『田宮模型の仕事』

田宮俊作著 文春文庫刊、524円

 今時、企業が宣伝用に無料配布しているパンフレットでさえも、もう少し洒落たタイトルで出版するだろう。それをいうなら、この本のカバーもひどい。会社のロゴマークがでんと頑張り、その脇に、この模型会社が出している模型のシリーズ名が英語でびっしり並び、代表的な模型の人形が配してある。味も素っ気もない、とはこのことである。しかし、読み終えると、納得する。このタイトルやカバーそのままに、愚直としかいいようのない生き方をした男の物語だからである。

 本書は、世界的な模型メーカーを一代で育てた男の自伝である。彼は模型会社の跡取り息子だから、厳密にいうと二代目ということになるのだが、ほとんどゼロからの出発だったのだから、事実上、創業者と考えて良いだろう。模型セットは、昔はソリッドモデルといって大雑把に対象の形に切られた材木が箱に入っているだけだった。それを購入者がじっくりとサンドペーパーで削り、塗料を塗ってちゃんとした模型に仕上げたのである。筆者の家は、元は材木屋だったが、火事を出して家財を失ったため、そうした模型を作るくらいしか材木が手に入らなくて模型会社になったのである。ところが、ようやく設備を整えて模型会社として本格的に操業を開始しようという段階で、アメリカからプラモデルが上陸してきて、日本の木製模型の市場を一気に叩きつぶしてしまった。そこで、悪戦苦闘してプラモデルメーカーとして再出発していくことになる。

 当時、日本の模型メーカーは安直にアメリカのモデルのデッドコピーを作って商売をしていた。ところが、筆者はそういう苦しい中でも、じっくりと独自の技術を開発してから商品を発表した。だから、売り出せば、見る人が見ればその良さは判り、着実に延びることができたのである。

 例えば、戦車のモデルを作る場合にも、初期の段階では、神保町を駆け回って手に入る限りの写真から型を起こしていく。海外に出かけることが自由になると、アメリカやイギリスの戦車博物館に行って、対象の戦車の写真を文字通り数千枚も撮りまくる。ソ連の戦車のようにそうした写真が手に入らない場合には、中東戦争でイスラエルが捕獲した戦車の写真を撮りに、戦時下のイスラエルまで飛んでいくという執念を示すのである。その結果ホンダがグランプリを制覇したF1モデルを制作した際には、企業秘密がそのまま再現されている、とホンダ社内で問題になったほど正確だったという。模型づくりの好きな男が、好きなことをやっていると、それが同時に仕事になった、という感じの人生である。

 他方で、絶えず市場作りということを心がけたのも非常にすばらしい。マニアがうなるような正確なモデルとは別に、一貫して子供のための模型も作るのである。そうした取り組みが、有名なミニ四駆して結実し、大変なヒットとなった。

 自分の信念に忠実に、誠実に、妥協を排して良い仕事をしていけば、いつの間にか世界企業に成長できるという、かってのジャパニーズドリームの世界が、ここにはある。

 

『放浪の天才数学者エルデシュ』

ポール・ホフマン著 草思社、1800円

 数学を素人向けに易しく説明した本といっても、たいていの場合著者は数学者なので、著者本人としてはごく簡単な例を挙げたつもりでいても、我々素人にはかなり手強い、という場合が少なくない。その点、本書は、掛け値なしに本当に素人向けの易しい数学の話である。なぜなら、著者はただのジャーナリストだからである。

 本書の主人公、エルデシュという人物は、日本ではあまり知られていないが、その天才的な頭脳とともに、その奇行でも、欧米では非常に有名な人物であったらしい。そこで、筆者はあるとき、数週間にわたってエルデシュの後について旅をし、その話を雑誌に連載したのである。単にその旅を書くだけで、読者を引きつけられる男。それがエルデシュという人物であった。彼が専門としたのは数学の中でも整数論、つまり1,2,3というような普通の数が持っている不思議な性質を研究することである。それだけでも虚数などより素人にわかりがよい。

 エルデシュというのはあまり聞き慣れない姓だが、ハンガリー人である。そしてユダヤ人である。こういう二つの条件を持って1913年に生まれれば、普通の人物でも平穏な生涯を送ることはできない。1918年に第1次大戦が終わり、オーストリア=ハンガリー帝国が崩壊すると、ハンガリーはその後、白色テロや赤色テロの吹き荒れる大変な混乱状態に入ったからである。さらに、第2次大戦でヒトラードイツの占領するところとなり、第2次大戦後はソ連支配下の東欧圏に入る。この結果、天才数学者はいやでも諸国を放浪することになる。マッカーシー旋風が吹き荒れている間は、自由の国であるはずのアメリカに入国することさえもできなかったのである。晩年になると、放浪が完全に習慣になる。世界各国の知り合いの数学者の家の戸口に忽然と現れて、「わしの頭は営業中だ」と宣言する。そして、一日19時間も、夜昼お構いなしに数学の問題に取り組む。彼が退屈するか、彼を泊めている数学者が彼との生活に疲れ切ってしまうと、再び放浪の旅に出る、という生活を、1996年に83歳で没するまで続けたのである。

 エルデシュは、数学の問題を、他の人と共同して解くのを好んだ。特に、若い天才を育て、励ますのを好んだという。そのため、エルデシュ番号なる概念が存在する。彼と共同で論文を発表した人物が、エルデシュ番号1番である。世界中に485人いる。エルデシュ番号1の学者と共同論文を発表すると、エルデシュ番号2となる。エルデシュ番号の最大値は、現在のところは7なのだそうだ。

 本書は、単なるエルデシュの伝記ではない。著者は、むしろエルデシュという非常に世話好きの数学者を狂言回しに、判りやすく現代数学を紹介しようとしたところがある。例えば、前に本欄で紹介したインド人の天才数学者ラマヌジャンや、ワイルスが成功したフェルマーの最終定理の証明は、あまりエルデシュと関係ないのだが、かなりのページが割かれているのである。秋の一日、こういう世界に頭を遊ばせるのも楽しいと思う。