浴場営業の自由と審査基準

甲斐素直

問題

 Xは、AB市で一般公衆浴場を新規開業するために、A県知事Yに対し、営業許可を申請をした。しかし、A県公衆浴場法施行条例4条の規定によれば、市部においては既設の一般公衆浴場からおおむね300m以上離れていることが要求されているところ、Aの施設は150mしか離れていないことを理由として、他の要件はすべて満たしているにも拘わらず、Yは当該営業許可申請に対し、不許可処分を下した。

 そこで、Xは、Yの不許可処分は、憲法の保障する営業の自由を侵害するものとして、処分取り消しを求めて訴えを提起した。

 本件における憲法上について論じなさい。

(参照条文)

公衆浴場法

第二条 業として公衆浴場を経営しようとする者は、都道府県知事の許可を受けなければならない。

都道府県知事は、公衆浴場の設置の場所若しくはその構造設備が、公衆衛生上不適当であると認めるとき又はその設置の場所が配置の適正を欠くと認めるときは、前項の許可を与えないことができる。但し、この場合においては、都道府県知事は、理由を附した書面をもつて、その旨を通知しなければならない。

前項の設置の場所の配置の基準については、都道府県が条例で、これを定める。

都道府県知事は、第二項の規定の趣旨にかんがみて必要があると認めるときは、第一項の許可に必要な条件を附することができる。

A県公衆浴場法施行条例

第四条 法第二条第三項の設置の場所の配置の基準は、一般公衆浴場の敷地が他の一般公衆浴場(その経営について法第二条第一項の許可がされているものに限る。以下「既設の一般公衆浴場」という。)の敷地から、市の区域にあってはおおむね三百メートル以上、その他の区域にあってはおおむね三百五十メートル以上離れていることとする。ただし、既設の一般公衆浴場との間が橋梁のない河川又は踏切のない鉄道等で遮断されている場合、既設の一般公衆浴場の周辺に公営住宅等がある場合その他の特別な事情がある場合であって、知事が衛生上支障がないと認めるときは、この限りでない。

[はじめに]

 当初、私は営業の自由についての説明をするつもりでいたが、諸君から出てきた論文を見ると、こうした問題に関する司法審査についての理解にかなり問題があるようである。そこで、営業の自由については簡単に説明するに止め、主として司法審査について説明することとした。

一 営業の自由の根拠規定

 営業とは、専ら商法が対象とする概念である。例えば日本評論社『新法学辞典』は次のような定義を与えている。

「利益を得る目的で同種の行為を継続的反復的になすことである。営利目的がある限り現実に利益を得たことは必要ではなく、また継続・反復の意思がある限り実際に反復することを要しない。しかし営利を目的とするすべての職業が営業となるわけではなく、医師・弁護士・画家などの職業は営利を目的としても一般に営業とは見られない。」

 憲法学においても、同様の理解と解して良いであろう。この営利追求性が定義自身の中に明確に含まれている点に、営業の自由を経済的自由の一環として把握できる根拠が存在しているので、本問で冒頭に定義を掲げるのは必須の要求と言うことができる。もちろん、こんなに長く書くことはない。せいぜい「営業とは利益を得る目的で同種の行為を継続的反復的になすことである。」程度で足り、これを受けて、Xの行為がこれに該当すると述べておけば十分であろう。

 諸君は―かなり勉強している人でも―ほとんど理由も示さないままに、営業の自由の根拠を憲法22条に求める傾向がある。しかし、最高裁判所が、共有林分割制限違憲判決において、営業の自由に属する事案を29条の問題として解決したことから、今日の学説の多数説は、2229条説であり(学者によっては「通説」と表現する)、22条説が少数説に転落していることは間違いない。したがって、22条説を敢えてとる場合には、ある程度しっかりした根拠がほしい。

 今日における22条説の代表と言うべき芦部信喜は「自己の選択した職業を遂行する自由、すなわち営業の自由」と表現し(芦部『憲法』第4210頁)、それ以上理由を述べない。このままだと、先に定義に述べたところに反し、医師・弁護士・画家などもその職業を遂行する自由を営業の自由と呼ばなければおかしいことになり、問題である。

 22条説の最大の問題は、営利法人の営業の自由である。営利法人は、始めから特定の営業を行うことを目的として、どのような営業を行うかはその定款に明記して設立される。したがって、職業選択の自由は法人に関しては考える余地がない。したがって、その職業遂行の自由を営業の自由と捉える場合には、法人に営業の自由はないことになる。少なくとも、法人における営業の自由は29条の財産権の行使と見る方が妥当であろう。

 また、共有林分割制限事件の場合、個人の山林経営の問題(これも営業の自由の一環である)について、上述したとおり最高裁判所は29条の問題として解決した。このことを重視するならば、個人の場合にも、それが財産権の行使方法というニュアンスが強い場合には、22条ではなく、29条で考えた方がよいことになる。

 しかし、もちろん、個人経営の商店における営業活動は、その商店主個人の職業遂行の自由として捉えることは当然可能であり、ここから22/29条説が通説化することになる。

 

司法権の自制説

 今日の憲法訴訟論の枠組みの中で司法審査を論じる場合、その中核に位置するのは自制説である。そこで、その点について、少し詳しく説明したい。

 今日の米国連邦最高裁判例は、形式的には違憲審査が可能な場合にも、裁判所としては、一旦はその行使を自制すべきだとするスタンスをとる。何故そういう考え方を示すのであろうか。以下、芦部信喜が『憲法訴訟の理論』(有斐閣昭和48年刊)で説くところにしたがって、簡単に説明したい(以下の文中「」内は、いずれも同書30頁以下からの引用)。

(一) 裁判所の非民主性

 芦部信喜が指摘する第一の点は、裁判所の非民主性である。

「裁判所は本来非民主的な機関であるから、国民の代表者(多数者)の意思を最大限に尊重し、法律の『賢明さ又は弊害』ではなく『立法者が当該法律を制定できる合理性があったかどうか』を探求すべきである、という理論的理由である」

 ここで指摘されている点は重要である。諸君は、違憲審査基準というと合理性基準を思い出すであろう。何故合理性が審査基準になるのか、ということに対する答えがこれである。すなわち、文字通りの司法消極主義を貫いている狭義の合理性基準はもとより、司法積極主義として説明される厳格な審査基準も、それが合理性基準である限りにおいて、基本的に自制説に立つ基準であるということを、ここで理解してほしい。

 また、この合理性の探求という事は、審査にあたり、可能な限り合憲と解釈する道を探るべきである、ということを意味する。例えば都教組事件(最大昭和4442日=百選第5442頁参照)に代表される合憲解釈は、この点を根拠としているのである。

(二) 国民の信頼確保の必要性

 この見出しは、私が考えたもので、芦部信喜の用語ではない。しかし、以下に述べていることを要約すれば、こう表現できるであろう。

「最高裁の憲法裁判の権威は、国民が最高裁は『いかなる欠点を持とうとも、…抽象的な憲法上の命令を具体的なそれに変えうるもっとも客観的な、公平な、また信頼するに足る管理者であると考え』るところに究極の根拠があるのだから、最高裁がもし多数者の意思に余りにも反対するなど、『みずからの慎重さによってのみ拘束される…おそろしい権力(司法審査権)』を積極的に行使すべきだとすると、最高裁の客観性と公平さに対する国民の信頼は傷つけられ、司法部の積極的な発言も、結局『混沌たる状態の中ではほとんど尊重されない』から、最高裁の権威は低下し、その実効的な活動は阻害される。このような他権力との衝突を避けるためには、自己制限の技術に訴えることが必要である、という理由である。」

 このうちで、『』の部分の最初のものは、米国連邦最高裁判所における自制論の旗頭というべきジャクソン判事の、第2の箇所は同じく著名な自制論者であるフランクファータ判事の、そして第3の部分は再びジャクソン判事の言葉の引用である。

 ここで述べられていることは、ある意味では逃げの姿勢で、学生諸君は汚いと感じるかもしれない。しかし、もっとも弱い統治機構である裁判所が、その権威と権力を守るための大事な法技術であることを否定することはできない。

(三) 他の国家機関活動に対する信頼性

 このように表題をつけたが、これは次に引用した芦部信喜の文章のもっぱら後半部分に焦点を置いたものである。

「自制論が以上の論拠に付け加えて、重大な憲法事件での合憲性は事件をめぐる事実(circumstances)に関する判断に還元されるという経験的なアプローチ−したがって『憲法問題を抽象的に扱い、それを空疎な法的問題の面から形式的で表す傾向は、すべて実際とは無関係の内容貧弱な結論に至る』という立場−を強調する点が注目される。フランクファータが、政治の第1次的責任を負う機関の判断を司法的判断をもって替える違憲審査は、具体性のない通則によって決して正当化できない、という見解を堅持したのは、そのためである。ここに『不確実は同位の統治機関の賢明さと誠実さ、及びそれらの機関が責任を負う国民の利益になるよう、解決さるべきである』という自制論の重要な一つの論拠が見出される。」

 この引用文は、諸君が学ぶ憲法訴訟論の多くの部分に関する根拠を示している。第12行目で言われていることは、立法事実論の根拠である。その次に来る『』で示されるフランクファータ判事の見解は、付随的憲法訴訟が何故妥当かという点に関する根拠の一つでもある。

 そして、フランクファータ判事の2番目の言葉が、表題に上げた点である。小売市場最高裁判所昭和471122日判決(判例百選第5204頁参照)が述べているのが、まさにこのことであることが理解されよう。

 

三 立法裁量論

 国会の立法裁量権という言葉を使うと、国会がどの範囲で立法裁量権を持っているか、という議論であると錯覚する者が、諸君に多い。間違いである。憲法41条の定めるところに従い、国会は、他からの干渉無く、立法を行うか否か、行うとしてその内容をどうするかを決定する権能を有する。

 問題は、国会がその様に立法裁量権を行使して、特定の立法を行った場合に、裁判所としてどのように対処するべきか、という点にある。単純に言えば、裁判所はできた法律を審査すれば良く、国会がどのように立法裁量権を行使したかを考える必要はない。しかし、上述した自制説の論理に従えば、裁判所として国会の立法裁量を尊重する必要が生じる。問題は、常にそうした必要が生じる訳ではない、ということである。例えば、国会が憲法の一義的な要請を無視して、明らかに違憲の法律を制定した場合に、裁判所として司法審査を自制する理由はない。

 そこで、立法裁量は次のように定義される。

「裁判所が法律の合憲性の審査を求められたとき、立法府の政策判断に敬意を払い、法律の目的や目的達成のための手段に詮索を加えたり裁判所独自の判断を下すことを控えるべきである」(戸松秀典著『立法裁量論』有斐閣1993年刊、3頁)

 戸松は、わが国判例に現れる立法裁量を分類して、大きく次の三者があるという。

  1 広い立法裁量

 これは、原則的に立法府の下した裁量を尊重し、その裁量が明白に不合理であると認められない限り、違憲審査の対象とはしないという姿勢を示す領域を意味する。この類型に該当する場合には、立法事実の検討作業には原則として入らないことになる。典型的には小売市場事件判決に見られる(最大昭和471122日、百選〔第5版〕204頁参照)。すなわち、

「個人の経済活動に対する法的規制措置については、立法府の政策的技術的な裁量に委ねるほかはなく、裁判所は右裁量的判断を尊重するを建て前とし、ただ、立法府がその裁量権を逸脱し、当該法的規制措置が著しく不合理であることの明白である場合に限って、これを違憲としてその効力を否定できる。」

 この他、社会権(堀木訴訟=最大昭和5777日=百選294頁)、租税(サラリーマン税金訴訟=最大昭和60327日=百選72頁)なども、この類型に属すると認められる。

 ここで注意を要するのが、古い判例の読み方である。例えば、浴場開設距離制限判決(最大昭和30126日、百選〔第5版〕198頁参照)は、次のように述べた。

「公衆浴場の性質に鑑み、国民保健及び環境衛生の上から、出来る限り防止することが望ましいことであり、従つて、公衆浴場の設置場所が配置の適正を欠き、その偏在乃至濫立を来たすに至るがごときことは、公共の福祉に反するものであつて、この理由により公衆浴場の経営の許可を与えないことができる旨の規定を設けることは、憲法22条に違反するものとは認められない。」

 これは、形式面から見る限り、立法裁量論という段階を踏んでいないから、後述する立法裁量がゼロに収束する場合に該当するものとして、直ちに裁判所が実体判断を行ったものに属するように見える。しかし、単に、当時は立法裁量論という理論そのものが未発達であったために、そのステップを忘れたものに過ぎないと考えるべきであろう。平成元年120日最高裁判所第二小法廷判決は、同じ公衆浴場距離制限事件で、上記小売市場判決を踏まえて次のように述べて、判例変更手順を採ることなく、立法裁量論を導入した。

「このような積極的、社会経済政策的な規制目的に出た立法については、立法府のとつた手段がその裁量権を逸脱し、著しく不合理であることの明白な場合に限り、これを違憲とすべきであるところ(最高裁昭和45年(あ)第23号同471122日大法廷判決)、右の適正配置規制及び距離制限がその場合に当たらないことは、多言を要しない。」

 このように、古い判例の場合には、立法裁量という言い回しを行っていないにもかかわらず、裁量を否定したと読むべきではないものが多いのである。

  2 狭い立法裁量

 立法裁量を尊重する姿勢を司法府が示す、という点では上記場合と変わらないが、裁量を尊重する幅を狭め、幅を逸脱した場合には司法審査の対象とする、という姿勢を裁判所が明確に示す領域である。したがって、この場合には、違憲判決が出ることもある。

 典型例は、薬局開設距離制限違憲判決(最大昭和50430日=百選〔第5版〕206頁参照)に見られる。すなわち、

「右のような検討と考量をするのは、第一次的には立法府の権限と責務であり、裁判所としては、規制の目的が公共の福祉に合致するものと認められる以上、そのための規制措置の具体的内容及びその必要性と合理性については、立法府の判断がその合理的裁量の範囲にとどまるかぎり、立法政策上の問題としてその判断を尊重すべきものである。しかし、右の合理的裁量の範囲については、事の性質上おのずから広狭がありうるのであつて、裁判所は、具体的な規制の目的、対象、方法等の性質と内容に照らして、これを決すべきものといわなければならない。」

 この判決で示した姿勢は、共有林分割違憲判決でも同様に採用されている(最大昭和62422日=百選〔第5版〕212頁)。

  3 立法裁量論の不適用

 立法裁量がゼロに収束する場合、すなわち立法裁量論を適用することなく、直ちに違憲審査を行う類型が存在する。しかし、それが具体的にどの判例といえるのかは、難しい問題である。先に例示した公衆浴場距離制限昭和30年判決に見られるように、単にそのような問題意識がなかっただけと見られる場合が、初期の判例には多いからである。その点、少なくとも河川附近地制限令事件(最大昭和431127日=百選〔第5版〕228頁参照)は、ゼロへの収束例といえると考える。それはこの判決が立法の不作為に関するものであり、立法の不作為は、憲法の解釈が明示・黙示に特定されている結果、国会に立法裁量の余地がないと考えられる場合だからである。

「同令42号による制限について同条に損失補償に関する規定がないからといつて、同条があらゆる場合について一切の損失補償を全く否定する趣旨とまでは解されず、本件被告人も、その損失を具体的に主張立証して、別途、直接憲法293項を根拠にして、補償請求をする余地が全くないわけではないから、単に一般的な場合について、当然に受忍すべきものとされる制限を定めた同令42号およびこの制限違反について罪則を定めた同令10条の各規定を直ちに違憲無効の規定と解すべきではない。」

と述べる。この場合、財産権補償を否定する立法は禁止されている、という意味において裁量権がゼロに収束していると認めることができるはずである。

* * *

 ここで注してほしいことがある。それは、裁判所が、ここに述べたように立法裁量の村長というスタンスを示しているということと、憲法学説がそれを支持している、ということとは、イコールではない、ということである。上述した分類基準を提供した戸松秀典は、立法裁量というステップを肯定する代表的な学者である。他方、例えば戸波江二は、このようなステップの存在を否定し、それについては、すべて次に述べる合理性基準の中で考えればよい、というスタンスをとる代表的な学者である。このように、学説の対立があるから、諸君として、立法裁量論を論文の中に書くか書かないかは、基本書と相談して決めてほしい。しかし、書く場合でも、審査基準論を混同して書くのだけは絶対にやめてほしい。立法裁量論は、あくまでも司法審査をするべきかどうかの基準を論じているのであって、司法審査を行う場合にどういう基準を採用するべきかを論じているのではない。

 

四 二重の基準

(一) はじめに

 二重の基準論に入る前に、違憲審査に関する判断基準について説明しておきたい。この言葉には、厳密に言うと、二種類の概念が存在しているので、その差異をしっかりと理解することが大切である。すなわち、

 @ 実体的判断基準standard of constitutionality

    基本的人権に関する条文解釈等によって導き出される法令の解釈基準

 A 審査基準standard of proof of constitutionality

 裁判の過程で、当該法令、あるいは当該事件における適用が実体的解釈基準に達しているかどうかを審査するための基準

の二つである。このように定義だけを示してもわかり難いと思うので、一つのたとえを引いてみたい。今ここに、酸性の液体とアルカリ性の液体があるとする。これは本質的にどう違うか、という面でいうと、酸とは水素原子と塩基の化合物であり、アルカリとは金属原子と水酸基の化合物である、ということができる。しかし、このような知識は、目の前にある液体のどちらが酸で、どちらがアルカリであるかを決定するには、何の役にも立たない。酸かアルカリかの判定手段は、リトマス試験紙を入れて、青いのが赤くなるか(酸)、赤いのが青くなるか(アルカリ)を見るのが一番確実である。

 それと同様に、ある問題についての違憲性を裁判所が審査するに当たり、司法積極主義によるべきか、それとも司法消極主義によるべきかを決定する必要があるとする。前に、自制論でこの問題を検討し、原則的には司法消極主義によるのが正しい、という結論を導いた。しかし、その上で、自由権のあらゆる種類について、すべてこの原則通りに取り扱っていいのか、それとも特別の理由があれば、積極主義に立つことも許されるのか、という問題である。

 それを振り分けるときに使う基準が、実体的判断基準(standard of constitutionality)である。先の例でいうところの、酸とアルカリの化学的な違いを説明する理論に相当する。

 しかし、ある自由権については司法積極主義を採り、他の自由権では消極主義をとる、と決まっても、それだけでは具体的事件において適用されている国の立法等が、合憲か違憲かを決定することはできない。そのためには、先のたとえでいうリトマス試験紙に相当する物差し、すなわち一定の条件を満たせば違憲、満たさなければ合憲、という答えを出すことのできる基準が必要である。その物差し役の基準が、第二に紹介した審査基準(standard of proof of constitutionality)である。リトマス試験紙は、使う対象が酸かアルカリかによって赤いものと青いものを使い分けるように、審査基準も対象となる自由権が司法積極主義を採るべきものであるときと、消極主義を採るべきものであるときとで種類を使い分ける。それが、実体的審査基準である二重の基準論に対応する審査基準が合理性基準である。二重の基準なのだから、対応して審査基準も2種類あれば良さそうだが、化学と違っていろいろな説があり得るところが、法律学における問題の複雑なところである。

(二) 二重の基準

 二重の基準論は、上述した実体的判断基準の代表とも言うべき概念である。一般に次のように説明される。

「二重の基準の理論は、元々アメリカ合衆国の1938年の判例で確立した理論ですが、その内容、中身を簡単に言えば、

@精神活動の自由の規制:厳しい基準によって合憲性を審査する。

A経済活動の自由の規制:立法府の裁量を尊重し緩やかな基準で合憲性を審査する。

こういう考え方であります。」

(芦部『憲法判例を読む』岩波セミナーブックス98頁)

 この芦部信喜の書き方は少々紛らわしい。まるで、最初に精神的自由権に対する厳しい審査基準が何らかの理論的理由から導かれて、それとの対比で、より経済的自由権により緩やかな審査基準が導かれるように見える。しかし、そう考えるのは間違いである。上述した自制説が一般的標準として存在し、その代表的な存在が経済的自由権であり、その中で、精神的自由権については、より厳格度を増した審査を要求すると理解するのが正しいのである。実際、芦部信喜も『憲法学』というようなちゃんとした理論書では、そういう説明の仕方をしている。すなわち、

「経済的自由を規制する立法の場合は、民主政の過程が正常に機能している限り、それによって不当な規制を除去ないし是正することが可能であり、それがまた適当でもあるので、裁判所は立法府の裁量を広く認め、無干渉の政策を採ることも許される。これに対して、精神的自由の制限又は政治的に支配的な多数者による少数者の権利の無視もしくは侵害をもたらす立法の場合には、それによって民主政の過程そのものが傷つけられているため、政治過程による適切な改廃を期待することは不可能ないし著しく困難であり、裁判所が積極的に介入して民主政の過程の正常な運営の回復を図らなければ、人権の保障を実現することはできなくなる。」

(芦部信喜『憲法学U』有斐閣、218頁)

 本問の場合には、経済的自由権について議論するのだから、この文章の前半さえ書けば十分である。

 

五 合理性基準

 先に述べたとおり、二重の基準は実体的判断基準であり、これ自体から直ちに具体的事件について、合憲・違憲の判定をすることはできない。そのため、この判断基準に対応した審査基準が必要となる。これに対応して、アメリカ連邦最高裁が開発した審査基準が一連の合理性基準である。すなわち、個々の合理性基準の内容に、理論的根拠があるわけではない。二重の基準の要請に適合するように、連邦最高裁が開発して、様々な事件に適用した結果が妥当なので支持するという考え方である。個々の審査基準の内容について、順次見ていこう。

(一)  狭義の合理性基準(rationality testrational basis standard of review

  1 概念の内容

 原則的な場合である司法消極主義を採用しているときにとられる審査基準で、別名明白性の原則と呼ばれる。司法権の自制説の結論として、フランクファータ判事が次のように述べたが、これがこの基準の端的な表明である。

「裁判所は議会が単に誤りを犯しただけでなく、極めて明白な、合理的な疑いの余地のないほど明白な誤りを犯したときだけ法律を無視できる」

 問題は、ここにいう「合理的な疑い」のとは、何を基準に言われるのか、という点である。19世紀末の時点では、アメリカ連邦最高裁は、その事件を審査する裁判官を基準にして、合理的か否かを判断するとしていたが、やがて裁判官個人ではなく、客観的な「合理的人間」の持つであろう疑いというように変化していったといわれる。我が国の場合、憲法763項にいう「裁判官の良心」を客観的良心と解する点、今日においてはほとんど異論はなく、したがって当然に客観的な合理的人間を基準にすると考えて良い。この狭義の合理性基準に関する最大の特徴は、立法事実論に踏み込まないという点である。それ以前の段階で明白か否かは決せられるからである。

  2 わが国判例における適用例

 本問が問題としている営業の自由について、もっとも有名な事件が、先にも言及した「小売市場事件判決(最大昭和471122日=百選200頁)」である。この判決では、

「当該法的規制措置が著しく不合理であることの明白である場合に限つて、これを違憲としてその効力を否定することができるものと解するのが相当である。」

とする。

 なお、社会権における適用例としては、「堀木訴訟(最大昭和5777日=百選〔第5版〕300頁)」が、また、平等権における適用例としては「サラリーマン税金訴訟(最大昭和60327日=百選〔第5版〕302頁)」が有名である。

(二) 厳格な審査基準(strict scrutiny test

  1 概念の内容

 これに対して、司法積極主義を採用する精神的自由権の領域における審査基準として、狭義の合理性基準より、より厳格度を増した基準として、アメリカ連邦最高裁が開発した審査基準が、厳格な審査基準である。(この表現は大事である。繰り返し強調するが、諸君はややもすると、厳格な審査が要求されるということから理論的に下記の二つの用件が導かれるように書くことが多い。しかし、厳格な審査ということと、それを具体化した場合に、「厳格な審査基準」になるということとの間には理論的関連性はない。あくまでも、厳格な審査の際に使うべき審査基準として、アメリカ連邦最高裁が開発したにすぎないのである。だから理由としてはそう書くしかない。)

 この領域では原則として立法の違憲性を推定し、この推定を覆すために、次の二点の立証を国側に要求する。

@ 立法目的が正当であること、

  A 立法目的を達成するために採用された手段が、立法目的の持っている「やむにやまれぬ利益 compelling interest)」を促進するのに必要不可欠であること、

アメリカでは、精神的自由権に限らず、米国憲法修正1条〜修正10条までの規定が保障する個人の自由、すなわち、具体的には、表現の自由、投票権、信教の自由、旅行の自由、刑事手続上の権利等に対する侵害立法である場合にこの審査基準が使用される。

  2 わが国判例における適用例

 わが国の場合には、現実問題としてこの審査基準を精神的自由権に関する立法に使用した例はない。しかし、精神的自由権に関係した事実関係の判断に使用した判例は存在する。すなわち、前科照会回答事件(最3小昭和56414日=百選〔第5版〕44頁)は、プライバシーの権利に関してこれを使用したと見ることができる。

「前科等の有無が訴訟等の重要な争点となっていて、市区町村長に照会して回答を得るのでなければ他に立証方法がないような場合には、裁判所から前科等の照会を受けた市区町村長は、これに応じて前科等につき回答をすることができるのであり、同様な場合に弁護士法23条の2に基づく照会に応じて報告することも許されないわけのものではないが、その取扱いには格別の慎重さが要求されるものといわなければならない。」

 この「格別の慎重さ」という点に、やむにやまれぬ利益という姿勢が見える。

 同様に、信教の自由に関するオウム真理教解散命令事件(最決平成8130日=百選〔第5版〕86頁)にいう「必要やむを得ない法規制」という表現にも、同様にこの基準によったものということができるであろう。

「本件解散命令は、宗教団体であるオウム真理教やその信者らの精神的・宗教的側面に及ぼす影響を考慮しても、抗告人の行為に対処するのに必要でやむを得ない法的規制であるということができる。また、本件解散命令は、法81条の規定に基づき、裁判所の司法審査によって発せられたものであるから、その手続の適正も担保されている。」

 立法の合憲性に関して、この基準を採用した判例としては、郵便法違憲判決(最大平成14911日=百選〔第5版〕292頁)がおそらく唯一のものである。同判決では、目的の正当性について

「上記目的の下に運営される郵便制度が極めて重要な社会基盤の一つであることを考慮すると,法68条,73 条が郵便物に関する損害賠償の対象及び範囲に限定を加えた目的は,正当なものであるということができる。」

と述べて正当性の基準を採用し、

「上記のような記録をすることが定められている書留郵便物について,郵便業務従事者の故意又は重大な過失による不法行為に基づき損害が生ずるようなことは,通常の職務規範に従って業務執行がされている限り,ごく例外的な場合にとどまるはずであって,このような事態は,書留の制度に対する信頼を著しく損なうものといわなければならない。そうすると,このような例外的な場合にまで国の損害賠償責任を免除し,又は制限しなければ法1条に定める目的を達成することができないとは到底考えられず,郵便業務従事者の故意又は重大な過失による不法行為についてまで免責又は責任制限を認める規定に合理性があるとは認め難い。」

と述べて、目的と手段の関係について、やむにやまれぬ利益があるか否かの判断を行っているからである。この場合、憲法17条の定めの例外という点が、このように厳しい審査基準を採用した理由と見られる。

(三) 厳格な合理性基準(strict rationality test

  1 概念の内容

 これは、上述した厳格な審査基準と狭義の合理性基準の中間的な性格を持つ審査基準であるため、中間審査基準 intermediate standard)とも呼ばれる。しかし、司法積極主義を背景に違憲性推定原則を採用している点では、厳格な審査基準と同質の「厳格度を増した」基準であって、その意味では決して中間的なものではない。

 この基準と厳格な審査基準の相違は、違憲性推定を覆すための基準の違いにある。

@ 立法目的が重要な国家利益(important government interest)に仕えるものであり、

A 目的と手段の間に「事実上の実質的関連性(substantial relationship in facts)」が存在することを要求する。

 すなわち、立法目的が、それを達成するために法によって用意された手段によって合理的に促進されるものであることを、国の側は事実に基づいて証明しなければならないとともに、それで足りるとした点で厳格な審査基準を軽減しているのである。狭義の合理性基準を基本的に適用しながらも、事実上の実質的関連性の審査に当たって、問題の性質上、立法目的の合理性そのものの合理性に関しても審査できること、及びそれに当たって国家利益に適合するか否かを審査可能である点で、合理性基準よりも司法介入を強く認める点に特徴がある。

  2 わが国判例における適用例

 この基準を表現の自由の規制に対し、わが国で明確に使用した例としては、猿払事件判決(最大昭和49116日=百選〔第5版〕32頁参照)があまりにも有名である。下線部の箇所に、その端的な表現が見られる。

「行政の中立的運営が確保され、これに対する国民の信頼が維持されることは、憲法の要請にかなうものであり、公務員の政治的中立性が維持されることは、国民全体の重要な利益にほかならないというべきである。したがつて、公務員の政治的中立性を損うおそれのある公務員の政治的行為を禁止することは、それが合理的で必要やむをえない限度にとどまるものである限り、憲法の許容するところであるといわなければならない。〈中略〉また、右のような弊害の発生を防止するため、公務員の政治的中立性を損うおそれがあると認められる政治的行為を禁止することは、禁止目的との間に合理的な関連性があるものと認められるのであつて、たとえその禁止が、公務員の職種・職務権限、勤務時間の内外、国の施設の利用の有無等を区別することなく、あるいは行政の中立的運営を直接、具体的に損う行為のみに限定されていないとしても、右の合理的な関連性が失われるものではない。」

 二重の基準は、精神的自由権に関して、司法積極主義を採用し、その結果、審査基準として、原則となる狭義の合理性基準に比して、より厳格度を増した審査基準を採用することを要求しているのであって、論理的必然として厳格な審査基準を採用することを求めているわけではない。したがって、精神的自由権に対して厳格な合理性基準を採用したわが国判例を理論的に誤っていると非難することはできない。しかし、表現の自由の保護のためには、より厳格度の高い審査基準が適当であると考えるところから、学説はこれを批判することになる。

 

六 合理性基準以外の審査基準

 米国最高裁判所は、合理性基準以外にも、様々な審査基準を開発してきている。代表的なものを挙げると、事前抑制禁止の法理、LRA基準、明白かつ現在の危険などである。今回、諸君から出てきた答案にはLRA基準に関する誤った理解が示されていたので、その点だけをここで説明する。

 LRA基準は、より制限的でない他の選びうる方法という英語の頭文字をとったものである。この基準を使用するためには、その前提として、その問題に最小限度規制という要求があることを論証しなければならない。憲法上、ある程度の規制は許されるのだが〔このことを先ず証明する〕、それは最低限に止めなければならないというころを証明できれば、より制限的でない、他の規制手段が一つでも存在していることを証明できれば、それにより、現に行われている規制は、最小限度のものではないという証明に成功したことになるから、自動的に現在の規制は違憲である、といえることになる。

 上述の合理性基準との対比で言えば、より厳格度を増した審査基準が使える場合には、その補助基準として、LRA基準が使える場合が多い。