの問題である。最高裁判所は、上記のうち、第二の時点である裁決時主義を法律上採用している時代において、次のように述べた。
「土地収用法における損失の補償は、特定の公益上必要な事業のために土地が収用される場合、その収用によつて当該土地の所有者等が被る特別な犠牲の回復をはかることを目的とするものであるから、完全な補償、すなわち、収用の前後を通じて被収用者の財産価値を等しくならしめるような補償をなすべきであり、金銭をもつて補償する場合には、被収用者が近傍において被収用地と同等の代替地等を取得することをうるに足りる金額の補償を要するものというべく、土地収用法72条(昭和42年法律第74号による改正前のもの。以下同じ。)は右のような趣旨を明らかにした規定と解すべきである。」(最判昭和48年10月18日=憲法百選〈第5版〉226頁、行政百選〈第5版〉508頁)
この判決中で、「収用の前後を通じて被収用者の財産価値を等しくならしめる補償」と述べている箇所は、時点として第三の収用時主義を是としているように読める。少なくとも、判決の対象となった42年改正前の土地収用法を問題としているから、それが採用していた裁決時主義を合憲としているように見える。その観点からすると、最高裁判例は、少なくとも昭和42年改正後の土地収用法が採用する事業認定時主義は、違憲という見解を採用していることになる。
この問題に関しては、昭和28年12月23日判決の農地改革判決が重要である。同判決は、この点について次のように述べている(憲法判例百選〈第5版〉504頁参照)。
「憲法29条3項にいうところの財産権を公共の用に供する場合の正当な補償とは、その当時の経済状態において成立することを考えられる価格に基き、合理的に算出された相当な額をいうのであつて、必しも常にかかる価格と完全に一致することを要するものでないと解するを相当とする。けだし財産権の内容は、公共の福祉に適合するように法律で定められるのを本質とするから(憲法29条2項)、公共の福祉を増進し又は維持するため必要ある場合は、財産権の使用収益又は処分の権利にある制限を受けることがあり、また財産権の価格についても特定の制限を受けることがあつて、その自由な取引による価格の成立を認められないこともあるからである。」
本問の元となった平成14年の最高裁判決は、何が29条3項に言う正当な補償なのか、という点について、上記箇所を引用する形で、次のように述べている。
「憲法29条3項にいう『正当な補償』とは,その当時の経済状態において成立すると考えられる価格に基づき合理的に算出された相当な額をいうのであって,必ずしも常に上記の価格と完全に一致することを要するものではないことは,当裁判所の判例(最高裁昭和25年(オ)第98号同28年12月23日大法廷判決・民集7巻13号1523頁)とするところである。土地収用法71条の規定が憲法29条3項に違反するかどうかも,この判例の趣旨に従って判断すべきものである。」
ここで括弧内で引用されているのが、農地改革判決である。すなわち、ここで相当補償の原則を述べている。
他方、これも冒頭に述べたとおり、昭和48年の最高裁判決は、裁決時主義を採用した改正前の土地収用法に対して合憲判決を下している。したがって、その点を問題にしてしまうと、判例変更と言うことで、大法廷を開かねばならなくなる。そこで、本件判決は昭和48年判決の基本線は正しいとする。すなわち、
「土地の収用に伴う補償は,収用によって土地所有者等が受ける損失に対してされるものである(土地収用法68条)ところ,収用されることが最終的に決定されるのは権利取得裁決によるのであり,その時に補償金の額が具体的に決定される(同法48条1項)のであるから,補償金の額は,同裁決の時を基準にして算定されるべきである。」
その限りでは、訴えを提起したものの主張を認めたことになる。しかし、その方法に関しては、次のように述べている。
「その具体的方法として,同法71条は,事業の認定の告示の時における相当な価格を近傍類地の取引価格等を考慮して算定した上で,権利取得裁決の時までの物価の変動に応ずる修正率を乗じて,権利取得裁決の時における補償金の額を決定することとしている。」
しかし、それでは、物価上昇率よりも土地価格上昇率が高い時代には、ごね得の問題が発生する。そこで、そのずれについては、二つの理由を挙げて説明する。
第一に次のように述べる。
「近傍類地の取引価格の変動は,一般的に当該事業による影響を受けたものであると考えられるところ,事業により近傍類地に付加されることとなった価値と同等の価値を収用地の所有者等が当然に享受し得る理由はないし,事業の影響により生ずる収用地そのものの価値の変動は,起業者に帰属し,又は起業者が負担すべきものである。」
確かに、道路整備等の公共事業の影響による近傍の土地価格の上昇について、補償する必要はないはずである。
第二に、次の理由を挙げる。
「土地が収用されることが最終的に決定されるのは権利取得裁決によるのであるが,事業認定が告示されることにより,当該土地については,任意買収に応じない限り,起業者の申立てにより権利取得裁決がされて収用されることが確定するのであり,その後は,これが一般の取引の対象となることはないから,その取引価格が一般の土地と同様に変動するものとはいえない。そして,任意買収においては,近傍類地の取引価格等を考慮して算定した事業認定の告示の時における相当な価格を基準として契約が締結されることが予定されているということができる。」
これは、要するに、公共事業に協力的であったものが馬鹿を見てはいけない、ということである。
こうして、判例のあげた理由は、29条3項そのものの理論的な根拠と言うよりも、実務的な根拠の確認というにとどまると言えそうである。しかし、こうして判例上、相当補償という概念が、通常の土地収用においてまで述べられていることは、実務家法曹になろうとしている諸君は、是非記憶してほしい。
(二) 学説の状況
かつて、学説は、農地改革判決はあくまでも戦後の異常事態における例外的な判決であり、その異常事態が経過した今日、29条3項に言う正当な補償とは、完全補償のことをいうと、何の疑問も持たずに述べていた。
しかし、判例が上述のように原則的に相当補償説を採用することになると、学説としても、それに対する賛否はともかくとして、真っ正面からこの問題に向き合わねばならないことは確かである。そこで、今日の代表的な学説を紹介してみよう。
1 社会評価変化説
ある立法が、農地改革に比すべき既存の財産権に対する社会評価の根本的な変化を反映していると解することができる場合に相当する、と考えられる場合には、相当補償で足りると解する説がある(今村成和・損失補償制度の研究74頁参照。同旨戸波江二・新版・298頁参照)。
この説は、通常の収用の場合には完全な補償を必要とし、例外的に農地改革のような社会変革としてなされた財産権の侵害の場合には相当補償を必要とするというオーソドックスな見解を説くので、区分の基準はかなり明確である。それだけに、本問がそれに相当するかどうかは逆にかなり難しい問題である。すなわち、この説によるときは、そのような社会評価の激変が起きていたと認められるか否かによる、とするのが答えとなる。
2 大きな財産・小さな財産説
佐藤幸治は、29条の対象となる財産を、大きな財産と小さな財産に分類する説を妥当としている。これは次のような説である。
「社会国家の使命が、なによりも先に、社会の下積みになった多くを占める国民に、人たるに価する生活を保障することだとしたならば、そこにおいて制限されるべき財産権とは、国民がその生活を営むための日常必需財産を支配する財産権を直接の対象とするのではなくーそういう『小さな財産』の財産権を意味するのではなく、もっと『大きな財産』の財産権ー貧乏や失業の原因を作った資本主義経済発展の原動力となった財産を支配する財産権をその主要な対象とすべきはずである。なぜならば、この『小さな財産』のもつ社会性は比較的弱いのに対して、『大きな財産』のもつ社会性は極めて強いからである。」
高原賢治「社会国家における財産権」有斐閣『日本国憲法体系』7巻249頁
この考え方からすると、遊休地は、大きな財産であって、より社会性が強いから、相当補償で足りるということになるはずである。
3 生存財産・独占財産説
では、今日の通説というべき生存財産説は、どのように考えるか。
この点に関しては、必ずしも論者の意見は一致していない。興味深い議論を展開しているのが、長谷部恭男である。彼は、そもそも財産権は権利の束だと説く。
「補償に関する基準が定まらない限り、そもそも財産権を制限する法を定立すべきか否かも判断しえない。『権利の束』としての財産権を構成する諸法規は、それ自体、公共の利益に基づいて定められるものである。もし、ある法規の定立の結果、補償が必要だとすると、その補償を行っても余りあるほどの公共の利益がその制限からもたらされるかを、立法者は勘案する必要が生ずる。」(長谷部・前掲書249頁)
この考え方からすると、立法者が補償の範囲を決定することも可能と思われる。
浦部法穂は、制度的保障説そのものを採用しないが、学説の内容としては、ここにいう生存財産と独占財産に2分する説を採用しているので、彼の説をここで見ることも、意味のあることであろう。
「直接公共の用に供する公共事業などのための財産権の収用・使用の場合には、いわゆる完全な補償を要すると解すべきである。たとえば、道路等の用地としてたまたま特定の者の土地が収用されたとき、その土地の客観的価値よりも低い補償でよいとする合理的根拠は、なにもないはずだからである。この点、最高裁の判例も、土地収用法における補償につき『完全な補償、すなわち、収用の前後を通じて被収用者の財産価値を等しくならしめるような補償をなすべきであり、金銭をもって補償する場合には、被収用者が近傍において被収用地と同等の代替地等を取得することをうるに足りる金額の補償を要する』としている(最判1973.10.18民集27巻9号1210頁)。
つぎに、政策的制約(積極目的の制限)で特定の者の財産権を奪うような強度の制限が加えられる場合には、必ずしも完全な補償を要すると考える要はなく、いわゆる相当な補償で足りるものと解される。憲法が、社会権の実現のための政策を積極的に行うべきものとし、そのために財産権が制限されるのは当然であるとの立場に立つものである以上、この場合に完全な補償を要するとしたのでは、その政策目的の実現(社会権の実現)が困難になることも考えられ、憲法の趣旨に反する結果となるからである。つまり、この場合には、社会権の実現ないし経済的・社会的弱者の保護という政策の実現を妨げることのない程度の相当な補償で足りる、ということである。なお、内在的制約(消極目的の制限)の場合には、前に述べたように、基本的に補償を要しないものと解される。」(憲法学教室〈全訂第2版〉218頁より引用)
この見解にたった場合にも、本問の場合には相当補償で足りるという結論になろう。
4 私見
私自身は、完全補償とか相当補償ということを論じること自体に、余り意味がない、と考えている。先に述べたとおり、補償の意味が平等原理のこの問題に対する投影であると考える場合、どの範囲の補償を行うのが社会的に見て妥当か、という観点から補償額は決定されなければならない。
例えば、典型的な損失補償事例であるダムの建設を考えてみよう。農地を売ろうとしても買い手がないままに、住人だけが流出していった過疎の村がダムで水没する場合を考えてみよう。この場合に、土地の市場価格は、取引実例もない状態であるから、ゼロである。しかし、だからといって補償額を要しないとするのは、明らかに平等原理に照らし妥当ではない。国として水没させる以上は、そこに住む人々が他の場所で生活を再建できるだけの補償を行う必要がある。そこで、現実には、それと同じだけの生活財を取得するための、いわゆる再取得価格が補償される。しかし、ダムの水没による補償を当て込んで、他から移り住んできた人々に対する補償を同じ基準で行う必要はない。せいぜい、彼等がそこに移り住むために現実に支出した学を補償すれば十分なはずである。
このように、正当補償とは完全補償のことであり、完全補償というのは市場価格を補償することである、とする立論は、あらゆる場合に妥当する基準とは言い難いのである。
平成14年土地収用法判決も、時点の問題を度外視すれば、それが市場価格を完全に補償するものであることは、明らかである。そこからは、同判決が述べているとおり、社会的合理性から、どの時点の市場価格を補償すればもっとも平等原理を充足したものとなっているかを考え、結論を下すべきである。
あるいは、米国政府によるGMの株式の買収ということを考えてみよう。その買収価格は、もちろん、GMが破綻し、破産法で再建するという条件の下での価額である。破綻する以前の市場価格を以て補償しなければならない、と馬鹿な議論をする人はありえないと思う。
本問における市場価格より低い価格での収用という言葉の意味も、このように相対的な意味で理解しなければならない。すなわち、遊休地とは、当面現金化する必要のない資産を有する人が、将来の値上がりを見こんで保有している土地という意味である。その土地に対して、このような法律が制定されれば、当然その市場価格は暴落するはずである。したがって、法規制後の市場価格を基準とすれば、土地所有者は立派に完全補償されていることになる、ともいえる。すなわち、立法の自由を肯定した場合、ここでの補償額は、単にその基準時点を何時に設定するか、という問題であるに過ぎない。その意味で、平成14年土地収用判決と基本的に同質の問題なのである。
公共用地の取得の困難な大都市において、生活財を収用して公園等を建設しようとする場合に比べ、独占財を収用して行うのは、はるかに社会的平等に適っており、その場合に、社会公共の負担をできるだけ軽減するべく、補償の基準時点を考慮するのは、立法裁量権の範囲に属すると言えるのである。