憲法41条について論ぜよ

甲斐素直

[はじめに]

(一) 法律の論文とは

 法律学は、社会科学なので、自然科学と違って、何かの問題について、絶対的に正しい、ということはあり得ない。様々な問題について、人々の間には意見の対立がある。そうした意見の対立がある点を、「論点」という。諸君が何かについて「論ぜよ」といわれたら、そのテーマに存在する論点を紹介し、その論点に対する自分の意見を述べ、その理由が求められている、ということを意味している。つまり、確実に論点を知っておくこと、それについての自分の結論を持っていること、そして、なぜその結論を導いたのかについての理由を述べることが求められている。

 このレジュメでは、諸君の理解を確保するため、議論の対立のない点についても説明しているが、その点は諸君の小論文には書く必要がない。

(二) 理由は上から来る

 諸君が書くのは、法律学の論文だから、その論文で諸君が書く、結論を導く理由は、法律学の枠組の中で展開される必要がある。経済学や社会学の理由を書いてはいけない。通説であるとか、判例があるとか書いて理由を挙げたつもりになっている人が良くいるが、間違いである。確かに、社会的に見れば、通説や判例の結論に従って処理されることが多い。しかし、諸君に必要なのは、そうした社会的状態があるという情報の提示ではなく、諸君がそう考える根拠なのである。通説や判例に賛成であれば、それらがどういう理由で特定の結論を導いているかを勉強し、それを自分の意見として書こう。

 法律学は、ユークリッド幾何学とよく似ている。ユークリッド幾何学では、正しいことは直感的に判るけれど、それが正しいことは証明できない原理(これを公準という)を基礎に、そこから先は、すべてのことをその基礎となった理論から導いて証明していく。

 法律学も同じ事で、一番根本的な原理から他のすべてのことを証明していく。その基本的な原理から導いて、当面の問題を解決するための論理の流れが、君たちが法律学で学ぶことなのである。

 現在のわが国で、もっとも根本的な、したがって正しいことが証明不可能な原理を、個人主義という。これが正しいことは証明できないが、我々はそれが正しいことを前提として、すべての法律学の議論を展開する。

 個人主義を、我々の生きている社会の様々な問題に適用すると、次の五つの原理を導くことができる。

 自由主義

 民主主義

 平等主義

 福祉主義

 平和主義

 五大原理と呼ばれる。五大原理は、互いに矛盾する内容を含んでいるので、具体的事例に適用する場合、どれをどのような基準で適用するかが問題になる。そうした矛盾をどのように解決するかについては、意見の対立がある。そこから、すべての法律学の議論が生まれることになる。

(三) 統治機構の議論は

 現行憲法の統治機構は、基本的に二つの大きな原理によって支配されている。自由主義と民主主義である。

 自由主義は、国家権力からの国民の自由を確保することを目的とする原理である。その手段として、今日では権力分立制、すなわち国家権力を分割し、分割した権力が相互に牽制し、抑制し合うことにより、国民の自由を確保するという手法を採用している。

 他方、民主主義は国家における最高の意思決定権を国民に求める原理である。その手段として、現行憲法は「国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する」ことを要求している。その中核的な概念が「国政が国民の厳粛な信託による」こと、すなわち国民主権である。主権概念は、それが唯一、絶対、不可分な性格を有することを要求する。したがって、基本的に権力統合的に機能することになる。

 つまり、自由主義は権力の分割、そして民主主義は権力の統合という相互に矛盾する要求を、統治機構に対して突きつけている。したがって、この二つの原理は、同一平面で採用することは出来ない。どの場面では、どちらの原理を採用するのか。諸君がそこを理解でいれば、統治機構のほとんどの議論は征服できたことになる。その二つの原理の衝突が、もっともシンプルに現れているのが、憲法41条である。私が諸君に、この点についての論文を書くことを求める由縁である。

 わが憲法は、第一の基準として自由主義を採用している。このことは、憲法が、第4章国会、第5章内閣、第6章司法と、権力分立制に基づいた編成を採用していることに端的に表れている。

 しかし、権力分立制を徹底すると、三権は基本的に対等だから、三権が相互に対立した場面において一切の調整が不可能になってしまい、国政が機能マヒに陥る。そこで、そのように、権力分立制が壁にぶつかる場面において、三権間に序列を付けて問題の解決を図る必要が生ずる。この場面で働くのが民主主義原理である。すなわち、わが憲法は、権力分立制からは絶対に説明することの出来ないヒエラルキーを三権機関に与えている場面がいくつかある。大きいものとしては次の二つがある。

 その一は、議院内閣制である。この制度の下においては、内閣は国会の信任の下に成立し、国会に対して連帯責任を負う。三権分立を徹底するならば、アメリカのように行政府を、議会から完全に独立した大統領の下におくのが正しい。行政府の存立の基盤を国会に求める制度を、権力分立制によって説明することは不可能である。国民を直接に代表する国会の意思に行政を従属させるという極めて民主主義的な制度が議院内閣制なのであり、議院内閣制が機能する限度で、明らかに権力分立制がいう各権力は対等という原理は排除されている。議院が上で、内閣が下に位置するという制度であることが、憲法663項の連帯責任の規定に端的に見ることができる。

 ついでにいえば、司法府に関する人事権は、完全に内閣に握られている(憲法791項、801項)。すなわち、任命という点からいえば、国会⇒内閣⇒裁判所という序列が明確に存在しており、下位にある機関が上位機関をコントロールする手段はまったく存在していないから、この序列の中でも、国会が上位の機関であって、決して対等ではないことは疑う余地がない。

 その二は、財政の章に現れている国会中心財政主義である(憲法83条)。国会は三権すべての財政権を一般的なレベルから具体的なレベルまで完全に握っているのである。権力分立制を徹底するならば、三権機関それぞれの財政は、それぞれが自主財政権という形で保有していなければおかしい。自主財政権がなければ、完全に独立した活動はできないからである。ところが、財布の紐は、完全に国会が握っていると憲法はいっているのだから、その限度で、ここでも権力分立制が排除されており、国会の意思に他の権力は従属しなければならないことが判る。

 以上をまとめる。現行憲法では、基本的には自由主義に基づく権力分立制がとられている。そのことを国会において明らかにしているのが41条にいう「唯一の立法機関」という文言である。しかし、憲法は様々な場面で、国民の直接の代表者たる国会が、他の権力の上に立つことを予定している。それが「国権の最高機関」という言葉に表れている。つまり、国のあらゆる機関は、自由主義的な原理に基づく地位と、民主主義的な原理に基づく地位の二重の地位を有している。そのことを、統治機構の冒頭にある国会に関して端的に宣言したのが、憲法41条なのである。

 ここまでに述べたことは、諸君の論文に書く必要はないが、この根本的な意味を理解しておかないと、きちんとした論文を書くことはできない。

一 国の唯一の立法機関について

 憲法に代表される成文法の解釈に当たっては、我々は、一つ一つの言葉(文言)についてきちんとその意味を考えなければならない。ここでは、「唯一」と「立法」と「機関」という三つの言葉が使われている。だから、それぞれについて検討する必要がある。日本語は、後ろに来る言葉ほど基本的なものである。だから、これらの言葉の検討順序は、まず機関であり、ついで立法であり、最後に唯一ということになる。

(一) 機関

 この言葉が何を意味するのか、という点は、学説の対立はないから、論点ではなく、諸君の論文に書く必要はない。

 しかし、対立がない、ということと、諸君が正確に理解しているということは別の問題である。驚くほど多くの諸君が(どころか、受験予備校の講師や司法修習生レベルでさえ)、この言葉について正確な理解をしておらず、この言葉の正確な意味からすれば、実に頓珍漢な文章を書いていることが多いので、ここで説明しておきたい。

 直感的には、機関とは、自分で動くものを意味すると考えてくれればよい。諸君が、法学辞書で機関という言葉を調べてくれると、「法人その他の組織体の意思決定をする地位にある自然人」というような説明が載っているが、これは法人や団体は、人間が紙の上で考えだしたもので、実在しておらず、実際に活動できるのは自然人だけだからである。次に、憲法に特化した場合における機関という言葉の説明を紹介しておく。

「国法上国家の意思を決定表示執行し又はこれに参与する人を、その国家との関係の及ぶ限りにおいて、国家機関という。国家は法的組織体であって、国家の意思を決定し、表示するには、機関が必要である。国家機関の地位にあるのは自然人であって、この自然人の意思が、法律上国家の意思となる。〈中略〉国家機関はそれぞれ一定の任務をもっている。国家機関はその任務の範囲でのみ、行動しうる。この範囲外では、国家の行為ではなく、機関を構成する個人の行為があるにすぎない。機関が国家のために行動しうる範囲を機関の権能(Organbefugnis)又は権限(Kompetenz, Zustandigkeit)という。機関の権限は、機関の権利ではない。権利は、自己の目的のために認められるものであるが、機関の権限は、自己の目的のためではなく、国家の目的のために活動しうる事務の範囲である。機関は固有の権利義務を持たず、国家の権利義務を行うものである。」(橋本公亘『憲法』現代法律学全集、青林書院新社1972年刊389頁)

 国会の場合、それは議員という自然人によって構成されている国家機関である。

 繰り返して強調するが、諸君はこれを理解してくれればよいのであって、論文に書く必要はない。

(二) 立法

 立法とは、文字通りに理解すれば、法規範を定めることである。諸君が、例えば本を買う契約を本屋と結んだとする。契約は法規範であるから、これは立法行為である。

  1 二重立法概念

 41条は国会に関する規定であるから、ここでの立法はもちろんもっと限定的な意味である。それは何か、を検討するのがここでの課題である。

 その理解に当たり、「二重立法概念」という説が登場する。つまり、国家が制定する法規範を、形式的意味の立法と実質的意味の立法の二種類に分類し(だから二重立法)、そのうち実質的意味の立法を国会が独占している、と考える説のことである。この通説のとる二重立法概念に対しては、高橋和之(諸君はこの名を憲法判例百選の筆頭編集者として知っていると思う)という極めて強力な異説を唱えている学者がいる。つまり、ここからは論点である。

 41条が、65条や76条と併せて読むことにより、権力分立制を定めたものと読む。そして、権力分立制とは、自由主義の統治機構における現れと理解すると、ここでいう立法の適用範囲はすべての国家活動である必要はない。国家活動のうちで、対国民的な活動に限定して良い。

 このことを基準に、国が制定する様々な法規範を分類すると、第一に、対国民的な効力を持つ法規範だけが、41条にいう立法に該当するということができる。これを「法規命令(Rechtssatz)」と呼ぶ(二重立法概念を考え出したのは、ドイツのラバント(Paul Lavant)という学者だから、ドイツ語が引用される。略して「法規」と呼ぶことも多い)。

 これに対して、国家の制定する立法であっても、この対国民的な効力を持たない立法は、国会の独占を要求する必要はない。例えば、議院内部の規則や裁判所内部の規則は、国家機関内部の法であって、対国民的な効力を持つ法ではないから、国会が独占する必要はない(それが国民の自由を侵害することはないからである)。

 第二に問題となるのが、“一般性”の概念である。この言葉は法学で習ったはずだが、簡単に復習すると、「一般的な」人あるいは生活関係に対する「一般的な」指図命令という性格を有する法規範を、一般性がある、という。この定義の中に、カギ括弧で九九立って強調したとおり、二回、一般という言葉が出てくるから、二重の一般性といわれる。

 実質的意味の立法は、単に対国民的な規範であるだけはなく、一般性ある規範である必要があると通説は言う。なぜだろうか。

 三権分立制の一環として行政が存在している。そして個別、具体的な法規範の定立行為というのは、まさに行政行為そのものである。したがって、国会としてはそのような法律、たとえば特定の人に特定の許可を与えるという法律を作ることは、立法府の行政府に対する侵害行為に該当する。例えば、特定人を日本に帰化させるということは、国籍法に基づいて行政が行うべき決定である。そういう内容の法律を作るということは、法律という形式による立法による行政活動に他ならない。だから権力分立制に反する。

 同様に、三権分立制の一環として司法が存在している。裁判所の判決は、特定人に対する具体的な法規範の定立行為である。例えば、国会が特定人を死刑にする、という内容の法律を定めることは、法律という形式による司法行為に他ならず、やはり権力分立制に違反する。したがって、仮に個別具体的な内容の法律を作ったとすれば、権力分立制に違反し、無効であると考えられる。こうしたことから、国会が制定できる法律は、少なくとも一般的、抽象的な内容のものに限られるべきである。

  2 実質的意味の立法概念を巡る説の対立

 ここまでは、二重の立法概念を採用する限り、学説に特に大きな対立はない。だからあまり大きな論点ではないので、くどく書く必要はない。しかし、この先になると学説が対立する。対国民的な効力を持つ法規範とは何か、という点を巡っての争いである。代表的なものを紹介すると、次のような学説がある。

@ 「直接又は間接に国民を拘束し、あるいは国民に負担を課する新たな法規範」宮沢俊義・日本国憲法<芦部補訂>343

A 「直接に国民を拘束し、又は、少なくとも国家と国民の関係を規律する一般的法規範である」清宮四郎・憲法I第3版、204

B 「国民の権利・義務を定める規範を重要な構成要素とするが(内閣法11条はこれを確認する)、国家と機関との関係に関する法規範をも包摂する概念と解される。〈中略〉法規は一般的性格を持つことを重要な構成要素とする。」佐藤幸治・憲法第3版、145

C 「およそ一般的・抽象的な法規範をすべて含む」芦部信喜・憲法第4279

 これは、学説の対立であって、論理的にどれが正しいというものではない。だから、どの説を採るかは、諸君自身に選んでもらう必要がある。そして、選んだら、なぜその説を採るかは、自分で勉強してもらう必要があるので、これ以上、説明しない。自分の選んだ教科書をしっかりと読んでほしい。

(三) 唯一

 国会が国の唯一の立法機関である、という言葉は、論理的にいって、次の二つの概念に分解できる(あるいは二つの原則が派生する、と言っても良い)。すなわち、第1に、国会以外に立法機関はない、という意味である。これを国会中心立法主義と呼ぶ。第2に、国会の行う立法に、国会以外の機関が関与することはない、という意味である。これを国会単独立法の原則という。逐次検討しよう。

  1 国会中心立法の原則の意義

 この点に関する最大の問題は、対国民的な一般性ある法規範の定立行為そのものは、現実問題として、決して立法府の独占するものではないということである。特に行政権が制定する法規範には一般性を有するものが含まれる。

 これを単純に、憲法41条の要求する国会中心立法主義違反として論じることも論理的には可能である。しかし、そう言ってしまうと、国家の運営がスムーズに行かなくなる。 なぜなら、第一に、国会は常設の機関ではなく、「会期」と呼ばれる特定の期間しか存在しないものだからである。そのような限られた期間内に開催される国会で、今日の国家の膨大な活動を規律する法規範を、すべて定めるということは不可能だということである。また、法律は一度作られるとそのまま変わらないのに、社会の方はどんどん変化する。そのため、法律であまり細かいことまで定めてしまうと、頻繁に法律改正作業をする必要が生じてしまい、上記のように存在期間が限られた国会にはそれには耐えられないからである。なお、これは諸君に直感的に理解してほしくて書いた文章なので、論文に書けるような、もう少し格調高い文章を紹介しておこう。

「社会福祉国家においては国家の任務が増大し、@専門的・技術的事項に関する立法や、A事情の変化に即応して機敏に適応することを要する事項に関する立法の要求が増加し、また、B地方的な特殊事情に関する立法や、C政治の力が大きく働く国会が全面的に処理するのに不適切な、客観的公正の特に望まれる立法の必要が増加した。」

(『憲法』第4282頁より引用)

 なお、先に法律学の論文では、社会学的理由や政治学的理由は理由にならない、と述べた。ここに紹介した文章は、そうした現実の社会の中における問題であって、これはまさに社会学的理由に該当する。

 つまり、こういうことを言うことで、間接的に自分の法的理由を補強しているのであって、これは究極の理由ではない、ということである。これを書くことは必要だが、それとは別にちゃんと法的根拠を書かねばならない。

 そこで必要とされている結論は、国会中心立法主義とは、全ての実質的意味の立法を、国会が独占することを要求しているわけではない、ということである。そのための論理が、ドイツなどで言われる「法治主義(Gesetzmasigkeit)」という理念である。これは、行政活動は、必ず法律に基づいて行われなければならないという理念である。さらに言うと、ここで言う法律は、憲法に適合したものでなければならない。これは英米法に言う「法の支配(Rule of Law)」と実質的に同じことになる。

 先に述べた権力分立制の目的、すなわち、国家権力を分割し、相互に抑制させることによって国民の自由を可及的に守るという目的は、別に一般性ある対国民的な法規範の全てを国会が定めなくとも、行政機関が行政権が、個別、具体的な法規範の定立をする場合には、法治主義に基づき、かならず法律からの授権を必要とすると考えれば十分満たすことができる。あらゆる場合を法律で規制しなければならないということまで要求する必要はない。そこで、国会中心立法主義を法治主義と理解する。

 その場合、法律では骨子だけを定めて、その細部については、その法律を執行するように法律で指定されている各権力機関がそれを定めるという方式を採ることが可能になる。行政庁が定める方法は、一つは執行命令と呼ばれるものである。これは文字どおり法律を具体的に執行するために、法律の細部を補完する性格を持つものである。例えば、法律にある違法行為に対しては、1万円以下の過料に処するという規定があった場合、地方行政庁でその執行がばらつくのを防ぐため、その類型をさらに細分化し、例えば重大な違反の場合と軽い違反の場合に分け、前者は1万円、後者は5000円という命令を設ける場合である。

 いま一つは委任命令と呼ばれる。これは、法律の委任を受けて、新たに国民の権利を制限しまたは義務を課するような規定を設けることを言う。例えば、法律に、『実費を勘案して政令で定める額の手数料を徴収する』と定めておくと、手数料額をいくらにするかは政令で定められることになる。

 このような執行命令や委任命令は、政令で定める場合に限って言えば、憲法736号が明文で予定するところである(つまり形式的根拠がある)。だから、このように解釈して良いのだ、と結論を下すことができる。

 このように国会中心立法主義を法治主義を意味するものと理解した場合には、法律における委任の限界というものが大きな問題となってあらわれてくる。委任の範囲を十分に大きくしてしまうと、法治国家理念そのものが揺らいでしまうからである。たとえば、第1次世界大戦が終了した後でドイツで作られた「ワイマール憲法」は、今日の目からみても非常に進歩的なすぐれた憲法であった。しかし、その憲法は、委任を制限するということを知らなかった。その結果1933年に作られた「授権法」は、立法府の権限のほとんどをナチスの総統であるヒットラーに授権したのだった。その結果、人類史に誇り得るすぐれた憲法の下で、合法的にナチスの独裁が可能になるという珍妙な事態が発生してしまったのである。

 こうしたことから、委任というものはかならず合理的な限定を伴ったものでなければならない、と考えられる。その限界は、国会が立法府であるという実質を失わせるような包括的な委任は許されない、という点に存する。そうした程度に達した包括委任を「白紙委任」と言う。白紙委任は国会中心立法主義に違反し、違憲と解される。例えば、先に挙げた例では、単に『政令で定める額の手数料を徴収する』とは定めず、そこに『実費を勘案して』という制限を付していた。もし、この制限を付けなければ、行政庁は実費とは全然かけ離れた額をいくらでも定められることになり、白紙委任的な問題が発生してしまうからである。

  2 国会単独立法の原則

 国の唯一の立法機関というとき、国会中心立法の原則と並ぶ、いま一つの意味の大事な意味は、法律は国会だけで作られるものであり、他の機関の関与を必要とはしない、ということである。この点については、憲法は41条だけに委ねず、591項という補足規定を置いている。この条文は、大日本帝国憲法37条「すべて法律は帝国議会の協賛を経るを要す」との関連で理解されなければならない。つまり旧憲法下では議会だけでは法律を制定することが出来ず、最終的に天皇の裁可によって初めて法律として完成する、とされていたのである。これに対して、国会だけで立法が完全に成立するということを定めているのが41条であり、59条であるというわけである。

 このことは、憲法74条及び71号の解釈に重要な影響を与える。74条は、法律に主任の国務大臣の署名と内閣総理大臣の連署を要求している。我が憲法の母法ともいうべき米国憲法の場合にも、同様に法律には大統領の署名を要求している。その場合、大統領は、法案の内容が適当ではないと考えるときは、署名を拒否することができ、それによって法案の実施そのものを拒否することができる(172項=拒否権と呼ばれる)。したがって、わが74条についても、同様の拒否権を認めたものと読む余地はある。しかし、上記のとおり、単独立法の原則を41条及び591項が定めていると解する結果、この署名は単なる形式であって、署名の拒否は許されない。同様に、7条もまた純然たる形式であって、内閣は天皇に法律の公布をしないように助言と承認を与える自由を持たない。このことは、いわゆる7条解散において、7条を実質的権限の根拠規定と読むことができない根拠の一つともなる。

 

二 国権の最高機関について

[はじめに]

 諸君に国権の最高機関について論じさせると、なぜか自由主義の論文と錯覚するらしく、三権分立制においては、各機関は対等だから、国権の最高機関という言葉に法的意味はない、よって政治的美称という調子で論文を書く傾向が顕著に認められる。

 平然としてそういう記述をする諸君に対しては、健全な社会常識を持つ努力をしてほしいと思う。すなわち、わが憲法の起草者達は、そのような小学生でさえも理解できるような単純な間違いを犯すほどに馬鹿だったと、本当に諸君は信じているのだろうか。

 何しろこの規定は、次のとおり、マッカーサー草案の段階から存在していたのである。

Article XL. The Diet shall be the highest organ of state power and shall be the sole lawmaking authority of the State.

 そして、徹夜の交渉で大幅修正された政府原案でもそのまま生き残り、烈しい国会の論戦においても全く手が付けられないままに、今日の憲法に現れているのである。

 マッカーサー草案の国会の章を起草したフランク・E・ヘイズ陸軍中佐は、民間にいた時は敏腕の弁護士として知られていた人物であり、ガイ・J・スウォーブ海軍中佐は、ペンシルベニア州から選出された下院議員であり、オズボーン・ハウギ海軍中尉は、新聞編集長等を歴任した人物である。そして彼らを統括した、マッカーサー草案作成の責任者であったチャールズ・L・ケーディス大佐は、最初弁護士として出発し、連邦公共事業局や連邦財務省の法律顧問を歴任している。要するに、当時のアメリカにおける最高の知性を集めているといって過言ではない。

 また、日本側も、当時の法律学界の中心人物を政府や議会に集めてこれを検討した。マッカーサー草案と政府原案との間には相当の相違があり、さらに政府原案に対して議会の行った修正もかなり大きなものがあるが、それはそうした検討の成果である。その中で、本条だけは誰も修正しようとしなかったのである。すなわち、国会が国権の最高機関である、という地位を持つことと、三権の一つという地位を持つことが矛盾するとは、当時の誰も考えなかったのである。

 そうした彼らが揃って小学生にさえ理解できる過ちをしたはずがない。したがって、三権分立に違反するという、自分自身の理解は、どこか根本的なところで間違っているはずだ、という謙虚な認識を持ってほしい。

 わが憲法統治機構の基本的な骨格が権力分立制にあることは自明であり、なによりも前講で説明したとおり、本条後段がその理念で作られているのであるから、少なくとも憲法起草者や制憲議会は、権力分立制に明白に反するような規定を、国会の章の冒頭におくわけがない、と直感的に理解していてほしいのである。

 諸君がこのような書き方をしてしまう大きな原因は、諸君が使っている教科書で国権の最高機関のくだりを読むと、そういう感じに書かれているからである。しかし、これまた何時も強調することであるが、教科書は全体で一つのまとまりある書物である。ところが、諸君は前後と無関係にその中の特定の頁の特定の記述を抜き出してしまうものだから、上記のような憲法起草者を馬鹿扱いにしているような記述が生まれてしまうのである。

 そこで、本問では、なぜ憲法がこのような記述を行ったかという理由を先ず書くことを要求している。「憲法制定者が馬鹿だったから」というのは、現在の規定を文言解釈できない理由にはなっても、なぜこのような記述が行われたか、という理由にはならないから、制定者達は何を考えて、このような規定を置いたのか、という理由を考えてくれるはずだ、という計算である。

 その答えを一言で片付ければ、民主主義である。憲法41条は、国会に、国権の最高機関という地位と、唯一の立法機関という地位の二つの地位があることを規定している。唯一の立法機関という言葉は、前講で述べたとおり、権力分立制、したがって自由主義を示している。そうであれば、国権の最高機関とは、今ひとつの重要原理である民主主義に基づく国会の地位を表現したものであるはずだ、ということは容易に考えつくであろう。そのことは、教科書の最初の方からきちんと読み込んでいれば自ずと判るのであるが、それをせずにあちこちを摘み食い的に読んでいると、冒頭に紹介したような説明を覚え込んで、その誤りに自分自身でも気がつかないという事態に陥ってしまうのである。私が教科書の通読を繰り返す必要を強調するゆえんである。

 さて、ここで問題としている条文は、「国権」「最高」「機関」という三つの言葉から成り立っている。このうち、「機関」については、すでに立法機関という言葉と関連して説明した。ここでも同じ意味である。そこで、残る二つの言葉について説明する。

 次節以下においては、少し基礎の部分から説明している。以下の説明中、どこを論文に取り入れるかは、各人で悩んでほしい。

(一) 国権

 41条に言う国権とは、国家主権の意味である。現行憲法は、国家の主権者は国民としている(憲法1条)。その場合、何が国民なのか、という点を巡って、狭義の国民主権説と呼ばれる説と、人民主権説の対立がある。その意味で、れっきとした論点である。

  1 人民主権説

 諸君の中には明らかに人民主権説を採る者はいないので、この説については少々手を抜いた説明をする。人民主権説は、社会契約説を基礎にした学説なので、社会契約に参加できる国民(これを「人民」という)だけが主権者とする。つまり、契約を単独で締結できない未成年者や被後見人は、主権者ではないことになる。このように人民を考えた場合、人民は自分で国政上の決定を下す能力を持っており、実際くだすこととされている。代表者(国会議員)は、その人民から委任を受けているだけである。だから、この説を採った場合には、国権の最高機関は、人民に決まっている。換言すれば、憲法制定者たちが完全に発狂していない限り、この説を採りながら、憲法41条に『国会は国権の最高機関』と書くわけがない。

  2 狭義の国民主権説

 狭義の国民主権説を採る場合には、以下に述べる論理により、国会を国権の最高機関と考える方が自然である。つまり、憲法41条前段は、わが憲法が狭義の国民主権説を採っていることの、条文上の根拠と言える。

 この説において、

 この考え方では、統治者たる国民と被治者たる国民とは、同一の存在である(治者と被治者の自同性)。その結果、主権者たる国民とは、「老若男女の区別や選挙権の有無を問わず、『いっさいの自然人たる国民の総体』を言う」(芦部信喜『憲法学T』240頁)と定義されることになる。このように考えた場合に、重要なことは、この全国民が主権者であると考えた場合には、主権者から「機関」としての性格が失われる、という点である。なぜなら、選挙において国会議員を、全国民が選ぶことは不可能だからである。そこで、議院を選ぶのに適当な能力を有すると国会が定める者だけが有権者として選挙に参加することになる(憲法44条)。有権者は、国会議員を選ぶという活動をしているから国家機関である。しかし、有権者は主権者の一部であって、決して全体ではない。つまり、全体としての主権者には、活動能力がない。すなわち、国家機関性がない。

 例によって、この直感的な説明をもう少し格調高い文章で説明したサンプルを紹介しておこう。芦部信喜は、次のように説明する。

「(このように)主権が全国民に存すると考えると、このような国民の総体は、現実に国家機関として活動することは不可能であるから、全国民主体説にいう国民主権は、天皇をのぞく国民全体が国家権力の源泉であり、国家権力の正当性を基礎づける究極の根拠だということ、を意味することになる。したがって、国民に主権が存するとは、国家権力が『現実に国民の意思から発するという事実を言っているのではなく、国民から発すべきものだ』という建前を言っているに過ぎないことになる。」(芦部信喜・同上・241頁)

 すなわち、芦部の用語を使用するならば、これが正当性の契機としての国民である。

 この場合、国民とは観念上の存在であって、実在しないから、国民そのものが国家機関として活動することはあり得ない。したがって、間接民主制を必然的に要求する。すなわち、国民は議会における代表者を通じて行動することになる(憲法前文=国民代表)。この結果、国家機関とされるものの中で、最高の地位を占める機関(国権の最高機関)は、明らかに国民代表、すなわち議会となる。これが憲法41条前段がマッカーサー総司令部によって書かれ、日本政府も、制憲議会も、その妥当性に全く疑問を持たなかった理由である。すなわち、純粋に国民主権概念を採用する場合には、これは正しい記述なのである。

 ところが、憲法改正(96条)を見ると、上の説明したのとは違う国民概念が登場する。96条において、憲法が「国民」と呼んでいるものは、これまで説明してきた正当性の契機としての国民、すなわち老若男女の別なく全ての自然人を意味するものではない。明らかに有権者集団を国民と呼んでいるのである。人民主権説に立てば、これは人民そのものと考えて良い。しかし、狭義の国民主権原理に立つ場合には、これは厳密に言えば、国民の代替物ともいうべき存在である。すなわち、例外的に有権者集団を国民の代用品にしたのであって、決して人民主権説のいうように、有権者集団を即国民と考えたわけではないからである。とにかく、国民主権説に立っている場合であっても、有権者集団を国民と呼ぶ場合、この国民は国家機関として活動する。これが芦部信喜の用語でいえば「権力性の契機としての国民」である。そして、憲法改正においては、国会は発議権を有するのみで、最終的な決定権者は、この国民(有権者集団)である。したがって、この国民(有権者集団)は、明らかに国会に優越する地位を有する国家機関といえる。

 今ひとつの例を、79条の定めている国民審査に見ることができる。そこにいう国民も有権者集団の意味である。これはユニークな制度である。議会が政党政治によって支配されることになると、司法を政治によって左右させるわけには行かないから、司法権の独立は強化される必要がある。その結果、司法権に対する民主的コントロールが欠落する。それを直接民主制的制度により補完しようとしたのが、この国民審査制である。したがって、その本質は有権者によるリコールと考えて差し支えない。

 憲法では、国民という語を使用していないが、同じように理解できるのが、衆議院の7条解散である。7条解散の根拠として、民意を問う必要があると説明する場合、そこで実際に民意として現れるのは、有権者集団の意思であって、決して全自然人の意思ではない。したがって、この場合にも有権者集団が国民の代用品として、国家機関として活動することを肯定することになる(これについては別講「議院内閣制の本質と衆議院の解散」参照)。

 以上を要約すると、現行憲法の下においては、様々な場合に有権者集団が国家機関として活動することが予定されており、少なくとも、96条及び79条の場合には、憲法はこの有権者集団を明白に国民と呼んでいる。この国民は、明らかに国権の最高機関であるので、その限りで、憲法41条前段を文字通りに理解することは不可能ということになる。

 なお、余計な付け足しをする。直接民主制的制度ではないが、同じように代表民主制の欠陥を補完する制度として理解できるのが、司法権による違憲立法審査権である。純粋代表制の下においては、どのような法律が憲法に適合しているかを決定する最高機関は、国民の代表者たる議会そのものであり、したがって裁判所による法律の違憲審査は原理的に考えられない。しかし、半代表制の下において、議会により国民が害されること、すなわち憲法違反行為がなされる可能性があることを肯定するときは、議会とは別に違憲審査制度を導入することが許容されることになるからである。

(二) 最高機関

 最高機関性については、普通の教科書には、政治的美称説、統括機関説及び総合調整機能説の三説があると書いてあることが多い。しかし、統括機関説と言うのは戦後間もない頃に佐々木惣一が唱えた説で、今日においては採る人はまずいない。したがって、現時点においては、わざわざ検討する必要はないと考えてよい。諸君の論文で名称をあげる必要すらない。

 政治的美称説と、総合調整機能説との実質的相違は、民主主義に対応する国会の地位が法的なものと考えるか、政治的なものと考えるかの一点のみにある。以下に簡単に説明する。しかし、諸君の論文で、この二つがある、というようなことを書く必要はない。諸君は、どちらの説にせよ、自分の説は何かを述べ、その説を採る理由を書いてくれれば十分である。どちらの説に立った場合でも、現行憲法の下で、文字通り国権の最高機関という地位に立っているのは、国家機関として活動する国民、すなわち権力性の契機としての国民(有権者集団)であると考える。すなわち、憲法96条等がいう国民は、憲法改正を決定したり、最高裁判事をリコールしたりする権限を有するから、機関性がある。そして、国会は憲法改正の発議権しか持たないのに対し、権力性の契機としての国民は、憲法改正権力を保有しているのであるから、これが国権の最高機関であることも疑う余地はない。

 ここまでは、二つの説の理解に、違いは全くない。

  1 政治的美称説

 この説は、民主主義的意味(つまり主権論)において、「国会は国権の最高機関」という言葉に、法的意味はないが、政治的には国会は国政の中心に位置するという極めて重要な地位にあるのであり、その政治的重要性に対する美称であると考えるのである。

 しかし、憲法は法規範であり、したがって、その条文は原則として全て法的意味を持っているはずである。それなのに、法的には無意味と断定するためには、単に上述したように民主主義的意義が否定されたというだけでは不十分である。その言葉のあらゆる意味において、法的意味は考えられない、と言えて、初めて法的に無意味な表現であるという断定が可能になる。そこで、この説をとる場合には、虱潰しに、自由主義的な意義その他、あらゆる可能性が否定されることを確認しなければならない。例えば、次のような表現が、その虱潰し的な否定作業の典型である。

「国会は主権者でも統治権の総覧者でもなく、内閣の解散権と裁判所の違憲立法審査権によって抑制されていることを考えると、国会が最高の決定権ないし国政全般を統括する権能を持った機関であるというように、法的意味に解することはできない。」(芦部「憲法」第4279頁より引用)

 この結果、これは単に国民代表機関の政治的重要性をきれいな言葉(美称)で表現したという以上の法的効果をこの言葉に認めることはできないという結論が導かれる。この場合の美称とは、要するに上述の国民主権原理の採用をシンボリックに表現した、という意味である。

 なお、この説について諸君の論文で取りあげる場合、この説が基本的に消去法であることを踏まえ、すべての可能性を否定してかかる必要がある、ということを記述の基本に置くことが大切である。その場合、先ず書くべきはこれまで述べてきたとおり、民主主義的意義を否定することであり、次いで、その他の可能性ということになる。諸君が、政治的美称説の根拠としてすぐに書きたがる権力分立制においては、各権力は対等という点は、この第2段階になって書かれるべき根拠である。

  2 総合調整機能説

 総合調整機能説もまた、文字どおりの意味において、国権の最高機関にあたるのは、96条等に登場する国家機関としての地位にある国民であることを肯定する。

 確かに、政治的美称説が、常識的意味の「最高」という言葉は全て検討している。しかし、法規範においては、往々にして、言葉は常識的な意味とは別の意味に使われることがある。例えば、果実といえば、常識的には種子植物の花の子房が発達・変化したもので、果物屋で売っているもののことであるが、法律学で果実というときには全く違う答えになる。そこで、常識的な意味の「最高」には含まれない、何か別の法的意味を持っている可能性を、憲法の全体系の中で検討してみる必要がある。

 そこで、今、君たちに一つの思考実験をして貰おう。現行憲法から96条や79条を削除し、69条解散のみを許容する憲法が存在するとしてみよう。先に行った説明から、その場合、狭義の国民主権説に立つ場合には、国会が文字どおり、国権の最高機関たる地位を占めることに、異論はないはずである。しかし、ここで仮定した憲法は、96条等を除けば、現行憲法と同一内容である。すなわち、権力分立制を採用している。そして、憲法の条文構造を検討すれば、権力分立制の方が民主主義よりも優越的な地位に立つ原理であることは明らかであろう。したがって、権力分立制が機能する限りにおいては、国会は他の二権と対等の地位にあるに過ぎず、優越的地位を持たない。

 ところが、始めに説明したとおり、議院内閣制や国会中心財政主義という、明らかに三権の対等ではなく、国会の優越を予定した規定が憲法典中には存在する。このような制度は、何のために定められているのであろうか。その答えを、総合調整機能とするのが、ここに紹介している説である。

 国政というものは、権力分立制による均衡と抑制だけに頼っていたのでは、円滑な運用は不可能である。各権力に絶対的独立性を承認し、いずれの機関にも他に優越する権能を認めない場合には、各機関が激しく対立した場合には、国政が空転する危険性が大きい。そこで、そうした場合に、各権力の対立を調整し、総合して、国政に調和をもたらす機関が必要となる。そうした権能を表現したものが国政の最高機関という表現と考えることができる。その結果、国家機関相互に軋轢が生じた場合、国会は最終的にはこの人事権と財政権で他の機関を抑えることが可能になるのである。国会は明らかに国権の最高機関といえるはずである。ただ、この権能を、他の国家機関の活動をねじ曲げる目的で使用することは許されない。権力分立制に反するからである。その結果、それは総合調整目的の場合にだけ、使用可能な権能と理解されることになる。

 政治的美称説に立つ者も、このような権能の存在を否定しているわけではないことに注意しよう。ただ、それを、説の名称に示されているとおり、政治的権能と考え、法的権能と考えていないという点で、差が生ずるのである。

 

補論 国民代表概念について

 芦部信喜の教科書を見ると、国権の最高機関に関する記述の直前に、政治的代表と社会学的代表という議論が書いてあり、そのままつなぎになる文章もないままに、最高機関性の議論につながっている。そこで、諸君の中には、本問に対する論文として、何の脈絡もなく、そのままの順序で論文を書いている例が結構現れる。

 確かに芦部の教科書では、政治的代表、社会学的代表及び国権の最高機関の相互関係が判りにくい。そこで、以下、若干補足する。

 そもそも本講の問題文中に引用した宮沢俊義の文章は「国民代表の概念」と題する論文が出典である。わが国憲法における代表概念は、政治的代表と理解するのが通説であるという趣旨の記述を芦部信喜はしている(『憲法』第4277頁)が、この通説を確立したのがこの論文である。ここで、「政治的代表」という言葉は、「法律学的代表」ではない、という意味で使われている。しかし、芦部教科書のこの箇所の記述は判りにくいので、長谷部恭男の説明を引用して補足してみよう。

「法的意味においては、Xがある行為を行ったとき、法律上、Yが行ったのと同じ効果が生ずる場合に、XYを代表するといわれる。私法上の法人と機関、あるいは後見人と被後見人との関係が典型的な法的代表の例である。支配的見解によれば、国民と議員との代表関係においては、代表者(議員)の行為が法的に被代表者(国民)の行為と見なされる訳ではない。議員は、出身選挙区の有権者の意思に拘束されず(命令的委任の禁止)、全国民を代表する立場から自由に発言し表決する(自由委任の原則)。つまり、議員は国民を政治的に代表するのみであり、現実の国民の意思と議員の意思との一致は要求されない。このため、議会による国民の代表は一種の擬制であり、イデオロギー的性格を有するといわれる」(長谷部『憲法』第2313頁) 

 なお、長谷部自身は、この引用箇所に引き続いて、この理解は誤りであると主張する。関心のある人はそちらも読んでほしい。

 芦部に話を戻すと、彼のいう政治的代表とはこのようなイデオロギー的な概念である。そして芦部は、この政治的代表の議論に続いて、社会学的代表の議論として「国民意思と代表者意思の事実上の類似」の必要性を書き、「日本国憲法における『代表』の観念も、政治的代表という意味に加えて、社会学的代表という意味を含むものとして構成するのが妥当である」と結ぶ。そして、中間にクッションになる記述が全く挟まれないままに、国権の最高機関の記述につながっている。

 実は、これらの議論は、同書の始めの方にある国民主権論に関する記述の、国会への投影である。すなわち、芦部は国民主権の箇所で、正当性の契機としての国民と、権力性の契機としての国民という二つの概念を区別すべきことを強調する(前掲書41頁)。中間の議論を飛ばして、結論だけを述べれば、正当性の契機としての国民から導かれる代表概念が政治的代表であり、権力性の契機としての国民から導かれる代表概念が社会学的代表である。

 だから、こちらの方の用語を使用して、本講の本文に説明したところを言い直せば、国権の最高機関という表現は、政治的代表概念を前提とする場合には正しい記述であるが、社会学的代表概念を前提とする場合には誤っていることになる。おそらく、芦部の意識としては、社会学的代表の概念を説明した段階で、国権の最高機関という言葉を民主主義的に読むことの不当性についての説明は、完結しているのである。そして、そのように民主主義的な理解が誤っていることを前提とした場合、国権の最高機関という言葉を説明するにあたっては、もう一つ、自由主義的に理解できる可能性が存在するので、そう考えることはできない、としてその理由だけが、国権の最高機関に関する説明に書かれていると読んでいけばよいことになる(同書279頁)。念のため注記するが、これはあくまでも読み方の説明で、本問自体は主権論からのアプローチでなければならない。