非嫡出子相続分と平等原則

甲斐素直

問題

 A男は、B女と法律婚をして子供Xができたが、BはことごとくAを軽んじて取り扱った。母の行動を見て育ったXもまたAを軽んじ、Bもそれを是認した。そのためこの冷たい家庭に、遂にいたたまれなくなったAは、すべての財産を放棄して、ひとり家を出て、遠隔地に移り住んだ。その地で、Aは、別の女性Cと内縁関係をもつに至り、Yが出生した。Yは、その後50年以上に渡ってAと共に暮らして孝養を尽くし、扶養義務を全うした。A所有の会社の経営も、YAと共同であたってきた。したがって、遺産もその共同生活体の営みの中で形成されてきたものである。

 Aが死亡すると、50年以上も前からAとは事実上縁を断ち、遠隔の地でBAより先に死亡)とのみ生活をしてきたXが、遺産分割に当たり、Yの二倍の相続分を有すると主張して、訴訟となった。これに対し、Yは民法900条4号は憲法14条の平等原則に反し違憲であって、それを根拠としたXの主張は認められないと主張した。

 以上の事案における憲法上の問題を論ぜよ。

[問題の所在]

 本問が、平等権に関する問題であることは、誰も判っている。問題は、平等権について、何を論じるべきか、ということになる。それがあまりに基礎的すぎる問題であるために、諸君には何をどう論じて良いか判らないらしく、神のお告げか、第2次大戦中の大本営発表よろしく、論理的裏付けをまったく述べることなく、いきなり結論はこうだ、式の論文ばかりが今回は出てきた。

 それでは困るので、基礎的部分をできるだけ易しく説明する努力を、今回はしてみることにした。

一 平等権とは何か

 平等権に関して、諸君が最初に論じなければならないのは、平等権とは、人権なのか、ということである。何を馬鹿な、人権に決まっているじゃないか、と諸君は思うだろうが、実は、今日の通説判例は、平等権は人権ではない、と考えており、人権だとするのは少数異説である。

 なぜなら、人権なら、他者との比較無しに権利の侵害を考えることができるからである。例えば、私が学問の自由を侵害された、という事件が起きたとしよう。その場合、私の人権が侵害されたかどうかを判断するために、他の教員の学問の自由が侵害されているかどうかを検討する必要はない。その様に、人権という概念には常に絶対性が伴っており、それが表現の自由、営業の自由、プライバシーの権利など、どのような種類のものであれ、その人権の被侵害者だけを検討すれば、人権侵害があったかどうかを判断可能である。

 ここまで説明すると、なるほど、平等権は人権ではなさそうだ、ということが判ると思う。他の人と比較しないと、それが侵害されたかどうかは判らないからである。

 では、平等権とは何なのだろうか。実は問題文の中に答えが書いてある。平等原則だ、と考えるのが、今日の通説・判例なのである。

 ところで、平等原則とは何だろうか。

 この説明のためには、諸君に、法学の講義を思い出して貰う必要がある。法学では、法の目的は正義だ、と習ったはずである。その法的正義は、第一の段階では遵法的正義、すなわち法に従うことが正義だ、という形で述べられる。しかし、第二の段階で、議論は公法と私法に分かれる。公法における正義を配分的正義、私法における正義を交換的正義といい、第一段階で述べていた法とは、実は、こうした正義に適った法だけを言う、とされる。憲法は公法に属するから、憲法を支配している正義は、配分的正義ということになる。

 配分的正義は次の法諺で示される。

「等しきものは等しく、等しからざるものは等しからざるように扱え」

 これを読めば、これは平等権のことを述べているな、と気がつくと思う。その通り、平等権とは、実は、公法すべてを支配する配分的正義の概念がむき出しに現れているだけなのである。

 諸君は、憲法13条の幸福追求権を包括的基本権、すなわちあらゆる人権を包括する概念だと言うことを知っている。14条は、さらにその上にいって、人々の意識が、まだそれを人権というレベルに達していない場合に、それを配分的正義の原則に従って解決するための規定だ、と理解することができる。だから、何かの人権が成立する場合には平等権を論じる必要はない。例えば、先に私の学問の自由が侵害された、という例を挙げた。その場合、他の教授の自由が侵害されていない場合には、その教授との比較において、私は平等権を侵害されたということができるはずである。このようなことは、すべての人権についていうことができる。それが平等権の性質だからだ。したがって、平等権侵害は、そういう場合には議論する必要がないのである。

 今、ここでは、諸君に直感的に理解して貰うために、平等権は相対的権利だから、人権ではない、という説明の仕方をした。しかし、もちろんこれは憲法論的には間違った議論の仕方である。法学で法段階説を習ったから判っていると思うが、法律学において、理由は常に上の段階から来る。

 だから、平等権の場合にも、まず、その本質は平等原則に他ならない、と論じ、その論理的帰結として、したがって相対的平等と解するべきだ、と論じる。すなわち、平等権は、常に他者との比較においてのみ成り立つものであり、したがって実体的な権利性を持たない。そこで、平等権はそれ自体としては無内容(あるいは無定型)であり、単一の権利概念としては成り立たないから、憲法14条は端的に平等原則を定めたものと解しておけば足りると考えるのである。権利ではなく、関わり合いのある権利・利益に対する規制の不合理さをいっているに過ぎないからこそ、他者との比較で不合理である(相対的平等)、という主張が可能になる。

二 合理的差別

 平等権が人権であれば、それに該当するものは人権侵害である。しかし、上記のように平等原則と考えた場合には、平等原則違反となる許されない差別と、平等原則には抵触しない許される差別の二種類を考えることができる。なぜなら、配分的正義の法諺は、「等しからざるものは等しからざるように扱え」ということも要求しているからである。この許される差別のことを、わが国では一般に合理的差別と呼んでいる。

 ここで問題になるのが、合理的かどうかはどこで区別するのか、ということである。これは決して簡単なことではない。そのことは、国連が、平等権の侵害類型ごとに、人種差別撤廃条約、女性差別撤廃条約、児童の権利条約、障害者権利条約など、さまざまな条約を制定し、それぞれの主体ごとに、どこまでが合理的で、どこからは許されない差別化を明確にする努力を重ねてきていることでも判る。

 本問の場合にも、児童の権利条約に関連して、生まれた子供を、嫡出子、非嫡出子と読んで区別することは、不合理な差別だ、と国連からわが国は名指しで非難されている。すなわち、児童の権利条約21項は、次のように定める。

「 締約国は、その管轄の下にある児童に対し、児童又はその父母若しくは法定保護者の人種、皮膚の色、性、言語、宗教、政治的意見その他の意見、国民的、種族的若しくは社会的出身、財産、心身障害、出生又は他の地位にかかわらず、いかなる差別もなしにこの条約に定める権利を尊重し、及び確保する。」

 この条約の、批准各国の履行状況を監視する権限を有する、国連児童の権利委員会より、わが国は、2004226日に、本条約に関して、次のような勧告を受けている。

「委員会は、締約国が、婚外子に対するあらゆる差別、特に相続や市民権、出生登録における差別や『非嫡出』なる差別用語を法律及び規制から撤廃するために法律を改正するよう勧告する。」(児童の権利委員会最終見解26より引用)

 文中、締約国というのは、日本のことである。現在のグローバル化した世界において、このような国辱的な非難を浴びる条項は速やかに解消しなければならない。だから、これは基本的に不合理な差別だと考えて良い。

三 平等権に関する審査基準

 前回の問題と違い、本問は、はっきりと裁判事件である。裁判事件の問題の場合には、司法審査基準が必ず論点となる。

 平等権に関しては、14条後段列挙事由に特別の意味があるか、単なる例示かという深刻な説の対立がある。このあたりからはもはや易しく説明する、ということは不可能になる。それでもできるだけ努力してみよう。

(一) 単純例示説

 通説・判例は、14条後段列挙事由は単純な例示だと考える。すなわち、 最高裁判所は、昭和39年という古い判決で、次のように、後段列挙事項は単なる例示であると述べた。

「右各法条は、国民に対し、法の下の平等を保障したものであり、右各法条に列挙された事由は例示的なものであつて、必ずしもそれに限るものではないと解するのが相当である」(最高裁39527日大法廷判決・民集184676頁)

 その審査基準であるが、最高裁判所は一貫して狭義の合理性基準を採用している。例えば、非嫡出子相続分合憲判決は、次のように述べている。

「本件規定における嫡出子と非嫡出子の法定相続分の区別は、その立法理由に合理的な根拠があり、かつ、その区別が右立法理由との関連で著しく不合理なものでなく、いまだ立法府に与えられた合理的な裁量判断の限界を超えていないと認められる限り、合理的理由のない差別とはいえず、これを憲法141項に反するものということはできないというべきである。」

 すなわち、狭義の合理性基準で判断しているのである。これに対し、通説及びそれに従う近時の下級審判決は、次の三分説を採用している。

@ 精神的自由権に関連した差別には、厳格な審査基準を適用する。

A その他一般的な差別の合理性が問題になる場合には、厳格な合理性基準を適用する。

B 一般的な差別の中でも、経済的自由の分野における差別については、狭義の合理性基準を適用する。

 例えば、非嫡出子相続分に関する東京高裁平成61130日判決(判例時報15123頁)は次のように述べている。

「社会的身分を理由とする差別的取扱いは、個人の意思や努力によつてはいかんともしがたい性質のものであり、個人の尊厳と人格価値の平等の原理を至上のものとした憲法の精神(憲法13条、242項)にかんがみると、当該規定の合理性の有無の審査に当たつては、立法の目的(右規定所定の差別的な取扱いの目的)が重要なものであること、及びその目的と規制手段との間に事実上の実質的関連性があることの二点が論証されなければならないと解される。」

 非嫡出子は精神的自由とも、経済的自由とも関係がないから、中間審査基準ということで、同じ事件の最高裁判決と鮮やかな対比を示しているのである。

 すなわち、諸君としては、この通説的理解にしたがって、単純な例示であるとすれば、この判決のように、厳格な合理性基準というところまで、比較的単純に導けるであろう。教科書を余り読み込んでいない諸君に対しては、この議論の仕方を勧める。

(二) 14条後段列挙事由特別意味説

 国家試験に使用可能なレベルの教科書に限定すると、しかし、状況が一変する。14条後段列挙事由には特別の意味がある、とする学説がむしろ普通になっているのである。今回、提出された答案でも、この立場によるものがあった。そこで、その学説の状況を概観してみよう。

 この説のやっかいなところは、特別意味説における通説的見解というものがなく、学者ごとに、その根拠ばかりでなく、効果に関する説明までもがかなり違う点である。いくつか紹介してみよう。

 その最初の主張者である伊藤正己判事は次のように言う。

「そこに列挙された事由による差別は、民主制の下では通常は許されないものと考えられるから、その差別は合理的根拠を欠くものと推定される。したがって、それが合憲であるためにはいっそう厳しい判断基準に合致しなければならず、また合憲であると主張する側が合理的な差別であることを論証する責任を負う。これに反して、それ以外の事由による差別は前段の一般原則に関して問題となるが、ここでは代表民主制の下での法律の合憲性の推定が働き、差別もまた合理性を持つものと推定される。したがって、合憲であるための基準も厳格でなく、また違憲を主張する側が合理性の欠如を論証しなければならない。」(伊藤『憲法』第3249頁)

 この主張は、特別の意味の根拠を民主制に求めている。これに賛同する説もある(例えば芦部信喜『憲法』第4127頁)。確かに思想や信条に関しては民主的な要素が強いとはいえる。しかし、平等原則は、自由や民主と並ぶ基本原則であって、民主制的な当否が平等原則違反か否かを一般的に決定するとは考えられない。そこで、より平等権に密着した理由が求める学者が現れる。例えば、浦部法穂は次のように主張する。

「先天的に決定される条件や思想・信条に基づく異なった取り扱いは、どのような権利・利益についてであれ、原則として許されない。」(浦部『憲法学教室』全訂第2109頁)

 この説に対しては、松井茂記は「先天的な条件がすべて疑わしいものともいえないように思われる。またもし先天的な事情が疑わしいとしても、なぜ信条がその先天的なものと同一視されるのかも定かではない」と批判する。そこで、松井茂記自身は次のような理由を挙げる。

「これらの列挙事由は、歴史的にしか理解することは困難であろう。つまり、それらは過去において『市民』を市民でないものとして、あるいは二級市民としてしか扱わないためにしばしば用いられてきた徴表であったというべきであろう。これらの事由は、そのために社会に偏見を生み、代表者がこれらの少数者の利益を適切に代表することを拒否してしまうため、裁判所による厳格な審査が正当化されるのである。」(松井『日本国憲法』第3376頁)。

 この問題に関する学説を、これ以上紹介しても煩雑になるばかりなのでこの辺で打ち切るが、もう少し複雑な理論を唱える者もおり、理由に関する学説はかなり錯綜している状況にある。諸君としては、自分が頼りにしている基本書をしっかり読み込んで、それが展開している説を正確に理解し、必要に応じてしっかりと記述する準備を整えておいて欲しい。

 ここで大事なことは、その理由と、本問の論点である中心論点とが結びついていないと、わざわざ特別意味説を展開する必要が失われる、ということである。

 例えば戸波江二は、本文には単に「不合理な差別の典型を列挙した」(戸波江二『憲法』新版195頁)という程度に述べて、なぜこれが不合理なのかについての基準を挙げていない。その場合でも、そのあとで、「収入」という概念を例に挙げて、それに基づく納税における差別は合理的な差別で、デモ行進における差別は不合理な差別だ、と説明している。だから、戸波説をとる場合には、「不合理な差別の典型を列挙した」とだけ書いたのでは合格ラインには届かないのである。それぞれの事例問題においては、列挙事項のどれに抵触するのかを述べるとともに、なぜそれが不合理の典型なのか、という理由を事案に沿って挙げる必要があるのである。

 また、列挙事項のどれにはいるのか、ということも重要な論点である。諸君の答案では、社会的身分に入るとする人が一般に多いが、そのほか、門地や人種になると解することもできる。学説により、どれに入るかで、次に述べる審査基準が違うとするものもあるし、草でない場合にも、列挙事項に入るか否かで大きく結論が変わるという前提なのであるから、何故それに該当するかという理由も、しっかり説明してくれなければ、評価対象とはならない。

 こうした学説の多様性に対応して、採用されるべき審査基準に関しても、大変基準が錯綜している。一般的には次のような三分説を採用していると考えられる(例えば戸波江二前掲書195196頁参照)。

  @ 列挙事項に該当する場合=厳格な審査基準

  A 列挙事項以外の事由であって個人の人格に関係する場合=厳格な合理性基準

  B 列挙事項以外の事由であって個人の人格に関係しない場合=狭義の合理性基準

 これに対し、芦部信喜は次のような基準による三段階審査を主張する(以下の括弧内の数字は、芦部信喜『憲法学V 人権各論(1)』有斐閣1998年刊の頁数である)。

@ 人種や門地による差別=厳格な審査基準(27頁)

A 信条、性別、社会的身分等による差別=厳格な合理性基準(30頁)

B 経済的自由の領域に属するかそれに関連する社会・経済政策的な要素の強い規制立法について平等原則が争われる場合=狭義の合理性基準(29頁)

 この芦部基準を、本問に当てはめると、非嫡出子が門地に該当すると考えた場合と、社会的身分に該当すると考えた場合では審査基準が違うことが判る。このように、特別意味説を採った場合には、列挙事由のどの文言に、どういう理由から外とすると考えるのか、ということが、極めて重大な論点になる。

 これ以上、学者ごとの使い分けの基準を並べるとこれも煩雑になるばかりなので、この2例で打ち切るが、この2例だけを見ても、かなりのばらつきがあることが判ると思う。そして、ここでは説明の手を抜いているが、この3分類の基準は、それぞれ理由があって行われている。だから、諸君としては、この場合に適用される審査基準を単に述べるだけでは駄目で、平等権に関する審査基準体系全体を説明し、かつそれぞれの分類では、どういう基準をどういう根拠で使用するのかを、理由を挙げて説明しないと、合格点には届きにくいことは判ってもらえると思う。

 多くの諸君は、列挙事項に該当する、よって…という式に全く理由を示すことなく、審査基準を導く傾向を示すが、それでは合格答案と評価できないことは理解してもらえたであろうか。

 このあたりまでは、一直線の議論であり、問題になっているのが本問のような非嫡出子であれ、助成の待婚期間であれ、すべて同じものを書けばよい。つまり、本問で、書き方を確立しておくと、他のあらゆる平等権に関する問題で、楽勝で合格答案を書ける、ということになる。是非、どう書くかを時間をかけて悩んでほしい。

四 相続分に関する問題の所在

 民法9004号但書(以下「本条」という。)については、昭和21年の民法改正当時、すでに、「嫡出でない子の差別待遇こそが個人の尊厳と法の下の平等を規定する憲法の基調にも反する」と主張されており、改正案が成立するに際しては、その審議の経緯にかんがみ、衆議院において、「本法は、可及的速やかに、将来において更に改正する必要があることを認める。」旨の附帯決議がなされた。さらにその後、わが国は1974年に、国連人権規約を批准したが、そのB規約24条は児童の出生による差別を禁じており、本条は、それに直接抵触しないまでも、趣旨に反することは明白であるため、問題となった。

 そこで、法務省民事局では1979年に、本条は憲法14条の定める法の下の平等に反するとして、相続分差別を撤廃する民法改正要綱試案を発表した。しかし、世論調査では本条でよいとするもの47.8%に対して、改正案を是とするもの15.6%に止まり、それを受けた自民党を中心とする反対から、いまだ国会に対する政府提案は行われていない。これに対して、学説的には圧倒的に本条の妥当性を疑うものが多く、法務省民事局が設置した「家族法ホットライン」に寄せられた法律家の意見384通中371通までが改正案を支持しているという状況にある(法務省民事局参事室「婚姻制度等に関する民法改正要綱試案に対する意見の概要」ジュリスト107585頁参照)。その結果、本条を「最後の野蛮」(山川一陽「新しい家族」15号、19897月)と罵倒する者まで現れるに至った。

 こうした状況の中で、東京高裁で、平成3年以降にこの問題を取りあげた判決が3件も下されたとから、にわかに社会的関心が高まった。すなわち、平成3329日判決(最高裁判所民事判例集4971822頁)は本条を合憲としたのに対して、平成5623日判決(判例時報146555頁)、同61130日(判例時報15123頁)では、いずれも違憲とする判決を下した。その結果、最高裁判所では平成3年の事件について大法廷に掛けることになった。平成775日に下された最高裁判決(裁判所時報11501頁)では、105で合憲判決になったが、10名の判事が補足意見(5名)及び反対意見(5名)に名を連ねている点に端的に示しているとおり、最高裁でも激しい論争を呼んだ。

 この問題は、民法と憲法のそれぞれに対する力点の置き方で、結論が逆転しうるという面白い問題である。すなわち、結論を合憲に導きたい場合には民法に、違憲に導きたい場合には憲法に、それぞれ力点を置いた答案構成を行うのが妥当であろう。諸君は、ややもすると最高裁判決を支持するのが合格答案の早道にように思う傾向があるが、本問は、憲法の問題として出題されているから、普通に書けば違憲論になる方が自然である。前半は憲法の理論にしたがって展開しながら、後半、突如として最高裁判決を写して、合憲論を展開したり、そこまで行かなくとも最高裁判所の認定した立法理由を丸写しにするような論文を書いたりするのは、論文としての自殺行為以外の何者でもない。理論的一貫性こそが、論文の命であることを忘れないようにしよう。

五 民法の観点から

 諸君も知るとおり、わが憲法の基本原則は個人主義である。これを私法分野で表現すれば私的自治の原則となり、意思主義となる。民法典の財産法部分は、旧憲法時代から意思主義に基づいて制定されていたから、妻の無能力のような一部規定を除き、現行憲法下でもそのまま有効とされた。これに対して、家族法部分は、旧憲法時代には「家」という概念を中心に構成されていたため、現行憲法制定と同時に、意思主義に基づいて全面改正されることになった。現行相続法の場合にもこの意思主義の原則が貫かれる結果、わが民法は遺言をもって原則とし、遺言がない場合に補充的に法定相続分という制度を定めた。これが本問で問題となっている900条の基本的な立法趣旨である。審査基準論の表現でいえば、立法目的は補充性、ということである。

 すなわち、法定相続制度は、遺言が存在しなかった場合における補充規定であるから、その相続割合の決定に合理性があるか否かは、社会一般の平均的な死者が、遺言を書いていればどのようなものとなるのが普通か、という意思の推定に求められる。先に述べたとおり、本条に関しては、東京高裁レベルで合憲1、違憲2と判断が分かれたが、実はそれらの事件においては、被相続人の意思の推定、という点において、まさに相対立するものであったことを軽視してはならない。

 判例に現れた事件は、いずれもかなり複雑な事案であるが、法定相続分に影響する限りに簡略化して説明すれば、次のとおりとなる。

 最高裁が合憲判決を下した事件は、静岡地裁熱海支部、東京高裁と下級審も一致して合憲判決を下したものである。この事件では、被相続人は一人娘で、家にふさわしい婿を得るべく、足入れ婚(判決では「試婚」と呼んでいる。)を4回も繰り返し、4回目の婿でようやく合格と認められて、正式に婚姻するに至った。わが国古来の風習に依れば、足入れ婚で産まれた子は、たとえその両親が後に正式に婚姻するに至った場合にも、正式の相続人とは認められない。まして、両親が正式婚姻にいたらずに別れた場合には、日陰の子として扱われるのが通例である。本件事件の場合、原告=上告人は、この足入れ婚で産まれた子であるから、このように足入れ婚を激しく繰り返し、生前において原告=上告人を常に差別して扱っていた被相続人の意思を推定すれば、相続にあたっても、正式婚の子と差別して扱うという意思であったと考えるのが合理的な事件であった。

 これに対して、平成5年東京高裁判決の事件では、被相続人である女性(母)は、当初法律婚をして一女(姉)を出産したが離婚し、その後、別の男性と事実婚をしてやはり一女(妹)を出産したが、その後やはり離婚している。そして長いこと母と姉妹が共に暮らしていた。その母が死んだ場合の相続で、妹が姉の相続分の半分とされたのが問題となったものである。この場合、母に、姉と妹を積極的に差別しようとする意思があったとは考えにくく、その場合に本条を機械的に適用することは、不合理なものといわざるを得ない。そこで、同判決は、9004号但書を違憲としたのである。

 本問を作問するに当たりベースとしたのは、平成6年東京高裁判決の事件であるが、この事件では、支社の意思の推定という観点から見た場合、本条の不合理性はきわめて明白であった。被相続人である男性(父)は、ある女性と法律婚をして子供もできたが、その後別居し、別の女性と内縁関係をもつに至った。そして、その内縁の妻及び非嫡出子と50年以上にわたり家族として暮らし、その所有する会社の経営も非嫡出子と共同であたってきた。したがって、遺産もその共同生活体の営みの中で形成されてきたものである。そして非嫡出子及びその妻は被相続人が死ぬまで共に暮らしてこれ孝養を尽くし、扶養義務を全うした。それにもかかわらず、被相続人が死亡すると、50年以上も前から被相続人と事実上縁を断ち、遠隔の地で被相続人の法律上の妻(被相続人より先に死亡)とのみ生活をしてきた嫡出子が、非嫡出子の二倍の相続分を有すると主張して争った事件である。

 要するに、東京高裁が合憲判決を出した事例は、非相続人の意思を推定すれば、非嫡出子を差別することが合理的な事件であり、東京高裁が違憲判決を出した判決は、差別が不合理な事件だったのである。そして、最高裁大法廷に係属したのは、最初の差別が合理的な事例であった。すなわち、上記のうち試婚による非嫡出子の事例であったから、補充性を重視する限り、合憲という判断を下す方が妥当なものであったといえるのである。

 最高裁判所は、基本的に、立法裁量論からアプローチした。すなわち、

「相続制度は、被相続人の財産を誰に、どのように承継させるかを定めるものであるがその形態には歴史的、社会的にみて種々のものがあり、また、相続制度を定めるに当たっては、それぞれの国の伝統、社会事情、国民感情なども考慮されなければならず、各国の相続制度は、多かれ少なかれ、これらの事情、要素を反映している。さらに、現在の相続制度は、家族というものをどのように考えるかということと密接に関係しているのであって、その国における婚姻ないし親子関係に対する規律等を離れてこれを定めることはできない。これらを総合的に考慮した上で、相続制度をどのように定めるかは、立法府の合理的な裁量判断にゆだねられているものというほかない。」

 このように、家族制に関する専門技術的要素を根拠として、広い立法裁量という結論を導いていることがわかると思う。広い立法裁量ということになれば、普通は狭義の合理性基準につながることになる。

 最高裁判所は、さらに民法規定の補充性を強調することにより、この広い立法裁量から、狭義の合理性基準への展開を補強している。

「本件規定を含む法定相続分の定めは、右相続分に従って相続が行われるべきことを定めたものではなく、遺言による相続分の指定等がない場合などにおいて補充的に機能する規定であることをも考慮すれば、本件規定における嫡出子と非嫡出子の法定相続分の区別は、その立法理由に合理的な根拠があり、かつ、その区別が右立法理由との関連で著しく不合理なものでなく、いまだ立法府に与えられた合理的な裁量判断の限界を超えていないと認められる限り、合理的理由のない差別とはいえず、これを憲法141項に反するものということはできないというべきである。」

 5行目に出てくる「著しく不合理」なものではない、という認定に、狭義の合理性基準を採用していることが現れていることがわかると思う。厳密に言うと、最高裁判所は、狭義の合理性基準を少し改訂して、

 @ 立法理由に合理的な根拠があること、

 A その区別が立法理由との関連で著しく不合理なものでないこと、

の二つの要件が必要と論じている。これは、単純な狭義の合理性基準に比べると@の要件が加わっている分だけ、少し厳しいが、基本的には狭義の合理性基準そのものと考えて良い。これは、別に本事件で新たに登場したものではなく、従来から平等権に関して最高裁判所の採用している基本的なスタンスである。尊属殺判決でも、まず尊属殺を通常殺に比べて加重する事が、立法理由には合理性があることを論じた後、次のように述べている。

「加重の程度が極端であつて、前示のごとき立法目的達成の手段として甚だしく均衡を失し、これを正当化しうべき根拠を見出しえないときは、その差別は著しく不合理なものといわなければならず、かかる規定は憲法141項に違反して無効であるとしなければならない。」(最高裁昭和4844日判決より引用)

付論:最高裁判決の論理について

 以下に述べるのは、主として民法に関する議論であり、憲法の説明ではないので、付論として述べるにとどめた。

 上には、最高裁判所が判決に述べる審査基準に絞って紹介した。ところで、@の立法目的の合理性に関しては、24条との関係では、最高裁判所は次のように述べている。

「本件規定の立法理由は、法律上の配偶者との間に出生した嫡出子の立場を尊重するとともに、他方、被相続人の子である非嫡出子の立場にも配慮して、非嫡出子に嫡出子の二分の一の法定相続分を認めることにより、非嫡出子を保護しようとしたものであり、法律婚の尊重と非嫡出子の保護の調整を図ったものと解される。これを言い換えれば、民法が法律婚主義を採用している以上、法定相続分は婚姻関係にある配偶者とその子を優遇してこれを定めるが、他方、非嫡出子にも一定の法定相続分を認めてその保護を図ったものであると解される。」

 そこで、諸君の論文でも、これをそのまま受けて記述している例が目立つ。しかし、これは、民法900条が補充性をもつという主張と同時に展開する立法理由としては、とうてい正しいものとは認められない。補充性からする限り、900条の立法趣旨は非相続人の意思の推定に尽きるからである。

 ただ、法定相続分の中には、補充性とは別の、国の政策的要素が含まれていることは確かである。その部分だけが具体的に現れてくるのが、遺言の限界として存在する遺留分制度である(民法1028条以下)。こうした政策的配慮として、どのようなものがあるかについて、民法学の泰斗、中川善之助は、相続の意義という形で、次の三点を指摘する。

「第一は、遺産の中に含まれているが、元々相続人に属していた潜在的持ち分ともいうべき財産部分の払い戻しであり、第二は、有限家族的共同生活が、その構成員に与えるべき生活保障の実践であり、そして第三は、一般取引社会の要請する権利安定の確保である。」(中川『相続法』法律学全集24、有斐閣昭和39年刊、7頁)

 第一点は、通常相続人と被相続人とは、非相続人の生前において共同生活を営んでいることから、両者の財産が非相続人名義のもとに存在している可能性が高く、それを相続の名の下で財産分離をする、という性格を有するということである(同様の性格の問題は、相続人にはならない者が非相続人と共同生活を営んでいた場合にも起こり、それを解決するためにあるのが寄与分(民法904条の2)である)。

 第二点は、遺族の生活保障である。非相続人が死亡することにより、その財産に依存して生活していた遺族がそのすべての財産を失うときは、生活の安定が害され、甚だしい場合には生活保護の対象となってしまうことも考えられる。そのような事態を生じさせることは、国家としての観点から見て不都合である。

 第三点は、一般取引社会は、非相続人の死亡により、すべての取引関係が消滅することを予期していることは通常はなく、むしろその場合には、相続人が非相続人の権利・義務を無限に承継して、引き続き取引を継続することを期待しているはずである。この期待という形の動的安全の保護も、相続法の重要な使命である。債務の承継という点に関して言えば、被相続人と相続人の間に、事前の一体的生活関係を要請しないと言える。しかし、例えば本問で問題となった会社経営というような業務の継続性ということになると、やはり一体的生活関係の存在が要件となって来るであろう。

 しかし、こうした議論のどこからも、最高裁判所が言う、法律婚主義の尊重とか、非嫡出子の保護と法律婚主義の調整などは現れてこない。むしろ、上述した相続の意義は、法律婚の場合だけでなく、事実婚の場合にも現れてくることは明らかである。すなわち、そこで問題となるのは、非相続人と相続人との間に、一体的な生活関係が存在していたか否かであって、嫡出子か否かは問題とはならないはずである。

 これに対して、遺留分制度の場合には、意思主義を排除したローマ法的な家族主義が濃厚に現れており、そこでは、最高裁判所の言う法律婚主義の尊重も一定の妥当性を有する。しかし、繰り返すが、ここで問題になっているのは、法定相続分制度であって、遺留分制度ではない。

 冒頭にも述べたとおり、現行相続法の立法段階において既に非嫡出子の差別は問題視されていた。そこから見れば、最高裁判所判決の議論が、民法レベルで見ても、どこから導かれたのか、きわめて疑問のあるところである。それにも拘わらず、最高裁判所は、立法趣旨がこのようなものだ、と断定した根拠を書いていない。したがって、諸君として最高裁のこの立法根拠が正しいものだと考える場合には、その理由を書くことは諸君の責務である。何時も強調するとおり、論文は理由が命である。理由を書かない限り、減点は必至となることは覚悟していなければならない。

六 憲法からのアプローチ

 ここまで説明をすると、憲法論のレベルで違憲論を正しく導くためには、上記民法の補充性と合理性基準論の二つの部分で、きちんと最高裁判所の論理を覆しておく必要がある事が判るであろう。

(一) このうち、前者は容易である。現実問題として、わが国における遺言制度の普及はきわめて低い状態にあり、法定相続が原則であるから、これを補充規定と断ずるのは観念論といわざるを得ない。相続のほとんどが法定相続に依っているという社会の現実を重視すれば、補充性を根拠として、広い立法裁量を肯定する余地はない。法定相続がわが国の相続における原則であることを考えると、その根拠を、非相続人の意思の推定に代えて、あるべき憲法秩序の実現と考えねばならない。相続というものを社会国家という観点から見た場合に、どのように位置づけるべきか、という問題である。

 立法目的について言えば、非相続人の遺志の補充性ということは問題にはならないから、それをさらに補完する立法目的としたものが中心的位置づけと考えなければならないはずである。これらのいずれについても、そうした事実関係の有無は、被相続人が嫡出子か非嫡出子かで決まるのではなく、そうした生活実態の有無がポイントとなるはずである。

(二) 後者については、議論は少し複雑になる。本問に関する憲法論からのアプローチは、幾通りかあるからである。

 第一に、最高裁判所判例に見られるように、立法裁量論からするアプローチがある。それを受けて、最高裁判所のいう法律婚主義の尊重という議論を始めれば、再び、広い立法裁量を許容する余地も現れる。但し、憲法レベルにおいて、法律婚主義の尊重が要請されているか、といえば、疑問である。

 最高裁判所の議論は、24条が法律婚主義だけを許容していると読んで、初めて成り立つ。しかし、同条をそう読むことは困難である。同条は「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立」すると述べており、両性の合意に加えて、市町村役場における届出までが存在して、初めて成立するとは述べていないからである。「婚姻」は法律婚を意味する、というのは、民法という下位法の用語法により憲法の文言を制限的に読むことで、妥当ではない。したがって、むしろ事実婚を明確に保護の対象としていると読むことができる。法律婚主義は、242項の定める制度的保障によって国会に与えられる立法裁量権を尊重して、初めて現れてくるのである。現実にもわが国法制は、様々な場合に、内縁関係に対して様々な法律上の保護を与えている。例えば、健康保険法は、「被扶養者」の一環として「配偶者」という言葉を「届出をしていないが、事実上婚姻関係と同様の事情にある者を含む」と定義している。仮に、法律婚だけが憲法24条の保障対象と読む場合には、これらの法制はすべて違憲になる、という意識を持っていて欲しい。

 これに対して、先に述べた相続制度が実質的に原則であり、それが憲法秩序の実現を定めたものでなければならないという意義を重視すれば、狭い立法裁量を導くことになり、それに対応する厳格な合理性基準を展開することになるはずである。

 第二に、立法裁量論を経由することなく、直接14条から議論を展開する方法があり得る。これが標準的な方法と考えられるので、次に詳しく説明したい。

七 14条からのアプローチ

(一) 非嫡出子の相続分差別と14

 14条後段列挙事項特別意味説に立つ場合には、個々の列挙事項の意味がきわめて重大になる。嫡出子は生まれによる差別である。例えば、芦部説の場合、この生まれによる差別を、門地という言葉で理解する場合には厳格な審査基準の対象となる。それに対して、社会的身分という言葉で理解する場合には厳格な合理性基準の対象となる。

 なお、判例は、社会的身分について「人が社会において占めている継続的な地位」と理解する(昭和39527日大法廷判決)。東京高裁平成6年判決は、これに基づいて「嫡出子か嫡出子でないかは、本人の父母が法律上の婚姻関係にあるかどうか、すなわち、本人を懐胎した母が妻たる身分を取得した後に出生したか否かによって決定される事柄であるから、子の立場からみれば、正に出生によって決定される一種の地位又は身分」という。14条の列挙を例示と解する立場からは、その程度の理解で十分といえるだろう。

 これに対して、14条後段列挙事項特別意味説を採り、かつ例えば戸波江二説のように社会的身分に該当する場合には厳格な審査基準を採用する、という場合には、何が社会的身分か、という点について、厳格な審査基準が妥当するという説得力を持つだけの、もう少し厳密な解釈を施す必要が生じてくるであろう。

 また、先に述べたとおり、非嫡出子は社会的少数者である。この点を重視すれば、芦部説でも、非嫡出子差別は、社会的少数者に対する差別となって、やはり厳格な審査基準が妥当することになる。あるいは、門地という言葉を、生まれによる差別と読む場合には、厳格な審査基準という答えが出てくる。先に述べた、列挙事項の各概念をどのように定義するかの重要性はここに出てくるのである。

 厳格な審査基準を採る場合には、目的の正当性と、目的と手段の関係における「やむにやまれぬ利益」に関する議論を諸君は展開しなければならない。それは、具体的には後述の厳格な合理性基準の場合の議論と、本件では共通するところが多いと思われるので、それを参照してもらうことにして、ここではその詳細については省略する。

 これに対して、通説的理解に依れば、これは精神的自由権の問題ではないから、その他の一般的差別と理解され、厳格な合理性基準が妥当することになる。

(二) 厳格な合理性基準における事実認定

 以下においては、この厳格な合理性基準を明確に採用した東京高裁平成5年違憲判決に沿って、事実認定の仕方について説明する。上述の14条後段列挙事項特別意味説の適用の結果、厳格な合理性基準を採用するという結論になった場合には、以下の説明に単純にしたがって考えてくれればよい。厳格な審査基準をとるという結論になった場合には、以下の説明に、「やむにやまれぬ公共的利益」という要素を加えて考えてくれればよい。

 東京高裁は、まず厳格な合理性基準を採用することを、次のような表現で述べる。

「社会的身分を理由とする差別的取扱いは、個人の意思や努力によつてはいかんともしがたい性質のものであり、個人の尊厳と人格価値の平等の原理を至上のものとした憲法の精神(憲法13条、242項)にかんがみると、当該規定の合理性の有無の審査に当たつては、立法の目的(右規定所定の差別的な取扱いの目的)が重要なものであること、及びその目的と規制手段との間に事実上の実質的関連性があることの二点が論証されなければならないと解される。」

 ここでは、明確に、先に紹介した厳格な合理性基準の内容がそのまま述べられていることで、何が審査基準として採用されているかを明確にしている。

  1 立法目的の重要性について

先に述べたとおり、本条の立法目的は、基本的には意思主義の補充に過ぎない。これに対して、最高裁は、原則的に法律婚主義を採ることから、非嫡出子が差別されることも正当化されると説いた。この点に関しては東京高裁は折衷的な見解を述べた。

「適法な婚姻に基づく家族関係を保護するという立法の目的それ自体は、憲法24条の趣旨に照らし、現今においてもなお、尊重されるべきであり、これが重要なものであることを肯定する。しかしながら、嫡出子と非嫡出子との相続分を同等としても、これにより配偶者の相続分はなんらの影響を受けるものではない」

から、これは理由にならないとする。法律婚主義は、配偶者の保護を目指したものである以上、それを理由にする非嫡出子の差別は合理性がないというべきであり、最高裁判所の論理は破綻していると言える。

  2 目的と規制手段との間の実質的関連性について

 本条の存在により、法律婚の子の利益を事実婚の子のそれよりも重視することになるので、結果的に法律婚家族の利益が一定限度で保護されていること自体は、否定しがたい。その意味では、右の規制と立法目的との間には、一応の相関関係があるといえる。これに対して、東京高裁は次の点を指摘する。第一に、

「右の規制があるからといつて、婚外子の出現を抑止することはほとんど期待できない上、非嫡出子から見れば、父母が適法な婚姻関係にあるかどうかはまつたく偶然のことに過ぎず、自己の意思や努力によつてはいかんともしがたい事由により不利益な取扱いを受ける結果となることが留意されるべきである。これは、たとえていえば、正に『親の因果が子に報い』式の仕打ちであり、人は自己の非行のみによつて罰又は不利益を受けるという近代法の基本原則にも背反していることが見逃されてはならない。」

 第二に、本条の規制は、一律に非嫡出子と嫡出子を差別しているから

「たとえば、母が法律婚により嫡出子を儲けて離婚した後、再婚し、子を儲けた場合に、再婚が事実上の婚姻にすぎなかったときは、母の相続に関しても嫡出子と非嫡出子とが差別される結果となり、同号但書前段が本来意図している法律婚家族の保護(その実質がいわゆる妾の子よりも妻の子を保護することにあることは前叙のとおりである)を越えてしまう結果を招来すること、このような場合には、いいかえれば、規制の範囲が立法の目的に対して広きにすぎることが指摘されなければならない。」

 ここで例示されているのが、本件の具体的事案そのものであることは先に紹介した。

 この結果、本条の規制は

「目的に対して広すぎるという意味で正確性に欠けるだけではなく、婚外子の出現を抑止することに関しほとんど無力であるという意味で、適法な婚姻に基づく家族関係の保護という立法目的を達成するうえで事実上の実質的関連性を有するといえるかどうかも、はなはだ疑わしいといわざるを得ないのである。」

 このように、厳格な合理性基準の要求する要件のいずれについても、国が挙証することが不可能である以上、本来の違憲推定が生きてきて、違憲判決が下されるのは、当然過ぎるほど当然といえるであろう。この東京高裁の認定にも若干の問題があることは、上述したとおりである。しかし、それなりに明確なものなので、これを参考に、自分なりの理由を工夫して欲しい。