参政権の本質

甲斐素直

問題

 公職選挙法第10条は,被選挙権を有する者を,衆議院議員については年齢満25年以上の者,参議院議員については年齢満30年以上の者と定めている。この規定の憲法上の問題点を論ぜよ。

 また,同条を改正して,衆議院議員及び参議院議員のいずれも年齢満35年以上の者とした場合は,憲法上どのような問題が生じるか,論ぜよ。

司法試験平成16年度問題

【始めに】

 基本書で、参政権というタイトルの付いた章を読めば、どの本にも参政権の性質については、公務、すなわち義務と、権利と言う2重の性格があるという説が通説である、と説明されている。ところが、どの本でも、なぜ公務という性格が出てくるのか、という点についての説明はほとんど書いていない。理由は単純で、その本の冒頭でかなりの頁をつぎ込んで論じている国民主権の概念をきちんと理解していれば、自動的にそれは判るからである。すなわち、「国民は、主権者として国の政治に参加する権利を有する」と読んだその瞬間に、ここに言う国民は国民主権概念でいう国民のことであり、したがって、他の人権のように、個々の国民のことをいうのではない、ということがピンとくれば、参政権に公務としての性格があることは自動的に理解できるからである。基本書では、国民主権については当然、参政権について論ずる前に既に論じているので、参政権の箇所に来たときに改めて国民主権論を詳しく書いていては、ただでさえ厚い本がいっそう厚くなる。それを避けるために、参政権の節では、単に国民主権との関係を指摘するだけで、それ以上詳しいことを書くことはしないのである。

 しかし、基本書がそういう書き方をするからといって、それは君たちが論文を書く場合に、国民主権に触れなくて良いということにはならない。現在、わが国では国民主権概念が何を意味するかについては大きな見解の対立が存在しており、それを受けて参政権についての理解もまた極端な対立を示す。しかし、諸君の論文では、「国民主権概念に関する議論については、私の基本書の関係箇所を参照してください、ここでは割愛します」と書くことは許されない。本文は、正にそこの箇所をきちんと書けるか否かが合否のポイントである。したがって、この論文は、構成としては、まず国民主権概念について論ずることからスタートしなければならない。

 しかし、それと同時に、本問の中心論点はあくまでも参政権の本質論であって、主権論ではないことにも注意しなければならない。以下の説明では、主権論に力点を置いているが、それはそこが一番諸君として理解しにくい点だと思うからである。しかし、諸君の論文では、主権論は、ポイントを押さえつつもできるだけ簡略に論じて、記述の主体を参政権本質論にしっかりと置くことが、合格答案の基本的な要件となる。

 

一 参政権とは

 参政権とは、文字通りには国民が国家意思の形成過程に何らかの形で関わる権利を包括的にさす概念である。しかし、実際には行政判断形成過程及び司法判断形成過程に国民が関与する権利は現行憲法上全く予定されていない。立法判断形成過程に関しても、存在しているのは憲法改正の決定権(96条)と地方自治特別法の拒否権(95条)だけである。要するに、国民が国政に直接関与することは現行憲法上原則として予定されていないのである。

 結局、参政権の名の下に現実に国民が有するのは、上記二つの直接権をのぞくと、立法判断形成過程に参画する国会議員の選挙権及び被選挙権のこととなる。なぜ、三権分立制の一機関に過ぎない国会議員の選挙権・被選挙権が参政権の名の下に理解されるのだろうか。換言すれば、国会という機関にはどのような特殊性があるのだろうか。これが本問の底流に流れる根本的な問題意識なのである。

二 国民主権概念と現行憲法における解釈の対立

 国民主権は現行憲法の基本概念である。が、ここにいう国民が、集合概念(民法学における表現を借りるならば実在的総合人)であって、個々の国民を意味するものでない(主権の唯一・不可分性)、という点では説の対立はない。

 しかしどのような集合概念であるかについては、大きな説の対立がある。すなわち人民主権と狭義の国民主権の対立である。以下に簡単に説明する。

(一) 人民主権

 これは社会契約説を背景にしている説であって、歴史的にはホッブス、ロック及びジャン・ジャック・ルソーなどが説いた。すなわち主権者たる人民とは、社会契約に参加する行為能力を持つ個人の集合体をいう。封建体制下において君主主権の源泉が被支配者の同意にあったのとの同様に、この主権者たる人民が社会契約において国の支配を受けることに同意を与えている点に国家権力の源泉があると考える(被治者の同意)。

 ここにいう人民は、民法の用語を使って説明すれば、行為能力を持つものの集合体であるから、全体として行為能力を持つ。したがって、直接民主制を要求する。しかし、通常は、人民が常に直接政治に関与することは非効率ないし不可能であるから、原則的に代表者を通じて政治を行う(人民代表)。

 この場合、行為能力を持つ人民は、人民代表に対して命令的委任を与える。人民代表が委任に反する行動を執った場合には、解任する権利を有する(リコール権)。

 また、人民は、必要に応じて自ら政治に関与することができる。すなわち、人民代表が適切な法案を議会に提案しないときは、自ら提案することができる(人民発案)。議会が不適切な法案を制定したときは、それを法律とすることを拒否できる(人民拒否)。また、議会にゆだねることが不適切な問題については自ら決定することができる(人民投票)。

 これを参政権との関連で言えば、人民を構成する個々の国民は、当然に上記の権利を行使することができる。すなわち、人民主権説の下においては、参政権が権利であることは疑う余地がない。

(二) 狭義の国民主権

 これは個人主義を背景にしている説であって、歴史的にはシェイエスなどが説いた。すなわち主権者たる国民とは、「老若男女の区別や選挙権の有無を問わず、『いっさいの自然人たる国民の総体』を言う」(芦部信喜『憲法学T』240頁)。この考え方では、統治者たる国民と被治者たる国民とは、同一の存在である(治者と被治者の自同性)。

 このように「主権が全国民に存すると考えると、このような国民の総体は、現実に国家機関として活動することは不可能であるから、全国民主体説にいう国民主権は、天皇をのぞく国民全体が国家権力の源泉であり、国家権力の正当性を基礎づける究極の根拠だということ、を意味することになる。したがって、国民に主権が存するとは、国家権力が『現実に国民の意思から発するという事実を言っているのではなく、国民から発すべきものだ』という建前を言っているに過ぎないことになる。」(芦部信喜・同上・241頁)

 この場合、国民そのものが行動することはできないから、間接民主制を必然的に要求する。すなわち、国民は議会における代表者を通じて行動することになる(国民代表)。議会こそが、国家で現実に行動する能力を持つ最高の地位を占める機関となる(国権の最高機関)。したがって、実際面から見ると議会が主権を行使していると言っても過言ではない(議会主権)。

 参政権、すなわち誰が国民代表となり、また、誰が国民代表を選ぶことができるかは、国権の最高機関たる議会が決定する。したがって、個々の有権者は、自らの権利として参政権を行使するのではなく、国民全体の利益を考えて参政権を行使することように、議会から義務づけられた者であるに過ぎない(参政権=公務説)。議会は、誰に参政権を与えるかを決定する最高機関である。したがって有権者の範囲を国民のどの一部に制限することも自由に決定できる(制限選挙)。

 選出された議員は、自分を選出した有権者の代表者ではなく、全国民の代表者である。すなわち国民全体の奉仕者であって、その一部に過ぎない有権者への奉仕者ではない。したがって、有権者は議員に対して命令をすることはできない(命令的委任の禁止)。もちろん、命令に反したことを理由として解任する権利はない(リコールの禁止)。国民投票は、有権者に国民代表たる議会を上回る権限を授与することになるから禁止される。また、事実上国民投票と同じ効果を持つ議会の解散=総選挙も、同じ理由から禁止される。三権分立制の本質を相互の均衡と抑制に求める場合、その均衡の確保のために内閣に議会の解散権を与える場合にも、その解散権は極端に制限された場合にしか行使し得ないものとすることになる。例えば、アメリカでは議会の解散制度はなく、またドイツでは議会が内閣不信任を可決し、かつ、後任の首相を選任しないという例外的な場合に限定されている。

 欧米の場合、国民投票が、その制度を悪用することにより、フランスにおいてナポレオン一世、同三世が皇帝位につき、また、ドイツにおいてヒットラーが独裁権を掌握し、全欧州を戦乱に巻き込んだことから、否定的に見られている。このことも、議会主権を擁護することが正しいとする実質的な根拠となっている。

(三) わが国憲法の解釈

  1 通説=狭義の国民主権説=の考え方

 わが国憲法にいう国民主権とは、狭義の国民主権と考える。論文においては、このように見解を示した場合、常に、その根拠を書かねばならない。根拠は、必ず実質的根拠と形式的根拠の両面から示さなければならない。

 その実質的根拠としては次の点を上げることができる。なお、ここでは虱潰しに挙げているが、諸君は適当にどこに力点を置くのが妥当かを考えて絞り込むべきである。

@ 人民主権説を採ると、全国民が主権を有する国民と主権を有しない国民とに二分されることになるが、主権を有しない国民の部分を認めることは民主主義の基本理念に背く。

A 憲法は、選挙人の資格を法律で定めることとしている(憲法44条)。そして国会は、技術的その他の理由に基づいて、年齢、住所要件、欠格事項等を法律で定めることにより、その資格を制限している。人民主権説だと、有権者集団が人民とされるが、主権を有する国民の範囲を、法律が決定するのは論理矛盾である。

 形式的根拠としては、次の点を上げることができる。

@ 憲法前文は「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動」するとし、また「その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使する」と 定めているが、これは間接民主制を採用することを示している。

A 憲法11条及び97条は、基本的人権の主体として「現在及び将来の国民」という表現を使用している。

B 152項、431項はいずれも全国民の代表という概念を使用している。

C 44条、47条は、議員及び選挙人の資格、選挙に関する事項を法律で定めるとしており、41条及び591項により、国会単独立法の原則がとられている。

D 51条が命令的委任の禁止を明記している。

E 我が憲法は二院制を採用しているが、人民主権説で二院制を説明することは不可能である。

  2 人民主権説の考え方

 これに対して、近時、我が憲法もまた人民主権原理を採用している、と説く立場が現れ、有力に主張されている(例えば杉原泰雄、北野弘久、辻村みよ子など)。

 その実質的根拠としては、主権論とは、「国内における国家権力自体の帰属を指示する法原理である。国家意思の最終または最高の決定権、国家権力の究極の淵源、憲法制定権力などの帰属を指示する原理ではない」とする(杉原泰雄『憲法T』有斐閣法学叢書195頁)。

 その形式的根拠を紹介しておくと、次のとおりである。

@ 憲法96条でいう国民は、明らかに有権者集団の意味である。

A 151項の公務員選定・罷免権、同3項及び44条但書の定める普通選挙は、人民主権的に理解できる。

B 憲法95条の地方自治特別法では、有権者集団に法律の拒否権を認めている。

C 憲法7条解散が憲法慣行として確立しており、国民投票の制度は実質的には存在している。

D 51条は命令的委任の禁止を定めていることは確かだが、次の選挙で落選することをおそれる議員は、実質的には命令的委任の下にある。

三 半直接代表制ー間接民主制の直接民主制による補完

 以上に説明したところだけだと、狭義の国民主権説の下で、参政権に関する説としては公務説以外に考えることができない。しかし、現在の通説は二元説である。それがどういう論理で生じてきたかについて、ここでは説明する。

 人民主権説が指摘するとおり、我が現行憲法には、明らかに直接民主制に基づくと認められる制度が明確に存在している。通説のように、現行憲法にいう国民主権とは狭義の国民主権を意味すると解する場合、それら直接民主制的制度をどのように理解すべきであろうか。

 前述のとおり、純粋に狭義の国民主権原理を貫く場合、そこで採られる選挙制度は、選挙人及び被選挙人のいずれも、国全体の利益を考えることができるような人物に制限する、制限選挙を要請することになる(純粋代表)。この制度の下においては、各議員はすべて自分の信念にしたがって国全体の利益を追求するのであって、そこに党派的行動はあり得ない。すなわちこの制度下においては政党は敵視されることになる。

 しかし、一九世紀末から二〇世紀初頭にかけて生じた大きな社会構造の変革を受けて展開された普通選挙運動の結果、今日ではいずれの国においても普通選挙が採用されるに至った。普通選挙においては、国全体の利益を考える人に有権者を限定しているわけではないから、選挙においては、各人はその個人的利益を追求することを優先して投票行動をとるものが多数を占める。したがって議会においても、そうした選挙人の利益を代表した人々が、国全体の利益ではなく、その選出母胎の利益の追求を目指して激突することになる(半代表)。そこで、そうした人々は結集して政党を作り、議会は党利党略の場と化することになる。そのむき出しの党利の実現を目指して党略を巡らし、衝突と妥協を繰り返す中から、自ずと国全体にとって最善のものが選択されるであろうというのが、普通選挙制度の理念ということになる。

 しかし、これはあくまでも理念であり、長期的には正しいかもしれないが、短期的にも常に実現するとは限らない。すなわち普通選挙制度の下においては、主権者たる国民が、その代表者に過ぎない議会によって害される可能性を否定することはできないのである。そこで、直接代表制を導入することにより、この半代表制の持つ欠陥を補正しようとすることになる(半直接代表制)。これがわが国現行憲法の採用している制度である。

 96条において、憲法は無造作に有権者集団を国民と呼んでいるが、厳密に狭義の国民主権原理に立つ場合には、むしろ国民にもっとも近い代替物と考えるのが妥当であろう。すなわち、例外的に有権者集団を国民の代用品にしたのであって、決して人民主権説のいうように、有権者集団を即国民と考えたわけではないからである。このように有権者集団を国民と呼ぶ場合、この国民は国家機関として活動する。芦部信喜のいう権力性の契機としての国民とはこれである。

 79条の定めている国民審査もまたユニークな制度である。議会が政党政治によって支配されることになると、司法を政治によって左右させるわけには行かないから、司法権の独立は強化される必要がある。その結果、司法権に対する民主的コントロールが欠落する。それを直接民主制により補完しようとしたのが、この国民審査制である。したがって、その本質はリコールと考えて差し支えない。

 なお、直接民主制的制度ではないが、同じように代表民主制の欠陥を補完する制度として理解できるのが、司法権による違憲立法審査権である。純粋代表制の下においては、どのような法律が憲法に適合しているかを決定する最高機関は、国民の代表者たる議会そのものであり、したがって裁判所による法律の違憲審査は原理的に考えられない。しかし、半代表制の下において、議会により国民が害されること、すなわち憲法違反行為がなされる可能性があることを肯定するときは、議会とは別に違憲審査制度を導入することが許容されることになるからである。

四 参政権の本質

(一) 参政権=公務説

 憲法は、国民が公務員を選定・罷免する権利を有する(151項)と定めているが、狭義の国民主権原理に立脚する限り、ここにいう国民とは集合体としての国民であって、個々の国民ではないと考えられる。現実にも、国政レベルでは公務員の選定権は、国会議員をのぞいては認められておらず、また、罷免権は最高裁判所裁判官(792項)に関する例外的権限をのぞいてはいっさい認められていない(最高裁昭和24420日判決)。

 この見地から見る限り、参政権は、実は権利ではない。選挙は本来国家という団体の行為であり、個人が有する参政権とは、個人が国家の雨に必要な公的職務を遂行するに過ぎない。したがって、それは議会という国家機関の構成手続に関する憲法規定の反射であるに過ぎないと結論づけられる。

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 しかし、他方、第一に参政権を保障する15条が人権の章に定められており、人権はすべて個人として保障されること(13条)、153項及び44条但書の採用する普通選挙制度が憲法上明確に導入されたことに伴い、参政権の主体を決定する国会の裁量権が大幅に制約され、普遍化されたこと、154項が保障する秘密選挙は、個人の自由な選択の保障を意味することは明らかであること、などから見て、現行憲法下では、参政権を権利として考えることが要求されると考えられる。そこから以下の各説が工夫されることになった。

(二) 参政権=権限説

 かつては、人権は自然権として理解されていた(天賦人権)。しかし、参政権は国家という概念を抜きにして考えることはできないから、自然権としての参政権はあり得ない。そこで最初に登場したのが権限説と呼ばれるものである。参政権そのものは法の反射的効果に過ぎないとしても、法が選挙の管理執行や投票などについて個人の利益に保護を与える限りにおいて、この法的に保護された個人の利益は単なる反射的利益ではなく、個人が選挙人として請求しうる権限である、と考えるのである。

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 この権限説では、単に個人が選挙に参画することが許されるというにとどまり、権利と呼ぶにはほど遠く、憲法15条等の文言と整合性があるとは言い難い。

(三) 参政権=二元説

 そこで登場したのが、現在の通説である二元説である。これは、「選挙人は一面において、選挙を通じて、国政についての自己の意思を主張する機会が与えられると同時に、他面において、選挙人団という機関を構成して、公務員の選定という公務に参加するものであり、前者の意味では参政の権利をもち、後者の意味では公務執行の義務を持つ」という二重の性格を有すると説くものである(清宮四郎『全訂憲法要論』法文社152頁)

 この二元説の考え方は、一面で権利性を強調して国会の裁量権を制限する。例えば国会議員の議員定数不均衡を違憲と判断しうるのは、それが国民の権利の不当な制約となるからである。しかし、他面において、公務性を強調して、参政権の制約を肯定する。議員定数についての国会の裁量権の存在を肯定する結果、衆議院については31、参議院については61を越えなければ違憲とはならないという最高裁の判断は、そこに由来する。また、例えば公職選挙法が定める選挙犯罪者等に対する公民権停止処分が許されるのも、選挙権の公務性に基づく最小限度の制限として許容されるからである。

(四) 参政権=権利説

 人民主権説を背景とする参政権を文字通り権利と捉える立場である(一元説)。

 狭義の国民主権説を採りながら、何の理由も書くことなく、一元説を採る者があるが、これは国民主権説が本質的には公務説を要求することを無視しており、その点について何らかの独自の説明を用意していない限り、完全に論理矛盾である。

 この立場は、権利主体を、人民主権説にいう主権者である人民を構成する者として把握する(決して、すべての国民に権利主体性を承認する者ではない点に注意)。ここから、例えば、選挙権は原則として11でなければならず、したがって最大でも21を越えてはならない、と説く。また、公民権停止処分については、選挙権の内在的制約を超える不当な制限であって違憲とすることになる(もっとも選挙の公正確保のため、必要最小限にとどまる限り許されるというような論理で、実際には許容する)。そのほか、小選挙区制を採用することは、死票率が不当に高まるが故に、これもまた違憲と評価されることになる等、様々な場面でかなりの相違を示すことになる。

五 被選挙権について

 以上に論じたところは、原則的に、選挙権、すなわち、投票する権利であって、被選挙権、すなわち公職に立候補し、当選した場合にその職に就任する権利ではない。被選挙権には、人権としての性格があるのであろうか。本問では、ここが中心論点である。

 従来の通説は、選挙権には権利性を認めるのに対して、被選挙権については「選挙人団によって選定されたとき、これを承諾し、公務員となりうる資格〈中略〉であって、選挙されることを主張しうる権利ではない」(清宮四郎『憲法T(新版)』有斐閣刊139頁)と解して、権利性を否定していた。このように解する場合には、被選挙権についてどのように規定するかは完全に国会の立法裁量権に属し、したがって、本問で問われている被選挙権の要件としての年齢の決定もまた、立法裁量の問題である。したがって、一律に35歳としようとも憲法上の問題が生じることはあり得ない。

 最高裁判所は、かつて選挙違反に関する公民権停止の合憲性が争われた事件で、斉藤・入江両判事の補足意見は、被選挙権の権利性を否定する姿勢を明確に示した(最大昭和3029日=百選322頁)。しかし、その後、三井美唄事件においては、被選挙権は憲法151項「の保障する重要な基本的人権の一つと解すべきである」とした(昭和43124日判決=百選318頁)。これは大法廷判決であるが、それにも関わらず判例として確立したものと見ることはできない。例えば、村長選挙において現職村長が対立候補に戸籍抄本の交付を拒否することにより無投票当選した事件(最高裁平成14730日第一小法廷判決=判例時報1818185頁以下の私の評釈参照)などでは、被選挙権の権利性そのものではなく、村民の選挙権の側から選挙無効の結論を導いている。すなわち、三井美唄事件大法廷判決は、被選挙権の人権性に関しては、先例とは言い切れないのである。

 権利性を承認する見解には、上記15条説の他、憲法13条の幸福追求権をあげるもの、141項にいう政治的関係における平等原則をあげるものなどがある(阪本昌成『憲法理論T(第二版)』成文堂155頁参照)。しかし、必ずしも深く論じられている訳ではなく、はたして今日において、通説が何かもはっきりしないので、諸君は、基本書と相談してきちんと論ずれば、それで十分である。

 私自身は、三井美唄判決の論理に基本的に賛成しつつ、現行制度の下においては、直接的には国際人権B規約25条cが、「一般的な平等条件の下で、自国の公務に携わること」をすべての市民の権利及び自由として保障していることを、国会の立法義務の根拠と考える。ただ、この権利性は抽象的権利のレベルにとどまり、国会の、それを具体化する法律なしに、具体的権利として主張することはできないと考える。

 したがって、この場合でも、基本としての二元説が存在する以上、実質的に立候補権を侵害するような極端な年齢決定をしない限り、選挙権を与える年齢と一致する必要はない。したがって、本問に出てくる年齢は何れも合憲と考えられる。

 なお、人民主権説を採った場合にも議論は必ずしも単純ではない。ただ、主権的権利として捉える以上、主権者にとり、立候補権は、議員の選出と同様の重要な主権行使の一形態と考えるべきであろうから、人権としての性格を有すると見るべきである。その場合、個人の能力を無視して、法的に一律に捉えることが第一に問題になるであろう。そして、一律に年齢を決定すること自体を何らかの論理で肯定した場合には、選挙権と被選挙権で、その年齢を異なるものとすること自体が問題となる。すなわち、現行公職選挙法そのものが違憲という結論になる。したがって、さらにいっそう選挙権年齢との差違を拡大する立法は、違憲性が増大することになるはずである(この点について、詳しくは辻村みよ子『憲法』第2390頁参照)。