『弁護士から裁判官へ』

大野正男著 岩波書店刊、2400円

 国の三権を構成する機関のうち、なんといってもその活動の具体的内容が、我々国民から見て、一番判りにくいのは裁判所であり、特にその頂点に立つ最高裁判所であろう。そのためもあって、これまでにも最高裁判事の地位にあった人が、在職中の知見を書物の形で発表することが何度かあった。本欄でも、前に、伊藤正己『裁判官と学者の間』を紹介したことがある。本書が、それら先行する書と違うのは、まさにタイトルの示すとおり、弁護士から最高裁判事になった人によって書かれた最初の書だからである。

 類書、例えば伊藤正己の書であれば、どうしても学者としての視点から見た最高裁判所だから、その視点に立っての活動の特徴が紹介されることになる。例えば、彼が学者時代に、論文として発表し、国会で証言した内容と異なる見解を、なぜ最高裁判事という立場ではとるに至ったのか、というような、いわば判例理論面という切り口からの最高裁判所の紹介が中心をなしていた。

 この著者の場合には、長年弁護士として活躍し、自身、何度か最高裁判所に上告した立場から疑問に思っていた最高裁判所の内情が紹介されてくるから、自ずと視点が変わるわけである。例えば、判事の出勤時間、最高裁判所の建物への入り方、判事室の広さ、というようなきわめて即物的なところから紹介が始まることになる。

 本書で紹介された最高裁判所の活動内容は、それぞれに興味深いところがあるが、特に私が興味を持ったところを次に二つだけ紹介してみたい。

 一つは最高裁判事の出身構成である。最高裁発足当初は、裁判官5名、弁護士5名、学識経験者5名であったので、私は漠然といまでも大体同じような構成のはずだと考えていた。しかし、それにしては、この間の衆議院議員選挙の際の国民審査でも、やたらと裁判官出身の人が多かったので、おかしい、と首を捻っていたのである。本書によると、第一に学識経験者の枠で、検事1名、行政官2名、学者2名が当初選出されていたが、田中長官時代に学者枠1名が検事に変わったこと。第二に、石田長官時代に弁護士枠1名が裁判官に変わったこと。その結果、現在では、裁判官6名、弁護士4名、検事2名、行政官2名、学者1名となってしまっているのである。このような人的構成では、最高裁が下級審同様、職業裁判官的発想で事件を処理してしまうのも無理はない。著者自身、このままでは「最高裁は大審院的方向に傾斜し、憲法裁判所としての機能を十分に果たさなくなる」(本書98頁)と危惧している。私の考えでは、弁護士枠を元に戻し、学者枠を急に倍する程度にまで増やさないと、最高裁判所の憲法裁判所としての活性化は難しいであろう。

 今一つは、最高裁調査官である。これは現在のところ、35人全員がキャリア裁判官の中から抜擢されているという。これについても、判事同様に出身の多元化を図り、行政官、弁護士、若手研究者の中からも起用する方向で改革すべきだと私には思われた。このように、様々な問題提起がここにあるので、是非ご一読されたい。

 

『風の男 白洲次郎』

青柳 恵介著 新潮文庫、400円

 私は、憲法学者の端くれとして、わが国現行憲法の制定過程に対しては当然のことながら大きな関心を持っている。それについて調べると、不思議な人物に出会う。白州次郎である。日本が第二次大戦に敗れるまでは全く歴史の表面に現れず、敗戦とともに突如として登場し、巧みな英語を駆使して占領軍との交渉を一手に引き受けるようになる。単なる通訳ではない。占領軍を恐れることなく、迎合することなく、ノックもせず平気でGHQのどの部屋にも出入りして毅然として正論を吐くため、占領軍首脳にも恐れられていた人物である。彼に関する有名な挿話がある。

 ある時GHQ民政局長のホイットニー将軍がお世辞のつもりで「白州さんの英語は大変立派な英語ですね」というと、白州は「あなたももう少し勉強すれば立派な英語になりますよ」と切り返したというのである。彼の傲岸とも言えるほどの自信ある態度が伝わる話と思う。そのホイットニーが、松本蒸治国務大臣による明治憲法改正草案に反発して、マッカーサー草案を日本政府に手交したとき、吉田茂や松本蒸治とともに白州次郎は出席した。草案原稿の受領書に署名をアメリカ側が求めたとき、日本側を代表して署名したのは白洲である。

 この時期、彼は、憲法改正以外にも、通産省の創設や電力業界の再編など、それこそ八面六臂と呼び得るほどの活躍を見せる。ところが、占領が終わるとともに、再び忽然と歴史の表面から消える。

 こういう話を聞けば、どなたも、いったいどんな男だったのだろう、どこから来て、どこに消えたのだろうと興味を持たれるだろう。

 これまでは、彼については、彼の妻であり、著名な随筆家である白洲正子の書いた様々な断章などから隔靴掻痒のごとくに知ることができるだけだった(ある程度まとまったものとして『白洲正子自伝』新潮文庫がある)。本書により、私たちはこの謎の快男児について、ようやくその全体像の概略を知ることができるのである。

 彼は素封家の息子で、17歳から26歳まで、すなわち実家が世界大恐慌のあおりを受けて倒産するまでの9年間をケンブリッジ大学に過ごしたという。その後は、実業家として一年の大半を海外で暮らすような生活をした。そうした生活から築いた国際感覚からなのだろう、彼は恐ろしく先見の明のある人物で、日米開戦の1年前の昭和15年に既に、日本が近い将来に食糧難に陥り、東京が空襲を受けることを予見して、神奈川県鶴川村に疎開して百姓となるのである。

 戦後、突如として歴史の表舞台に登場した理由は二つある。一つは近衛文麿の秘書であった牛場文彦が幼なじみであった。今一つは吉田茂と、古くから非常に親しかったことである。彼らは白洲の実力を知っていたので、敗戦とともに呼び出されることになったのである。サンフランシスコ講和条約後は、再び公職から身を引き、鶴川村の百姓に戻ってしまった。もっとも様々の会社の社外重役等を務め、1985年に没するまで多忙な生涯を送ったという。