国政調査権の限界
問題
民間鉄道会社
Xは、通勤時間帯において極度の過密ダイヤを組み、そのダイヤを遵守する手段として、ダイヤ混乱の原因となった列車運行に責任のある運転手に、過酷な再訓練を施す旨の内規を定めていた。某日、通勤時間帯において列車の運転を行っていた某は、運転ミスを繰り返したため、ダイヤから数分遅れて運行していた。そこで、遅れを取り返すべく、急カーブに
X社が定めている制限速度を大幅に超える速度で侵入した結果、列車は脱線し、運転手本人を含む多数の死者を出し、さらにおびただしい数の負傷者が発生するという事故が発生した。マスコミは、事故の原因について、過酷な再訓練を恐れるあまり、無理な運転で遅れを取り戻そうとしたためと報道した。衆議院国土交通委員会では、この事故を調査するため、
X社の社長Yを証人として喚問した。Yに対する質問としては、X社の社内体制や事故の発生原因、事故発生に対するYの責任、事故発生当時におけるYの私生活上の行動等が予定されていた。Yは、事故発生に伴い、極めて多忙であることを理由に喚問を拒否した。この結果、議院における証人の宣誓および証言等に関する法律7条1項に違反したとして、告発され、起訴された。
法廷において、
Yは、本件喚問は、次の理由から違憲・無効なので、無罪である旨を主張した。1
国政調査権は立法権の補助権能として認められるのであるから、そもそも法律改正等を予定していない本件において、国会に調査権限は無い。2
仮に、行政権一般に国政調査権が及ぶとしても、民間企業であるXの社内体制には、国政調査権は及ばない。3
仮に民間企業に及ぶとしても、(
1) Yの多忙さを無視した喚問は、調査権の濫用である。(
2) Y自身の責任について調査するのは、自己に不利益な供述を供用されないことを保障した憲法38条1項に違反する。(
3) Y自身の私生活について調査するのは、プライバシー権の侵害であって違憲である。Yの主張は認められるか論じよ。
類題
検察官が捜査中の刑事事件について、報道機関が、国会議員Aの絡んだ贈収賄事件に発展するかもしれないと報道し始めた段階において、A所属の議院が、真相を解明する必要があるとして、担当検察官及びAを証人尋問することには、憲法上いかなる問題があるか。また、Aが起訴された段階及びその裁判が確定した段階においてはどうか。 (平成3年度司法試験問題)
[はじめに]
現行憲法の場合、国政調査権が存在することは明らかであるが、それがなぜ、どの範囲で認められるかについては明文の規定がなく、議論の分かれるところである。したがって、本問の論文はそこからスタートすることになる。そして、議論は、国政調査権そのものではなく、憲法
41条に言う国権の最高機関という言葉をどのように理解するか、という点を結びつく形で始まる。したがって、本問の最初の論点は、そこにある。それをはずしてしまうと、事実上小問1が答えられないことになってしまうのである。このレジュメでは、そこより少し前の基本的な概念論から説明を開始するが、これは諸君の理解の確実を期するためのもので、諸君の論文は、上述のように
41条の議論から始まればよい。ただ、いつも強調するとおり、論文はゼロサム・ゲームである。本問の力点はあくまでも国政調査権にあるから、41条に関する議論を書きすぎると、その分、肝心の国政調査権に関する議論が手薄になり、落第答案になる恐れが出てくる。41条の議論をどう簡略化するか。そこが諸君の実力の最初の見せ場である。一 総論
(一) 概念
国家機関が、その有する権能を有効に行使するため、自らが必要とする事実を収集し、これに基づいて自己の見解を形成する権利を有しているのは、立法、司法、行政のいずれの機関であるとを問わず、当然のことといえる。ただ、行政や司法の場合には調査活動はその本来の機能の一部であると言えるのに対して、立法権の場合、本来の活動には、事実を調査するという機能が含まれているかどうかが概念的にはっきりしない。初期の議会は、人民が特定の要求があるときに開かれるか、国王に特定の要求がある時に、その適否を議論するために開かれていたために、特に国政調査の必要がなかったのである。しかし、議会が常設機関化してくると、自らの権能を適切に行使する手段として、その背景となる権限を行使する必要が生じてくるのは当然のことといえる。
(二) 諸外国の状況
上述のとおり、議会の調査権は、その活動の当然の要請だから、どこの国でもその権限は認められている。しかし、どのような制度の国で、どのような形で認められるかを知ることは、わが国の制度について議論する際にも重要なことであるので、以下紹介する。しかし、当然のことながら、このようなことを国家試験論文のレベルで書く必要はない。むしろ、以下の記述は、国家試験レベルで不用意に外国制度を引用することの危険性を警告する意義の方が大きい。
1 イギリスの場合
16世紀に下院が選挙調査を行ったことに始まり、徐々に内閣その他の行政機関の不正行為に対する政治調査、立法準備のための立法調査などに拡大していき、19世紀にほぼ確立した。ただし同国においては、議院内閣制の下、内閣に協力する道具として考えられているといわれ、行政庁を統制する手段としての機能は低い。議院内閣制では、議会の多数派と内閣とが常に一致しているのであるから当然といえる。
この点、わが国の通説は、議院内閣制という前提から、いきなり行政庁統制手段としての国政調査権を導くが、この議論は少しきめが粗いことが判る。おそらく、後述のドイツ法の理論が混入しているためであろう。
2 米国の場合
憲法には議会調査権に関する規定はなく、黙示の権限(
implied power)として考えられた。したがって、憲法上明文で議会の権限とされた権限、特に立法権の補助機能として構成される必要があったのは当然である。同国は厳格な三権分立理念を採用しているので、国政調査の対象は立法府の権限内の事項に限定されることになるから、国政調査権に行政府の監督機能は含まれないものとされている。ただし、学説的には立法府の権限とは関係のない独立権限として構成しようとする有力説が存在する。その場合、立法府として、選挙民に対する情報提供を行う義務があるという、政治責任を根拠に構成することになる。わが国最近の少数説の根拠はここにある。
後述の補助権能説の論者が、アメリカからの継受法であることを、その説の根拠の一つとして書く例が多いが、その場合、立法権のみの補助権能と考えないと、説が矛盾する点を注意するべきである。
3 ドイツの場合
プロイセン憲法では、議会が国王に対して上奏文を提出するための「事実調査委員会を任命できる」(
80条)と定めていた。そしてドイツ流の考え方では、事実の認定とそれに対する評価は峻別されるところから、この調査権によっては行政府の活動に対する評価を行うことが許されなかったため、低調に推移した。この点を反省したマックス・ウェーバーは、議会調査権が@行政府統制手段として機能すべきこと、A院内少数者の請求があれば調査権を発動する必要のあること、B調査は公開で行われるべきこと、という
3原則を説いた。これを受けて、現行ボン基本法は、その
44条で、調査の主体は委員会であること、議員の4分の1以上の請求があれば必ず調査委員会を設けなければならないこと、調査は公開で行われることを原則とすること、証拠調べには刑事訴訟法の規定が準用されること、裁判所及び行政官庁は法律上及び職務上の援助を行う義務を有すること、等を定めている。この影響から、わが国では国政調査権を語るとき、前述の通り、一般に行政監督権の補助権能と述べることが多い。そのこと自体に異論はないが、少数意見の尊重というメカニズムが組み込まれていないわが国で、その点を強調するのには無理がある。この点、「調査権の主体」論の一環として後述する。
(三) わが国の沿革
わが国明治憲法は、プロイセン憲法を継受したが、事実調査委員会については、その設置さえも、議会の行政府に対する侵害になると把握し、意識的に排除した。ただ、議院法(現在の国会法に相当する)においては調査権を承認したが、国務大臣及び政府委員以外との交渉を禁ずるとともに、必要な報告または文書の提出を政府の裁量に委ねていたため、ほとんど実効性を確保することができなかった。
現行憲法の制定に際し、マッカーサー草案
54条では、次のような強力な国政調査権が予定されていた。「国会は調査を行い、証人の出頭及び証言並びに記録の提出を求めることができる。これに応じないものを処罰することができる。」
だが、このように強力な調査権を導入することには日本側に強い躊躇いがあり、ここから処罰規定を削除した形で、
62条は制定された。しかし、現行憲法制定直後の第1回国会において、早くもこうした規定の不備が痛感され、昭和22年に議院証言法が制定されるに及んで、ようやくわが国の国政調査権は、出頭や証言に強制力を伴う現在の姿になったのである。二 権限の性質
国政調査権の性質について、二つの大きな学説の対立がある。これは、しかし、国政調査権そのものに関する対立というよりも、憲法
41条にいう「国権の最高機関」という文言をどう理解するか、という点に関する学説の対立が、国政調査権に反映している、と理解するのが正しい。(一) 補助権能説
憲法改正に際して国民投票が明確に予定されている現行憲法の下では、国民が国家機関として活動するため、国権の最高機関とは国民(すなわち有権者集団)以外に考えられない。また、三権分立制の枠組みの中においては、立法機関たる国会が他の二権に優越することはありえないとする。したがって、国権の最高機関という文言は、単なる「政治的美称」であって、法的意味はないとする。この場合、国政調査権は、国会ないし議院の個別の権能を補助するものと理解する必要があるため、「補助権能説」と呼ばれる。
なお、政治的美称説とは、国会が政治的には国政の最高機関として活動していることを承認しているのであって、最高機関という言葉がまったく無意味と主張しているのではないことに留意してほしい。
注意点:政治的美称説をとる人で、その根拠として単に権力分立制だけをあげる人が目立つが、それでは大幅減点はさけられない。なぜなら、第一に、本来「国権の最高機関」という言葉は、国会の国民主権原理の下における正統性を強調した用語であり、政治的美称という用語自体も、また、民主主義的重要性を肯定していることを意味している。したがって、少なくとも民主主義的意味における法的意味の不存在を述べないと、法的意味を否定したことにはならない。第二に、政治的美称説の根拠は、基本的に消去法、すなわち理論的にあり得るすべての語義を否定した結果、法的意味はない、とする論証方法であるい。したがって、民主的意味を否定するだけでは不十分で、考え得る様々な法的意味をすべて否定する必要がある。上述の場合には、数多い可能性の中から自由主義に基づく権力分立制的な意味もない、ということだけを述べるという簡略法を採っている。まだ可能性が残っているから、これでも減点されることはやむを得ない。しかし、少なくともこの程度の書き方をしていると、基本的な問題点と消去法の二つをきちんと意識して書いていることを採点者にアッピールしているので減点は最小にとどめることができる。詳しくは、第
この場合、補助権能を認める国会の権能に関する見解の相違から、権能の内容についての理解は、大きく二つに分かれる。
1 立法権補助権能説
憲法
41条の最高機関性の法的意味を否定する以上、国会の権能の中心は立法機関であるとして、国政調査権は、法律案及び予算案の審議議決に必要な事項に限定して肯定されるとする見解である。米国の通説・実務に近い立場ということができ、また、イギリスの実務とも近い。継受法解釈が大きな根拠となる。かつては通説であったが、国会における実務は、立法権に拘らず、幅広く国政調査権の行使を承認しているため、この説をとると、現実の国会の調査活動をほとんどすべて違憲といわなければならなくなる。そのため、最近支持者を減らしている。今日では小林直樹が代表的存在である。2 全面的補助権能説
41条の議論を離れて、憲法が立法の外、国会中心財政主義による広範な財政権を認めること、議院内閣制を基礎に広範な行政監督を承認し得ることなどにもとづいて、立法の他、財政や行政に関する幅広い機能の補助機能性を認める見解である。清宮四郎、芦部信喜などが代表的存在で、今日では補助権能説の中ではこちらが通説となってきているといえるであろう。この説をとる場合、事実上、次に述べる独立権能説との差異はほとんど存在しなくなる。
(二) 独立権能説
国権の最高機関という文言に法的意味を認めるという場合にも、上記政治的美称説の主張を否定しているわけではない。学説は、国民主権原理を基礎に、国民の直接の代表者によって組織される国会が、権力分立によって分裂した国家活動を総合調整機能を有していると理解する。この権力統合的機能を憲法が最高機関と呼んでいる、と考えるのである。この場合、この総合調整機能の行使を補助するために国政調査権があると考えられるので、国政調査権は、立法権その他、個別の国会の権能からは独立して行使し得ることを認めることになる。そこで、「独立権能説」と呼ばれる。
しかし、上記のとおり、国権の最高機関という地位の補助権能として認めているのであるから、その行使によって、他の権力の活動を侵害するようなことは当然許されない。
補助権能説の根拠として、独立の権能などはない、という式の書き方をして、独立権能説を批判しているつもりの人がよくいるが、独立権能という言葉は、単に、補助権能説との対比でそう呼ばれているだけで、調査権が完全に独立の権能として存在すると主張しているわけではないので、誤解に基づく批判である。特定の説を記述している基本書だけを読んでいると、他説の内容や根拠についての正確な知識を得ることは難しい。したがって、いつも強調するとおり、他説を批判は危険なのでやめ、ひたすら自説の積極的根拠付けに力を入れるのが正しい論文の書き方となのである。
この説の論者としては、古くは佐々木惣一、大石義男等があり、今日では佐藤幸治、阪本昌成等がある。
(三) 国民の知る権利に奉仕する権能説
この点に関する付随的な論点として、国政調査権を、議会権能の補助目的ではなく、主として国民に対する情報提供、世論形成の目的で行使することはできるか、ということが論じられるようになってきている。
この説は、米国の議会調査権について説明したとおり、従来の独立・補助の対立とは異なる根拠から説明する、第三の説であり、既存の国会の権限から説明しないという点からは第二の独立権能説ともいうべきものである。このアメリカ流の把握をそのまま肯定するものとしては、奥平康弘がある(有斐閣叢書『憲法V』)。
独立権能説の立場から、こうした拡大した権能の存在を承認とするものとしては、佐藤幸治(第
3版197頁)がいる。すなわち「国会は国権の最高機関として国政の中心にあって世論の表明・形成の中心であることが期待されるのであるから、国政調査権の持つ国民に対する情報提供機能・争点提起機能は軽視さるべきではなく、むしろ調査権のそのような機能を前提とした上で、他の政府利益や国民の基本的人権との現実的調整がはかられるべきものと解される。」
同様の結論を、わが憲法が国民主権ではなく人民主権であるとする解釈に基づいて、これを肯定するものとして杉原泰雄がいる。
反対に不可とするものとしては小嶋和司、伊藤正己などがいる。
論理的にいって、独立権能説を採れば、こうした論理に拡大することが可能であるが、補助機能説を採りながら、この見解を採ることは、通常は不可能ということができる。
三 調査権の主体
本問では、この点は論点とならないが、参考のため論じておく。
調査権の主体としては、憲法上は、議院が予定されている。実行上は、議院がその決議により常任委員会または特別委員会に対して、その主たる権限内に属する事項について授権するという方法をとられるのが普通である。常任委員会に対する授権に当たっては、本来はそのために個別に授権するべきであろう。が、実際上は、常任委員会の所管事項とされるものをほぼそのまま、列挙して、それに関して授権するという議決を国会の冒頭で行っている。
少数者保護という点も、わが国の場合の一つ問題である。議院内閣制を採用している場合には、与党はこのような特別の規定がなくとも、行政その他の調査を事実上行うことが可能である。したがって、こうした権限を特に憲法で認める場合には、ドイツボン基本法に見られるように、当然少数者保護が考慮されなければならない。わが国では、特にこの点についての法的保護は与えられておらず、政争の対象となっているのは問題であろう。本来は憲法それ自体が定めるべきであった。しかし、法律で定めることも可能であるので、立法的解決の期待されるところである。
国会における現実の慣行としては、全会一致制が採用されており、上述の問題の逆になっている。これは、多数会派が国政調査権を乱用することを防止するという点では有意義であるが、野党による国政調査手段としては空洞化する点に問題がある。
四 調査権の行使方法
本問では、この点も論点ではないが、参考のため論じておく。
憲法は調査の行使方法として「証人の出頭及び証言並びに記録の提出」を要求できることとしている。これを受けて、国会法は、調査のための議員の派遣(国会法
103条)、官公署に対する報告又は記録の提出の要求(同104条)及び証人又は参考人の証言(同106条)という三通りの調査方法を予定している。このうち、特に証人の証言については、議院証言法が制定され、刑事罰を伴う強制力が認められている。これに関連して、調査手段として逮捕、捜索、押収等の権限を立法的に導入することが憲法上許されるか、という問題がある。
一般に不可と解されているが、その理由を明記している論者は見あたらない。その結果、論及する場合には、自分で理由を考えてつけ加えなければ、十分な加点を期待することはできない。
思うに、マッカーサー草案のように、議会に明示的にそれを予定していた場合はともかく、削除されている現行憲法の下においては、我が憲法の採用している令状主義から見て、司法官憲にしか、そのような許可は行うことができない。したがって、議会にそうした権限を直接付与することは立法によってもできないというべきである。
ただ、議会が裁判所に申請して、司法官憲による令状発布を求める、という立法であれば、令状主義に違反しないので、合憲といえるのではないか、と考えている。
五 調査権の限界
ここからがいよいよ本問の本格的な論点である。小問
2がいう民間企業に対する調査が国政調査といえるか否かという問題以下を考えねばならない。補助権能説に立つにせよ、独立権能説に立つにせよ、国政調査とは、
「国会の権能を有効適切に行使するために行う調査を意味する。したがって、国会の権能とはまったく関係のない事柄、たとえば個人の純然たる私的行動などは、ここにいう『国政』に含まれず、国政調査の対象になり得ない。また、国家作用であっても、国会の権能の外にあるものは、ここにいう『国政』に含まれない。」(宮沢俊義『全訂日本国憲法』芦部信喜補訂版、
と考えるべきことに異論はないであろう。
したがって、国政調査権は、二つの大きな限界を有していることになる。
第一に、「国会の権能とはまったく関係のない事柄」に関する調査である。これが具体的に何かが、本問の中心論点である。
第二に、「国家作用であっても、国会の権能の外にあるもの」である。これは、三権分立制から発生する限界と理解すればよい。独立権能説であると、補助権能説であるとを問わず、三権機関の一に過ぎない国会の構成機関である議院として、その有する権能の補助として調査権を行使できるに過ぎないから、他の二権、すなわち司法府及び行政府に対して憲法が保障する自律権、独立権を侵害するような調査を行うことはできない。具体的には行政権及び司法権に対する干渉となるような行使は許されない。これは本問と直接関係はないが、せっかくの機会なので後で説明したい。
(一) 民間企業に対する調査
民間企業の活動は、それ自体としては調査対象とならない。かつて日本相撲協会に対して、その経理状況等について国政調査が行われたが、清宮四郎先生は、講義中にこれは明らかに越権行為であると非難されていた。しかし、それは国政との関わりなく、単に相撲が国技であるという理由で行われた点を問題にしたものである。
本問の場合、民間企業といっても公益企業であり、次のような点に国の行政との関わりがある。すなわち、鉄道事業法の定めるところによれば、国土交通大臣より、鉄道事業を行うためには許可を受けねばならず(
3条)、工事や施設について検査を受けねばならず(10条、11条)、車両の確認を受けねばならず(13条)、料金を定めあるいは変更するに当たっては認可を受けねばならず(16条)、運行計画は届け出ねばならず(17条)、事故を起こしたときには報告しなければならない(19条)など、様々な規制の下にある。換言すれば、国土交通大臣は、こうした規定をきちんと遵守させることで、鉄道事業の安全や適正を確保する義務を負っている。この国土大臣の活動は国政に属すると言うことができる。そして、この国政が適切に行われているかどうかを調査する手段としては、民間鉄道事業者の元において、国土交通大臣の活動を調査するのが最善である。この結果、民間事業そのものが国政調査権の対象になるのではないが、民間事業者の元において行われている国家機関の活動を調査することが許される限度において、民間事業者もまた、国政調査権の対象になるというべきである。
したがって、この限度で、
Yの小問2の主張は失当である。(二) 人権
国政調査権といえども、個人の人権を侵害することが許されないのは当然のことである。ここから小問
3の様々な問題が発生してくる。1 小問
3−1の「Yの多忙さを無視した喚問は、調査権の濫用である。」という点はどうだろうか。実はこの点は、憲法以前に、議院証言法が解決している。すなわち、第
とされており、事故直後の多忙というのは当然のことであって、「その他の理由」に該当すると考えられる。したがって、国土交通委員会としては、特に必要なのか否か、また、議院外への出頭で問題が回避できないか、等の検討をする義務があり、一方的に出頭を命じたのは失当と言うべきである。
2 小問
3−2の「Y自身の責任について調査するのは、自己に不利益な供述を供用されないことを保障した憲法38条1項に違反する。」という点については、これまた議院証言法第4条第1項が、憲法38条をさらに拡大し、自分や近親者等が刑事訴追を受け、あるいは有罪の判決を受けるおそれのある質問についての拒否権を認めている。したがって、これは出頭した上で拒むことが可能であり、出頭そのものを拒否するのは行き過ぎといえる。3 小問
3−3の、「Y自身の私生活について調査するのは、プライバシー権の侵害であって違憲である」という主張も、それ自体としては正しいものといわねばならない。それ自体は国政に関係のない事項といえるからである。ただし、Yの公人としての立場と関連する限りにおいて、プライバシー権は縮減し、証言を強要される場合もあり得ると言わなければならない。また、証言を拒否すれば足りるのであって、出頭そのものを拒む理由とはならない。以上をまとめれば、出頭拒否罪の成否は、結局、小問3−
1の、多忙を無視した喚問という点をどう評価するにかかっていると言うことができる。補論 権力分立制に伴う限界
以下は、本問とは関係がないが、通常問題となる点なので、この機会にあわせ説明することとする。
(三) 行政の中立性による限界
わが憲法は議院内閣制を採用しているため、国会は広範な行政監督権を有すると考えるのが通説である。この立場では、厳格に三権分立が貫かれている憲法の下にある場合に比べて、国政調査権の限界は比較的緩やかに考えられることになる。
この点は、先に述べたとおり、比較法的には明らかに無理のある解釈であって、学説としては猛省を要するところであるが、君たちの論文レベルでは気にする必要はない。
しかし、それは決して無限定に行政権に対して国勢調査が可能という意味ではない。現行法上認められる限界としては、検察に関する場合と、一般行政に関する場合とで違いがある。
1 検察権の自律性
検察事務は、本来行政作用であるから、犯罪捜査、公訴提起、不起訴処分など検察事務の運営方法についてその妥当性を調査することは、原則として国政調査権の内容となる。しかし、同時に検察活動は準司法活動ともいうべき性質を有するため、直接の上司である法務大臣でさえ、個々の事件の取調又は処分については法務大臣のみを指揮することとされている(検察庁法
14条参照)。したがって、国政調査権の行使に当たっても、議院はその行使を自制する必要があると考えられる。そこで、本問で問題とされている、現に検察が調査中の事件を同時並行的に国政調査することが許されるか否かが論じられることになる。これは会計検査院の報告に端を発したいわゆる「二重煙突事件」において、実際に問題となった。
この点については現に犯罪としての捜査や公訴が進行中の事実については、同時に議院が調査を行うことは許されない、とする見解もある(小嶋和司、伊藤正己等)が、捜査中の事件や継続中の事件と同一の社会的事実の併行調査も、検察行政や司法作用に干渉し、これらに支障を与えるようなやり方をしない限り、差し支えない、とする見解の方が有力である(芦部信喜、清水睦、杉原等)。
日商岩井事件に関して、東京地裁は、次のように述べた。
「行政作用に属する検察権の行使との並行調査は、原則的に許容されているものと解するのが一般であり、例外的に国政調査権行使の自制が要請されているのは、それがひいては司法権の独立ないし刑事司法の公正に触れる危険性があると認められる場合(たとえば、所論引用の如く、(イ)起訴、不起訴についての検察権の行使に政治的圧力を加えることが目的と考えられるような調査、(ロ)起訴事件に直接関連ある捜査及び公訴追行の内容を対象とする調査、(ハ)捜査の続行に重大な支障を来たすような方法をもつて行われる調査等がこれに該ると説く見解が有力である。)に限定される。」(昭和
また、調査の唯一の目的が、個人の有罪性の調査にある場合も、検察ないし裁判の機能を国会が行おうとするものであって、違法である。実際に問題となったものとしては、いわゆる「吉村隊長事件(シベリアの捕虜収容施設で、日本側の隊長が『暁に祈る』その他の捕虜虐待を行ったといわれる事件)」を昭和
24年に参議院在外同胞引き揚げ特別委員会が調査した例がある。2 公務員の守秘義務(国家公務員法
100条、議院証言法5条参照)公務員は国家公務員上守秘義務を負っており、その義務は上司によって解除されない限り、国政調査に対しても主張しなければならない。この場合、議院は、その上司に対して守秘義務の解除を要求することができる。最終的には、行政の頂点に立つ内閣総理大臣の決定事項となる。内閣総理大臣が拒むと決定した場合には、実定法解釈としては、議院としてはこれを受け入れるほかはない。ただし、そうした決定に対して、議院が内閣総理大臣に政治的責任を追及するのは、別の問題となる。
これに対して、秘密性があるか否かを議会が認定できるという考え方もある(厳格説)。この場合には、現行の議院証言法は違憲と解することになるであろう。権力分立制との関連において、そもそも、行政上の秘密がなぜ国政調査権の対象から除外されうるのか、という点からの考察が必要な部分である。この点については、そう難しい問題ではないので、改めて自分の力で考えてみよう。
(四) 司法権の独立に伴う限界
司法権に対しては、特にその独立性が憲法上強く保障されているため、その限界に関する議論もまた厳しい形で展開される。
第一に、現に裁判で係争中の問題に関して、議院が独自に並行的に調査することが許されるか、という問題である。本問では、起訴後にはどうか、という形で聞かれている。
第二に、確定判決後に、裁判そのものを対象として調査することは許されるか、という問題がある。本問では、判決後にはどうか、という形で聞かれている。
前者については、現実問題としてかなり行われており、裁判所としても必要とあれば、拘置所から被疑者を国会に送るについてこれを協力するなどの行動に出ている。要するに、捜査中の事件と同じ観点から、その当否を論ずることが可能となる。この視点の調査は、あくまでも裁判とは異なる視点で行っているのだから、判決確定後ももちろん問題なく国政調査ができる。
後者について問題となった事件としては「浦和充子事件」がある。これは、参議院が同院法務委員会に対して「裁判官の刑事事件不当処理等に関する調査」を命じたのを受けて、同委員会が判決確定後において浦和事件を調査し、「裁判官の量刑は当を得ないものである」と決議して、その刑が軽いことを非難したのに対して、最高裁判所が抗議したものである。本問の場合、「真相究明」という言葉が検察の行う活動と同種の調査と考えた場合には、捜査中及び裁判中に許されないのは当然として、判決確定後にはどうか、という形で論じられることになる。
これについては、国政調査は、司法権の独立を侵すか否かにかかわらず、元々裁判批判のための権限ではないのだから、事実認定や判決の当否について調査できないとする立場(芦部信喜『憲法と議会政』
162頁)もある。しかし、裁判批判を通じてはじめて現行の訴訟関係法の当否が判断できることを考えると、このような全面的否定が妥当性を有するとは考えられない。ドイツ・ボン基本法が明文で許容していることも考え併せるならば、原則的には司法権も対象となるものであり、ただ、自制が要求されると考えるべきであろう。すなわち、本問で「真相解明」という曖昧な語を使用して出題したのは、まさに、このように、論点に応じてこの言葉の意味を違えて論ずることを要求したものと理解するべきであろう。
これに関連して問題となるのが、国会が裁判官の弾劾裁判所としての権能を持つことから、その訴追手続きの前段階として、訴追委員会による具体的事件における裁判官の訴訟指揮の当否に対する調査を行うことが許されるか、という問題がある。
具体的には、「吹田黙祷事件」において、委員を派遣しての現地調査を実施したり、裁判長を証人として喚問しようとして問題になった例がある。
弾劾という憲法の与えている権限の性質から考えて、これを原理的に否定することはできないであろう。ただ、その運用が司法権の独立を侵害することの内容に、相当の自制が要請されるとするべきであろう。