『鳥姫伝』

バリー・ヒューガート著、早川書房 740円

 なんとも奇想天外、まか不思議な書である。一応中国の話ということになっている。時代は、唐の時代ということになっている。主人公の李老師なる怪人物は、科挙を主席合格した超秀才ということになっている。奥歯に物を挟んだような言い方をしているが、その理由は単純で、物語が進むに連れて、このような歴史的設定はあっという間に吹き飛んで、どんどんこの世のものならぬ、とんでもない物語が展開されていくのである。

 日本人は、中国歴史については、大抵誰でもかなりの知識をもっているから、唐の時代の話といわれれば、そのつもりで読み出す。実際、例えば前に本欄で紹介した井上祐美子の『長安異神伝』のような怪神乱力が入り乱れるファンタジー小説でも、舞台を唐の時代と決めれば、その歴史的背景だけはあまりいじり回さないで物語が書かれている。ところが本書では、そういう意味では何の狙いで背景設定したのか見当もつかない脳天気さで、最低限の史実さえ無視する形で物語が展開していくのである。多分、唐という設定は、米国の読者にエキゾティズムを味あわせる程度の狙いと思っておけばよいのだろう。

 小菅久美さんのすてきなカバーと、世界幻想文学大賞受賞というキャッチ・コピーに、書店の店頭で見かけるなり購入した本書だが、実を言うと、その後しばらくは、読みかけのまま放置していた。一つの原因は、今述べたことである。また、文章が実に読みにくかったからである。ふわふわしていて何とも落ち着きが悪い。さらに、30頁くらいまでは、そもそもいったい何の話を読んでいるのか、見当もつかなかったからである。

 読む本がなくなり、時間潰しに渋々もう一度取り出した本書が、俄然面白くなったのは、30数頁を過ぎて、李老師なる怪人物が登場してからである。いったん私の体内リズムと文章の周波数がかみ合ってしまえば、文章は読みにくいどころか、最高のリズムで読め、まさに巻置くあたわずで、一気に読み切ってしまった。

 何と言っても魅力的なのが、主人公李老師の怪人物ぶりである。村で発生した原因不明の悪疫を治せる賢者ということで、農民がなけなしの大金を投じて彼を雇う。とはいうものの、その金は、都では酒を2瓶買うのがやっとというわずかの額である。しかし、雇われた李老師は、実に誠実に悪疫の治療薬を手に入れる為に努力する。その努力の仕方がすさまじい。詐欺につぐ詐欺で巨万の富をかき集め、王を相手に身分の詐称や殺人も平気でやってのけるのである。当然、冒険の途中、被害者にまた出会って処刑されかかることもしばしば。その都度、奇想天外な方法で逃げ出す。やがて、問題は、単なる治療薬の入手というレベルを超えて、七夕伝説を背景にした巨大なドラマであることが判ってくる。

 再読してみれば、最初にあれほど手こずった導入部は、最後に来るあっと驚くどんでん返しに絶対必要不可欠の、周到な伏線であることがわかる。ファンタジー好きの方に、自信を持ってお奨めできる書である。

『イギリス人は「理想」がお好き』

緑ゆうこ著、紀伊国屋書店、1600円

 前回が英国大蔵省だったのに、今回もまた英国ものか、と思われるであろう。まったく、日本人は何でこんなに英国ものが好きなのだろう。本書の中で書かれているとおり、イギリス人の方では、そもそも日本がどこにあるのかも知らない人が多い、というのに。

 目下私はイギリス法について特に研究している最中で、その分だけ英国関係の書が目に付きやすい精神状態にあることは確かである。しかし、現実に多数の英国紹介の本が出版され、また、それがよく売れている、というのも厳然たる事実である。現時点でのベストセラーリストを見れば、本書以外にも、例えば、井形 慶子著「お金とモノから解放されるイギリスの知恵」とか、マークス 寿子著「不安な国日本―福祉の国イギリスから見ると」などの本が直ちに目に付くのである。ドイツや米国社会をベースに議論するこのような書は、間違ってもこんなには存在していないし、いくらかはあるかも知れないが、売れてはいない。何がこの圧倒的な片思いの背景にあるのか、判断することは難しい。

 とにかく、このように山ほどある英国ものの書は、大きく二種類に分けることができる。英国を理想の社会として、それを基準に日本を断罪し、警鐘を鳴らすタイプと、逆に英国は実にひどい状態にある、と貶すタイプである。書名だけを紹介した井形やマークスの本は明らかに前者である。それに対して、本書は、書名だけではちょっと判りにくいが、徹底した後者のタイプである。

 なぜ、貶し型を取り上げたのか。理由は二つある。第一に、何時の時代にも理想の社会など、そもそもあるはずがない。英国を理想としてそれに近づけ、と説く人はどこかで無理をしているから、そのような書は不正確なところがある。第二に、それなのに英国の制度を無批判に導入しようという議論がすぐに横行し、恐ろしいことに、日本人の英国好きを背景に、これが結構実現してしまったりするからである。前回触れた独立行政法人はその一つの典型といってよい。だから、英国の現状に対する警鐘を鳴らす書は、積極的に紹介する必要がある、と考える次第である。

 本書は、英国を理想の社会と考えたがる人に、まさに焦点を絞った書である。すなわち、確かにイギリス人は理想が好きで、現実にも理想的な制度を作っている。しかし、昔ならいざ知らず、老大国である英国の現実の国力では、もはやその理想の制度を維持することはできない。普通なら、理想の方を現実に合わせて修正するのであるが、何と言おうと「イギリス人は理想がお好き」だから、現実を無視する方を選ぶ。その結果、発生するのは大変な社会的混乱であることを、著者は、様々な例をふんだんに示しつつ論じている。

 著者は、イギリス人写真家と結婚し、夫の老親の面倒を見るために12年前からロンドン近郊で暮らしている女性なので、その論証は極めて具体的で説得力に富む。英国を理想社会と思われている人は、是非お読み下さい。