人権の制約原理

問題

 現行憲法が、その重要な基本原理としている人権は、しかし、無制約な権利ではなく、様々な制約に服し、その枠内でのみ効力を有する。その制約を無原則に認めるときは、旧憲法下における法律の留保と同様に、国会が恣意的にその内容を制約しうるものとなる。他方、制約をあまりに緩やかに認めるときは、個人主義ならぬ利己主義の尊重となってしまう。ここに、人権の制約原理を理論的に明確にする必要が存在する。

 人権の制約原理について、特にその本質的制約やパターナリズムとの関係を通じて論ぜよ。

【はじめに】

(一) 論文の書き方

 論文は、いつも強調するとおり、基本書のダイジェストでなければならない。その問題が直接に聞いているところに、即物的に答えようとしても、それでは理由が出てこない。しかし、なかなか理解してもらえないので、ここでは別の説明を工夫してみよう。

 法学の時間に、諸君は法段階説というものを習ったはずである。簡単に言えば、上位法の授権の範囲内でしか、下位法は有効ではない。例えば憲法違反の法律は無効である。これを別の観点から言えば、下位法が、ある内容で定められた理由は、上位法が、そのように授権したからだ、ということになる。例えば、刑事訴訟法の規定は、憲法人権論にある刑事基本権の具体化である。つまり、上位法をきちんと説明すれば、それが理由となって、下位法を説明できる。

 このことは、憲法と法律というような別形式の法相互間でだけ成立するわけではない。同じ憲法の中の基本原則と個別の規定の関係についてもいえるのである。「論文では、理由は常に上から来る。」これが演繹法を基本として成立する法律論文の鉄則である。したがって、ある問いに対する答えを書こうとする場合、その問いの内容より、少なくとも1段階は上から答えないと絶対に論文として必要な構造を持たない。

(二) 本問の基本的答案構成

 以上のことを前提として本問を見てみよう。すると、本問が、人権論の非常に基礎的な部分に関連する問題であることは、誰の目にもあきらかであろう。そうであれば、本文の書き出しは、人権とは何か、という議論にならざるを得ないことは、理由が上から来ることさえ判っていれば、当然頭にひらめくはずである。

 人権の本質については、昔であれば、人権尊重の根拠そのものが、やれ天賦人権とか、人間の尊厳といったきわめて直感的な議論で構成されていた。その時代には、人権の制約原理もまたきわめて素朴な形で展開されていた。それが憲法ゼミナールにおける解説の最初のところで紹介する古典的な公共の福祉概念である。ところが、今日、我々は人権を、より本質的なところから説明しようとする。それが人格的利益説と一般的行為自由説の対立となっていることは知ってのとおりである。当然、この本質に対する理解から、その制約原理は説明される必要がある。したがって、昔の答案とはかなり違う構成が今日では要求されることになるのである。

(三) 人権本質論について

 このように説明すると、諸君は、憲法ゼミナール読本における「人権の制約原理」の講には、人権の本質という議論は書かれていない、と首をひねるかもしれない。

 ここに、もう一つ説明しておかねばならないことがある。憲法ゼミナール読本は厚い本である。そこで、少しでも薄くして諸君が購入しやすい価格に抑える努力を私はしている。薄くする一番簡単な方法は、同じ説明を繰り返さないことである。本問の書き出しであるべき人権の本質論については、「自己決定権」という講で詳しくは論じている。だから、人権制約論では省いてあるのである。

一 古典的公共の福祉概念の誕生から死まで

 我々は、解釈法学として憲法を論じている。したがって、人権の制約原理と聞かれた場合にも、まず、どの条文がそれを示しており、その言葉をどう解釈するべきか、というところから議論を出発させるべきである。現行憲法の文言において、人権を制約するのは公共の福祉のみである。したがって、本問は、本来は、「公共の福祉について論ぜよ」というものであってもほとんど問題は変わらなかった。しかし、今日では、【はじめに】で述べたように、むしろ人権の本質論に踏み込んでの議論が必要となる。

 しかし、ここでは、そうした今日的な意識に踏み込む前に、伝統的な公共の福祉論を紹介し、そのどこに問題があったのかを明らかにしたい。

(一) 外在的一元論

 現行憲法の人権規定の、明治憲法と比較した場合における最大の特徴は、「法律の留保」が存在していないことにある。ここには、憲法の保障する人権は、憲法の下位法たる法律によって内容を制約することは許されない、という確固たる価値判断が示されている。

 しかし、現行憲法の初期における人権理論は、明治憲法の「法律の留保」概念の下に、人権に議会の立法裁量に基づく制約があるのは当然とする思考に親しんできた憲法学者達によって構築された。彼らは、一方において、近代資本主義を築いてきた所有権の絶対などの概念と、その限界に関する議論を知っていたから、すべての人権が留保なしに保障されるという状況に非常な恐怖感を覚えたのである。そこで、当然に人権も法律により制約する事が可能であるべきだ、という前提から出発して、憲法典中で手頃な文言を探した。そこで目を付けられたのが、本問の主題である「公共の福祉」という文言だったのである。

 すなわち、美濃部達吉に代表される初期の通説は、旧憲法における法律の留保に代わるものとして公共の福祉概念をとらえた。

「自由であるからといって自分の欲するままにいかなることでもなしうるというのではなく、他人の同様の権利及び自由を尊重しなければならぬことはもちろん、公共の安寧秩序を紊乱してはならぬ。国民の基本的権利はただこれらの制限の下においてのみ認められるのである。」

美濃部『新憲法逐条解説』増補版、日本評論新社昭和31年刊60頁=初版昭和22

 すなわち、公共の福祉の意味を公益ないし公共の安寧秩序と理解し、その判断権者として、国民の代表者たる国会を擬した。ここでの公共の福祉は、人権の内容とは関係なく、公的必要性として外から来るものとして把握されている。

 昭和23年の死刑違憲訴訟に関する最高裁判決が、「生命は尊貴である。一人の生命は、全地球よりも重い。」と大上段に構えながら、その直後に無造作に「公共の福祉という基本原則に反する場合には、生命に対する国民の権利といえども立法上制約乃至剥奪されることを当然に予想しているものと言わねばならぬ」と切って捨てているのは、この立場の典型的な現れである。

(二) 内在・外在二元論

 このような戦前の残滓とも言うべき説に対して、現代人権思想に則った解釈を示そうという努力が直ちに現れてきた。代表的には、伊藤正己、鵜飼信成、高柳信一、田中二郎等によって組織された法学協会の総意として主張されることになる。

「本条は、強力な保障を持つ権利と自由とを与えられた国民の側に、一定の倫理的な指針を示したものであり、『自由または権利に伴う、いわば個人の心構えとしての、内在的限界』を明らかにしているにすぎないのである。」

法学協会『註解日本国憲法』有斐閣昭和28年刊、335

 この説は、公共の福祉という文言が、12条、13条という総論規定のほかに、22条及び29条という個別規定にも現れている点に目を付けて、公共の福祉を二種類に分類するという立場を打ち出した。基本的に上記外在的制約説を旧憲法の亡霊として排斥する一方で、公共の福祉概念を、自由国家的な公共の福祉と社会国家的な公共の福祉とに分類した。22条や29条の公共の福祉は社会国家的な制約に服するもので、美濃部説と同様に外在的制約に服するが、12条や13条は、単なる倫理的な制約を説くものに過ぎず、実質的に人権を制約する場合の根拠とすることは出来ない、と説いたのである。これは美濃部説等に対する鋭い批判で、まさに戦後の人権学説の第一歩と言えるものである。

 だが、いくつかの根本的な欠陥をはらんでいた。第一に、社会権ならばなぜ外在的制約が許されるのか、と言う理由がはっきりしないことである。よりはっきり言うならば、現行憲法のよって立つ個人主義原理の下で、すなわち全体の利益に反してでも、必要とあらば個人の権利を守るという原理の下で、なぜ公益と言うことが人権の制約原理になるのかが判らないのである。第二に、自由権についても実は無限に人権の享有が許されるのではなく、権利に内在する制約はある、と説くのだが、その内在的制約という概念の内容もまたはっきりしなかったことである。そして、第三に、その後のわが国社会の変化に応じていわゆる登場してきた新しい人権のために、13条が、その積極的な根拠として活用される必要が増大してきたが、そのことと、この説の前提としている単なる訓示規定だという考えとが融和しにくいことである。

(三) 内在的一元論

 こうした膠着状況を解明したのが、宮沢俊義の説かれた内在的一元説である。まず、内在的制約とは実質的公平の原理、すなわち人権と人権の衝突の場面における調整原理である、と内在的制約の概念を確立する。簡単に言えば、人権を制約できるのは人権だけだ、と考えたのである。

 その上で、上記自由権的制約と社会権的制約との差を、内在的制約の、個々の権利における差異として説明する。

「これを交通信号にたとえていえば、自由国家的公共の福祉は、すべての人を平等に進行させるために、あるいは青、あるいは赤の信号で整理する原理であるに対して、社会国家的公共の福祉は、特に婦人・子供・老人または病人を優先的に進ませるために、他の人間や車をストップさせる原理であるとも言えようか。」

宮沢『憲法U[新版]』有斐閣法律学全集4、昭和46年刊236頁=初版昭和34

 伊藤正己は、この人権相互の調整に加えて、自由国家にとっての最小限の任務とされる社会秩序の維持と危険の防止があるということも内在的制約として捉え得ると説く(伊藤『憲法』第3220頁)。一見もっともな気がするが、何をもって最小限の社会秩序の維持と捉えるか、という点を通じて最初の公益説が復活しそうな気がして、私はあまり賛成できない。仮にその最小限基準が他の人権と言うことになれば、結局人権相互の調整説に帰着するわけだから、この第2の基準は不要なものだと考える。

 このように、個別の人権ごとに、それぞれの内在的制約の内容を検討して初めて、人権についての制約原理が明らかになるということは、公共の福祉論概念というものが、総論レベルでの統一概念としては、この説によりとどめを刺され、終止符を打ったということを意味する。すなわち、この宮沢説を受け入れる限り、公共の福祉というのは、単なる内在的制約という言葉と同義のテクニカルタームであるに過ぎない。

 受験予備校の刊行している模範答案なるものは、一般に「人権は無制約な権利ではなく、公共の福祉による制約を受ける」といった書き出しから始まることが多く、受験生諸君の各論文でも、圧倒的にこのパターンが多い。しかし、これは美濃部流の外在的一元説にたった書き方であり、今日においては明白な誤った書き方であることが、以上の説明で判ってくれたことと思う。予備校は、学説の進歩を学ばず、一度正しいとして確立した表現は、その基礎となった学説が消滅した後まで機械的に踏襲する癖があるが、これはその典型例である。

 宮沢俊義流の理解に立つ限り、人権は無制約な権利であり、他の人権と衝突した場合にのみ、その調整の限度で制約されることがあるだけである。決して、公共の福祉という概念が人権を制約するわけではない。

二 人権の本質とそこから導かれる限界

 本問をよく見てほしい。聞かれているのは「人権の制約」ではない。「本質的制約」について答えることを求めている。すなわち、人権の本質から導かれる制約である。したがって、本問の必然的な構成として、人権の本質は何か、という議論が求められる。

 冒頭に述べたとおり、諸君の論文としては、こうした学説の変遷といった短答式用の知識を、そのまま文章化したのでは問題なく落第答案となる。宮沢俊義は、人権の本質、すなわちなぜ人権は尊重されねばならないかという理由を「人間の尊厳」に求めていたが、今日の教科書には、そのような素朴な説は見あたらない。人格的利益説と一般的行為自由説のいずれかで説明するのが、通例である。どちらを出発的に選ぶかによるかにより、論文の構成は大きく違う。

 諸君の多くは人格的利益説を人権の本質に関する説として採用していると思われるので、以下、その説に沿って、今日的な問題意識を展開してみたい。

 人格的利益説においては、人権の本質を道徳に求める。例えば、佐藤幸治は次のように説明する。

「人権は、『すべての人間が、無条件にかつ不可変的に、等しく保持する、基本的な重要性を持つ種類の道徳的権利』と解したい。〈中略〉権利やルールが上から、例えば全能の主権者によって与えられる法体系のごときものを想定するのでなければ、法的・実定的権利の基礎として『道徳的権利』を想定しなければならないのではないか。」(佐藤幸治『現代国家と司法権』有斐閣、496頁)

 非常に短い記述であるが、その意味するところは大きい。我々は憲法13条の幸福追求権を包括的基本権として捉え、15条以下の有名基本権に属さない、プライバシー権に代表される、いわゆる新しい人権の根拠規定としてそれを利用する。しかし、当たり前の話であるが、13条には、そうした新しい人権の名前はおろか、意義・要件・効果之いずれも書かれていない。だから、新しい人権に具体的権利性を認めるためには、そうした諸要件が、何か他の規範から客観的に明確に認識できる必要がある。その何か他の規範として、佐藤は「道徳的権利」ということを主張しているのである。

 例えば、プライバシー権とは、要するに他人に私生活をのぞき見されない権利である。他人の私生活をのぞき見し、ほしいままに他の人に話すことは、明らかに道徳的に禁止されている。だから、その道徳的権利から意義・要件・効果を導けば、13条を根拠にして具体的権利性を承認することが可能になる。これに対して、政府が持つ情報の公開を請求する権利については、社会道徳的にその意義・要件・効果が明らかになっているとはとうてい言えない。その結果、それについては抽象的権利性が認められるに止まり、情報公開法や情報公開条例を待って始めて具体的権利性を認めることができる。あるいは佐藤幸治の説く自己情報コントロール権も、社会道徳的にそれが認識きるわけではない。だから、個人情報保護法の制定が必要だったのである。

 問題は、道徳的権利は、あくまでも道徳的権利であって、法的権利ではないことである。ましてや、それを憲法の保障する基本権ということはできない。その決定的な落差を埋める論理が次に必要となる。佐藤は、それを人格的自律という概念に求める。

「(憲法13条)前段の『個人の尊厳』原理と結びついて、人格的自律の存在として自己を主張し、そのような存在であり続ける上で必要不可欠な権利・自由を包摂する包括的な主観的権利である」(佐藤『憲法』第三版445頁)そして、人格的自律と「は、人間の一人ひとりが”自らの生の作者である”ことに本質的価値を認めて、それに必要不可欠な権利・自由の保障を一般的に宣言したもの」(同448頁)

 換言すれば、自己決定権の尊重こそが人権概念の中核となる。

 宮沢俊義の内在的制約説では、ある人の人権を制約するものは他の人の人権であると考えていた。だから、例えば人は他の人を殺す自由も、その自由権の内容として有している事になる。ただ、そのような自由の行使は、その殺される人の人権を侵害することになるので許されない、と考えていたのである。

 これに対して、人権の本質として人格的自律に求めるという考え方にたつ場合、その基本に道徳的権利性が必要である。道徳的に言えば、悪をなす自由というものを考えることはできない。そこから宮沢説に対する批判が生まれる。つまり、他人に悪を加えないという限りで人権は絶対性が肯定されるという考え方である(他者加害の禁止)。人を殺す権利や人の物を盗る権利は、宮沢の主張とは違って、そもそも人権ではない、と考える。これは、今日では、一般的に承認されていると考えて良い。

 少々脱線するが、念のために付け加える。人の悪口を言う権利や、人の陰口をいう権利は道徳的に見て、認められない、という点、諸君も異論がないと思う。その結果、それらは、そもそも表現の自由という人権には含まれない。諸君は、名誉毀損やプライバシー権の論文を書くとき、すぐに表現の自由とプライバシー権の比較衡量と書く。これは宮沢説のレベルでは正しいが、人格的利益説に立つ場合には間違いである。名誉権やプライバシー権が成立する限り、そもそも表現の自由を考える余地はない。何かの理由で名誉権等が成立しない場合(例えば公人である場合)に限って、はじめて表現の自由を考える余地が生まれる。

三 自己加害の禁止と限定されたパターナリズム

 問題文で、今ひとつ、人権の制約原理と関連して考えられる概念として、パターナリズムという言葉が出ている。これは、法学上人格権として知られる一連の権利、例えば生命権、身体権、貞操権等と密接に結びついた概念である。人格権を定義するならば、権利者自らが自由に使用・収益・処分することができない権利とされる。例えば、自分の生命を自由に使用・収益・処分することはできない。だから、シェークスピアの「ベニスの商人」に登場する胸の肉1ポンドを担保とする契約は、公序良俗違反で無効だし、他人の自殺に協力する行為は自殺関与罪として処罰される。

 しかし、上述のように「他者加害の禁止」だけが、人権の制約原理であるとすると、これらの例に現れた「自己加害」行為は、他人に迷惑を与えるものではないので、なぜそれが憲法レベルにおいても禁止されなければないのか、が説明できない。

 この場合の説明原理としてパターナリズムを登場させる他はないのである。パターナリズムという考え方は、法学の講義等では必ずしもきちんとした説明を受けていないと思われるので、以下に簡単に説明する。

 パターナリズム(Paternalism)という言葉はPater(父親を意味する英語)からでたもので、一般に父親的温情主義と訳される。もっとも、現代の法学で語られるパターナリズムは、辞書的な意味とは若干ニュアンスを異にしている。法的意味を正確に理解するために、少しその歴史を振り返ってみよう。

 法学の世界でパターナリズムが語られるようになったのは、1957年にイギリス政府が、同性愛処罰の必要性を問題にした時以降である。すなわち同国では、同性愛は、伝統的に厳罰に処せられてきたわけであるが、成人間の合意により密かになされる行為であるという点で、社会的行為といえないので処罰の必要はないのではないか、むしろ従来許されていた男女間の売春行為の方こそ、公然となされるので処罰の対象とすべきではないかという問題提起を政府が行っのである。これに対して、裁判所は真っ向から挑戦し、判決中で裁判所は道徳の番人であるからこそ同性愛を処罰するのだ、と反論した。すなわち法とは道徳だ、というわけである。こうした考え方をリーガル・モラリズムLegal moralismと呼ぶ。

 リーガルモラリズムに立つ論者達は、仮に法に道徳的観点を否定した場合、なぜ自傷行為を処罰することはできるのか、という問を、その否定論者達に投げかけたわけである。それに対する否定派の答えがパターナリズムであった。すなわち、あたかも父親が、その保護下にある子供の意思に反しても、その子供の利益のために行動することが許されるのと同様に、国は、その者の福祉、幸福、利益、価値などを確保するために国の保護を必要とする人間に、その意思に反する行動を強制できる、と答えたわけである。

 ところが、研究が進むにつれて、この言い方は不正確であることが判ってきた。まず第一に強制という要素は不要である。例えば困窮している浪費者を保護するために、生活費を現金で給付すると、浪費して食料の購入を行わない。そこで現金ではなく、現物の食料を給付するとすれば、これも立派なパターナリズムである。が、現金を渡して、それで食料を買うことを強制する場合と違って、強制という要素は存在していない。第二に、行動の自由に対する干渉という要素も不要である。思想やプライバシーに対する干渉でもパターナリズムが考えられるからである。従ってパターナリズムは、優越的立場にある者による他者の幸福や利益等のため正当化されるその他者への干渉行為と理解されるわけである。

ここまで説明すれば、パターナリズムが、公共の福祉とは全く異質の法的概念であることが明らかになったと思う。公共の福祉の場合には、内在的であると政策的であるとを問わず、制約、換言すれば、消極的に権利行使を制限するにとどまる。パターナリズムでも、消極的パターナリズムは、現状より悪化することを防止することを目指すから、形態としては権利行使の制限、禁止のレベルにとどまるが、積極的パターナリズムは、現状より良くすることを目指すため、より能動的な干渉を行う。

 ついでに言えば、パターナリズムの母国、イギリスは、1998年に人権法が制定されるまでは人権の概念を知らず、今日においても社会権の概念を知らない。そこで、国による初等教育の実施(日本でいう義務教育)や受刑者に対する職業教育も、積極的パターナリズムとして説明されることになる。積極的パターナリズムは、その意味で、社会権とよく似た概念である。社会権の場合、国の干渉行為は国の国民に対する義務の履行と構成されるのに対し、パターナリズムでは、国の温情と説明される。

 我が国の発達した人権意識を通して見ると、このような概念構成には危険性を感じる。すなわち、パターナリズムは、干渉される者の利益という正義の御旗の下における人権侵害の肯定であるから、どこまでの干渉が妥当かを決定する法的メルクマールが存在しない。このため、ややもすると、国家が私人の自由に対して過度の干渉を行う危険性があるからである。たとえば、生徒の利益のためと称して、教師が体罰を行ったり、さらに、学校が校則で、バイクの免許取得、購入、使用の禁止を行ったり、髪型の規制を行ったりする行為は、いずれも積極的パターナリズムと構成されることになる。これらは間違っても権利の衝突の場面ではないので、公共の福祉からは説明できないからである。

 しかし、パターナリズムを否定しきれないのも事実である。かつて、アメリカ連邦最高裁判所は、1969年のティンカー事件で、公立学校の生徒は「一歩校門を入ったら、言論又は表現の自由等の憲法上の権利を失うものではない」という格調高い表現で知られる生徒の人権容認判決により、キディリブを生み出した。が、それによりいわゆる学校の荒廃が激化し、単に児童生徒の学習能力が低下するばかりでなく、性風俗の早熟化、麻薬や銃器の濫用等に象徴される心身両面に渡る問題の発生から、最高裁判所自身も、1986年には学校当局による持ち物検査を、1987年には生徒総会における発言の中止を、そして1988年には高校新聞の検閲を、それぞれ是認する判決を下すという調子で、完全に自由主義抑制傾向を見せ、現時点においては完全に1969年以前の段階に戻ったと言われている。米国では、その主導で制定された児童の権利に関する条約を今も批准していない。つまり全面的なパターナリズムの台頭がここには認められる。

 そこで、パターナリズムを承認しつつ、パターナリズム概念の濫用を押さえようという考え方が出てくる。それが、「限定されたパターナリズム」といわれるものである。これは要するに、常識的にみてどうしても干渉が必要と思え、それに対する法的論理としてはパターナリズムしかないという場合だけに、その使用を限定しよう、という考え方である。佐藤幸治の場合、その限定の物差しとして、自己加害の禁止という場合にのみパターナリズムを承認すべきである、と考えている訳である。

 確かに、自己加害の禁止を宮沢俊義流の公共の福祉で説明することはできない。しかし、パターナリズムは、これまでに説明してきたとおり道徳とは一線を画する原理として開発されてきた概念であるから、それを道徳を背景にして説明することは不可能である。では、何を根拠として、パターナリズムは正当化されるのであろうか。

 私見によれば、それは福祉主義である。例えば児童生徒に対して憲法は教育を強制することを予定している。この強制は自己加害の禁止として限定されたパターナリズムと説明することも可能であろうが、その実態は福祉主義であることに異論はない。

 すなわち、我が憲法の依って立つ基本原理として、自由主義とならんで福祉主義が存在し、この二大原理の衝突と調整という形でパターナリズムは登場するわけである。先に、社会権と近い概念だといったのはそういう意味である。このような意味でいう福祉主義的干渉までも、13条の「公共の福祉」という言葉の中で読み込むことも可能であろう。しかし、宮沢俊義以来ほぼ確立した感のある公共の福祉概念をここでいじくるのはあまり感心しない。私はその意味で、13条と25条の相克として把握するのが妥当と考えている。

 自己加害の禁止以外に、自己の能力を現状より伸ばす積極的パターナリズムも肯定される必要がある(例えば刑務所による職業指導)が、これも福祉主義により可能となる。