学問の自由・情報開示請求権
甲斐素直
問題
遺伝子は、細胞を作るためのタンパク質の設計図である。人間には約
2万5000個の遺伝子があると推測されている。遺伝情報は、子孫に受け継がれ得る情報で、個人の遺伝的特質及び体質を示すものであるが、その基になる遺伝子に係る情報は、当該個人にとって極めて機微に係る情報である。遺伝子には、すべての人間に共通な生存に不可欠な部分と、個人にオリジナルの部分とがある。もし生存に不可欠な遺伝子が異常になると、細胞や体の働きが損なわれるので、その個体は病気になることもある。既に多数の遺伝子疾患が知られており、また、高血圧などの生活習慣病や癌、そして神経難病なども遺伝子の影響を受けることが解明されつつある。遺伝子治療とは、生命活動の根幹である遺伝子を制御する治療法であり、正常な遺伝子を細胞に補ったり、遺伝子の欠陥を修復・修正することで病気を治療する手法である。遺伝子治療の実用化のためには、動物実験の次の段階として、人間を対象とした臨床研究も必要である。遺伝子治療においては、まず、当該疾患をもたらしている遺伝子の異常がどこで起こっているかなどについて調べる必要がある。それを確定するためには、遺伝にかかわるので、本人だけではなく、家族の遺伝子も検査する必要がある。遺伝子治療は、難病の治癒のための新たな可能性を有する治療法ではあるが、安全性という点でなお不十分な面があるし、未知の部分もある。例えば、治療用の正常な遺伝子の導入が適切に行われないと、癌抑制遺伝子等の有益な遺伝子を壊すことがある。さらに、遺伝子という生命の根幹にかかわる点で、遺伝子治療によって「生命の有り様」を人間が変えることにもなり得るなど、遺伝子治療それ自体をめぐって様々なレベルで議論されている。
【注:本問では、遺伝子治療に関する知見は以上の記述を前提とすること。】
政府は、遺伝子を人為的に組み換えたり、それを生殖細胞に移入したりして操作することには人間を改造する危険性もあるが、研究活動は研究者の自由な発想を重視して本来自由に行われるべきであることを考慮し、研究者の自主性や倫理観を尊重した柔軟な規制の形態が望ましいとして、罰則を伴った法律による規制という方式を採らなかった。
2002年に、文部科学省及び厚生労働省が共同して、制裁規定を一切含まない「遺伝子治療臨床研究に関する指針」(2004年に全部改正され、2008年に一部改正された【参考資料1】。以下「本指針」という。)を制定した。こうして、遺伝子治療の臨床研究(以下「遺伝子治療臨床研究」という。)について研究者が遵守すべき指針が定められ、大学や研究所に設置される審査委員会で審査・承認を受けた後、さらに文部科学省・厚生労働省で審査・承認されて研究が行われている。2009年に、国立大学法人A大学医学部B教授らのグループによる遺伝子治療臨床研究において、被験者が一人死亡する事故が起きた。また、遺伝子に係る情報の漏洩事件も複数起きた。そこで、同年、Y県立大学医学部は、「審査委員会規則」を改正し、専門機関としてより高度の倫理性と責任性を持つべきであるとして、遺伝子治療臨床研究によって重大な事態が生じたときには当該研究の中止を命ずることができるようにした【参考資料2】。さらに、同医学部は、「遺伝子情報保護規則」【参考資料3】を新たに定め、匿名化(その個人情報から個人を識別する情報の全部又は一部を取り除き、代わりに当該個人情報の提供者とかかわりのない符号又は番号を付すことをいう。)されておらず、特定の個人と結び付いた形で保持されている遺伝子に係る情報について規律した。当該規則は、本人の求めがある場合でも、「遺伝子治療の対象である疾病の原因となる遺伝子情報」以外の開示を禁止している。その理由は、すべての遺伝子に係る情報を開示することが本人に与えるマイナスの影響を考慮したからである。また、当該規則は、被験者ばかりでなく、遺伝子検査・診断を受けたすべての人の遺伝子に係る情報を第三者に開示することを禁止している。その理由は、その開示によって生じるかもしれない様々な問題の発生等を考慮したからである。
Y県立大学医学部の、X教授を代表者とする遺伝子治療臨床研究グループは、
2003年以来難病性疾患に関する従来の治療法の問題点を解決する新規治療法の開発を目的として、動物による実験を行ってきた。201X年に、X教授のグループは、X教授を総括責任者とし、本指針が定める手続に従って、遺伝子治療臨床研究(以下「本研究」という。)を実施することの承認を受けた。X教授は、難病治療のために来院したCを診断したところ、Cの難病の原因は遺伝子に関係する可能性が極めて高いと判断した。Cは成人であるので、X教授は、Cの同意を得てその遺伝子を検査した。さらに、X教授はCに、家族全員(父、母、兄及び姉)の遺伝子も検査する必要があることを説明し、その家族4人からそれぞれ同意を得た上で、4人の遺伝子も検査した。その結果、Cの難病が遺伝子の異常によるものであることが判明した。X教授は、動物実験で有効であった遺伝子治療法の被験者としてCが適切であると考え、Cに対し、遺伝子治療を行う必要性等、本指針が定める説明をすべて行った。説明を受けた後、Cは、本研究の被験者となることを受諾する条件として、自己ばかりでなくその家族4人の遺伝子に係るすべての情報の開示をX教授に求めた。X教授は、Cの求めに応じて、C以外の家族4人の同意を得ずに、C自身及びその家族4人の遺伝子に係るすべての情報をCに伝えた。Cは、本研究の被験者になることに同意する文書を提出した。Cを被験者とする本研究が実施されたが、その過程で全く予測し得なかった問題が生じ、Cは重体に陥り、そのため、Cに対する本研究は続けることができなくなった(その後、Cは回復した。)。Y県立大学医学部長は、定められた手続に従い慎重に審査した上で、X教授らによる本研究の中止を命じた。その後、この問題を契機として調査したところ、「遺伝子情報保護規則」に違反する行為が明らかとなった。任命権者である学長は、X教授によるCへのC自身及びその家族4人の遺伝子に係る情報の開示が「遺伝子情報保護規則」に違反していることを理由に、X教授を1か月の停職処分に処した。
〔設問1〕
X教授は、本研究の中止命令(注:行政組織内部の職務命令自体の処分性については、本問では処分性があるものとする。)の取消しを求めて訴訟を提起することにした。あなたがX教授から依頼を受けた弁護士であったならば、憲法上の問題についてどのような主張を行うか述べなさい。
そして、大学側の処分を正当化する主張を想定しながら、あなた自身の結論及び理由を述べなさい。
〔設問2〕
X教授は、遺伝子に係る情報の開示(注:個人情報に関する法令や条例との関係については、本問では論じる必要はない。)に関する1か月の停職処分の取消しを求めて訴訟を提起することにした。あなたがX教授から依頼を受けた弁護士であったならば、憲法上の問題についてどのような主張を行うか述べなさい。
そして、大学側の処分を正当化する主張を想定しながら、あなた自身の結論及び理由を述べなさい。
[はじめに]
2009年度新司法試験における憲法問題である。原問題では、文中の参考資料は、すべて全文が添付されているが、問題の解答に当たっては、特に必要というわけではないので、ここでは省略した。
本問で、難しいところは、この問題に対する自分の考えだけを書くことを求めているのではなく、
X教授の弁護士としての観点からの答えを求めている点である。この条件がなく、単に自分の見解を求められているのであれば、本問の場合、いわゆる部分社会の問題として捉えるのが正解である。そうすれば、設問1及び2に共通する主張としてそれを書いて、訴えは門前払いになると書くのが一番簡単な合格答案の書き方になる。しかし、それを使うと、Xは負けてしまうので、Xの弁護士としては、絶対にそれが取れない。つまり、それは大学側の反論として想定すべき反論ではあっても、答えの本筋ではありえない。その結果、本問は、タイトルに付けたとおり、設問1は学問の自由が、設問2は知る権利がそれぞれ論点になっている。すなわち、二つの独立した問題に答えることを要求されている点で、論文の記述量がどうしても増える。
そして、上述のとおり、いわゆる部分社会論をはじめとする大学側からの想定される反論についても述べなければならないので、さらに記述量が増える。試験で与えられた時間内で書ききるには、いかに無駄なく、理由を述べていくかが勝負となる。ここで注意するべきは、「反論」は詳論する必要はなく、ポイントだけを述べればよいという点である。
一 学問の自由と大学の自治
[はじめに]
本問の焦点は、国の作った「指針」(以下「国家指針」という)では、『研究活動は研究者の自由な発想を重視して本来自由に行われるべきであることを考慮し、研究者の自主性や倫理観を尊重した柔軟な規制の形態が望ましいとして、罰則を伴った法律による規制という方式を採らなかった』のに対し、大学の作った「規則」(以下「審査委員会規則」という。)が、『遺伝子治療臨床研究によって重大な事態が生じたときには当該研究の中止を命ずることができるようにし』て、研究者の自主性を制約するものとなっていて、大学指針の方が国家指針より厳しい点である。提出された答案で、この点をきちんと指摘しているものはなかったが、これこそが、本問の中心論点である。
仮に、国家指針しか存在しなければ、
Xの研究活動が妨げられることはない。また、大学指針が、学長に研究中止という処分を下す権限を与えていなければ、同じくXの研究は妨げられない。したがって、Xの弁護士としては、基本方針としては、第一に学問の自由に対する制約は、国の指針の限度でのみ許されるのであるから、指針違反の規約は自動的に違憲となる、と論証すればよいことになる。第二に、いま仮に審査委員会規則そのものは合憲であるとしても、学長が研究中止という処分をすることは違憲であると論証すればよい。これに対し、大学側の反論としては、いくつかの論点がある。その最大のものが、いわゆる部分社会論と呼ばれる議論である。これについては、詳しくは後述するが、
Xの弁護士としては、それを否定するポイントを書けばよいことになる。(一) 学問の自由とその限界
学問の自由(
academic freedom)の基本的概念内容は、すべて表現の自由の中に含まれている。その意味では、表現の自由から当然に導くことのできる下位概念である。このため、独立の条文としてこれを保障している憲法は、世界的にみても少ない。例えば、もっとも充実した人権カタログとなっている国際人権規約においてもその具体的な保障は行われていない。わが国でこれがわざわざ明文化されたのは、天皇機関説事件に代表されるように、戦前のわが国で、大学における研究活動に対して露骨な干渉が存在していたため、特にこれを保障する独自の意義の存在が認められたからである。このように、学問の自由を表現の自由から独立して保障しているのであるから、学問の自由は、通常の表現の自由以上の強力な保障の対象となっていると考えるべきで、表現の自由の一部を単に注意的に保障したと見るのは妥当ではない。
学問の自由も、決して無限定の自由を意味するものではなく、他者の人権を侵害するような行使が許されないのはもちろんである。その点では、一般的な表現の自由の制約と変わらない。例えば遺伝子組み換え研究によって作り出された新型の病原菌が漏出するような事態が発生した場合には、その一般国民に与える被害は計り知れないものとなる可能性がある。
問題は、研究の危険性を誰がいかなる形で判断するかという点にある。一般の表現の自由であれば、その判断は、国民の代表者である国会が法律という形で示すのが原則である。そして、その法律が合憲かどうかについては、裁判所が合理性基準を適用して判断する、というのが標準的な解答方法である。しかし、学問の自由の場合には、この基本的な議論が通用しない、と指摘することが、本問でもっとも大事なことである。国民主権原理の下において、国権の最高機関たる国会が学問の自由の限界を立法するということは、学問の自由の判断権を時の為政者が有すると主張していることに他ならない。それを承認するときは、美濃部事件や滝川事件の再来を意味し、とうてい是認できることではない。
そこで、例えば芦部信喜は次のようにいう。
4版161頁) 「時の政府の政策に適合しないからといって、戦前の天皇機関説事件のように、学問研究への政府の干渉は絶対に許されてはならない。『学問研究を使命とする人や施設による研究は、真理探究のためのものであるという推定が働く』と解すべきであろう。」(芦部信喜『憲法』第
本問の問題文中で、国が『研究活動は研究者の自由な発想を重視して本来自由に行われるべきであることを考慮し、研究者の自主性や倫理観を尊重した柔軟な規制の形態が望ましいとして、罰則を伴った法律による規制という方式を採らなかった』ことの、憲法学的な根拠は、ここにある。ここまで論じれば、
Xの弁護士としては、国家指針よりも厳しい内容を、さらに学内における罰則を伴う形で制定した審査委員会規則は、憲法23条の保障する学問の自由を侵害するものであって、違憲と主張できることが判ると思う。つまり、諸君の論文における、ここまでの段階での必須の論点は、学問の自由の、一般の表現の自由との異質性をきちんと述べることである。それが書いてなければ、落第答案である。
《コメント》
例えば、憲法
21条は、集会の自由、結社の自由、言論の自由、出版の自由を列挙した後に、一切の表現の自由を保障すると述べている。しかし、例えば集会の自由が論点になる問題で、一般的な表現の自由について議論した論文を書いたら、それは落第答案である。同じ21条で保障されていても、わざわざ集会の自由を論じる場合には、中心論点は、一般的な表現の自由とはどこが違うのか、ということでなければならない。まして、学問の自由の場合には、憲法はわざわざ23条で、21条からは独立して規定している。だから、その特殊性は何か、ということが絶対的に中心論点なのである。ところが、ていしゅつされたしょ君の論文は、その逆、つまり一般的な表現の自由どころか、更に上の一般概念である精神的自由権について論じて終わりとしていた。それでは絶対に合格答案たり得ないことを、肝に銘じておいて欲しい。(二) 想定される大学側の反論
以下では、諸君の理解を確保するために、詳しく説明しているが、諸君の論文では、それをいかに簡潔にポイントだけを述べるかが勝負になることを忘れないでほしい。
1 大学の自治
大学側として、自治権を主張して
Xの訴えに対抗するためには、まず第一段階として、国家指針よりも厳しい内容の規制であっても、憲法23条の下で許容されると主張する必要がある。そういう主張をする学者もいないではない。例えば戸波江二は次のようにいう。279頁) 「知の統制という重要な人権を規制するという点でも、倫理的・社会環境的に逸脱した研究を明確にするという点でも、法律によって規制することが必要である。法律でルールが設定されることによって、研究の限界が明らかにされ、かえって研究が促進されるという効果も期待される。」(戸波江二『憲法』新版
しかしながら、このように主張する場合には、その場合に政府の法律あるいはその運用による過干渉をどう防ぐかを述べる必要がある。
ここで言われているのは、明確性の法理に過ぎない。表現の自由は、明確な法規範により規制することが認められている。したがって、この説は、学問の自由の保障を、表現の自由一般と同レベルで足りるとするに他ならないが、それでは学問の自由が表現の自由から独立して憲法上の保障を与えられた意義が失われる、というのが大学側の主張に対する
Xとしての再反論になる。諸君は、そのあたりまでを視野に入れて、自分の見解を書けばよい。基本的に研究の限界は、それは、同等の研究者相互における自己規制の形態をとらざるを得ないものと思われる。脳死問題で、各大学医学部がその判定のための内部倫理委員会等を設けて客観的な評価に当たろうとするのはその好例である。もちろん、それでも不必要な規制が発生し、学問の自由が実質的に制限される事態が生ずることを防ぐことはできないが、そこが実際上、調和点とならざるを得ないことは是認されるものと思われる。そして、このような自己評価機関を政府による干渉から守るのための保障が大学の自治ということになる。また、そこに大学の自治といわゆる部分社会論が連動する理由がある。
2 いわゆる部分社会論について
冒頭に述べたとおり、大学側の最大・最強の反論は、いわゆる部分社会論を主張して、
Xの請求に対し、門前払いを求めることである。いわゆる部分社会論については、『憲法演習ゼミナール読本』第
66講で論じているので、詳しくはそちらを参照して貰うことにして、この論文で諸君が何を書くべきか、だけをここでは述べよう。66講に述べたとおり、これに関して、学説は大きく分けて、有害説、無益説それに原則的肯定説の三説がある。Xの弁護士として、承認説は取れないことは明らかである。
Xの弁護士として、一番簡単に大学側の主張を排除できるのは有害説である。諸君としてそれに賛成する場合には、それで論文を構成することも、十分可能である。これについて、どう主張すれば良いかについても、66講を参照してほしい。しかし、普段勉強していない説を採用して、試験会場でとっさに論じるのは、かなり難しい。
多くの諸君の使っている教科書は、たいていが無益説なのだが、これはいわゆる部分社会論という手法により門前払いすることを否定するのであって、判例がいわゆる部分社会論として取り上げている事例が、門前払いにふさわしいことまでも否定するわけではない。本問に即していえば、いわゆる部分社会論と同じ結論を、大学の自治の概念から導くのが、無益説だ、と理解して良い。したがって、単純に無益論を論すると
Xは負けることになる。その場合、ここでいわゆる部分社会論の射程距離というものを論じることで、無益説の下でも、Xとして勝つ可能性が出てくる。判例がこの説を採用していることを考えると、弁護士が訴訟で判例を無視するわけにはいかない以上、Xの弁護士としては、上記有害説を単純に論じるよりも、こちらの方が高い評価を与えられる可能性があるので、これについて簡単に説明する。判例は、分類上、「いわゆる部分社会」に属すると認められるような団体であっても、そこで発生した紛争に、常に「いわゆる部分社会の法理」を適用して、司法審査の対象外としているわけではない。たとえば、南九州税理士会事件がその一つの典型である。また、労働組合内部の紛争の場合にも、三井美唄事件や国労広島地本事件に代表されるように、積極的に団体内部の紛争原因を把握した上、個々具体的に紛争解決に当たる場合が多い。その意味では、「いわゆる部分社会の法理」の射程距離というのは、意外に短い。これは要するに、中間団体というものを憲法的にどう取り扱うか、という問題なのである。
近代市民社会が成立した当初、中間団体、例えば藩とか家というものを憲法は否定していた。そういう介在物無しに裸の個人というものが、直接国家と相対していたのである。しかし、現代国家において、国家と個人の中間に位置する団体の存在を無視し得ない。多くの場合、そうした中間団体は、大学や労働組合のように、裸の個人を強大な国家権力から庇護する存在として登場する。そこでそうした中間団体自体が人権を保障されているかどうかが議論の対象となる。それが肯定されれば、一々裸の個人に換言することなく、国家と団体の関係だけを調整すれば、人権救済は実現するからである。これが、いわゆる法人の人権享有主体性という議論である。
それに対して、いわゆる部分社会論で問題となっているのは、その人権保護の役割を担っているはずの団体とその構成員である個人との間のトラブルである。この場合、裁判所が安易にそのトラブルの解決に乗り出すことは、国家が団体自治に干渉することを意味し、上記団体の人権侵害という面を有することになる。それを避けるべきであるとする議論こそが、いわゆる部分社会論の本質である。その意味で、すべての領域に共通する理論としての部分社会論の意義がある。
他方、中間団体を過度に尊重し、個人の権利の、団体による侵害を放置するときは、個人の自由の実質的侵害を許容する事態を生じかねない。これは、かつて契約の自由を尊重するあまり、資本家による労働者の搾取、大企業による中小企業の搾取を認めた悪しき前例に明らかなとおり、非常に問題である。
ここに、部分社会論の限界を見いださなければならない。南九州税理士会事件に示されるような、きめ細かな対応がここには必要とされるのである。
この場合、物差しになっているのは、団体の目的という概念であると考える。目的に正確に合致する活動の場合には、裁判所は「いわゆる部分社会の法理」を適用して、団体自治にゆだねる。それに対して、定款等に書かれた目的には明らかにあたらないが、それに反しない、という程度の意味で、団体の目的に含まれる活動について、団体と構成員との間に紛争が生じた場合には、裁判所は、団体内部に介入して、団体と個人の利害調整を行うのである。
この論理を本問に適用すると、大学の自治の目的の範囲から逸脱しているか、あるいは大学の裁量権の濫用と論じれば、いわゆる部分社会論を排除できる(裁量権の濫用という論理で、学内の問題について司法判断した有名な事例が神戸高専剣道必修事件である。)。大学の自治の目的からの逸脱とか、裁量権の濫用という主張は、
Xとして当然行うであろうから、それがきちんと理由が付けられれば、自動的にここに書いた論理から、いわゆる部分社会論の適用を排除すべきだと主張できることになる。そこで、諸君としてそれに賛同するかどうかを述べればよい。3 大学の自治
大学が、大学の自治に基づいて審査委員会規則の妥当性を主張することが、最後に考えられる。ここまで来ると、
X側としては反論は極めて容易である。大学の自治については、制度的保障説が通説と言える。その場合、侵すべからざる制度の中核は何か、が論点となる。そして、それが学問の自由であることは、明らかである。すなわち、大学の自治は、個々の研究者の学問的研究の自由を制度的に保障する手段として、認められるのである。したがって、大学の自治を、Xの研究の自由を侵害する手段として用いてはならない、とXは主張すれば、本問で求められているレベルの反論としては十分であろう。なお、少し細かなことを述べると、本問で問題になるのは、自主立法権、すなわち学則あるいは本問の審査委員会規則など内部法の制定権と、自主司法権、すなわち学則や審査委員会規則に違反し、学内における秩序を乱した者に対する懲罰権の行使である。それぞれが、どの限度で認められるべきかについては、細かな議論がある。しかし、本問で、そこまで掘り下げる必要はないので、ここではその説明は割愛する。
二 情報開示請求権
[はじめに]
設問1が、上述のように学問の自由概念の特殊性さえ論ずれば良い平易な問題であるのに対して、設問2は、かなりの難問である。
Xとしては、遺伝子情報保護規則の違憲性を主張しなければならない。Xは、Cに研究に協力して貰う条件として、遺伝子情報保護規則に違反してC本人及び家族の遺伝子情報を開示したことを理由に停職処分されている。したがって、第一に、Cに、自分自身及び家族に関する遺伝子情報を知る権利があるか否かが基本的に論点となる。第二に、Cにその様な知る権利があると論証できたとして、Cという第三者が有する権利を根拠に、XがYに対して遺伝子情報保護規則の意見を主張し、処分の無効を主張できるか、という問題がある。いわゆる第3者の権利主張という問題である。
順次検討しよう。
(一) 情報開示請求権
1
Xの基本戦略普通、知る権利というと、国際人権
B規約19条2項に言うあらゆる種類の情報を求め、受け、及び伝える権利を考える。諸君の中にも、そういう方針でXの主張を想定した者もいる。しかし、そこに言う知る権利は、社会の一般公衆が知る権利である。ところが、ここで問題となっているのは、特定個人の遺伝子情報という極めて私的性格の強いものであるから、そのような意味での知る権利には属さない事は自明である。そのような私的性格の強い個人情報の開示請求権は、通常はプライバシー権の、公法関係における展開形としての自己情報コントロール権の一環として議論される。例えばプライバシー保護法(正式には「個人情報の保護に関する法律」)がそれである。
法務省が公表している出題の趣旨からみると、出題者は、この自己情報コントロール権の問題として本問を解くことを想定しているらしい。
しかし、私は、この記述は、出題者が何か錯覚を起こしたものと考えている。なぜなら、第一に、
C自身の遺伝子情報はともかくとして、Cの家族の遺伝子情報は、Cの自己情報とは言えない。したがって、単純に自己情報コントロール権と議論すると、C本人はともかく、Cの家族に対する情報開示は、根拠がないことになって、Xは自動的に負けてしまう。第二に、自己情報コントロール権は、公法上の権利であって、特別法がない限り私人間では効力がない。上述したプライバシー保護法は、個人情報を電算機を利用したデータベースとして管理している場合には、私人間でも認められる。しかし、本件遺伝子情報が電算機を利用したデータベース化されているという記述は問題文にはない。それどころか、後述するとおり、この種データは、そのようなデータベース化が禁じられていると考えるべきである。只、この点については、本問が、私立大学ではなく、県立大学とされているところから読ませるというのが、出題者の意図である可能性がある(実際問題として、国公立大学が、独立行政法人化されている今日、単純に県立大学とその利用者の関係を公法上の関係と採られて良いのかは、疑問の強いところであるが、ここでは、その点については論じないこととする。そこで、本問は、自己情報コントロール権そのものを拡張するか、あるいは別の概念で、
Cに家族についての情報開示請求権もある、と論証することが、Xが勝訴するための基本的な条件である。以下、検討してみよう。
2 第一の戦略=自己情報コントロール権の拡張
諸君の中には自己情報コントロール権という概念を使用して論じていたものがあったし、また上述のとおり、出題者がこの論理で問題を解決することを想定しているらしいことから、その検討から議論を開始する。
しかし、諸君の論文では、自己情報コントロール権という言葉だけが一人歩きしていて、その概念内容の議論が全くないものが多かったので、本問の議論の必要性から少し詳しすぎる説明になるが、まず概念内容から検討しよう。
この理論は、わが国では佐藤幸治の提唱になるものである。佐藤は、情報プライバシー権は、すべての種類の個人情報を法的保護に値するものと見て、「自己情報は情報主体が本来管理すべきものである」「自分の個人情報はすべて自分のものである」と主張する。この場合、しかし、すべての個人情報を一律に法的に保護するときは、その外延がはっきりしないため、行政等が円滑に機能しなくなるおそれがある。ひいては情報社会そのものの崩壊となるところから、
13条の幸福追求権とクロスさせて、その一環として絞り込もうとする。すなわち、「個人が道徳的自律の存在として、自ら善であると判断する目的を追求して、他者とコミュニケートし、自己の存在にかかわる情報を開示する範囲を選択できる権利(佐藤『憲法』第3版453頁)」と定義される。この定義で明らかなように、この説は、人権の基礎として人格的利益説をとらない限り、採用不可能な説である。すなわち、憲法学界の半数を占める一般的行為自由説の論者は、この説はとらない。つまり、大変な論争点なので、少なくともここに述べた程度は最低限書き込んでくれないと、諸君レベルの小論文としても成り立たない。ごく簡単に人格的自律説を支持する根拠を述べた上で、ここに書いた定義を正確に覚えて、答案に書きこむようにしてほしい。自己情報コントロール権という言葉を使って議論しても、こうしたことが書けていなければ、この段階で落第答案となる。
佐藤説は、この道徳的自律という概念を利用して、情報プライバシー権の対象となる情報を、プライバシー固有情報とプライバシー外延情報とに区分して、法的保護に差異を設ける。
(1) プライバシー固有情報
これは、人の道徳的自律の存在にかかわる情報と定義される。通常の用語でいえば、秘匿性、非公知性、感情侵害性の程度の高い情報と考えて良いであろう。これについては、公権力は、その人の意思に反して接触を強要し、取得し、蓄積し、利用し、あるいは対外的に開示することが原則的に禁じられる。この種情報の収集の問題を取り上げた代表的な判決として、デモ行進時の国による写真撮影の問題を論じた京都府学連事件がある(最高裁昭和
44年12月24日大法廷判決=百選[第5版]46頁)。このように、本人の感知しない間に収集、蓄積された情報がプライバシーにふれるものとして問題となる以上、情報プライバシー権の中核を占める具体的な権利としては、情報主体の自己情報閲覧権及び訂正請求権をここから導くことができる。当然、それに対応した形で情報処理機関の側に供覧・訂正義務が生ずることになる。それを論じた判例としては、在日台湾人の身上調査票訂正請求事件がある(東京地裁昭和
59年10月30日判決)がある。(2) プライバシー外延情報
プライバシー固有情報に対して、プライバシー外延情報、すなわち道徳的自律に直接かかわらない外的事項に関する個別的情報(秘匿性等の程度の低い情報と考えて良いであろう。)については、正当な政府目的のために正当な方法を通じて取得・保有・利用しても、ただちにはプライバシー権の侵害とはいえない。
しかし、このような情報も、悪用され又は集積されると(例えば、本問のように、一定の要件に基づいて名簿化されると)、個人の道徳的自律に影響をもたらすものとして、権利侵害の問題が生ずる。この具体的な内容としては、いわゆる
OECD8原則が登場してくることになる。これを論じた判例としては、早稲田大学江沢民事件がある(最判平成15年9月12日=百選第5版46頁参照)。自らの遺伝子情報は、上記二つの概念のうち、明らかにプライバシー固有情報に属すると言えるであろう。したがって、その固有情報を自らの意思に反して大学が蓄積し、本人に対して開示しないというのは、明らかに自己情報コントロール権を侵害していると言える。したがって、本人に対する開示の拒否という点では
Xの弁護士は、容易に権利侵害を主張できる。問題になるのは、
XはCに対し、C本人情報だけでなく、その家族情報までも開示している、という点である。かつての家制度を前提とすればともかく、今日において、家族は明らかにX本人とは別の人格であり、したがって、家族情報は、本人の自己情報と呼ぶことはできない。したがって、家族情報の開示を、通常の自己情報コントロール権によって正当化することはできない。ただ、一つの可能性があると考える。
Cについて遺伝子治療をするに当たり、何故、家族情報の検査を必要とするか、ということである。問題文によると、その理由は、次のとおりである。「遺伝子治療においては、まず、当該疾患をもたらしている遺伝子の異常がどこで起こっているかなどについて調べる必要がある。それを確定するためには、遺伝にかかわるので、本人だけではなく、家族の遺伝子も検査する必要がある。」
つまり、本人の遺伝子の異常を把握するためには、本人情報だけではたりず、家族情報が不可欠なのである。したがって、その限度で、家族情報も又、本人の自己情報に属する、と立論することである。諸君がこのレベルまできちんと書き込めば、おそらく、本番では一応の合格点を貰えると思う。
当然、大学側の反論として、他者の情報を自己情報と強弁するのには根本的な無理がある、と主張されるはずである。そして、諸君としては、この説を採った以上は、大学側に賛成する、という結論を下すのが、素直な議論と考える。
3 第二の戦略=インフォームド・コンセント法理
こういう流れになるのは、出発点として、
Xの弁護士が自己情報コントロール権説を採用したと想定した点にあることは間違いない。そこで、Xの弁護士として、もっと無理なく家族情報を求める権利を主張できないかを考えてみよう。本問は、素直に読めば、
Cは遺伝子治療を受けるに当たり、その治療方法をXが採用するのが適切と判断するに至ったすべての情報を開示を求めたものとするのが穏当な読み方である。そのように、医師から治療を受けるに当たり、その治療方法を採用するのが適切な理由やその副作用等、すべての情報を受けたうえで同意する必要がある、と今日、一般に説かれるようになっている。これをインフォームド・コンセント法理(doctorine of informed consent)という。すなわち、インフォームド・コンセントとは次のように定義される。
「医師が、意思能力者である患者に対して、 ・診断結果に基づく病状の正確な内容、
・医師が推薦する医学的処置の性格と目的、
・その医学的処置が成功する可能性とそれに伴う危険性、
・その医学的処置の結果として患者に対して生じ得る利益と不利益、
・代案としてのその他の適切な医学的処置の性格と目的、
・成功の可能性、危険性、および、利益と不利益、
・それらすべての医学的処置が行われない場合の予後、
などの良識人が欲するであろう情報(原則として、患者がそれ以上の情報を望む場合には、その情報)を患者が充分に理解できるような方法で開示し、かつ、患者がそれらの情報を充分に理解した上で、患者が、提示された複数の医学的処置(無治療を含む)のいずれを選択するかを自己の自由意思で決定し、選択した処置の実行に関して医師に対して与える許可」
*この定義を見れば、先に引用したとおり、遺伝子欠陥等が本人情報だけでは判明しない以上、家族情報も含めた情報を、医師
Xが患者Cにインフォームした上で、遺伝子治療の了解を求めねばならないことが、当然であることが理解できるであろう。では、なぜ、本問における遺伝子情報保護規則は、本人情報及び家族情報の開示を禁止しているのだろうか。問題文によると、本人の遺伝子情報(以下「本人情報」という)の開示を禁ずるのは、「すべての遺伝子に係る情報を開示することが本人に与えるマイナスの影響を考慮したからである。」また、家族に関する遺伝子情報(以下「家族情報」という)を
X(第三者)に開示することを禁止している理由は、「その開示によって生じるかもしれない様々な問題の発生等を考慮した」からとされている。ここで言われていることは、おそらく医師によるパターナリズムの主張と考えられる。例えば、癌を本人に告知するのが妥当か否かという議論と同様に、不治の遺伝子欠陥等を告知されても、本人にとって利益となるとは思われないので、開示を拒否するとしているのだと考えられる。そこで、
Xの弁護士としては、インフォームド・コンセント法理の妥当性を主張できれば、訴訟に勝てることになる。これに対し、大学側はパターナリズムで対抗することになる。そこで、インフォームド・コンセント法理の妥当性をその基礎から論証していく、という事が、諸君の論文の骨格となる。
その議論の出発点は自己決定権である。自己決定権の概念は、幸福追求権をどのように把握するかにより、大きく異なる。諸君は、すべて人格的自律説にたつと思われるので、その見解だけ説明する。
こちらの場合も、自己情報コントロール権の場合と同じように、議論は
13条の幸福追求権の概念から始まる。その辺は理解してくれていると信じて、ここでは割愛するが、諸君の論文には人格的自律説から始まる議論を簡略に書かねば合格答案と評価されないことは、自己情報コントロール権からのアプローチの場合と一緒である。 人格的利益説に立つの自己決定権の概念として、佐藤幸治は「一定の重要な私的事柄について、公権力から干渉されることなく、自ら決定することができる権利」と定義する(注釈憲法302頁)*。この説に立つ場合、無造作に「自己決定権」という言葉を使用するのは間違いで、どこかできるだけ早い段階で、「人格的自律権」と言い換え、以後、そちらの用語で論ずるのが妥当であろう。人格的自律権説を採る場合、定義の狙いは、基本的にそれに該当する場合を絞り込むことにある。したがって、定義を構成する各語の中でも、最も重要なのは、「私的事柄」という言葉である。
私人の行為であって、他人に危害を及ぼさないものをいう、と一応は定義しうるであろう。しかし、人間が社会的動物である限り、内心の自由といえども、社会との関わりが発生しうるから、所詮これは相対概念とならざるを得ない。例えば、結婚とか離婚というものは、憲法は、「両性の合意のみに基づいて成立」するとしているが、実際には、家と家との結びつきという面が今日においても強いからである。
このうちで、さらに、「人格的生存にとって不可欠のもので、個別的規定によってカバーされ得ないもの」に該当するものが、最終的に「一定の重要な私的事柄」に該当することになる(注釈憲法
304頁)。この後半の文言は、幸福追求権の補充性から導かれる。定義の段階で「一定」という言葉を使用した以上、必ず、その意味するもの、すなわちどのような事項に限定されるか、また、何故そうなるのかについての議論を避けることはできない。すなわち、具体的にこれに該当するものを列挙することによって、重要な指摘事柄という曖昧な概念の明確化を図ることになる。
この概念に基づいて具体的に妥当すると考えられるものとしては、@自己の生命、身体の処分に関わる事柄、A家族の形成・維持に関わる事柄、Bリプロダクションに関わる事柄の三つに限定されると、佐藤幸治はいう。家族の形成・維持に関わる事柄とは、直接には婚姻をも意味するが、補充原則から、これは
24条の問題となるので、人格的自律権には属さない。結局、問題は、離婚の自由ということになる。なお、これが人格的自律に含まれるとするのが佐藤説で、芦部説ではこれはカウントされない。リプロダクションに関わる事柄とは、直接には妊娠(避妊)の自由及び堕胎の自由を意味する。本問の場合には、@の自己の生命、身体の処分に関する事柄に該当することははっきりしているので、A以下についての議論は不要であろう。
わが国では、従来、この問題は医療拒否権の形で論じられてきた。判例上重要なのは、エホバの証人輸血拒否事件である(最高裁平成
12年2月29日 第三小法廷判決=百選[第5版]56頁参照)。この判決は、直接には憲法上の論点を含まないが、その輸血によらなければ救命方法がない事案に関して、最高裁が見解を示した、という点で重要である。本問の場合、そこまで話は複雑ではない。単純に医師側のパターナリズム対インフォームド・コンセントの対立である。この問題は、米国では、
1957年にカリフォルニア州控訴審のSalgo v. Leland Stanford Jr. University事件(317 P(2d) 170-182(1957))において論じられ、インフォームド・コンセントの権利が明確に認められたことで、有名である。この事件は、下肢の痙攣に悩まされていた男性がスタンフォード大学で、その原因を突き止めるため、血管造影撮影による検査を受けたところ、検査の後遺症で両下肢麻痺が出現したので、大学を訴えたというものである。本件においては、医療過誤は存在していなかったが、医師は、動脈硬化の強い人に血管造影撮影を行うと技術上の過失が無くてもこのような危険を伴うことを承知していたにも拘わらず、そのことを事前に患者に告知しなかったことが問題となった。
裁判所は、次のように述べた。
「医師は、提案した治療法に対する患者の知的な同意の基礎を形成するのに必要な何らかの事実を述べなかった場合に、患者に対する義務に違反し、責任を負うことになる。医師は、患者を説得してその患者の同意を得るために、処置または手術について知られている危険について控えめに述べることをしてはならない。」
他方において、この判決は、医師のパターナリズムも一定の限度で認めた。
「もう一つの行動方針は、各々の患者には別個の問題があるということ、患者の精神と感情の状態が重要であって、場合によっては決定的であり得るということ、および、リスクという要素について論じる際には、インフォームド・コンセントにとって必要である諸事実の充分な開示と矛盾しない形で一定の裁量権を行使しなければならないということ、を認めることである。」
つまり、個々の患者の精神状態によっては、インフォームしないという裁量権も医師は有しているとしたのである。
この基準を元に、本問の遺伝子情報保護規則を見ると、これは、二重の意味で違憲の規定であることが判る。すなわち、第一に、患者側から一方的にインフォームド・コンセントの権利を奪っている。第二に、医師に対して、インフォームするか否かの裁量権を全面的に奪っている。このような患者の自己決定権の全面否定の規定が、合憲と評価されることはありえないのである。
(二) 第三者の権利主張
Cに本人情報及び家族情報の開示を受ける権利があるとして、Xは、それに基づいて、遺伝子情報保護規則の違憲を主張できるだろうか。
第
3者没収違憲判決(最大判昭和37年11月28日=百選[第5版]250頁)で有名な論点である。実は、第3者の利益には三つの態様がある。
第一に、純粋に第3者の権利を守るための訴えがある。例えば、君たちが、友人のために訴えを起こすような場合である。この時は、具体的事件性がないので当事者適格が存在せず、却下される。
第二に、しかし、自分の権利の得喪が特定の第3者の権利と密接に結びついている場合には、当事者適格が認められる。
第三に、不特定の第3者の権利の主張は、合憲性判定の基準としての過度の広汎性ないし明確性の理論との関係で問題になる。
このうち、特に第一と第二は区別が紛らわしいため、判例も誤認したりしている。すなわち、第
3者没収事件に関し、最高裁判所は、初期には次のように判決した。35年10月19日) 「所論は・・要するに訴訟外の第3者の所有権を対象として違憲を主張しているものである。しかし訴訟において、他人の権利に容かい干渉し、これが救済を求めるがごときは、本来許されない筋合いのものと解するを相当とするが故に、〈中略〉他人の所有権を対象として基本的人権の侵害がありとし、憲法上無効である旨論議抗争することは許されないものと解すべきである。」(最大昭和
しかし、上記昭和
37年判決で、判例を変更し、最高裁は次のように述べた。118条1項の規定による没收は、同項所定の犯罪に関係ある船舶、貨物等で同項但書に該当しないものにつき、被告人の所有に属すると否とを問わず、その所有権を剥奪して国庫に帰属せしめる処分であつて、被告人以外の第三者が所有者である場合においても、被告人に対する附加刑としての没收の言渡により、当該第三者の所有権剥奪の効果を生ずる趣旨であると解するのが相当である。 「関税法
しかし、第三者の所有物を没收する場合において、その没收に関して当該所有者に対し、何ら告知、弁解、防禦の機会を与えることなく、その所有権を奪うことは、著しく不合理であつて、憲法の容認しないところであるといわなければならない。けだし、憲法
29条1項は、財産権は、これを侵してはならないと規定し、また同31条は、何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪われ、又はその他の刑罰を科せられないと規定しているが、前記第三者の所有物の没收は、被告人に対する附加刑として言い渡され、その刑事処分の効果が第三者に及ぶものであるから、所有物を没收せられる第三者についても、告知、弁解、防禦の機会を与えることが必要であつて、これなくして第三者の所有物を没收することは、適正な法律手続によらないで、財産権を侵害する制裁を科するに外ならないからである。」このように、第
3者の権利主張であっても、それが自らの権利と分かちがたく結びついている場合には、それを主張しうることは、憲法31条の保障する適正手続条項から導くことができるのである。