『草を褥に』

大原富枝著 小学館刊、1800円

 サブタイトルに「小説牧野富太郎」とある。わが国植物学の泰斗、牧野富太郎とその妻の寿衛子(すえこ)の苦難の物語である。

 牧野というと、学歴がないために苦労したという話と、大変な貧乏暮らしをしたという話が有名である。だから私は単純に二つの話を足して、貧乏のために学校に行けなかったと考えていたがこれは完全な誤解だった。牧野は昭和24年に亡くなっているから昔の人という気がしないが、文久21861)年生まれと言うから、明治天皇より9歳年下、漱石より7歳年上。立派に明治人なのである。高知県の佐川という町の豪商の息子で、何不自由なく育ったのだという。むしろ明治になって学制が発達する前に佐川の郷校で植物学を独習するのに十分な教育を身につけてしまったために、学校に行く必要を感じなかった、ということらしい。私が小学校の頃、牧野の植物図鑑は、当時の大卒の初任給ほどの値段だったが、漢文調の難解な説明がさっぱり理解できず、往生したものである。そうした実力は、郷校で身につけたものだったのである。なお、彼がまだ佐川にいた当時、2年間だけ小学校の教員をしていたのだそうだ。その時、本書の作者の父が教え子だったという。

 牧野が貧乏で苦労するようになるのは、その生家が彼が学問のため惜しげもなく使う資金を支えきれず、倒産した後である。しかし、彼の貧乏というのは、収入が不足した、というより、収入を無視して金を使う習性が生涯抜けなかったのが原因である。例えば、倒産した生家の整理のため、高知に帰っている間、妻の寿衛子は臨月の身で10円の借金の利子を待ってくれと高利貸しに三拝九拝しているというのに、彼は旅館の払いだけで80円になった最高の旅館に泊まっていたという。あるいは東大の助手になって、15円の月給をもらうようになっても、毎月の丸善書店に対する支払いだけでそれを上回っていた、という。だから、性格破綻者と考えた方が良さそうである。

 生活苦にはプラスの面もあった。収入を少しでも得ようと文をこまめに書き、あるいは講演することで知名度が非常に高くなったことである。その知名度に加えて、彼の持つ不思議な人徳で、支援者に事欠かず、時々莫大な負債を肩代わりしてくれる人物がでてくれたおかげで生活ができていた。そして何より、普通ならとっくに愛想を尽かして逃げ出す立場にある妻が、しっかりと彼を支え続け、最後には待合いを経営して彼の晩年の生活の礎を築いたからであった。

 作者は今年(2001年)1月に亡くなったから、本書は作者の絶筆となった。彼女の代表作である『婉という女』を発表したのが48歳の時というから、作家としてはかなり遅い出発である。以来40年、87歳で亡くなるまで現役として健筆を揮い続けたのはさすがというべきか。本書に関しては、雑誌に連載されたものをまとめただけという感じで、完結後の推敲がなく、作品としての結構に若干欠けるところがあるが、牧野という巨人をその長所、短所ともに見事に描き出している。

 

 

「長安異神伝」

井上祐美子著 中央公論新社刊、648円

 顕聖二郎真君。皆さんにはあまり馴染みのない名前かもしれない。中国神話で天の皇帝たる玉皇大帝の外甥にして天上界の軍の総帥、要するに中国神話世界を代表する武神である。西遊記を愛読された方なら、物語の冒頭で孫悟空が天上界をさんざん騒がせ、天の軍勢との死闘を演じた際、その一騎打ちの相手として活躍した二郎真君の名を思い出すと思う。

唐建国の事実上の中心人物といわれる太宗、すなわち二代皇帝李世民の治世になる長安の都を背景に、この天界最強の武神である二郎真君が、天界の暮らしに飽きて、人間界に降臨し、これも天界からの落ちこぼれである太歳童子を助手に魑魅魍魎退治に活躍するという物語である。

 ギリシャ神話の英雄ヘラクレスが、大神ゼウスと人間の女の間に生まれた半神半人の存在であることはよく知られているが、本書の二郎真君もまた、半神半人の存在で、そのために、神とも人とも付かない身としての苦しみを担いつつ、気楽な顔をして姿勢に遊ぶという設定が物語に奥行きを与えている。

 本書はもともと徳間ブックスから新書版で刊行され、その後、徳間文庫からでていたのだが、今回、なぜか中公文庫からでた。徳間の新書版の裏表紙には、作者の和服姿の半身像が印刷されているが、楚々とした日本美女である。しかし、中国人ではないかと疑いたくなるほど、中国古典に博覧強記ぶりを発揮し、正確な時代背景の中から、虚実取り混ぜての物語を紡ぎ出すその力は見事なものというほかはない。

 本書のほかに、中公文庫からは『桃花源奇譚』シリーズというもの出ていて、これはいわゆる桃源郷伝説を、宋の時代に背景をおいて、未来の皇帝たる地位を持つ若者が、内外の敵を向こうに回しつつ、伝説の世界を極めるという設定の、実の楽しい作品である。このように、デビュー当時の著者は、神と人間の交錯する世界を痛快に描くことに独特の手腕を持ち、他の追随を許さないところがあった。最近では、『紅顔』『海東青』など、本格中国歴史小説を書き、それもまた見事な作品で、私は好きなのだが、しかし、初期作品の気楽な楽しさはまた別格のもので、それが気楽に読める文庫で手にはいるのは、嬉しいことである。

 本書のタイトルには全く明示されていないから、ひょっとすると、著者はこの設定をシリーズ化するつもりはなかったのかもしれない。しかし、実際には全7巻のシリーズである。徳間の新書版には著者自身による後書きがあって、二郎真君という神にまつわる様々なエピソードが書かれていて、巻を追うにしたがって進捗する著者の二郎真君に対する研究状況などが判る。なるほど、そういう伝説からこの物語の設定を作り出していったのか、と納得できて楽しい。が、なぜか、徳間文庫版の段階でそれがばっさりと落とされ、ここに紹介している中公文庫版でも、やはり収録されていない。しかし、著者の後書きは書の一部なのだから、今後、是非収録してほしいものである。