『英辞郎』

道端秀樹監修、アルク 1800

 インターネットを経由して誰でも無料で利用できる極めて高性能の英語辞書『英辞郎』の噂を聞いたことのある人や実際にアクセスして使ったことのある人は少なからずいるだろう。その英辞郎の収録語数が100万語に達したことを記念して本になった。もちろん、電磁化されたされた辞書であるから、本になったといっても、ハードカバーにCD-ROMをはめ込んだ形である。

 無料で使える辞書を金を出して買うことはないと思う人もいるだろうが、100万語がすべて自分のパソコンのハードディスクに収まっていることから来る反応スピードの早さはすばらしい。文字を入力していく端からどんどん該当する言葉が出てくる。だから言葉によってはスペルの半分も入力しないうちに目的の言葉にたどり付けるのである。また、特に英和、和英を意識する必要もない。ウィンドウに英語を入力すれば、日本語の意味が、日本語を入力すれば英語が出てくるから、一々別に起動したりする手間がいらない。インターネット上ではアルクのホームページの片隅にあるのだが、それを使うのに比べてはるかに便利なのである。

 実をいうと、CD-ROMが欲しくて買った本なので、本そのものについてはまったく期待していなかったのだが、これもなかなか面白く読めた。これまで、この辞書は、翻訳者や英語愛好家のグループであるEDPが作っていると聞いていた。私は、そこで素直に、ボランティア活動だから無料で開放できる辞書が作れるのだ、と理解してきた。ところが本書によると、このEDPなるグループの正体は、監修者として名の出ている道端氏とその奥さんの早知子さんの二人だけで、後のグループ員のほとんどは、彼らから報酬を受けて活動しているとある。なんでも道端氏が交通事故にあって補償金が800万円でたので、それを原資に活動しているとか。まことに壮絶な道楽である。頭が下がるとともに、人ごとながらどうやって生活を成り立たせているのか心配になってしまう。

 100万語に達したので、次の目標は1000万語だという。一般に世界最大といわれているオックスフォード英語辞書で67万語というし、英語にそんなに語彙があるのか、と驚いた。しかし、実際に使ってみると、確かにまだまだない言葉がある。例えば、私の大学では目下ロースクール(法科大学院)を設立しようとしているので、私が最近読む英文にはそれに絡んだものが多いのだが、このように特殊な分野の言葉となると、とたんに出てこないものが増えるのである。また、今載っている言葉でも、まだ補完する必要はあると思う。例えば、本書28頁に用例として引用されているsophisticateという言葉の場合だと、sophisticated boyだと「ひねた子供」とあり、sophisticated girlだと「洗練された娘」と載っている。しかし、おそらく場合によっては、同じ言葉が「洗練された少年」や「すれた娘」という意味に使われることもあるだろう。こんな調子で読むと、使っていて飽きないのである。英語辞書をしばしば使う人には、絶対にお奨めの書である。

 

『パイドパイパー』

ネビル・シュート著、創元推理文庫、700

 第3次世界大戦で滅んでいく地球を描いた傑作『渚にて』の作者としてあまりに有名な著者だが、考えてみると、それ以外の作品をまったく知らない。1960年に没したというから、彼が現役として活躍していた時代から既に半世紀が過ぎている。訳者の後書きによると、数冊の本が邦訳されているというのだが、その刊行年を見ると1940年代から50年代にかけての時期である。これでは、私のような乱読家でも読んだことがないというのは無理がない。

 本書も、かって『さすらいの旅路』という邦題で角川文庫から刊行されていたという。なぜその本書を、別に著者に関して新しい出来事があったわけでもない今の時点で、創元推理文庫が再度刊行する気になったのかよく判らない。しかし、とにかく、このように力量がありながら、意外に知られざる作家の傑作を、こうして読むことができるのは、実にありがたいことである。

 パイドパイパーというと「ハメルンの笛吹き」で知られる伝説が思い出される。ネズミ退治の代償に、町中の子供達を連れ去った不吉な笛吹の姿は、例えば第1次世界大戦を銃後から描いたL・M・モンゴメリの傑作『アンの娘リラ』で、若者達を死の世界に連れ去るモチーフとして使われていたりしている。だから、第2次世界大戦を背景に、老人の旅を描いた、という本書を読み始める前には、本書は多分ハッピーエンドではあるまい、と考えていたのだが、ありがたいことにちゃんとハッピーエンドであった。この奇妙なタイトルは、老人が旅をするに連れて、同行者として子供達が加速度的に増えていくことの比喩に過ぎなかったのである。

 第2次世界大戦は、欧州においては奇妙な始まり方をした。193991日にドイツ軍がポーランドに侵入したのに対して、93日に英仏が宣戦布告をしたのが始まりなのだが、その後はかなり長く、派手な戦闘が行われなかったため、その時期を偽りの戦争と呼んだりする。本書の主人公ハワードは、70歳の老人だが、息子に戦死されて、傷心の身をスイスのジュラ地方の自然で癒そうと思い立って旅に出る。戦争の真っ最中というのに、そんな遊山の旅ができる程度にのんきな時期だったのである。

 ところが1940510日、ドイツ軍はフランスに侵入を始め、26日には英国軍はダンケルクから命からがら撤退する羽目になる。そこでハワードもスイスからあわてて英国に帰ることにしたのだが、この時点では誰もがドイツがスイスを占領すると考えていたらしい。そこで、国際連盟に働く英国人の子供2人を預かっての旅が始まる。その後、戦火の中をくぐり抜けるたびに、同行する子供が増え、無事に英国に脱出した時にはその他にフランス人2人、オランダ人1人、ポーランド系ユダヤ人1人、ドイツ人1人の計7人を連れているという状態になる。題名のゆえんである。読後感のさわやかな傑作なので、読まれて後悔することはない、と保障できる。