『シカゴよりこわい町』

リチャード・ベック著 東京創元社刊、1900円

 米国憲法に禁酒法という珍無類の悪法が規定され、それを糧にアル・カポネに代表されるギャングがシカゴを支配していた古き良き?時代に、そのシカゴで少年時代を送った老人の追憶という形で書かれた連作短編集である。もっとも作品の舞台となっているのはシカゴではなく、そこからセントルイスに走る鉄道が、途中で通過する中西部の寒村である。それが、邦題に示されているシカゴよりこわい町ということになる。

 物語は、1929年に、父親が、9歳の兄ジョーイと7歳の妹アリスを、夏休みに二人だけで鉄道の旅をさせて、自分の母親の所に送りつけようと考えたところから話が始まる。おばあさんもいい年だ、という言い方では親孝行のようだが、たぶん子供達を祖母に押しつけて、その間に親たちは羽を伸ばすつもりだったに違いない。以後、1935年までの間、子供達は毎年夏になると、祖母のもとに送りつけられることになる。本書の各話は、その各年の夏休みごとの想い出という構成になっている。

 子供達の祖母の住む村は、人口が少なく、子供達にとっては遊び相手1人いない上に、祖母は一人暮らしの上に、人付き合いの悪い人物だから、子供達にとっては実に退屈な、とんだ災難の夏休みのはずだった。

 ところが、この祖母という人物は、自分なりの素朴な正義感を持ち、マスコミや保安官を相手にしても、そのやり口が気に入らないと考えれば自分の意見を臆せず主張し、そのために必要とあれば、得意の散弾銃をがんがん撃ちまくることも辞さないという強烈な個性の持ち主である。そして、何か計画を立てると、子供達をその協力者として駆り出すのだが、本格推理小説の名探偵さながらに、なぜそういうことをするのか、あるいはさせるのか、絶対に説明しないものだから、子供達としては、いったい何を狙いとしているのか、また、祖母の行った様々な仕掛けの結果、いったい何が起こるのか、全く判らないままに、興味津々でついていく、ということになる。

 しかも、彼女は自分の考えた正義を実現するためなら、少々の違法行為は気にもしない。第1話では死体損壊をするし、第2話では証拠のでっち上げ、 第3話に至っては話のタイトルそのものが「女ひとりで犯罪急増」というもので、不法侵入や使用窃盗など犯罪のオンパレードということになる。しかもそれを保安官の目の前でやってのけるのだから、迫力がある。

 だから、第4話の冒頭では妹のアリスの「おばあちゃんは、私たちのいいお手本とは言えないと思うんだけれど」という発言が登場することになる。二人はそのことが両親にばれないように、いかにも気が進まないという振りをしつつ、喜々として毎年祖母を訪問していくのである。

 本書は、米国では児童書として出版され、児童書に送られるいくつかの賞を受賞した作品ということだが、不思議なことにわが国では一般書として刊行され、難しい漢字に仮名も振られていない。さしあたり親が楽しむ作品としてお奨めする。

『ラプソディー 血脈の子』

エリザベス・ヘイドン著 ハヤカワ文庫刊、上下各920円

 本書がSFの一種であることは間違いない。作品の中に何度も地球という言葉がでてくるが、それが今我々の住んでいる地球とは似ても似つかない惑星だからである。しかし、ご存じの通り、今日SFは、サイエンス・フィクションを意味する場合と、サイエンス・ファンタジーの方を意味する場合とがある。そのどちらに属する作品なのか、ということは、私にはよく判らない。

 私は、この作品は、このような基本設定の上に物語が展開されて、という式の説明をすることが多いのだが、本書に関する限り、その基本設定がさっぱり判らないのである。

 物語の冒頭に、前奏曲と題して、未来の超科学者が、ある時代の若者を他の時代に運んで、ある少女と時を越えた恋に陥らせてしまうエピソードがでてくる。その辺りを読んでこれはサイエンス・フィクションと思っていると、悪霊だの地球全体を貫いて生えている単一の巨木だのという方向に物語が発展していき、本書の中心構造はサイエンス・ファンタジーの方にあるらしいと思わせる。

 いや、地球の中心の劫火を通り抜けることにより、不要な部分がすべて焼き捨てられ完璧になった人間とか、子午線を越えて旅をしたことにより、不死身となった人間などが登場してくる辺りから見ると、ファンタジーというよりも、むしろ、最終的には新しい種類の神話と評価すべき作品になるのかもしれない。

 奥歯に物の挟まった紹介だが、なぜ判らないのか、ということはある程度は説明できる。本書の冒頭に「『三者』の予言」なる詩が書いてあって、その中に血脈の子、大地の子、大空の子という言葉がでてくる。本書には血脈の子というサブタイトルが付いているから、本書は全体では3部構成の作品で、本書はその第1部であるに過ぎないために全体が見えないということである。しかし、それでも、上下あわせて1000頁を越える作品を読んで、未だ物語の基本コンセプトすら判らない、というのは、ちょっと例がない。しかも、それにも関わらず、面白いと思わせ、一気に読ませる筆力というのは大したものである。

 このようによく判らないといっても、それは決してストーリがないということではない。むしろ、非常に明確なストーリがある。しかし、ここで粗筋を紹介して書評の中心を埋めてしまうと、SFの命であるところのセンス・オブ・ワンダー、つまり皆さんが物語を読んで感じるであろう衝撃力を失わせるおそれがある。そこで、筋に関係のない要素だけを取り上げようとすると、このように意味不明の書評ができあがってしまったのである。

 しかし、私自身、上巻を買って読み始めて面白いと思い、まだそれを読み切る前にあわてて下巻も買い込んだくらいだから、面白い、と推薦することには何も問題もない。こうしてこれがどんな物語になるのかは、本書の段階ではさっぱり判らないけれども面白かった、という珍妙な書評ができてしまった次第である。