『漱石の夏休み』

高橋俊男著 朔北社刊、2000円

 『房総紀行「木屑録」』という副題がついている。これは、明治22年、夏目漱石が数えの23歳の時に書いた漢文の紀行文で、漢詩が9首収録されている。この時、漱石は第一高等中学校の生徒で、クラスメイトで親友の正岡子規を唯一の読者として書かれたものなのだという。ついでに言えば、この文章が、漱石が漱石というペンネームを使った最初のものなのだという。

 私は漱石の時代の知識人は漢文が自由に書けるのは当然のことと思っていたが、筆者によると、わが国知識人が漢文を自由に読み書きしていたのは幕末までで、漱石の時代にはもうそういう素養はなくなっていたのだという。彼らの時代はむしろ英語の時代だった。すなわち、まだ欧州の学問を日本語で教えられるほどにわが国の学問が育っていないため、例えば漱石の第一高等中学では、英語の授業はもとより、数学その他あらゆる学問が、教師が日本人の場合にもすべて英語で教えられていたのだそうだ。

 この前の年、正岡子規は、「七草集」という文集を一人で作っていた。全体が七つの章でできていて、各章が、漢文、詩、短歌、発句、謡曲、和漢混淆文、雅文と一々文体の違う本である。ところが、子規という人は短歌や俳句では天才的な人だが、漢文は素養が十分でないために、漱石の言によると「新聞の論説の仮名を抜いたような」代物しか書けなかった。それを見て、漱石が自分ならもっとましなものが書ける、と考えて書いたのが、この木屑録ということになる。

 ところで、本書は、木屑録を紹介している、というより、むしろ木屑録を材料に、漢文ないし漢詩というものを論じているといった方が正しい。

 私は高校で習った漢文、つまり送り仮名だの返り点だのを振って、漢文をしゃにむに日本文として読むやり方、本書で言うところの「訳語一定、千篇一律、荘重体」、普通に言うところの漢文訓読というものが持っているリズムが好きである。あれは、江戸時代、中国との国交が失われて、日本人は中国語の発音を知らなくなってしまったから、やむを得ず開発した方法と思っていたのだが、本書によると、あれは幕末近くなって、文字の並べ方を覚える手段として開発されたものなのだそうだ。あれは漢文の正しい読み方ではない、と筆者は力説する。普通に木屑録の冒頭を読み下すと次のようになる。 「余児たりし時、唐宋の数千言を誦し、文章を作り為すを喜ぶ」これを筆者が訳すると、こうなる。「我が輩ガキの時分より、唐宋二朝の傑作名篇、よみならったる数千言、文章つくるをもっともこのんだ」なるほど、翻訳である以上、そうあるべきだろう。

 ついでのことに、筆者は、教師根性丸出しに、木屑録に出てくる漱石の文章と子規の文章を添削している。千年知己を待つ、という言葉があるが、まさか漱石も百年後に自分の文章が採点されるとは思わなかっただろう。漢文に弱い子規の添削が正しいと評価されていて、さすがに子規、とその鑑賞力に感心した。本書は、第52回読売文学賞の随筆・紀行賞を受賞した傑作である。

『しのびよる月』

逢坂剛著 集英社文庫刊、590円

 この筆者は、独特の味わいのあるサスペンス小説を書いて人気がある。中心となるのは、何と言ってもスペインものといわれる作品群であろう。文壇にデビューしたのは『暗殺者グラナダに死す』だったし、直木賞を取ったのは『カディスの赤い星』だった。これらの作品では、フラメンコギターの調べに乗ったサスペンスの高まりが楽しい。もう一つ重要な作品群が『百舌の叫ぶ』とか『よみがえる百舌』に代表される、公安シリーズといわれる作品群である。私は、スペインものと違って、こちらの作品群はあまり好まない。ストーリそのものは面白いのだが、なまじリアルな作品であるだけに、サスペンスの内容が現実離れしすぎている気がして、今ひとつ乗れない。

 どちらの作品群も、ユーモアとはあまり縁のない乾いた筆致が特徴だが、それに対して、本書は筆者にしては珍しくユーモア路線を目指した短編集である。お茶の水署という架空の警察(実際のお茶の水界隈は神田警察の管内になる)にある生活安全課保安2係というたった二人で構成されている係りの、係長斉木斉と係員梢田威の二人を主人公としている。

 この二人、小学校が同級で、小学校時代はいじめっ子といじめられっ子の関係にあった。卒業以来、久しぶりに再会したら、かってのいじめられっ子が上司となり、いじめっ子が部下になっていたのである。そこで、いじめられっ子が職権を笠に着て、ねちねちとかってのいじめっ子をいびる、というのが基本トーンになる。例えば、梢田威が巡査部長試験を受ける日の前日には、斉木斉は必ず夜遅くまで酒につき合わせるのである。おかげで、そうでなくとも頭が悪く、実力をフルに発揮しても合格できるかどうか怪しい梢田は、毎回二日酔いの頭で試験に臨み、不合格の憂き目を見る。

 二人とも、警官としての職権を濫用して管内の飲食店では只飯を食い、只酒を飲むのが当然と思っているような下劣な人物だから、作品を読んでいて、感情移入をするという気にはなれないが、どちらかというと、現時点での被害者である梢田の方が、心持ち同情の対象となる、という感じに描かれている。私など、小学校時代、いじめられっ子の方だったから、同じ立場だった斉木の遅ればせの復讐に期待して読んだのだが、あまりにせこい行為が目についてとても応援する気にはなれなかった。ひょっとすると、筆者はかっていじめっ子だったのではないか、と深読みしているところである。

 物語は、さすがに頭の違いを示して、一般に斉木の方がホームズ役で、梢田の方がワトソン役なのだが、最後の解決に至るまでの過程は、お世辞にも快刀乱麻を断つ、とはいえない。その行き当たりばったりぶりがむしろ売りの作品といえるだろう。なお、奇妙な表題だが、これは作中で斉木が物知りぶりをひけらかして説明するところでは、傑作西部劇「レッドムーン」の原題が「ストーキングムーン」、すなわちしのびよる月であるところから来ている。すなわちストーカーのことである。