司法権の概念

甲斐素直

問題

下級裁判所の裁判権の行使に関し,「下級裁判所は,訴訟において,当該事件に適用される法令が憲法に違反すると認めるときは,その事件を最高裁判所に移送して, 当該法令の憲法適合性について最高裁判所の判断を求めなければならない。」という 趣旨の法律が制定された場合に生ずる憲法上の問題点について論ぜよ。

平成13年度司法試験問題

類題1

以下の各訴えについて、裁判所は司法権を行使することができるか。

1 国会で今制定されようとしているA法律は明らかに違憲であるとして、成立前に無効の宣言をするよう求める訴え。

2 B宗教の教義は明らかに憲法第13条の個人の尊重に反しているとして、その違憲確認を求めてC宗教の信徒らが提起した訴え。

3 自衛隊は憲法第9条に違反する無効な存在であるとして、国に対して、自己の納税分中自衛隊に支出した額の返還を請求する訴え。

平成14年度司法試験問題

類題2

 住民訴訟(地方自治法第242条の2)の規定は、憲法第76条第1項および裁判所法第3条第1項とどのような関係にあるかについて論ぜよ。

 また、条例が法律に違反することを理由として、住民は当該条例の無効確認の訴えを裁判所に提起できる旨の規定を法律で定めた場合についても論ぜよ。

平成9年度司法試験

【はじめに】

(一) 基本的な論点

 憲法76条は、司法権が裁判所に属するといっているが、その司法権がどのような概念であるかについては、解釈にゆだねて沈黙している。それをどのように解釈するかは、本問に見られるように、特に違憲審査権を巡って大きな問題となる。そのため、二つの類題に示したとおり、旧司法試験では、近時繰り返して取り上げられた。

 本問は、その出題の前年、平成12年に開催された公法学会総会で、現在中央大学法学部の教授である畑尻剛が報告したものが基調となっている。

 そこで論点となっているのは、違憲審査権の根拠が76条か、81条かということである。76条が根拠であれば、すなわち司法権概念の中に違憲審査権までが当然に包含されていると考える場合には、司法権の行使期間という点では、最高裁判所と下級裁判所とで権限に差はないから、下級審から違憲審査権を奪うこの法律は違憲になる。それに対し、違憲審査権は81条が与えた特別の権限と考える場合には、その特別性をどこに求めるかにより、こうした法律を肯定することが可能になる場合が生じる。

 そのため、12年の学会においては、76条派と81条派で鮮やかな対立を示して論争が繰り広げられた.。関心のある人は、畑尻剛「憲法裁判所設置問題を含めた機構改革の問題―選択肢の一つとしての憲法裁判所―」日本公法学会編『公法研究63号』有斐閣刊110頁以下及びそれに関連したシンポジウムに於ける討議を参照してほしい。

 この問題で、多くの諸君が犯す誤りが、本問を抽象的事件訴訟に関する議論と読むことである。注意して問題を読んで欲しいのだが、この法律では、具体的な事件が有効に下級裁判所に係属することが、違憲審査を行うための条件となっている。その意味では、具体的な事件に付随して憲法解釈を行うという問題である。ただ、直接的な違憲審査権を下級審から奪っているにすぎない(下級審が違憲と判断しない限り最高裁判所に係属しないのだから、違憲の可能性があるかどうかの審査権自体は下級審に留保されている)。だから、この法律を、ズバリ抽象的事件審査を認めるものかどうか、と論ずるのは正しくない。

 ただ、一種の抽象的事件審査ということは可能である。すなわち抽象的事件審査という言葉の使い方としては、二通りの言い回しがある。「法律の合憲性を争って国会議員が提訴するという抽象的審査のほかに、通常の訴訟過程で生じた憲法問題を最高裁判所に移送する制度などもある」(戸波江二『憲法』新版440頁)。だから、そこでいう後者のニュアンスで抽象的違憲審査という用語を使用しても構わない。しかし、前者が付随的事件性とは完全に切断されているのに対して、後者は付随的事件性の枠内の問題である、という大きな違いがあることは、理解しておかねばならない。その結果、仮に、付随的事件性を必要と考える場合にも、違憲審査権は76条ではなく、81条から導かれると考える限り、本問の法律を合憲と考えることが可能なのである。

 9年の問題と、13年の問題は、どちらも司法権概念を問題にしているが、最終的な論点となっているところは違っている。9年の問題の場合、住民訴訟は、具体的争訟という概念をかつての通説・判例的定義にしたがって下した場合、それに該当しないということが問題になる。つまり、抽象的争訟が、実定法において既に定められている状況下で、司法権概念をどのように定めるのが妥当か、という問題なのである。9年の問題の限りでは、住民訴訟は裁判所法3条にいうところの、その他法律で定める事項と考えれば一応説明はつく。しかし、そこで論文を終わりにすると、あまり点が伸びない。なぜなら、そう考えた場合、違憲審査権の根拠が76条にあるという説を採る限り、住民訴訟で違憲審査権を裁判所が行使するのは間違いという答えが出てくる点である。そこまで踏み込んで、解答する姿勢がほしい。

 14年の問題の場合には、小問形式なので、様々な問題が含まれる。したがって、オーソドックスな展開を総論でするのが妥当ということになる。

(二) 論文の書き方

 諸君の論文にある一般的な問題点について、以下、述べる。

 第1に、定義は真空中から湧いてくるものではない。必ず理由がある。したがって、ある概念について定義を与えたならば、必ずその理由を述べねばならないということを理解してほしい。ここでは、違憲審査権ないし司法権概念について定義を与えて論ずるわけだが、諸君の多くは、全く根拠を示すことなく、司法権とは「具体的争訟について、法を適用し、宣言することによって、これを裁定する国家の作用」と述べ、それが絶対的に正しいことを前提に後の議論を展開する。

 しかし、この定義の当否こそが、本問で中心に論じてほしい点なのである。この定義を支持することは構わないが、何故支持するのか、という理由は、絶対に欲しい。例えば、佐藤幸治の唱える法原理機関説からそれを導くのだ、ということが読める答案構成を工夫しなければ、その段階で落第答案である。

 第2に、根拠は、形式・実質の二つの方向から与えねばならない。特定の条文をあげても、それだけでは根拠にならない。わかりやすい例を挙げると、憲法41条で「国会は国権の最高機関」と明言しているにも拘わらず、わが国で、この条文がこの文字通りの意味を持つと理解している学説は全くない。実質的根拠が欠けているからである。このように条文だけでは憲法学では根拠たり得ないのである。

 特に、憲法解釈に当たって法律の文言を根拠にすることはできない。諸君が法学で学んだとおり、法段階説上、上位の法規範の根拠を下位の法規範に求めることは不可能なのである。本問の場合、裁判所法31項を根拠に、76条が具体的争訟性を要求しているのだ、と書く人が案外に多い。しかし、下位法の文言が上位法たる憲法の解釈と相容れない場合には、下位法は違憲と評価されるべきである。したがって、仮に裁判所法の文言が明白に具体的事件性を要求している場合にも、それを根拠とすることはできない。現実問題としていえば、諸君が書く裁判所法の解釈は、76条で具体的事件性が要求されていると読むことを前提に展開されたものであって、76条の解釈を変えれば、当然に裁判所法も違えて解釈されることになる。

 第3に、判例はそれ自体としては根拠にならない。仮に将来、諸君が弁護士になって活動する際に、判例が諸君の依頼人にとり不利な問題については、全て争うことをあきらめるのだろうか? あるいは判事となって判決を書く際に、従来の判例を機械的に踏襲するのだろうか? そんなことはないと信じたい。判例はあくまでも学説と同様に一つの見解であり、十分に理由を挙げれば、覆しうるのである。判例の結論に賛成するにせよ、反対するにせよ、諸君としては、それを支える理由が必要なのである。判例を引用して、「したがって」という感じに結論を導いている論文は、その意味で完全に落第答案である。

 但し、判例の結論ではなく、判例が、結論を導くために述べている理由は重要である。しかし、その場合にも、判例だから引用するのではなく、その理由に諸君が賛成するから使用するというスタンスを、論文中で明確に書いておいてほしい。すなわち、判例に論及した場合には、きちんと自分としての理由を述べた上で、(判例同旨)とするのが正しい態度というべきである。

 ただし、諸君が論文中で、判例と異なる見解を採る場合には、書き方が変わるということは、覚えていて欲しい。それだけしっかりとした理由がほしいのである。本問についていえば、警察予備隊訴訟をはじめとする判例は、いずれも違憲審査権を76条の問題として論じている。だから、本問を81条から論じていく場合には、判例とは違うアプローチを採る理由が、読むものに明確に判るような書き方が必要になってくる。何の問題意識も示さずに、無造作に81条から論じているような論文では、判例をまともに知らないと判断されて、その段階で評価が落ちることになる。

 第4に、我々学者は、様々な説を比較検討した後に、自説を述べるという書き方をよくする。しかし、諸君は決してそれをまねてはならない。なぜなら、諸君の実力では複数の、特に自分が賛成しない説の根拠を正確に理解することは難しく、その結果、誤った議論をすることになることが多いからである。また、司法試験に代表される国家試験では、限られた時間と紙幅内で論文を書き上げることを求められるので、他説に論及する時間的余裕がないからである。他説の紹介に時間や紙幅を使い果たして、自説の根拠を書かないのは、自殺的な態度といわざるを得ない。自説をしっかりと形式・実質の両面から理由づけることが、高得点をあげるための最低限の要求なのである。ある試験委員が、筆者に「司法試験は、自分が考えていることさえ書けばいいのだから易しい試験だ」と述べたことがあったが、これはこのことをいっているのである。

一 司法権の概念

 日本国憲法761項は「すべて司法権は、最高裁判所及び法律の定めるところにより設置する下級裁判所に属する」と規定して、司法権が裁判所に属することを明らかにしている。しかし、その司法権がどのような権力なのかについては全く定義を与えていない。戦前についてもその点は同様であった。したがって、何が司法権かの決定は判例・学説に委ねられていることになる。

 現行憲法下においては、積極的な定義を下すのが、戦後初期の通説・判例であった、ということができるであろう。

「具体的争訟について、法を適用し、宣言することによって、これを裁定する国家の作用」(清宮四郎『憲法T』新版、有斐閣法律学全集T、昭和56年刊、330頁)

 この説は、今日においても有力に主張されている(例えば芦部信喜『憲法』)。なぜこのような形に、積極的な定義を下せるのであろうか。諸君が、司法権の定義としてこの説を採った場合には、この点が本論文での第一の論点にならなければならない。清宮は、次のように説明する。

「(戦前の司法制度は)フランスによって代表せられる、ヨーロッパ大陸の諸国で発達した制度に由来するものである。これに対して、日本国憲法は、イギリスやアメリカの制度にならって、司法とは、民事及び刑事の裁判のほか、行政事件の裁判をも含めて、すべての争訟の裁判を意味するものとなし、この作用を行う権能を司法権といい、すべてこれを裁判所に属するものとした。」

 この定義の中核は、冒頭にある『具体的争訟』という言葉にある。この言葉は米国合衆国憲法32節の司法権の権限が「事件又は争訟(case or controversy)」によって決せられることを明文で保障しているところに由来している。

 これを逆から言うと、この具体的争訟に限定される、ということをいうために、わが国司法制度が、憲法の変更に伴い、ドイツ法系の司法制度から米国法系の司法制度に変わった、ということが根拠となるのである。わが憲法76条は、このような定義文言は存在していないからである。そして、裁判所法3条にいう「法律上の争訟」という言葉が、この事件性の要件を定めたものと一般に理解されてきた。

 この説の最大の問題は、今日では、清宮の挙げた上記理由で説明することが不可能になっている、という点にある。このことを、もう少し詳しく説明してみよう。

二 具体的事件性について

 具体的事件性という要件を司法に要求するのは、上記のとおり、米国法の影響であるから、その要件の構成要素として何があるか、と考えるのもまた、米国法の影響が強く表れることになる。しかし、実は米国においても、この概念は確固不動のものではなく、時代によりかなりの変遷を示している。その変遷状況を、阪本昌成は次のように説明している(『憲法理論T』補訂第3版、成文堂2000年刊393頁より引用)。

1910年代の米国最高裁判例は、憲法3条上の『事件・争訟性の要件』の構成要素として、『法に保護された利益の侵害があること』や『裁判所による執行可能性』をあげていた。ところが、1970年代以降は、その法的利益テストを『事実上の損害(injury in fact)を被っていること』に代え、さらに、執行可能性を不要とした。

 もっとも最近の連邦最高裁は、『事件・争訟性の要件』の内包・外延の曖昧さを避けるためか、この要件によるよりも、一般に『司法判断適合性』(justiciability)という用語に依って司法権の限界を求めてきている。

 司法判断適合性とは、裁判所が実体問題とその意味合いを理解し、その問題を適正に解決する上で必要な知識と視野を当事者に提示させることによって、司法的介入を、(ア)紛争解決に必要な範囲に限定し、(イ)他の部門の憲法上の権限を剥奪しない状況に限ろうとする試みであって、その一部は憲法上の要請であり、他の一部は政策的な配慮から来るものである、といわれている。」

 ここにでてきた司法判断適合性とは、具体的には、当事者適格、成熟性、ムートネスなど一連の法理の名前で諸君が学んできた憲法訴訟上の概念のことである。つまり、今日の米国における憲法訴訟論は、そもそも古典的な司法権概念が米国において崩壊してしまったことを前提とした理論体系となっているのである。

 通説の代表的主張というべき清宮の教科書の初版が刊行されたのが昭和32年(1957年)である。したがって、当然、清宮のいう米国法の継受という時に、70年代以降における米国法の変化というものは反映されていない。あくまでも1910年代の米国法なのである。その結果、この説は、裁判所法3条にいう「法律上の争訟」は、第一に当事者間の具体的権利義務又は法律関係の存否に関する紛争であり、第二に、法律の適用によって終局的に解決しうることをいう、とする(例えば警察予備隊訴訟最高裁判決参照)。

 しかし、この定義には問題が多い。すなわち、これはもっぱら典型的な民事訴訟を念頭に置いて構築されたものであるために、刑事訴訟等はうまく説明できない(このため、戦前における通説は歴史的概念説、すなわち積極的な定義をあきらめ、歴史的に司法権に属するとされてきた活動というものであった)。これら、この定義でうまく説明できない司法作用については、すべて裁判所法31項で認められている法律によって裁判所に与えられている権限と解するべきことになる。

 しかし、ここで米国法の変化による影響がわが国法制度に及んでくる、という現象が生ずる。例えば、平成14年度問題の小問3に示されている納税者訴訟である。わが国では、この訴訟形式そのものの継受は行われなかったが、それに代わるものとして導入されたのが、地方自治法242条の2に定められた住民訴訟である。

 当然のことながら、この住民訴訟に代表される客観訴訟については、従来からの司法権概念をそのまま維持する限り、司法の本質とはかかわりないために、法律で付与された権限ということになってしまう点である。

 米国法には81条に相当する規定がなく、司法権という概念そのものが合憲性の司法審査を許容しているという考え方で、マーベリー対マディソン事件判決以来、確立している。そして、わが国最高裁判所は、この司法審査の権限を明文の規定で確認したものと理解してきた。

「現今通常一般には、最高裁判所の違憲審査権は、憲法第81条によって定められていると説かれるが、一層根本的な考方からすれば、よしやかかる規定がなくとも、第98条の最高法規の規定又は第76条もしくは第99条の裁判官の憲法遵守義務の規定から、違憲審査権は十分抽出されうるのである。米国憲法においては、前記第81条に該当すべき規定は全然存在しないのであるが、最高法規の規定と裁判官の憲法遵守義務から、1803年のマーベリー対マディソン事件の判決以来幾多の判例をもって違憲審査権は解釈上確立された。日本国憲法第81条は、米国憲法の解釈として樹立せられた違憲審査権を、明文をもって規定したという点において特徴を有するのである」

(最大194878日刑集28801頁=百選第5432頁参照)

 そしてその趣旨は、警察予備隊違憲訴訟判決でも確認されている。

「わが裁判所が現行の制度上与えられているのは司法権を行う権限であり、そして司法権が発動するためには具体的な争訟事件が提起されることを必要とする。わが裁判所は具体的な争訟事件が提起されないのに将来を予期して憲法及びその他の法律命令等の解釈に対し存在する疑義論争に関し抽象的な判断を下すごとき権限を行い得るものではない。けだし最高裁判所は法律命令等に関し違憲審査権を有するが、この権限は司法権の範囲内において行使されるものであり、この点においては最高裁判所と下級裁判所との間に異なるところはないのである」

(最大1952108日民集69783頁=百選第5428頁参照)

 この解釈に従えば、憲法81条の権限は、司法権に内在する権限であり、裁判所は、最高裁判所と下級裁判所とを問わず、司法権行使に付随してその権限を行使することができるが、逆に司法権行使の要件を満たす事件・争訟がなければこの権限を行使することはできないことになる。それゆえ、この権限は、一般に「付随的違憲審査権」と呼ばれている。

 したがって、従来の通説・判例にしたがう場合、客観訴訟では憲法判断は許されないと考えるのが妥当である。

 しかし、現実の憲法訴訟において、例えば衆議院議員定数違憲訴訟や愛媛玉串訴訟など、客観訴訟が占めている重要性を考えると、これは戦後憲法訴訟の中核を否定するに等しい大変な問題である。

 だからといって、司法権概念には該当しないにも拘わらず、法律によって与えられた権限についても一般的に違憲審査権の存在を肯定するならば、第一に憲法76条にいう司法と、憲法81条は異なる概念であることを認めざるを得ない。その結果、第二に、国会が立法によって定めさえすれば、抽象的規範統制権を裁判所に与えることも可能になるはずである。しかし、それでは説の前提たる米国法の継受は、完全にどこかに吹き飛んでしまう。つまり、かつての通説判例は、その前提との破綻を起こしているのである。

 こうして、この点から、今日では、様々な学説の対立が生じてくることになる。議論の方法としては、@司法権の概念の内包は従来のまま維持しつつ、法律により裁判所に付与された権限についても違憲審査を可能である、とする論理を導くか、A司法概念そのものを拡大してその中に客観訴訟の概念を導入するか、あるいはB司法権概念を抜本的に見直すか、という3通りの方法が考えられる。そして、そのいずれの学説も存在している。

 したがって、諸君としては、従来の通説・判例を支持して、例えば、愛媛玉串訴訟事件で、最高裁判所が違憲審査を行ったこと自体を違憲と断ずるか、あるいは、何らかの肯定説を工夫するか、の選択を迫られていることになる。以下、代表的な肯定説を紹介する。

1: 以上の説明は、諸君に論点を理解してもらうためにしているのだから、諸君の論文にこのまま書き込んではいけない。諸君自身の論文では、どれか一つの説を採用した上で、司法権概念の段階からその説にしたがって体系的に書かねばならない。以下の説明は、紙幅を抑えるため、大略どのような学説があるかを紹介するに止めており、かなり大幅なダイジェストを行っているので、このどれかの学説に依って論文を書きたいと考えた場合には、必ず、そこに紹介している原典を改めて読んでほしい。私の紹介部分だけを、いきなり書き抜いても、体系が欠落しているために、木に竹を接いだような答案になって、合格ラインには届かない恐れが強い。

2 納税者訴訟:納税者訴訟には、伝統的な判例・通説の採る司法権概念にいう具体的事件性はない。しかし、これは必ずしも自明ではなかったらしく、学生諸君ばかりでなく、驚いたことに、平成14年度試験に対して大手受験予備校が発表した模範解答においてすら、具体的事件性があると書いているものがあった。そこで、少し詳しく説明しておく。納税者訴訟は、米国判例法で認められ、わが国でも肯定する説があることから、わが国でも既に多数の訴訟が提起されている。平成14年問題にでた自衛隊絡みのものが多い。これについては、最高裁判決もいくつかあるが、いずれも原審判決を確認しただけなので、原審レベルでは、どういう論理で具体的事件性を否定しているのか、紹介しよう。

「原告は、自衛隊関係費の支出が憲法9条に違反する旨を主張し、これを前提として、同支出の財源となる所得税の賦課、徴収も同支出相当分の賦課、徴収の限度で憲法9条に違反し、また、右賦課、徴収により、同原告らの平和的生存権が侵害された旨を主張する。しかし、憲法は、83条、85条及び86条において、国費は、毎年度の予算の国会における審議等の手続を経て、国会の議決に基づいて支出すべきものと定め、他方、30条及び84条において、租税の課税要件及び賦課徴収手続は法律によって規定するものと定めて、国費の支出と租税の賦課、徴収についてその法的根拠及び手続を区別して規定しているから、仮に前者が違憲、違法であったとしても、その違憲性、違法性は当然には後者に及ばないものと解すべきである。また、憲法30条及び84条を承けて制定された所得税法は、所得税を、一般的な経費の支出に充てる目的で課税し、その概念要素として税収の具体的な使途を含まない普通税として規定しているが、このように使途と無関係なこれから独立した普通税を設け、その使途については、予算の議決等国会の適正な審理に委ねるとする徴税制度は、むしろ憲法の予定しているところであって、何ら憲法に違反するものではないというべきである。そうすると、所得税が右のように税収の使途と無関係なこれから独立した普通税として規定されている以上、その賦課、徴収段階において、税収の使途の違憲、違法を問題にする余地はないというべきであるから、仮に憲法に違反する国費の支出が予算により決定されたとしても、所得税の賦課、徴収が違憲又は違法となることはないものというべきである。また、右のとおり、所得税は、税収の使途と無関係なこれから独立した普通税であるから、たとえ仮に予算の議決によりその税収の一部が憲法に違反する使途に支出されることが決定されたとしても、右議決の結果、所得税の賦課、徴収に税収の個別具体的使途の性格が付加されるものではなく、したがって、所得税の賦課、徴収自体によって原告らの自由、権利ないし法的利益が侵害されることはないというべきである。」(東京地裁昭和63613日判決)

これを要約すれば、租税はその使途を定めずに徴収されるのであるから、その使途の一部に違憲・違法があっても、それによって租税徴収そのものが違憲・違法になることはあり得ない、ということである。

三 近時の学説の対応

(一) 法原理機関説

 佐藤幸治は、第一の立論の代表的なスタイルを採用している。次のように説く

「司法権の観念が歴史的に流動的なものだとしても、それが立法権や行政権と異なる独自のものとされるゆえんは、公平な第三者(裁判官)が、関係当事者の立証と推論に基づく弁論とに依拠して決定するいう、純理性の特に求められる特殊な参加と決定過程たるところにあると解される。これにもっともなじみやすいのは、具体的紛争の当事者がそれぞれ自己の権利・義務をめぐって理をつくして真剣に争うということを前提に公平な裁判所がそれに依拠して行う法原理的決定に当事者が拘束されるという構造である。」(『憲法』第3版、青林書院平成7年刊、295頁以下より引用。)

 このように具体的事件性を把握する場合には、主観的当事者訴訟だけが許容されることになる。では問題となる客観訴訟についてはどう考えるのだろうか。その点については次のように説明する。

「裁判所が司法権を独占的に行使するということは、他方、裁判所は司法権のみを行使すること、換言すれば、裁判所が本来的司法権ならざる権能を行使してはならないこと、を直ちには意味しない。本来的司法権を核として、その回りには法政策的に決定さるべき領域が存在している。いわゆる『客観訴訟』の創設とか非訟事件の裁判権の付与などがそれである。裁判所法3条も、『その他法律において特に定める権限』という。が、法律により、裁判所に対し、本来的司法権ならざる権能を付与することについては、憲法上の限界があると解される。すなわち、付与される作用は裁判による法原理的決定の形態になじみやすいものでなければならず、その決定には終局性が保障されなければならないと解される。〈中略〉行政事件訴訟法は、個人の具体的な権利・義務に関する訴訟(主観訴訟)を中心に、個人の権利利益の侵害を前提としない『客観訴訟』と呼ばれる、機関訴訟と民衆訴訟を例外的に認めている。この客観訴訟は、司法権の当然の内容をなすものではなく、法政策的権利から立法府によって特に認められたものであると解される。」

 つまり、ここでは司法権は一種の制度的保障として把握される。しかし、典型的な制度的保障のように、どのような権限を追加的に付与するのも完全に立法府の裁量に委ねられているわけではなく、@付与される作用は裁判による法原理的決定の形態になじみやすいものでなければならず、Aその決定には終局性が保障されるものでなければならないという、一定の限界があると説くわけである。しかし、ここで使われている「法原理的決定の形態になじみやすい」という表現は抽象的で、本問の場合にどういう形で答えがでるかがわかりにくい。この点について、その著『現代国家と司法権』(250252頁)でもう少し詳しく説明しているが、なかなか端的に表現するのは難しいであろう。そこで、この下りの説明を、阪本昌成が言い換えて定式化しているところを紹介してみよう。

客観訴訟が「憲法上許容されるためには、@具体的な国家の行為があり、Aそれをめぐって国家と原告の間に鋭利な見解の対立が存在し、B裁判所が終局的な解決を図りうることといった『争訟性』を擬製するだけの実質を持たねばならない。」阪本前掲書443頁より引用

 そして、このような要件をみたしている場合には、これは76条にいう司法権の行使ではないが、違憲審査が81条に基づいて認められることになる。その際に使われる論理は少し複雑なので、本章第4節の「判決の方式及び効力」で改めて説明する。

(二) 公権的裁定説

 浦部法穂は、第二の、司法権概念そのものの拡大を行う立場の一つの典型である。そこでは、具体的事件性の要件について次のように説明する(『憲法学教室』全訂第2版、日本評論社2006年刊323頁以下より引用。なお参照『注釈憲法』761項=浦部法穂執筆部分にも同様の説明がある。)。

「もともと裁判所というものは、権力支配の秩序維持のための国家機関として、社会に生起する個別的な紛争の公権的裁定を、その任務として与えられているものである。要するに、全体の統治=支配機構の中で、特に個別的な紛争の公権的解決を通じて秩序維持に仕えることを任務としている。だから、それは、はじめから、個別的紛争の存在を前提にして機能するものであり、そして、そこでは、公権的に裁定する必要性の認められる紛争だけが取り上げられることになるのである。」

 このように、公権的裁定の必要の有無が事件性を決定することになれば、その裁定の必要がある種類の事件か否かは、立法裁量の対象となる、と考えることが可能である。しかし、そこで、個別的事件性という点が歯止めとなると考えることになる。浦部法穂に依れば、個別的紛争というには、次の二つの要件が充足される必要がある。

「第1は、法的に解決可能な紛争が具体的な形で存在していることである。法的に解決可能な具体的紛争とは、要するに、特定の者の法律上の地位・利害に関わる紛争である。〈中略〉第2は、その紛争が現実に存在していることである。つまり、その紛争が、特定の者の法律上の地位・利害をめぐる争いという形をとっていても、それが仮定的なものであったり、将来起こるかもしれないというものである場合には、現実の問題としてその紛争が生じたときに取り上げれば十分であって、そうでないのに裁判所が裁定する必要はない、ということである。」

 この説が、先に紹介した近時の米国法における司法概念、すなわち司法判断適合性の理念に基づいて構築されていることがよく判ると思う。この立場に依る場合には、客観訴訟は現実に法的に解決しうる紛争が存在している、という点において具体的事件性を充足しており、合憲と解される。

(三) ドイツ憲法説

 先に、戦前のわが国学説が大陸法を継受していたのに対して、戦後現行憲法が米国法を継受したところから、戦後の学説が出発した、と述べた。しかし、現在のドイツボン基本法では、憲法裁判に加えて、通常(民事及び刑事)、行政、財政、労働及び社会の各裁判権をすべて司法として一元的にとらえ、それぞれについて最高裁判所を設置するという形式を採用している。その意味で、裁判所に司法権(Rechtsprechung)が一元的に帰属する観点からは、わが国現行憲法と同様の構造となっている。そして、先に高橋説がまさに指摘していたとおり、司法権の内容に関する米国憲法32項の規定に相当するものはわが憲法は持っていないのであるから、その欠落部分をドイツ法的発想で補完しても悪いはずはない。

 ドイツ憲法学では、司法権は一般に「法に関する紛争又はその侵害があった場合に、特別の手続きによって、有権的な、したがって拘束力ある判断を下す職務」と理解されている。これは、憲法裁判所による規範統制を司法権概念に含めようとするところに基本的な狙いがある。

 私の知る限り、わが国でこの立場を明確に宣言している学者はいない。しかし、戸波江二の説は、非常にこれに近いものと思われる。

 なぜなら、第一に、司法権の概念を紹介するにあたり、米国法への言及をすることなく、「一般に、具体的な紛争について法を適用して裁定する作用をいうと解されている」と述べているにとどまる(『憲法』新版、ぎょうせい、平成12年刊、427頁より引用。以下の引用もこれに続く部分である)。この”一般に・・解されている”という述べ方は、学者が自説ではない説が通説である場合によく使う言い回しである。第二に、次に述べるように、明確に事件性の要件を否定しているのである。

 すなわち、客観訴訟に関しては、次のように述べている。

「なぜ事件性が司法権の本質的要素とされるのかという問題について、理論的な根拠を提示する学説もある。それによれば、紛争の当事者がそれぞれ自己の権利義務をめぐって主張を行い、公平な裁判所が法に従って判断を下すという構造こそが司法権にふさわしいものであると説かれる。たしかに、近代の裁判はそのような訴訟構造を前提として発展してきており、歴史的にみて司法権は事件性を前提にしているということができる。しかし、問題はそのような訴訟構造の枠を超えた事件を裁判所が審理判断することができないかどうかである。そして、客観訴訟が法律で定められ、『念のため』判決のように訴訟要件を欠く訴訟で実体判断がなされていることなどを考慮すれば、事件性の要件、は、例外を許さない絶対的な要件ではないと解される。すなわち、事件性の要件は、事件性の要件をみたさない訴えを裁判所が拒否するための正当化理由となるが、逆に、裁判所が事件性を欠く訴えについて個別的に審理・判断したり、法律が事件性の要件を欠く訴訟を定めたりしたとしても、それらの事件を裁判所が審理・担当すべき十分な理由がある場合には、『司法』権を裁判所に属せしめた憲法76条に反することにはならないと解される。事件性の要件を欠く訴訟のうちで、どのようなものを裁判所の審理の対象とすることができるかは、法を適用して紛争を解決するという司法にふさわしいかどうかによって判断されよう。」

 冒頭で批判されている説は法原理機関説であるから、それを採らないということははっきりしている。その理由として説かれているのは、理論的根拠というより、現実に採用されている客観訴訟の存在それ自体である。そして、それが事件性の要件を満たしていない、と考えているのであるから、浦部法穂説や高橋説のような意味での事件性拡張説を採用していないこともはっきりしている。したがって、事件性を司法権の要件とはしていないのである。その結果、最初の定義の後半である「法を適用して紛争を解決する」という部分だけが、司法の本質に関する定義と考えていることになる。結局これは、ドイツ流の、法に関する紛争に対して終局的拘束力ある判断を下す、という捉え方と同一のものと考えられるからである。

 要するに、戸波説の特徴は、裁判所としては、事件性を楯にして拒絶することもできるが、裁判所として審理するべき十分な理由さえあれば、特別法がない場合にも、そうした事件について「個別的に審理・判断」できるという点にある。だから、かつての通説・判例が言っていた事件性を欠いている事例でも、裁判所の判断次第というのが答えになる。

 

[おわりに]

 諸君に、このように、様々な学説を紹介することで、一番怖いのが、諸君自身の論文を、同じように各説の紹介スタイルで書かれることである。くりかえし強調するが、諸君の論文のレベルでは自説のみを述べればよく、間違っても他説を紹介したり、批判したりしてはいけない。

 次に怖いのが、このように私がつまみ食い的に紹介したところを、さらにつまみ食いして論文を書かれることである。以上の記述は、あくまでも私が各説を対比する上でポイントとなるところを紹介したものである。ここに紹介した説のどれかを採用して論文を書こうと考えた場合には、必ず、その原著に当たって、熟読した上で、自分の理解したところを書いてくれないと、合格答案となることは難しい。