『姫様と紀貫之のおしゃべりしながら土佐日記』

大伴茫人著 洋泉社刊、1400円

 あえて身も蓋もない紹介の仕方をすれば、本書は予備校の先生によって書かれた、大学受験頻出の有名古典である「土佐日記」の解説書である。 大学の講義で、学生達が私語に精を出し、まじめに講義を聴かない、ということが嘆かれるようになって久しい。大学教員からそういう嘆きを聞かされると、付き合いとして一応うなずくのだが、実をいうと私にはその嘆きが理解できない。私の講義では、そんな学生は皆無だからである。出席をとることで講堂に来ることを強制し、十年一日のごとき講義をして、ひどい人になると自分の書いた教科書の朗読だけで講義時間を埋めて、学生にまじめに聴けといっても無理なのは当然である。教科書を読むだけでは得られない高いレベルの講義をきちんとしてやれば、わざわざ登校している位の学生は必ず聴いてくれる、というのが私の持論である。

 その点、予備校の先生の生活はシビアである。講義がまるで詰まらなければ、学生から予備校に投書が行って、たちまち首になる。いかに学生の関心を集めて大学合格の実績につなげるかが、直ちに給料の額に響いてくる世界だから、どうすれば魅力ある講義ができるかに情熱を燃やさざるをえない。本書は、その予備校の先生の中でも人気タレントである筆者が腕によりをかけて書いた本だから、語り口として面白くないわけがない。

 読まれた方なら同意していただけると思うが、この土佐日記なる古典は、およそ事件らしい事件もない旅の話で、内容的には実につまらない。それを文法や内容を説明するだけで、面白く読ませるということ自体、かなりすごい話である。

 学問的にも、非常に高いレベルにある。そもそも土佐日記には基本的に大きな謎がある。れっきとした男性である紀貫之が、なぜわざわざ女性のふりをして仮名文字で日記体の文章を書いたのか、ということである。私の高校時代を振り返ってみても、土佐日記は読まされただけで、そのような基本的な疑問は、うやむやにすまされていたように思う。本書を読んで、その点については実はこれまで定説がなかったのだ、ということを知った。著者は、土佐日記は、皇后候補になっている高級貴族の娘に、その地位にふさわしい和歌の教養を付けるための教科書として書かれたもの、という説を立てた。その前提に基づいて、紀貫之本人が姫様に直接土佐日記を講義する、という形式で書かれたのが本書である。その姫とは、具体的には、当時の摂政であった藤原忠平の孫娘、安子(あんし)であると想定している。後に村上天皇の皇后になり、冷泉、円融両天皇の母となった女性であるという。

 この姫様と紀貫之の間の軽妙(軽薄?)な会話で本書は成り立っている。だが、あの味も素っ気もない土佐日記の文章には、そういうすごい仕掛けが隠れていたのか、と驚嘆するような指摘が続出する。大学受験を控えたお子さんのいる方ばかりでなく、日本人なら誰でも、土佐日記についてこの程度のことは知っているべきだと痛感したので、紹介する次第である。

『氷の闇を越えて』

スティーブ・ハミルトン著 ハヤカワ文庫、700円

 アメリカで私立探偵としてまともに飯を食っていこうとすると、弁護士に常雇いになる、というのが一番無難らしい。前に本欄で紹介したパーネル・ホール描くところの頼りない私立探偵スタンリー・ヘイスティングス君の場合、ボスはニューヨークで、救急車を追いかけてしゃにむに依頼人を獲得するというあまり冴えないタイプの弁護士だった。だから、その雇われ探偵としては、そうした事故の裏付け調査が中心業務になる。そういう冴えない仕事からくるわびしさが同書の一つの読みどころだった。

 しかし、何にでも下はある。本書の主人公である私立探偵アレックス・マクナイトのボスは、ミシガン州スペリオル湖のほとり、つまり合衆国最北の地にある田舎町で救急車の追い掛けをやっている弁護士だから、ヘイスティングス君のボスよりさらに格が下がる。そんな場所では当然まともな能力を持つ私立探偵もいない。そこでマクナイトを強引に口説き落として自分専属の私立探偵になって貰ったというわけである。

 マクナイト自身、人生の敗残者である。最初はプロ野球マイナーリーグのキャッチャーとしてスタートしたが芽が出ず、幾つか職を転々としたあげく、デトロイトで警官をしている時にローズという狂人に銃撃されて瀕死の重傷を負った。弾丸の一発は心臓と脊髄の間に入り込んでいるために、摘出手術をすることができず、未だに胸の中に残っている。警官を退職した彼は、父親が残したわずかの地所を頼りにこの地に移り住んだのである。そして、数戸のロッジを狩猟期にハンターに賃貸する傍ら、私立探偵も始めた、というのが物語の始まりである。

 小説に出てくる私立探偵というと、ロス・マクドナルドのリュー・アーチャーやR・B・パーカーのスペンサーのように、この稼業が好きで他の仕事など考えられないというタイプが多いだけに、彼のように頼まれて渋々なった私立探偵というのはそれだけでも異色の造形である。

 このように、気の滅入るような背景設定なのだが、その割に読んでいて、暗くならない。帯に付いていた惹句では「情感あふれる」という形容詞を付けていたが、むしろその逆の点に秘密がありそうだ。文体が、ハードボイルド小説の本道を行くシンプルでケレン味のないもので、過剰な感情描写など余計な書き込みがないから、ストーリ展開を素直に追って読んでいけるのである。そのくせ、端役に至るまでそれぞれのキャラクターがしっかり造形されていて、印象に残る。この辺に本書が1999年度の米国探偵作家クラブ最優秀処女長編賞を受賞した秘密がありそうだ。

 物語は、マクナイトの周辺で連続殺人事件が起こり、服役中のはずのローズと称する人物から犯行を自供する手紙がマクナイトに来るというちょっと不気味な設定で始まる。が、途中でいったん完全に解決したように見えて面食らう。その後に、マクナイトが、真の秘密にせまる調査をこつこつと行うところが、本書の本当のクライマックスになる。