少年事件と図書の閲覧禁止

甲斐素直

 問題

A市の市民であるBは、A市立図書館で雑誌を借り出そうとした。ところが、図書館長Cは、「閲覧用の雑誌、新聞等の定期刊行物について、少年法第61条に違反すると判断したとき、図書館長は、閲覧禁止にすることができる。」と定めるA市の図書館運営規則に基づき、同雑誌の閲覧を認めなかった。これに対し、Bは、その措置が憲法に違反するとして提訴した。この事例に含まれる憲法上の問題点について論ぜよ。

平成14年度司法試験問題

【はじめに】

 論文試験の命は、理由付けにある。たとえ、論点を正確に把握していても、きちんと理由を挙げてなければ、合格答案たり得ない。理由を挙げる能力があるかどうかが、短答式試験と、論文式試験の決定的な違いであり、その違いに対応できる能力があるかどうかを見るために、国家試験で論文式試験が実施されている、ということを忘れてはならない。

 論点を正しく把握するには、問題文を精読する以外に方法はない。これは、新司法試験問題のような長大なものであろうと、本問程度の短い問題であろうと変わりはない。むしろ、本問のような短い問題は、小さな言葉に大きな意味があるので、より精密な読み方が求められる。

 精読してくれれば、本問は、大きく二つの論点があることが判るはずである。

(一) 少年法61

 本問の第一の論点は少年法61条である。もし、それが論点でなければ、本問で、わざわざ少年法61条に言及する理由は全くないからである。すなわち、少年であることを根拠に、成人よりも、報道の自由に対する制約が幅広く肯定されるという理論を構築できればともかく、さもなければ違憲と評価されることになる。仮に同条が違憲であれば、図書館長の閲覧禁止は、それに連動して違憲と評価される可能性がきわめて高い。これが本問の中心論点であり、これに論及しなければ、本問では自動的に落第答案となる。しかし、なぜか今回の答案提出者は全員、この見え見えの論点を完全に無視していた。おそらくこれは、論点そのものの意味を諸君が理解していないためであると思う。そこで、今回のレジュメでは、これに関わる点については少し細かく説明することにした。だから、諸君の実際の答案で、このレジュメのようなウェイトで論述して欲しい、ということではない。(二) 閲覧禁止措置の合憲性

 第二の論点は、図書館長の行った閲覧禁止措置の合憲性である。仮に少年法61条が合憲であるとしても、そこから直ちに図書館の閲覧禁止が合憲になるわけではない。我々国民は知る権利を有しており、図書館長のとった閲覧禁止は、その知る権利を妨げる行為である。

 本問で知る権利が論点になることは、諸君も気づいていた。しかし、知る権利ということから、機械的に事前抑制禁止の原則や検閲が論点になると考えるのは妥当ではない。既に市販されている図書を特定図書館で利用する場合に、それらに抵触する可能性がないことは自明だからである。確かに論点であるには違いないが、より明白に重要な論点がある時に、こうした相対的には小さな論点を取り上げて紙幅を無駄遣いするのは、答案構成技術的に言えば、完全な間違いである。

 では、その、より明白に重要な論点とは何か。それは、行政法的に言えば、図書館という営造物の持つ法的性格である。それを憲法的に表現すると、本問はBが図書を読むことを希望した「時」に、A市図書館という「所」で、閲覧という「方法」が妨げられたということである。このように分解して説明すれば、本問では、時・所及び方法の規制を論じる必要があることが、君たちにもはっきりと理解できるであろう。

 以下、順次検討しよう。

 

一 報道の自由の意義と限界

 [はじめに]で述べたとおり、諸君は少年法61条に対して問題意識を持っていなかった。おそらく、その原因は、報道の自由という概念そのものをきちんと理解していないためと判断し、この節を書いている。諸君の答案中に、こういう詳しい議論が必要という意味ではないので、注意して欲しい。

(一) 報道の自由の意義

 報道の自由とは、報道機関が国民に対して事実の伝達をする自由を意味する。すなわち、一般の表現の自由に比べて、伝達内容が、思想・信条ではなく、単なる事実である点に第一の特徴があり、その主体が、不特定の国民ではなく、報道機関という特定の私人である点に第二の特徴がある。

 いつも強調しているように、定義は真空中から生まれるものではない。定義を下したら、必ず、何故その様に定義を下すことができるのか、ないし下すべきであるのか、の理由を述べなければいけない。

(二) 事実の伝達

 今日、我々は、従来の狭い表現の自由に代わって、知る権利という概念を知っている。ドイツ基本法第5条が表現の自由の内容として「一般に近づくことができる情報源から妨げられることなく知る権利」を保障したのは、憲法レベルにおいて、かっての表現の自由概念から訣別し、知る権利を正面から肯定した最初の例である。こうした発展を受けて、国際人権B規約(昭和41年制定、わが国の批准昭和54年)192項は表現の自由の概念そのものが、「あらゆる種類の情報及び考えを求め、受け及び伝える自由」と定義する。すなわち、人権規約のいう表現の自由は、わが国の伝統的な理解に比べると、第一に、思想・信条、すなわち「考え」に限定されるわけではなく、「情報」にまで拡大されている点、第二に、「求め、受ける自由」も含む総合概念となっている点に大きな相違がある。

 こうした発展を受けて、今日の憲法学では、憲法21条の表現の自由とは、あらゆる考え及び情報を求め、受け、伝える自由と理解するのが普通である。問題は、なぜ表現の自由を、そのように理解しなければならないか、である。条文があるから、では理由にはならない。知る権利の本質そのものに遡った、より幅広い説明がここでは必要である。

 例えば、人権の本質を人格的利益説に求める立場では、各人は自らの人格を自由に発展させる権利を持つのであり、そのためには、自己を成長させるために必要なあらゆる種類の情報を、求め、または受ける権利を必然的に保有する、と説明することができるであろう。これを一言に表現すれば、「自己実現と自己統治の権利確保のために」知る権利が認められるといっても良い。こういう簡潔な表現を是非覚えてほしい。

(三) 報道機関による活動

 表現の自由の享有主体は、あらゆる私人である。そして、表現の自由が情報の伝達を含む概念である以上、一般私人が、その表現の自由権行使の一形態として客観的真実の伝達を行うことも多い。しかし、その様な活動のことを報道の自由の行使という必要はない。わざわざ、事実の伝達活動を、通常の表現の自由とはことさらに分けて、「報道の自由」というとき、それは、報道機関という特別な機関による事実の伝達活動をいうものと理解すべきである。それは、報道機関が行う事実の伝達活動は、一般私人が行う事実の伝達活動に比べて、憲法上、特別の保護と、制約が課せられるからである。

 その相違は、一般私人が行う事実の伝達活動は、上述したところから明らかなように、純然たる表現の自由そのものであるのに対して、報道機関の行う事実の伝達は、知る権利に奉仕する権利という点に由来する。

 この報道機関の自由を理解するには、現代社会の持つ二つの大きな特徴に論及する必要がある。第一に、かっての夜警国家と異なり、今日の福祉国家においては、国家は膨大な量の情報を独占するようになったという点である。第二に、今日の複雑化から、誰もが情報の発信者であることは困難になってきたため、報道機関がその情報発信者としての地位を独占し、一般国民はもっぱら受け手としての立場に留まるようになってきた、ということである。この結果、主権者たる国民に対して、国政を決定するにあたって必要は情報を供給するのはもっぱら報道機関の役割となってきたのである。このことを、例えば博多駅事件における取材フィルムの提出に関する最高裁判所決定(昭和441126日=百選[第5版]162頁参照)は次のように述べている。

「報道機関の報道は、民主主義社会において国民が国政に関与するにつき、重要な判断の資料を提供し、国民の『知る権利』に奉仕するものである。」

 注意してほしいのだが、民主主義云々という表現は、こうした現代社会の特徴から発生する、報道機関の持つ自由の特殊性を説明するための論理として登場するのであって、知る権利そのものの内容ではない。

 この報道機関の持つ、特別の地位から、報道の自由は、一方において特別の保護が与えられる。例えば、通常人が行えば犯罪となる場合にも、報道の自由の一環として行われているが故に、正当業務行為とされる場合がある。この点が、本問の中心論点となる。

 他方、この知る権利への奉仕者としての地位から、報道機関の、思想・信条の表現の自由は大幅に制限される。例えば、原則的に不偏・不党が要求され、さらに一定の偏りがあった場合には、国民からのアクセス権が肯定される場合がある。このことは電波メディアには法律上明定されており、印刷メディアの場合にも、基本的に同様に考えられている。ただ、それが抽象的権利に留まるのか、具体的権利として把握することが可能なのかについて、説が分かれているに過ぎないのである。これについては、本問では論点ではないので言及の必要はないが、上記優越的権利に対応する義務として理解していてほしい。

(四) 真実報道の自由

 報道の自由は、事実の報道である。事実とは客観的真実を写したものでなければならない。表現の自由は、一般私人には真実の伝達に当たって厳しい制約を定めている。しかし、報道の自由には、相当手厚い保護を与えている。

 すなわち、刑法2301項は、「公然事実を摘示し、人の名誉を毀損した者は、その事実の有無を問わず」名誉毀損罪が成立すると定める。すなわち、人の名誉を毀損するような真実の指摘は、一般私人の場合には許されない。そこに表現の自由の明らかな限界が存在しているのである。

 しかし、刑法は、報道機関による報道に対してだけは例外を認める。すなわち230条の2は、「公共の利害に関する事実に係り、かつ、その目的がもっぱら公益を図ることにあったと認めるときは、これを罰しない」とするとともに、公訴提起前の犯罪行為に関する事実は、自動的に公共の利害に関する事実とする。

 最高裁判所は、このような法の優遇規定をさらに緩やかに解することにより、報道機関の特権的地位を最大限に尊重している。例えば、月刊ペン事件においては公共の利害に関する事実を緩やかに認定する(最判昭和56416日=百選[第5版]144頁)。また、真実性の証明ができなかった場合においても、夕刊和歌山時事事件(最判昭和44625日=百選[第5版]142頁)において、非常に緩やかな救済策を導入している。この結果、報道機関は、名誉毀損やプライバシー侵害の問題が発生しそうな事件報道にあたっても、一般人に比べてはるかに広範な発表の自由を享受しうることとなっている。現在問題になっている個人情報保護法においても、放送機関、新聞社、通信社その他の報道機関についてはその適用除外(同法50条)となっていて、同様の特権的地位が付与されていることは諸君の知るとおりである。

 そして、ここで言う事実の報道の中には、当然事件関係者の実名報道の自由が含まれる。それを否定しているところに、少年法61条の問題性がある。

二 実名報道されない権利

(一) 成人における実名報道されない権利

 少年事件の特殊性に論及する前に、そもそも人は一般に、報道の自由に対抗して、実名報道されない権利を有しているかどうかを検討しよう。

 すなわち、プライバシー・名誉毀損の権利の一環として、一般に「実名報道されない権利」が存在し、それが人権であることが言えるか否かが問題になる。これについては、「ノンフィクション逆転」事件で、最高裁判所が次のとおり述べて明確に認めている(最判平成628日=参照:百選[第5判]138頁)。

「ある者が刑事事件につき被疑者とされ、さらには被告人として公訴を提起されて判決を受け、とりわけ有罪判決を受け、服役したという事実は、その者の名誉あるいは信用に直接にかかわる事項であるから、その者は、みだりに右の前科等にかかわる事実を公表されないことにつき、法的保護に値する利益を有するものというべきである」

 そこで、次に問題になるのは、この人権と、報道の自由のバランスをどのような基準で取るべきか、すなわちどのような場合であれば実名報道が許され、どのような場合であれば禁じられるのか、という点が問題になる。その点について、最高裁は言う。

「ある者の前科等にかかわる事実は、他面、それが刑事事件ないし刑事裁判という社会一般の関心あるいは批判の対象となるべき事項にかかわるものであるから、事件それ自体を公表することに歴史的又は社会的な意義が認められるような場合には、事件の当事者についても、その実名を明らかにすることが許されないとはいえない。」

 すなわち、歴史的ないしは社会的意義がある場合でなければ、プライバシー権が優越し、実名報道は許されない、と最高裁は述べているのである。

(二) 少年法61条の合憲性

 以上のような知識を前提に、少年法61条を読んでみよう。次のように規定している。

「家庭裁判所の審判に付された少年又は少年のとき犯した罪により公訴を提起された者については、氏名、年齢、職業、住居、容ぼう等によりその者が当該事件の本人であることを推知することができるような記事又は写真を新聞紙その他の出版物に掲載してはならない」

 すなわち、同条は、文言解釈をすれば、少年事件に関しては、一切の実名報道を禁止している。ノンフィクション逆転事件判例との比較で言えば、実名報道に歴史的・社会的意義があるかどうかをまったく問題にしていないように読める。それが、合憲といえるのだろうか、というのが、本条を巡る根本的な問題である。

 この問題に関しては、少年事件をめぐって一部雑誌が実名報道あるいは極めて実名に近い仮名報道をしたことから一躍注目を集めるようになり、例えば松井茂紀はズバリ『少年事件の実名報道は許されないのかー少年法と表現の自由』(日本評論社2000年刊)なる全224ページの小冊子を刊行している(法学部図書館にあるので、後で見て欲しい)。

(三) 判例の動向

 この問題を正面から争った判例としては、長良川リンチ殺人事件と堺通り魔殺人事件で、それぞれ加害者である少年が出版社を相手取って損害賠償訴訟を起こした事件に関する二つの高裁判例が有名である。すなわち名古屋高裁と大阪高裁で、見解が大きく二つに分かれたことから、学界の関心を集めるに至った。両事件とも、第1審段階では、実名報道に対して少年法61条から憲法判断にはいることなく、直ちに名誉毀損ないしプライバシー侵害の成立を認め、民法上の不法行為が成立するとして、損害賠償請求を認めた。それに対し、出版社は、実名報道に歴史的・社会的意義があるとして争った。

 名古屋高裁は長良川リンチ殺人事件において少年の実名報道を否定した。これに対し、大阪高裁は堺通り魔事件に関し、実名報道を許容した。そして、最高裁判所は長良川事件に関し、大阪高裁の論理を支持して実名報道を認めた(百選[第5判]148頁参照)。そこで、以下では長良川事件に関する高裁と最高裁の論理を紹介する。

 1 長良川事件名古屋高裁判決(平成12年6月29日)

 諸君が、少年法61条自体に問題意識を持たなかった最大の理由は、諸君がそれを無意識に合憲と判断していたからに違いない。その自分の価値観を大事にしたければ、ここに紹介する長良川事件における名古屋高裁の判決理由を熟読して、きちんと記憶にとどめ、少年法を巡る問題が出題されたら、論文の上に再現できるレベルにまで理解しておいて欲しい。そういう人のために、少々長いが、ほぼ全文を紹介することにした。

「(一)少年に関する犯罪報道等において実名で報道されないという少年法61条により保護されている法的利益、すなわち、少年の名誉、プライバシー等の人格権、憲法13条に定める個人の尊厳と人格の尊重の原理に基づくものである。

 少年は、まず、一個の人格として、名誉及びプライバシーを守られる基本的人権を保有している。これは、自明のことであるが、市民的及び政治的権利に関する国際規約(以下「B規約」という。)17条においても明記されている。

(二)さらに、罪を問われる少年については、成長の途上にあって可塑性に富み、教育可能性が大きいために、個別的処遇によって、その人間的成長を保障しようとする理念(少年法1条「健全育成の理念」)のもとに、将来の更生を援助促進するため、社会の偏見、差別から保護し(少年審判の非公開、非公表原則)、その名誉やプライバシーを特に手厚く保護される権利が認められている。

 そして、B規約144項は、『少年の場合には、手続は、その年齢及びその更生の促進が望ましいことを考慮したものとする。』と規定し、『少年司法に関する国連最低基準規則8』は、『少年のプライバシーの権利は、不当な公表やラベリングによって少年が害されることを避けるために、あらゆる場面で尊重されねばならない。原則として、少年犯罪者の特定に結びつくどんな情報も公表されるべきではない。』と規定している。この国連最低基準規則は、わが国も批准したB規約を具体化したものであり、わが国の少年司法の指標とされるものである。

 右のB規約及び少年司法に関する国連最低基準規則を踏まえて成立し、わが国も批准した児童の権利に関する条約402項は、罪を問われる少年について、『手続のすべての段階において当該児童の私生活が十分に尊重されること。』を定めている。

 要するに、少年は、少年法や国際条約によって、ひとりの人格としての尊厳と価値を尊重され、成長発達の権利を保障され、自立更生の権利と社会参加、社会復帰の権利を特に保障されているのである。

(三)わが国において、右条約に違反する法律、命令は、違法、無効とされるのであり、少年のプライバシーに関する権利は、基本的人権の一つとして、わが国を含めた国際規範において、既に確立された権利である。

 少年法61条も、右の国際規範に沿うものであり、少年法1条の健全育成とそのための個別処遇の基本理念に基づき少年の更生、人格の成長の権利を保障するため、その名誉やプライバシーに関する権利を保障する目的のもとに規定されているのである。すなわち、少年には、名誉やプライバシーを特に保護される権利が認められているのであり、その基本的人権を保障する一環として、その権利を守る目的で少年法61条の規定が存在するのである。

(四)右のような少年法61条の規定の目的に照らせば、同条に違反する報道記事は、公益目的及び真実性が証明されただけでは違法性が阻却されず、免責されるためには、少年のプライバシー等の権利を守る利益よりも明らかに優先する社会的利益があるという特別の事情が存在することが必要である。」

 この論理を採る場合にも優先する社会的利益がある場合には実名報道を許容する余地を認めていることにも注目しておいてほしい。ただ、そこに明白性を要求することにより、一般的には少年の実名報道されない権利を優越させていると理解することができる。

 2 同事件最高裁判所判決(平成15314日)

 それに対して、先に述べたとおり、堺通り魔事件大阪高裁判決は少年法61条を問題視する。同様に、長良川事件最高裁判決は、少年法61条を文字通りに理解することは否定し、次のようにいう。

「本件記事が被上告人の名誉を毀損し,プライバシーを侵害する内容を含むものとしても,本件記事の掲載によって上告人に不法行為が成立するか否かは,被侵害利益ごとに違法性阻却事由の有無等を審理し,個別具体的に判断すべきものである。すなわち,名誉毀損については,その行為が公共の利害に関する事実に係り,その目的が専ら公益を図るものである場合において,摘示された事実がその重要な部分において真実であることの証明があるとき,又は真実であることの証明がなくても,行為者がそれを真実と信ずるについて相当の理由があるときは,不法行為は成立しないのであるから,本件においても,これらの点を個別具体的に検討することが必要である。また,プライバシーの侵害については,その事実を公表されない法的利益とこれを公表する理由とを比較衡量し,前者が後者に優越する場合に不法行為が成立するのであるから,本件記事が週刊誌に掲載された当時の被上告人の年齢や社会的地位,当該犯罪行為の内容,これらが公表されることによって被上告人のプライバシーに属する情報が伝達される範囲と被上告人が被る具体的被害の程度,本件記事の目的や意義,公表時の社会的状況,本件記事において当該情報を公表する必要性など,その事実を公表されない法的利益とこれを公表する理由に関する諸事情を個別具体的に審理し,これらを比較衡量して判断することが必要である。」

 これは、今回は割愛したが、堺通り魔事件で大阪高裁が展開した論理とほぼ同じである。そして最高裁判所が展開しているこの論理は、先に紹介したノンフィクション逆転事件と同じことが判るであろう。成人であると少年であるとに関わりなく、実名報道されない自由を考えることが出来、保護の程度も本質的には変わらない、ということである。

 差し戻し審判決は、平成12512日に名古屋高裁であり、「公共の利害に関する事実で、公益を図る目的で掲載、発行された。プライバシーについて不法行為は成立しない」として、出版社側に30万円の賠償を命じた1審・名古屋地裁判決を取り消し、男性の請求を棄却した。

(四) 実務及び学説の状況

 名古屋高裁の立場を肯定する学説は当然ある。例えば次の見解である。

「歴史的経緯から考えるならば、現実的には少年法61条はむしろジャーナリズムの問題と考えるのが妥当であり、表現の自由ととらえない方がよいのではないか。よってF誌等の行動は、少年法違反という法律問題というよりむしろ、当該雑誌及び出版社の品性のなさを責めるべきであり、軽薄な欲望に沿った悪趣味な報道はまさに、ジャーナリズムの立場からその行動が問われるべきである。そして事件の本質を伝えるのに実名が不要であるならば、当然に公共性を理由とした実名報道は少年の保護に道を譲るべきである。」(日本新聞協会開発部副主幹 山田健太「『少年の保護』と表現の自由」ジュリスト113652頁)

 ところで、実をいうと、上記でF誌と呼ばれているフォーカス誌などによる事件発生段階での実名報道は、少年法61条が直接禁止しているものではない。すなわち、同条は、あくまでも「家庭裁判所の審判に付された少年又は少年のとき犯した罪により公訴を提起された者」について実名報道等を禁止しているに過ぎず、捜査段階での報道まで禁じたものではないからである。ただ、捜査段階で報道されてしまえば、審判等の段階に達した後で、いくら報道を規制しても実質的意義は失われている。その意味で、捜査段階から実名報道を規制しなければ、ざる法化してしまうことは確かである。そこで、少年法61条の趣旨に則った自粛が報道機関に要請されることになる。

 しかし、実名報道の自粛は、過去においてきちんと遵守されてきたとは言いがたい。松井前掲書32頁以下が要領よくまとめているところでは、1950年の「日大ギャング事件」、1958年の「小松川女高生殺人事件」、1960年の「社会党浅沼書記長殺人事件」、1965年の「ライフル魔事件=永山事件」などではいずれも実名報道が一般的になされた。

 これを問題視した法務省人権擁護局が斡旋した結果、新聞協会は次のような倫理綱領を定めた。

「少年法第61条は、未成熟な少年を保護し、その将来の更正を可能にするためのものであるから、新聞は少年達の“親”の立場に立って、法の精神を実践すべきである。罰則が付けられていないのは、新聞の自主的規制にまとうとの趣旨によるものなので、新聞はいっそう社会的責任を痛感しなければならない。すなわち、20歳未満の非行少年の氏名、写真などは、紙面に掲載すべきではない。ただし、

@ 逃走中で、放火、殺人など凶悪な累犯が明白に予想される場合、

A 指名手配中の犯人捜査に協力する場合

など、少年保護よりも社会的利益の擁護が強く優先する特殊な場合については、氏名、写真の掲載を認める除外例とするように当局に要望し、かつこれを新聞界の慣行として確立したい」(少年法第61条の取り扱いの方針=19581216日)。

 この倫理綱領に明記されているとおり、少年事件だからというだけで、常に実名ないしそれに類する報道が禁じられるわけではない。実名報道の社会的利益が大きくなれば、当然許容されることになる。ただ、通常、報道の自由がプライバシーに優越する二つの要件、すなわち「当該行為が公共の利害に関する事実に係ること」及び「専ら公益を図る目的に出た場合」という要件では足らず、それ以上の、上記倫理綱領が例示している事項ないしそれに準ずる強い社会的利益が存在する結果、実名報道の必要性があれば、それは許容されると考えるべきことになる。

 もっとも、先に紹介した2判例は、いずれも審判段階に達しているから、直接に少年法61条に抵触することになる。しかし、いかなる人権といえども限界がないわけはない。審判段階に達すれば、倫理綱領が具体的に例示するような事態は通常は起こらないと思われるが、それに準ずる社会的利益の存在を考える余地がないと断ずることはできない。その意味で、少年法61条は、それを文字通りに理解する場合にはあまりに広範すぎる規定ということになる。同条を強行法規と考える場合には、表現の自由を制限する規定である以上、それが例外を定めていない点で文面審査の対象となり、違憲と評価すべきことになる。これを避けるには、上記新聞協会倫理綱領が暗黙の前提としているように、同条を倫理規定と理解するか、あるいは例外を当然に許容していると解することにより、合憲限定解釈を採る余地を残す等の解釈手法が当然に求められることになる。

 このように理解してくれば、上記判例の中では、大阪高裁判決やそれと同旨の最高裁判所判決に学説の支持が集まることになるのは当然ということができるであろう(同判決の評釈である田島泰彦「少年の実名報道と少年法61条」=法律時報72993頁以下、浜田純一「少年犯罪の実名報道と表現の自由」=平成12年度重要判例解説12頁以下等はいずれも同判決を支持していると読める)。

 それに対し、松井茂紀のように、実名報道を禁止する「やむにやまれぬ利益」がない限り、禁止は違憲とするところまで表現の自由を優越させるというところまで徹底して表現の自由を優越させる見解(松井前掲書122頁以下参照)は、少数派といえる。それではあまりに国際人権規約等の規定を無視し、また、一般にプライバシーの権利などが表現の自由に優越することすら説明できなくなると思われる。

 

三  閲覧禁止措置の合憲性

(一) 考え方のアウトライン

 司法試験問題のヒントになったのは、東京地裁平成13912日判決(平成12年(行ウ)第175号)の事件と思われる。これは、次のような事件である。上述した「堺通り魔殺人事件」に関して新潮社が発行している「新潮45」(19983月号)が顔写真入りで実名報道した記事を掲載したのに対して、東大和市立図書館長は同記事が少年法61条に違反するおそれがあると判断し、東大和市立図書館運営規則10条の規定により、同図書を閲覧禁止とする措置を執ることとした。ところが、同事件控訴審判決を報じた「新潮45」(20004月号)の記事により実名報道の事実を知った図書館利用者が閲覧を求め、拒まれたことから知る権利の侵害として訴えた事件である。もっともこの運営規則10条は「中央館長は、特に必要と認めた資料について、その利用方法を制限することができる。」と定めているにとどまり、司法試験問題のように少年法61条について明確に言及しているわけではない(だからこそ、少年法が論点であると断定できるのである)。

 この問題の場合には、本問のように抽象的に報道の自由の奉仕対象として抽象的に知る権利を考えるだけではなく、図書館利用者の知る権利の具体的権利性を考える必要がある。

 地方公共団体の設置する図書館は、地方自治法2441項にいう「公の施設」に該当すると解することができる。それら施設は、地方公共団体が住民の利用に供することを目的として設置したものである。だから原則として住民の利用権を制約できない。

「普通地方公共団体は、正当な理由がない限り、住民が公の施設を利用することを拒んではならない。」(同条2項)

 したがって、これを根拠法規として把握することにより、住民に具体的な権利としての施設利用権を考えることができる。この施設利用権はもちろん絶対的なものではなく、条文が明言するとおり、普通地方公共団体は、正当な理由があれば、住民が公の施設を利用することを拒むことができるのである。そこで、その正当理由をどのように考えるべきかが問題となる。

 このように「住民の施設利用権」というキーワードを示せば、多くの諸君が泉佐野市会館使用拒絶事件を思い出してくれると思う。すなわち、準パブリック・フォーラムが問題になった同事件で、最高裁判所はこの244条の「正当な理由」を解釈するに当たり、いわゆる厳格な利益衡量論を展開したことで有名である(最判平成737日=百選第5178頁)。

 知る権利も、同事件で問題となった集会の自由と並んで重要な精神的権利なのであるから、同事件判例は、知る権利についてもそのまま読み替えることが可能なはずである。

(二) パブリック・フォーラム論について

 今回は、時間的に余裕がないので、パブリック・フォーラム論そのものについて、詳しく説明することはできない。ごく簡単に要点だけを説明したい。

 時・所及び方法の規制とは、その名のとおり、本来は表現の自由とはまったく関係のない法律が、結果として表現の自由を規制してしまう場合の処理方法を開発することを狙った理論である。だから、内容規制を目指す場合の基準である厳格な審査基準やLRA基準を書くと、その段階で落第答案となる。

 諸君に基本的に認識しておいて欲しいのは、この種規制立法においては、表現の自由に関する文面審査は基本的に必要ではない、ということである。時・所及び方法の規制についての議論は、常に適用審査の問題になるのである。本問を、運営規則の合憲性と捉えるのは、その意味で間違いである。仮に、運営規則の合憲性から捉えた場合には、本問条文には、先に判例で問題にしたような基準が述べられておらず、したがって明白性基準から、自動的に違憲となってしまう。

 本問の場合、A市の図書館運営規則が、ここにいう時・所及び方法の規制である。この規制権限は、書籍の内容とはまったく無関係に、当該図書館の一般公衆への供用スペースの限界と、各書籍の利用頻度などを基準にして行使されるはずである。こうした、表現の自由とはまったく無関係の規制に対して、文面審査を行う必要はない。狭義の合理性基準で審査すれば十分である。しかし、その規制法規が、本問のように知る権利の制限として使われたとき、依然として狭義の合理性基準で判断するのは適切ではない。現実に規制されているのは表現の自由な意思知る権利であることに着目して、そうした法規を適用するにあたっては、より厳格度を増した審査基準を適用するのが妥当なのである。

 ここで話のポイントは、時・所・方法の規制に対しては、一律に取り扱うのは妥当ではない、という点である。すなわち、相対的に緩やかな審査をするのが妥当な場合と、厳しい審査をするのが妥当な場合とがある。

 例えば、騒音規制法というものを考えてみよう。選挙になれば、どの候補者も通勤客などを目指して、朝早くから駅前広場にやってきて政見を発表するものである。そこでの拡声器を使用した演説を、単に騒音のレベルに達している音だから、という理由で一律に禁止するのは、明らかに民主制の過程に大きな影響を与えるもので不当といえる。しかし、どれほど重要な演説といえども、深夜の住宅街や病院・学校のすぐ脇で、拡声器を使ってがなり立てるような行為を許容することを要求しないであろう。つまり、日中という「時」における駅前という「所」における拡声器使用という「方法」の演説に騒音規制法を適用する場合には、深夜という「時」における住宅街という「所」での同じ方法の演説に比べて、より厳格度を増した基準で、その当否を判断するべきだといえる。

 こういう適用における審査基準の使い分けの基準を論ずる議論の一つに、パブリック・フォーラム論があり、今日における判例・通説と言うことができる。

 ここでその内容を簡単に要約すると、街路streetおよび公園parkのような、伝統的に表現活動と結びついている公共用物に関する時・所・方法の規制についての議論は、純粋パブリック・フォーラムと呼ばれる議論の枠内で論じられる。その特徴は、それが本来は、別の用途を持つ施設として建設されている、という点である。街路であれば交通の手段であり、公園であれば市民の憩いの場である。そうした本来の用途と、表現の自由の場としての調整が、ここでは大きな問題となる。

 それに対し、公会堂や公立劇場のように、国ないし地方公共団体が自発的に公衆の表現活動の場として利用に供してきた公共の場所における時・所・方法の規制は準パブリックフォーラムと呼ばれる議論で取り扱われる。準パブリック・フォーラムとは、集会等の表現の自由に奉仕する目的で使用することを本来の目的として建設されたものである点に、純粋パブリック・フォーラムとの違いがある。

(三) 準パブリック・フォーラムにおける審査基準

 本件のような準パブリック・フォーラムの場合には、純粋なパブリック・フォーラムよりも、踏み込んだ比較衡量が可能となる。なぜなら、公園や道路のような純粋パブリック・フォーラムは、本来の目的が別にありながら、表現の自由に奉仕する場としても使用されるものであるのに対して、準パブリック・フォーラムは、前述のとおり、表現の自由に奉仕することが、施設設置の目的そのものだからである。例えば、本問の図書館という施設の設置目的そのものが知る権利に奉仕することにあるからである。その結果、施設管理者は基本的に表現の自由を尊重し、閲覧を自由に認めるべき義務を負っているからである。先に紹介した地方自治法244条がこの理を示している。

 この場合の典型的な判例が、泉佐野市市民会館事件である(最高裁平成737日判決=百選[第5版]178頁)。

 泉佐野事件において、最高裁判所は、集会を施設の設置目的とする市民会館における審査基準について、次のように述べる。

「このような較量をするに当たっては、集会の自由の制約は、基本的人権のうち精神的自由を制約するものであるから、経済的自由の制約における以上に厳格な基準の下にされなければならない。」

 これを受けて登場するのが、「重み付け比較衡量論」と呼ばれる手法である。すなわち、比較衡量に当たっても、予め表現の自由に優位性を与えた形での衡量が要求される。

「 本件条例71号は、『公の秩序をみだすおそれがある場合』を本件会館の使用を許可してはならない事由として規定しているが、同号は、広義の表現を採っているとはいえ右のような趣旨からして、本件会館における集会の自由を保障することの重要性よりも、本件会館で集会が開かれることによって、人の生命、身体又は財産が侵害され、公共の安全が損なわれる危険を回避し、防止することの必要性が優越する場合をいうものと限定して解すべきであり、その危険性の程度としては、前記各大法廷判決の趣旨によれば、単に危険な事態を生ずる蓋然性があるというだけでは足りず、明らかな差し迫った危険の発生が具体的に予見されることが必要であると解するのが相当である。そう解する限り、このような規制は、他の基本的人権に対する侵害を回避し、防止するために必要かつ合理的なものとして、憲法21条に違反するものではなく、また、地方自治法244条に違反するものでもないというべきである。

 そして、右事由の存在を肯認することができるのは、そのような事態の発生が許可権者の主観により予測されるだけではなく、客観的な事実に照らして具体的に明らかに予測される場合でなければならないことはいうまでもない。」

 この判決のポイントは二つある。

 第一に、条例に対して、限定合憲解釈を行っていることである。普通、表現の自由の規制立法では、立法そのものに対して文面審査を行う。限定合憲解釈を行ったのでは、萎縮効果を防ぐことができないからである。しかし、時・所及び方法の規制では、先に述べたように、表現の自由は適用レベルではじめて問題になるから、規制の適用を合憲にするためには、限定合憲解釈が要請されることになる。

 第二に、表現の自由が侵害される具体的危険性の判断基準として、明白かつ現在の基準を使用したことである。すなわち、わが国最高裁判所は、準パブリック・フォーラムにおいては、表現の自由を尊重するべき必要性が高いことから、要件を先に述べた厳格な合理性基準からさらに一段強化して、明白かつ現在の危険の存在を求めたのである。この論理を本問に適用するにあたっては、基本的には集会という文言を雑誌の閲覧と読み替えて、当てはめていけばよい。

 

四 本問への当て嵌め

 以上のことを前提として、本問の結論を検討しよう。

 第一の論点である少年法61条の解釈につき、諸君が名古屋高裁判決の論理を採用すれば、少年が実名報道されない権利を重視するべきであるから、比較衡量の結果として閲覧禁止を是とする結論を導きうる。細かな論理は特に説明しなくとも判ると思う

 また、松井説を採れば、実名報道を禁ずるやむにやまれぬ利益が認定できない限り、逆に閲覧禁止は知る権利の侵害になる、という結論が導きうる点も、特に問題はないと思う。

 問題は、両者の中間である大阪高裁判決や最高裁判所判決の論理を採用した場合における第二の論点に対する考え方である。すなわち、実名報道自体が比較衡量の対象となって当否が決せられる場合、裁判所が、実名報道は許される、と判決した場合に、閲覧禁止を行うのが違憲であることは、問題がないであろう。

 では、その実名報道の当否が問題になっているが、裁判所による判断が出ていない段階における閲覧禁止についてはどう考えるべきだろうか。

 この点について、先に紹介した東大和市事件で、東京地裁は次のように述べている。

「本件記事をめぐっては、法務省が人権侵害に当たるとして本件図書を出版した新潮社に対して関係者への謝罪などの措置を講ずるよう勧告したほか、実名報道をされた者が同社に対しプライバシー権等の侵害を理由に損害賠償を求める訴えを提起し、第1審では請求の一部が認容されたが、平成12年2月29日、控訴審の大阪高等裁判所は第1審判決を取り消し、請求を棄却する判決をし、この判決には上告がされていた。(公知の事実)〈中略〉

 本件においては、前記のとおり、本件記事が少年法61条に抵触するものである可能性があったことから、平成10218日に図書館長《A》が運営規則10条に基づき閲覧禁止としたものであり、原告が桜ヶ丘図書館に閲覧を請求した平成124月ないし6月の段階でも、本件記事の適法性を争点とする民事訴訟が係属中であったことが認められ、地方公共団体が設置・管理する図書館においては、その運営の適法性については慎重な判断が要求されてしかるべきこと、都立多摩図書館等においても閲覧禁止の措置が採られていたことによれば、法律に抵触する可能性がある図書の利用方法に制限を加え、閲覧を禁止することは、その目的において正当なものであるといえるし、本件図書が少年法61条に抵触しない旨の大阪高裁判決が上告取下げにより確定した後は、閲覧禁止の措置が解除されていてることに照らせば、その手段及び程度においても相当なものであったと認められるから、図書館長の採った措置は、図書館法3条により図書館長に認められた裁量権の範囲内であるといえ、違法なものではない。」

 要するに、図書館規則が館長に認めている裁量権は、自由裁量ではなく、羈束裁量と理解すべきである。そして、羈束裁量であることから、その裁量は客観的妥当性を有していなければならない。その客観的妥当性を、本件判決では、法務省の見解、他の公立図書館の動向、裁判所の判決などを総合的に勘案して行動している点に求めているのである。前述の通り、少年法61条について合憲限定解釈を施して例外を許容するという説を採る場合、それに準拠する図書館運営規則についても、同様に客観的標準説を導入すれば、妥当な結論を導きうることになる。

 行政法は、既に諸君は勉強しているはずだから、ここにあげた自由裁量や羈束採用という言葉はきちんと使い分けて議論をして欲しい。本番でこのような問題が出た場合に、こうした裁量概念の区別をせず、漠然と裁量とだけ言っているようでは、きちんと用語を使用した論文に比べて、相対的に見劣りしてしまうことになるであろう。