未成年者の人権

甲斐素直

問題

A市は,児童・生徒によるインターネットの利用を促進するため,市立のすべての小学校,中学校,高校で児童・生徒がインターネットを使えるようコンピューターを配置するとともに,児童・生徒が教育上ふさわしくないサイトにアクセスすることがないように,コンピューターにフィルタリングを導入し,性的に刺激的な内容,残虐性を助長する内容,自殺を肯定したり奨励する内容など,児童・生徒の健全な発達を阻害するおそれがあると教育委員会が判断したサイトヘの接続ができないようにした。

 この措置が提起する憲法上の問題について検討せよ。

平成15年度公務員国家1種法律職試験問題

[はじめに]

(一) 問題の所在

 岐阜県青少年保護育成条例事件という名で知られる有名な判例がある(最高裁第3小法廷平成元年919日判決=憲法判例百選[第5版]114頁=以下、「岐阜県事件」という)。諸君も知っていると思うが、念のため、簡単に事実関係を説明すると、岐阜県では、児童・生徒が教育上ふさわしくない図書を読むことがないように、図書の内容が、著しく性的感情を刺激し、又は著しく残忍性を助長するため、青少年の健全な育成を阻害するおそれがあると認めるときは、知事が当該図書を有害図書として指定するものとし、有害図書と指定された雑誌を自動販売機で販売すること禁じたことから、雑誌の自動販売機の運営会社が知る権利を侵害するとして訴えた事件である。

 つまり、本問のインターネットの代わりに雑誌自動販売機、問題あるサイトの代わりに有害図書、そして教育委員会によるフィルタリングの代わりに知事の指定という点が変えてあるだけで、問題の構造そのものは本問と全く違いがないことが判ると思う。

 したがって、本問に対する解答は、基本的にはこの岐阜県事件で問題となった論点を取り上げ、それに対して理由を付して自己の見解を述べれば良いことになる。但し、注意を要するのは、この判例が平成元年のものであることである。わが国は平成6年に児童の権利条約を批准した。したがって、今日において未成年者の人権を論じる場合には、条約を前提とした議論を展開しなければならないということである。

(二) 法律論文の書き方

 2年生諸君の場合、法律論文を書き慣れていない人も多いと思うので、論文の書き方というものを簡単に説明する。

  1 一つの問題には、通常、いくつかの論点がある(一つ見つけて、それで喜んではいけない。必ずいくつかあると考えよ)。論点とは、学説や判例が対立して議論されている点である。だから、問題に答えるとは、その問題にどのような論点があるかを見つけ出し、それぞれの論点について、自分はどう考えるのかを書き、何故そう考えたのか、という理由を書くことである。特に初学者の場合、結論だけを書けば論文を書いたような気になっている人が多いが、理由を書かない限り、絶対に論文としては評価されないことを肝に銘じておいて欲しい。

 しかし、国家試験の論文を書く場合には、更に注意を要する点がある。それは、国家試験は、時間と紙幅が非常に限られた試験だということである。必要と考えたことを、いくらでも時間と紙幅をつぎ込んで書くわけにはいかない。短い中で、ぎりぎり必要な記述だけをするように努力していかないと、合格答案を書くことは不可能である。

  2 そのための基本的テクニックが、論文を総論と各論に分けて書く、ということである。すなわち、各論点に共通する議論を総論としてまとめて記述することで、重複を防ぎつつ、できるだけ深いレベルの議論を行えるようにすることである。

 したがって、諸君として問題を読んで、何が論点であるかが判ったら、今度は、その中の何を総論として抜き出して、まとめて論じるのが妥当かを考えることになる。

 本問についていうと、論文の構成に、大きく分けて二つの方法がある。

 第一は、上述した岐阜県事件に沿って議論を展開するという方法である。この場合には結局、表現の自由(知る権利)が、未成年者の場合にはどのような審査基準で審査されるべきかを論じる問題として、答案を構成することになる。

 第二は、教育委員会によって小中高校に設置されているという点を捉えて、教育を受ける権利という社会権の行使に関する問題として、答案を構成することになる。

 どちらで捉えても合格答案と評価される答案を書くことが可能である。第一のとらえ方をした場合には、総論になるのは未成年者の人権について、いかに考えるべきか、という問題である。第二のとらえ方をした場合には、公教育における教育権の所在に関する議論が総論となる。諸君としては、どちらの書き方をしても構わない。しかし、両方ともを書こうとしてはいけない。限られた時間と紙幅の中では、それは不可能で、どちらの立場からも不合格案と評価されるレベルのものしか書けないことは、保障できる。

  3 答案全体は、三角形をなすように書く、ということを心がけると、答案構成に当たって、論点を整理しやすいと思う。法律学では、憲法を頂点に、授権と受権の関係で全体計が成り立っている。このことは、憲法自体の中でも同様に言えて、基本的原理からの授権により、個々の法条の解釈が決定されることになる。簡単に言えば、法律学では、理由は常に上から来る。しかし、各論文では、個別の論点をしっかり論じるのが目的だから、無限に上にさかのぼるわけにはいかない。どの点から論文を書き始めるかにもよるが、上のレベルは、できるだけ簡略に論じ、具体的な論点にしたがって詳細に論じることが、答案構成上、必須のポイントとなる。

 以下では、表題に掲げたとおり、未成年者の人権について問題として捉える立場に限定して、解説を行う。

一 未成年者の人権はなぜ制約可能か

(一) 欧州における考え方

 他国における考え方は、諸君の論文レベルでは触れる必要はないが、根源的な考え方を整理する上で有用なので、以下に簡単に説明する。

 欧州では、かつてパスカルが「子供は人間ではない」と言ったことに端的に表れているに、伝統的に、子供に完全な権利の主体性を認めることがなかった。そのような考え方の下では、児童にどの範囲で権利を認めるか自体が、国家のパターナリスティックな裁量に服することになる。つまり、その場合には、権利が制限されているのではなく、むしろどの範囲で権利を認めるかが問題となる。

(二) 米国における考え方

 この点で興味深いのが、米国における児童の権利についての議論の変化である。米国では、初期においては欧州と同様に児童の権利主体性については否定的であった。しかし、ウォーレン連邦最高裁長官の登場とともに、流れが変わる。ウォーレンは1896年以来、数十年にわたって確立していたSeparete but Equalは合憲とする最高裁判例を破棄し、黒人の平等を確認したブラウン判決(1954年)を皮切りに、警察官に取調べに先立ち被疑者の権利告知を義務づけるいわゆるミランダ警告(1966年)を確立するなど、数多くのリベラルな判決を下したことで知られる、いわゆるウォーレン・コート(Warren Court)と呼ばれる一時代を築いた。

 1969年のティンカー事件(Tinker v. Des Moines Independent Community School District, 393 U.S. 503 (1969) )は、そのウォーレン・コートの掉尾を飾る事件である。この事件では15歳のジョン・ティンカー(John F. Tinker)が、ベトナム戦争への抗議の意を込めて、黒い腕章を巻いて登校したことを学校側が処罰したことが問題となった。その判決で、最高裁は、「校門をくぐったとたんに生徒も教師も言論、表現の自由への憲法上の権利を失うものではない。」という格調高い表現で知られる生徒の人権容認を行った。それ以来、米国ではキディリブ(Kiddylib)の強い潮流が支配することになる。

 児童の権利条約は、その時期の米国の主導により、欧州諸国の反対を押し切って条文が作られたのである。

 ところが、それによって、米国の、特に公立学校においては学校の荒廃が進行、激化し、単に児童生徒の学習能力が低下するばかりでなく、性風俗の早熟化、麻薬や銃器の濫用等に象徴される心身両面に渡る問題の深刻化により、児童に人権主体性を認めることは、むしろ行き過ぎた自由化との認識が広まった。こうした基本思想の変化を受けて、連邦最高裁判所も、1986年には生徒総会における発言の中止(Bethel School District v. Fraser, 478 U.S. 675 (1986))を、そして1988年には高校新聞の検閲(Hazelwood School District et al. v. Kuhlmeier et al., 484 U.S. 260 (1988))を、それぞれ是認する判決を下すという調子で、完全に右傾化傾向を見せている。

 その結果、自らの主導で成立にこぎ着けた児童の権利条約についても、未だに批准を行っていない。もっとも、近時オバマは遺憾の意を表しており、近い将来、批准の可能性が浮上している。

(三) 日本における考え方

 わが国では、子宝という言葉に示されるように、子供を大事にする思想が強く、そのことは1951年という非常に早い時点で「児童憲章」〔国会又は内閣(省庁等含む)の正規の手続を経て制定された「法令」でなく、官報公布の手続もとられていないが、総理府(内閣府)・厚生省の白書等の資料、人権教育・啓発に関する基本計画(平成14315日閣議決定)及び一部の地方自治体の条例において引用されるなど、一定の公的規範としての性格を有する。〕が作られているという点にも現れていると言えよう。

 わが国の問題は、子供を単に庇護の対象として考える傾向が強く(制限根拠を、すぐにパターナリズムで説明しようとすることもその一つの現れ)、子供そのものを権利の主体として尊重するという発想に乏しかった点である。それが、一方的に大人の価値観を押しつける、いわゆる校則問題の多発などにつながったのである。その意味で、児童の権利に関する条約をわが国が批准したことの持つ最大の意義は、子供の権利という概念を明確に確立したこと、したがって従来の児童保護手段についても、その観点から、改めてその当否及び射程距離を再構成する必要を迫っているという点に存していると言っても差し支えない。

 青少年、すなわち未成年者について言えば、それが日本国民としての基本的人権の享有主体として肯定される点には、今日、まったく疑問はない。その意味で、未成年者の権利制限は、女性における権利制限(例えば、坑内労働や妊産婦等の危険業務に対する就業等の禁止)と性格を同じくする。すなわち福祉目的により行われるものである。ただ、未成年者というものの特殊性が、女性に対する保護よりもその範囲を広くし、かつ程度を高めているに過ぎない。

二 未成年者の知る権利とその限界

(一) 知る権利の権利性の議論

 知る権利それ自体が論点だ、と多くの諸君が捉えて、その論拠のためにかなりの行数を投入していた。基本的にそれは正しい態度といえる。ただ、本問の場合、議論の中心は、知る権利が権利であるか否かではない。あくまでも、未成年者の場合に、その制限が認められるか、という点にある。知る権利の権利性は、それに至る導入部としての役割を担っているにすぎない。したがって、全体のバランスを考えるなら、せいぜい23行くらいしか投入できない、という判断を下せなければいけない。

 実をいうと、本問で問題としているインターネットと知る権利の関連は、それを真っ向から行うとかなり難しい議論になる。その意味でも深い議論は避けるという戦術を検討するべきである。単にこれだけを述べても判りにくいと思うので、本問とは関係がないが、簡単に説明する。

 普通、知る権利は20世紀型人権として説明される。20世紀において、マス・メディアが出現して情報の送り手と受け手が分離したことが知る権利の権利性をうみだす大きな理由と説かれる。ところが、このマス・メディアの情報発信の寡占状況は、インターネットの出現により大きく揺らいでいる。なぜなら、インターネットの世界では、だれもがホームページを作ることにより、きわめて容易に情報の発信者となることが可能となった。大企業が、一消費者のホームページの前に全面降伏を余儀なくされるような事件が現実に多発しているのである。こうした状況の中で、知る権利をどう説明するかは、学説的にはきわめて難しい問題になる。

 こういう問題に、学生諸君が上手に答えようとしても無理だし、本問の中心論点はこういうところではなく、これは単なる導入部にすぎないから、先に述べたとおり、三角形の頂点部分的に簡単に触れる程度で逃げる方が、余計な記述をして減点されるよりも賢い戦略なのである。私としてお勧めしたいのが、世界人権B規約192項と先に紹介した児童の権利条約13条とから論証することである。

 世界人権宣言B規約192項は、表現の自由について、次のように定義する。

「すべての者は、表現の自由についての権利を有する。この権利には、口頭、手書き若しくは印刷、芸術の形態又は自ら選択する他の方法により、国境とのかかわりなく、あらゆる種類の情報及び考えを求め、受け及び伝える自由を含む。」

 児童の権利条約13条は、次のように述べる。

1 児童は、表現の自由についての権利を有する。この権利には、口頭、手書き若しくは印刷、芸術の形態又は自ら選択する他の方法により、国境とのかかわりなく、あらゆる種類の情報及び考えを求め、受け及び伝える自由を含む。

2 1の権利の行使については、一定の制限を課することができる。ただし、その制限は、法律によって定められ、かつ、次の目的のために必要とされるものに限る。

a 他の者の権利又は信用の尊重

b 国の安全、公の秩序又は公衆の健康若しくは道徳の保護

 これを見ると、131項の内容は、B規約192項と違わないことが判るであろう。すなわち、この二つの条文は、どちらも、表現の自由をあらゆる種類の情報を求め、受け、及び伝える自由と述べているが、この求める自由及び受ける自由だけが問題となるとき、知る権利という、という程度の記述である。そして、2項にいたって、極めて限定的にその制限が許容されていることが判る。

(二) 未成年者の知る権利の重要性

 人権が制約可能である、とか、未成年者の人権は制限可能である、とあっさり論じている人が目立ったが、それは、以上のような児童の権利条約のスタンスに照らしても、間違いであることがよく判ると思う。

 この規制は、憲法の保障する表現の自由にかかわるものであって、慎重な検討を要する問題である。例えば、米国では、本問に現れたような規制を連邦レベルで法律で実施しようとして、連邦最高裁から違憲判決を受けて挫折している。すなわち、最初に通信品位法(The Communications Decency Act of 1996 (CDA))が児童に関するフィルタリングを行うべく制定されたが、表現の自由を侵害するとして違1997年に憲判決を受ける(Reno v. American Civil Liberties Union, 521 U.S. 844 (1997))。そこで同法の一部改正法として児童オンライン保護法(The Child Online Protection Act(COPA)が1998年に制定されたが、これも同じく表現の自由を侵害するとして2002年に違憲判決を受け、原審に差し戻された(Ashcroft v. American Civil Liberties Union 535 U.S. 564 (2002))。その後、同法に関する審理は差し戻し等を繰り返している結果、2009年現在、同法は違憲のまま、無効状態にある。

 ちなみに、本問が公務員試験で出題されたのは2003年であり、COPAが違憲判断を下された翌年である。したがって、COPAに関する米国の論議は当然出題者の念頭にある。

 しかし、冒頭に述べたとおり、本問では、一般人を対象としない、学校内に設置されているパソコンのみを対象にしている点で、社会一般におけるフィルタリングが問題になった米国よりも問題は平易なものとなっている。

 伊藤判事は、未成年者の知る権利を制限しうる根拠として補足意見で次のように述べた。

「青少年の享有する知る自由を考える場合に、一方では、青少年はその人格の形成期であるだけに偏りのない知識や情報に広く接することによって精神的成長をとげることができるところから、その知る自由の保障の必要性は高いのであり、そのために青少年を保護する親権者その他の者の配慮のみでなく、青少年向けの図書利用施設の整備などのような政策的考慮が望まれるのである」

 この補足意見を知らなくとも、冒頭に述べたとおり、児童の権利の問題では、機械的に児童の権利に関する条約をチェックするという姿勢を持っていれば、同じような結論に容易にたどり着くことができる。すなわち、児童における知る権利保障の必要性が高いことについては、児童の権利に関する条約17条が次のように明言している。

「締約国は、大衆媒体(マス・メディア)の果たす重要な機能を認め、児童が国の内外の多様な情報源からの情報及び資料、特に児童の社会面、精神面及び道徳面の福祉並びに心身における健康の促進を目的とした情報及び資料を利用することができることを確保する。」

 同条はこれを受けて、さらに具体的な保障に論及するのであるが、ここに述べられていることと伊藤補足意見は、表現こそ違え、児童の知る権利の重要性を述べたものである。諸君も、議論に当たってこの原点、すなわちある意味においては、知る権利は、児童において、成人の場合より一層重要性を有することを看過してはならない。

(三) 未成年者の人権制限

  1 人権制限の根拠

 岐阜県青少年保護育成条例に代表される、いわゆる有害図書を青少年の手に入らないようにする条例は、かなり多くの地方公共団体において制定されているが、その背景には、今日のメディアが、地方公共団体によって有害図書に該当するとされた各雑誌を含めて、表現の自由の保障を受けるに値しないと考えられる、価値の極めて乏しい出版物を、もっぱら営利的な目的追求のために刊行している、という現実がある。そのため、規制が一般に受けいれられやすい状況がみられるに至っている。その結果、各都道府県等の制定している青少年保護育成条例に見られるような法的規制に対しては、表現の送り手であるメディア自身も、社会における常識的な意見も反対しない現象があらわれている。

 岐阜県で問題となった、自動販売機による有害図書の販売について、最高裁は「自動販売機による有害図書の販売は、売手と対面しないため心理的に購入が容易であること〈中略〉から、書店等における販売よりもその弊害が一段と大きいといわざるをえない。」とのべた。この直接対面性の欠如は、本問で取り上げられているインターネット上の有害サイトでは、一層顕著であり、しかもこうした印刷メディアの場合よりもはるかに過激な場合が少なくなく、深刻な問題を引き起こしている。

 ここで、規制を許容する大義名分が、条例名に現れている青少年の保護育成という概念である。上記引用箇所に引き続いて、伊藤判事は次のように述べる。

「他方において、その自由の憲法的保障という角度からみるときには、その保障の程度が成人の場合に比較して低いといわざるをえないのである。すなわち、知る自由の保障は、提供される知識や情報を自ら選別してそのうちから自らの人格形成に資するものを取得していく能力が前提とされている、青少年は、一般的にみて、精神的に未熟であって、右の選別能力を十全には有しておらず、その受ける知識や情報の影響をうけることが大きいとみられるから、成人と同等の知る自由を保障される前提を欠くものであり、したがって青少年のもつ知る自由を一定の制約をうけ、その制約を通じて青少年の精神的未熟さに由来する害悪から保護される必要があるといわねばならない。」

 この点について補完すれば、次のように言えるだろう。

 近代国家における法制度を支配する最も重要な原理である自由主義及び平等主義は、基本的にすべての人が同等の能力を持つことを前提に、私人に対する政府の干渉を排除し、同等の機会を提供することを持って必要にして十分なものとする。しかし、現実の国民は決して同等の能力を持つものではない。特に、完全に自由競争に委ねたのでは、その犠牲者となることが確実なほどに能力の劣るものに対しては、国家として積極的に私人間に介入し、それによって実質的に自由及び平等の回復を図ることが必要となる。これが20世紀型基本原理とも言われる福祉主義である。

 そこでは、社会的、経済的ないしは肉体的に弱者であるものが強者との平等の自由競争にさらされることにより、一方的に収奪・搾取される事態の発生を防ぐ責務を国家に要求すること自体が国民の基本的人権の一翼を構成しているものと理解する。そして、一般に未成年者はそうした弱者としての地位にあることから、その保護のための様々な政策が採られることとなる。未成年者の場合、その発達段階にもよるが、そうした保護が、日常生活のあらゆる面に及ぶため、一般に強者として理解される成人男性を基準として人権を考えた場合、人権に対する抑圧原理として現れてくる場合もある。しかし、それをもって未成年者が人権を否認されていると考える必要はない、ということなのである。

 すなわち、未成年者は、成年者よりも強く知る権利を保障されるからこそ、その強い保障が制限という形態をとることもある、というわけである。

  2 法律の不存在

 児童の権利条約は、児童の権利の制限は、法律によってのみ可能と宣言している。その法律を条令と読み替えることは可能かもしれない。しかし、本問の限りでは、フィルタリングは教育委員会規則にすら基づかない単なるコンピュータソフトである。それでは、条約に適合しているとは言えず、その余のことを考えるまでもなく、許されないのではないか、という疑問が次に生じる。

 ここでは、先に言及したCOPAと異なり、学内のパソコンだけが対象となっている点が論点となる。

 ここからは26条の教育を受ける権利の議論となる。まず教育の私事性を述べる。

「もとよりこの保護を行うのは、第一次的には親権者その他青少年の保護に当たる者の任務である」現代社会における複雑性の下では、そうした親の監督は「それが十分に機能しない場合も少なくないから、公的な立場からその保護のために関与が行われることも認めねばならないと思われる。」(最高裁旭川学テ判決より)

 そして、ここから導かれる公教育概念から、教育内容の決定権は、子の利益を守る目的から、親、教師及び国がそれぞれに権限を有する、と論じ、教育基本法17条の規定から学校内における大綱的な規制については、国(教育委員会)が裁量権を有している、と論じて、始めて教育委員会による法的根拠のないフィルタリングが条約適合性を有すると述べることが可能になる。公的機関による未成年者の人権制限のためには、どのような議論を積み重ねる必要があるかが判ってくれたと思う。

 ここまでが、最初に論じた総論的議論の対象となる問題である。これを受けて、いよいよ本問の中心論点としての各論の議論にはいることになる。

三 憲法訴訟論に関する諸論点

 こうして、ようやく教育委員会の関与権を認める、という結論が引き出せたのであるが、これだけでは、依然として本件フィルタリングが肯定されるという結論までを引き出すことはできない。諸君も認識していたとおり、精神的自由権に対する制限を裁判所として肯定するには、厳格な審査が要請されるからである。したがって、諸君としてまず必要になるのは、審査基準を緩和してよい、という理論の展開である。伊藤判事は、次のようにいう。

「ある表現が受け手として青少年にむけられる場合には、成人に対する表現の規制の場合のように、その制約の憲法適合性について厳格な基準が適用されないものと解するのが相当である。」

 理由はこれまで述べてきた福祉主義である。

 そうであるとすれば、一般に優越する地位をもつ表現の自由を制約する法令について違憲かどうかを判断する基準とされる諸原則、例えば明白かつ現在の危険原則とか、より制限的でない他の選びうる手段(LRA)原則、はそのまま適用されない。同様に、事前抑制の禁止原則とか明確性原則といった違憲判断の基準についても、成人の場合とは異なり、多少とも緩和した形で適用されることになるものと考えられる。具体的に以下検討しよう。

(一) 立法事実論について

 厳格な審査は、二つの要件から成り立っている。目的の正当性と、その目的と手段との間の合理的な関係である。本問の場合であれば、目的は「児童・生徒の健全な発達」である。手段としてはフィルタリングである。ここで問題は、フィルタリングが本当に健全な発達に役立つと言えるのか、という点である。立法者がそう考えた、というだけでは不十分である。例えば、同じ目的で、学校によっては校則で、男子生徒に丸刈りを強制する例があり、常識的に健全な発達にどれだけ寄与するか疑問であるところから問題となった。すなわち、目的と手段の間の合理的関連性が科学的に証明されていなければ、一般的には規制は許容されない。

 有害図書を読んだり、有害サイトにアクセスすることは、丸刈りに比べると、健全な発達に害を与える可能性が高いことは確かであろうが、青少年が有害図書に接することから、非行を生ずる明白かつ現在の危険があるといえないことはもとより、科学的にその関係が論証されているとはいえない。成人の場合には、その証明が存在しない場合には、そのような手段を禁圧することは、知る権利に対する侵害として許されない、と考えられることになる。

 しかし、青少年の場合、害悪の証明がないからといって、看過した場合、先に述べたアメリカにおけるような悲惨な結果が将来する可能性がある。そこで、伊藤判事はいう。

「青少年保護のための有害図書の規制が合憲であるためには、青少年非行などの害悪を生ずる相当の蓋然性のあることをもって足りると解してよいと思われる。もっとも、青少年の保護という立法目的が一般に是認され、規制の必要制が重視されているために、その規制の手段方法についても、容易に肯認される可能性があるが、もとより表現の自由の制限を伴うものである以上、安易に相当の蓋然性があると考えるべきでなく、必要限度をこえることは許されない。しかし、有害図書が青少年の非行を誘発したり、その他の害悪を生ずることの厳密な科学的証明を欠くからといって、その制約が直ちに知る自由への制限として違憲なものとなるとすることは相当でない。」

 科学的証明に代えて、高度の蓋然性でたりる、とするのである。髪型の場合には、そのような蓋然性すら存在していないことが、議論の焦点となったわけである。

(二) 包括指定と事前抑制

 本問のフィルタリングについて、既に存在しているサイトに事後的にアクセスを制限しているだけであるから、事後抑制であり、したがって検閲にも該当しない、という議論を展開する人がある。しかし、妥当ではない。伊藤判事はいう。

「憲法212項前段の『検閲』の絶対的禁止の趣旨は、同条1項の表現の自由の保障の解釈に及ぼされるべきものであり、たとえ発表された後であっても、受け手に入手されるに先立ってその途を封ずる効果をもつ規制は、事前の抑制としてとらえられ、絶対的に禁止されるものではないとしても、その規制は厳格かつ明確な要件のもとにおいてのみ許されるものといわなければならない」

 要するに、知る権利を中心として構成し直した論理の下では、知る以前の抑制か否かが、事前・事後を決めるのである。

 さらにいうと、通常の検閲が、表現内容を審査した上で、不適切なものと認められた場合にだけ、抑制するものである(税関検査事件参照)。これに対し、フィルタリングとは、個別にサイトの時々刻々の内容を審査することなく、概括的に有害サイトと指定して規制の網を被せるものであるから、知る権利に対する制約性は、検閲よりもはるかに強いものといわなければならない。このような抑制を包括的事前抑制と呼ぶ。

 ここでも、未成年者の人権制限における特殊性を述べる以外に、これを許容する手段はない、といわなければならない。伊藤判事はいう。

「青少年保護のための有害図書の規制を是認する以上は、自販機による有害図書の購入は、書店などでの購入と異なって心理的抑制が少なく、弊害が大きいこと、審議会の調査審議を経たうえでの個別的指定の方法によっては青少年が自販機を通じて入手することを防ぐことができないこと(例えばいわゆる『一夜本』のやり方がそれを示している。)からみて、包括指定による規制の必要性は高いといわなければならない。もとより必要度が高いことから直ちに表現の自由にとってきびしい規制を合理的なものとすることはできないし、表現の自由に内在する制限として当然に許容されると速断することはできないけれども、他に選びうる手段をもっては有害図書を青少年が入手することを有効に抑止することができないのであるから、これをやむをえないものとして認めるほかはないであろう。」

 有害図書で一夜本が可能である以上に、インターネットにおいてホームページを作成することは容易なのであるから、ここでの議論はそのままインターネットにおける包括規制=フィルタリングを認める根拠として妥当するのはいうまでもない。

(三) 基準の明確性

 およそ法的規制を行う場合に規制される対象が何かを判断する基準が明確であることを求められるが、とくに刑事罰を科するときは、きびしい明確性が必要とされる。

 表現の自由の規制の場合も、不明確な基準であれば、規制範囲が漠然とするためいわゆる萎縮的効果を広く及ぼし、不当に表現行為を抑止することになるために、きびしい基準をみたす明確性が憲法上要求される。そこで、有害サイトを認定する基準としての「性的に刺激的な内容,残虐性を助長する内容,自殺を肯定したり奨励する内容など」というものが、そのような明確性を具備していると言えるかが問題となる。

 岐阜県の条例では、「著しく性的感情を刺激し、又は著しく残忍性を助長する」とされていたのが、明確性に欠けるのではないか、として議論になったが、本問基準もこれに酷似し、同様の問題があることは否めない。

 伊藤判事は、条例そのものでなく、下位の法規範による具体化、明確化が行われている点を捉えて、総合すれば、明確性を具備しているとした。

 本問では、そのような要件は加えられていないから、与えられた条件だけで考慮する必要がある。徳島市公安条例事件における通常人標準説を基礎とし、これまでもたびたび強調した未成年者の人権制限の特殊性を強調することで、一応の議論は可能であろう。もし、問題がすべてであって、下位規範が存在しないと考える場合には、この点について合憲という結論を出すことはまず不可能であることは、理解しておいてほしい。

[おわりに]

 このレジュメは、問題に対する答えではなく。問題に対して、諸君にどのように考え、どのように論文を書いたら良いかについて、必要な情報を提供しているだけである。

 以下に簡単に、答案構成におけるポイントを述べる。

 総論においては、現時点において、児童の権利条約に全く論及しないような答案は、それだけで落第答案と評価できるであろう。人種問題における人種差別撤廃条約、女性問題における女性差別撤廃条約などについても同様に言える。一連の国連条約が存在している問題にぶつかったら、まず条約の基本的な条項をチェックするという習慣を身につけよう。

 各論としての憲法訴訟論では、論点として、立法事実論、事前抑制禁止法理、明確性法理の三点を指摘した。これらについても、どれか一つでも落としたら、基本的には落第答案になると考えよう。

 その意味で、かなり論点の多い問題である。きちんと答案構成を行い、無理なく、掛ける範囲でどうしっかり理由付けを書き込むか。それが合格答案と評価されるための最大のポイントである。