『秘剣の黙示』

多田容子著、講談社 1800

 本書の作者のデビュー作は、1999年に出版された、隻眼の剣豪、柳生十兵衛を描いた『双眼』という作品であった。十兵衛を主人公にして双眼というタイトルもずいぶん人の意表をついたものだったし、これまで幾多の文豪が描いてきて、いわば描きつくされていた十兵衛に新しい視点を開いた、という点でも、さらにその作者がまだ二十代の女性、ということでも注目を集めたので、記憶にある方も多いと思う。

 以来、2000年に手裏剣の名手である陰間を主人公にした『柳陰』、2001年に生類憐れみの令の支配する時代を背景に鳥を食わせる『やみとり屋』と、ほぼ年に1作というゆったりしたベースで、講談社から書き下ろし小説を発表してきている。本書は、その第4作ということになる。

 第1作と同様に、本書は剣豪小説というジャンルに属する作品である。ただし、物語の設定に強烈なひねりが利いている。

 実をいうと、本書を本欄で取り上げようと考えたのはしばらく前のことである。それがずるずると先送りしていた理由は、そのひねりをどの程度に紹介して良いものか、なかなか判断が付かなくて、筆が先に進まなかったからである。作者が、読者をあっといわせようと苦労して設定したことを、紹介者があっさりとばらしてしまっては作者に失礼だし、読者にとっても興ざめなこと、おびただしいので、厳に控えるべきだと私は思っている。しかし、物語の基本設定のところにその仕掛けがある場合、そのことに配慮しすぎると、せっかくの作品を紹介するのが非常に難しい、という問題が発生するのである。本書が、レベルの高さにもかかわらず、新聞などの書評欄にあまり登場しなかったのは、その辺に理由があったのかもしれない。さりとて、躊躇って、紹介を先送りしすぎては、新刊ならぬ古本の書評になってしまう。思案投げ首したあげく、作者のオフィシャルサイトにある本書の紹介文を転載することにした。

町娘のおれんにとって、兄の起こした事件が激動の始まりだった。──由緒ある兵法、如月流は、すべてが口伝の秘剣。しかし、里井家の御家騒動をきっかけに、流儀の存続が危ぶまれる。如月流の奥義をめぐり、人々は苦悩し、争い、崩れてゆく。その中で、この剣が秘めた真の声を聞く者は誰か…。兵法の理と心の理を一体として描いたチャンバラ小説。」

 何を言っているのかさっぱりわからん、と文句を言われる方に、もう少しだけ内容紹介をすると、本書の最大の魅力は、剣豪小説という、本来、徹底して武士の世界に属するはずの物語を、町人の視点から批判的に描いているところにある。武士の世界ならごく自然に肯定されてしまう論理が、ちょうちん屋の親父やその娘おれんにとってはとうてい受け入れがたいものとして排除される。そこから発生する様々な葛藤こそが、従来の剣豪小説になかった展開を生むのである。

 作者は実際に柳生新陰流を嗜み、居合道は3段というからかなりのものである。その実力のおかげか、チャンバラシーンの迫真性はすばらしい。

 

『シルクロードの鬼神』

エリオット・パティスン著、早川書房、上下各800

 本書は、今春刊行された、同じ作者の書いた『頭蓋骨のマントラ』の続編である。この最初の作品は、アメリカ探偵作家クラブ賞最優秀処女長篇賞を受賞した傑作であった。是非本欄で取り上げなければ、と思いつつ、紹介の難しさに先送りしていたら、続編がもう刊行されてしまった。

 本書は、さらに内容が深まっていて、前作以上の傑作になっている。しかし、前作を読んでいない人には、本書では主人公その他の主要登場人物の背景がほとんど説明されていないので、十分に理解できないだろうし、主人公の憑かれたような捜査活動の意味も理解できないと思う。そこで、書評としては、両作品を合わせて紹介することとしたい。

 『頭蓋骨のマントラ』は、チベットの奥地にある労改、すなわち強制労働収容所に捕らわれて、過酷な労働に従事しているチベット人仏教僧たちが、首なしの死体を発見したことから物語が始まる。検察官が不在だったことから、この労改に中国人としてただ一人収容されていた単道雲(シャン・タオユン)が呼び出されて事件の捜査を命じられる。彼は、元々は北京で有能な捜査官として知られていた人物だったが、政府の大物の不正行為を捜査し摘発しようとしたことから、逆に逮捕され、裁判もなしにこの辺境の地の労改に放り込まれていたのだった。このように、人の死など珍しくもない強制収容所内で起きた殺人事件で囚人の一人が捜査を命じられる、というパターンは、ナチスの死の収容所などを舞台にした形でにこれまでもいくつか傑作が書かれてきた。本シリーズは、その舞台が中国による過酷な支配下にあるチベットである点が最大の特色である。この問題は、『セブンイヤーズ・イン・チベット』で描かれて話題となったが、あの映画が外国人の視点から描いていたのに対して、本シリーズは、弾圧者である中国人の一員を被弾圧者の立場において、その視点から描くという捻りを加えている。宗教を阿片として排撃する中国が、仏教を弾圧する手段として、数珠を扱えないように僧侶の両手の親指を切りとった上で労改に収容するなどの手段をとるのに対し、僧侶達が淡々と非暴力主義の抵抗を展開する描写などを通じて、チベットの悲劇が映画よりもはるかに奥行きを持って迫ってくる。

 本書では、前作の最後で無事に事件を解決した報償として非公式に労改から釈放された単が、仏教の老僧から依頼されて、中国のウイグル自治区で発生した殺人事件の捜査を行う。前作では、中国人とチベット人の間の軋轢が専ら描かれていたのに対して、本書ではチベット人、カザフ人、ウイグル人等多民族が共存する世界で、中国が中華民族支配を強行するために少数民族の文化の破壊政策を展開していることが告発されている。殺人事件は、やがてチベット・ラマ仏教の核心とも言える転生僧の撲滅に向けた中国側の動きと結びついていくのである。