『風雲の出帆』

ジュリアン・ストックウィン著、ハヤカワ文庫860円

 冒険小説のなかで、一番強烈な印象を読者に与えるのは、なんといっても、木造帆走戦艦による戦争小説であると思う。冒険小説というものは、その舞台が圧倒的な強烈さを持っていなければならない。舞台として海が迫力があるのはそこが、基本的に人間の生活空間ではなく、一瞬の油断が破滅を招くと言う点で、もっとも厳しい性格をもっているからである。

 そして、木造帆走戦艦というものは、特にあきれるほど非人間的な環境にある。見た目は似ていても、その実態は今の日本丸のような優雅な存在とはおよそ掛け離れたものである。

 それは完全に風任せの存在である。何の補助動力もないから、敵要塞の前で風が無くなったり、操縦を誤って逆帆になったりしたら一瞬にして撃破される。風を操るのは完全に人力に頼る。どれほど激しい嵐の中でも、人力で数十mのマストに帆を上げ下げする以外に操縦方法はない。当然おびただしい人手が必要である。操帆手は手を滑らしたら最後、甲板に落ちても海に落ちても助からないことに変わりはない。

 戦艦の主任務、すなわち戦い方も又凄まじい。登載している多数の何トンという重量の大砲も、重い弾もすべて人力で操作する。戦艦同士が戦う場合、最適の距離は先篭め式の拳銃の射程又はその半分という。要するに射てば必ず当る至近距離で射ち合う。相手から飛んでくる弾丸で周りに死人の山ができる中で、恐慌に陥らずに弾を篭め、射ち続けるられた方が勝つという、近代戦では想像も出来ない戦法である。

 そしてこれらを支える数百の人間が水線下の居住区に押し込まれている。わたしはトラファルガル海戦でネルソンの旗艦だったビクトリア号に乗ったことがあるが、士官室でさえも常に背を屈めていなければ頭を天井にぶつけ、両手を延ばせば両側の壁に楽に届くという狭さであった。こうした非情の世界に生きる男たちを主人公とする冒険小説は英国に長い伝統があり、C・S・フォレスタ描くホレイショ・ホーンブロワのシリーズ、アレクザンダー・ケント描くのリチャード・ボライソのシリーズなど傑作も数多い。

 今回、ここに紹介するトマス・キッドを主人公にする作品もまた、木造帆走戦艦による冒険小説だが、これまでに全くなかった特徴を持っている。従来の作品は、すべて士官候補生以上の、自ら進んで海軍に入った男たちを主人公にしていたのに対して、本書では、平和な暮らしをしていたが、ある日突然強制徴募隊によって誘拐され、無理矢理水夫にされた青年を主人公にしている点である。英国海軍の陰の部分に光を当て、かなりのファンでも詳しくは知らなかった水兵の生活を活写していることが全く新しいのである。

 なお、解説によると、本書は全体では11巻になり、1巻ごとに主人公の地位が上がって、最終巻では提督になる予定なのだとか。そういう成長小説であると判っていれば、主人公の苦難にも気楽につきあえるというものである。

『あかね空』

山本一力著、文芸春秋、1762円

 世に文学を志す青年は多い。しかし、この著者の場合、私と同い年だからお世辞にも青年とは言えない。しかも妻子がある身で、莫大な負債を抱え、その返済の道を自分の文学の才能に賭けたという。自分の文才に対する恐ろしいほどの自信というべきだろう。しかし、それが単なる自己過信でなかった証拠に、処女作「蒼龍」が第77回オール讀物新人賞(1997年)をとり、また本書で、始めて直木賞の候補になり、そのまま見事受賞したのである。もっとも賞というものは実力があればとれるものではない。前回本欄で取り上げた宇江佐真理が実力的には疑う余地がないのに、万年候補に止まっていることを考えればそれは明らかだろう。だからこの著者は、実業界ではともかく、文学の世界では、かなりの運に恵まれている人物であることもまた間違いない。

 本書は豆腐屋一家の親子二代にわたる物語である。主人公の永吉は、京都の豆腐屋で少年の頃から修行したが、のれん分けを待たずに独立を志し、給金をためたわずかな金をもって江戸にやってきた。しかし、そこで思いも掛けない障害にぶつかった。彼が腕を磨いてきた京風の豆腐というのは、今日我々が食べる普通の豆腐である。悪口に「豆腐の角に頭をぶつけて死んでしまえ」という言い方があるが、今でも地方に行くと、時々、これこそがあの言葉の豆腐といいたくなるほど堅い豆腐に出会うことがある。この時代の江戸の豆腐は、そんな堅い豆腐だったから、永吉は、食文化の壁にぶつかって苦闘することになる。貧しい長屋の人たちに只で配っても受け取って貰えない、というほど食文化の違いは大きかったのである。活路を見いだすべく苦闘する永吉は、その苦闘を脇から助けた隣家の娘おふみと夫婦になり、無事に豆腐屋を軌道に乗せるが、それに危惧を抱く江戸の豆腐屋があの手この手で、永吉の京屋を潰しにかかり・・という辺り、今日の企業小説の面影がある。

 また、作品の骨格そのものは、妻子を抱えて苦闘した著者の体験を投影してか、江戸期における家族小説といえるだろう。愛し、愛されている家族の間でさえ厳しく吹く不和の風が見事に描かれている。そうした主人公達の心の葛藤を、同一の事件を、視点を変えて繰り返し描くことで見事に浮き彫りにしてみせる辺り、デビュー後間もない新人の作とはとても思えず、著者の自負もなるほどと思わせる。

 作品全体は二部構成になっていて、第二部では、第一部で起きた様々な事件の、登場人物達の内面の謎が解き明かされる辺り、推理小説的趣も用意されている。第二部を読んでから改めて第一部を読み直すと、実にきめ細かに伏線が張られていることに驚かされるのである。また、最後のどんでん返しは、見事な勧善懲悪になっていて読後感を非常にさわやかなものとしてくれる。この辺りサービス精神も十分で、直木賞にふさわしい。なお、前作『 損料屋喜八郎始末控え』 に登場した江戸屋の女将・秀弥が、本書にも重要な脇役として登場している。