『死刑執行人』

アレクサンドラ・マリーニナ著、作品社 2600

 「モスクワ市警殺人課分析官アナスタシア」シリーズの邦訳第3作である。ロシアの警察を舞台にした小説は、マーティン・クルーズ・スミスの『ゴーリキー・パーク』等をはじめとしてこれまでも結構刊行されている。しかし、本書の最大の特徴は、現在ロシアにおける人気作家の作品だという点である。1997年にはこのシリーズがロシア国内だけで2000万部以上も売れたということで賞を受けているというから、ロシア人から見て面白い作品にできていることは間違いない。

 実をいうと、邦訳第1作の『盗まれた夢』の中には、主人公が上述のゴーリキー・パークを読もうとして「モスクワの町のあまりに陳腐な描写 に耐えられず、挫折した」という記述が出てくる。西欧作家が行う日本の町の描写を読むときに、似たような思いをすることが多いことを考えると、逆に本書を読まずに現代ロシアの姿を知ることはできないといえるだろう。

 分析官という聞き慣れない肩書きが主人公についているが、これは作者自身の経歴を反映したものという。すなわち、モスクワ大学法学部を卒業後、作者は内務省関連の研究所等で犯罪の分析と予測を専門にしてきた人物だからである。本シリーズの最初の作品が発表されたのは、内務省の内部雑誌である「民警」だったという。そこで人気を博して次々と書き継がれるようになったというのだから、このシリーズに描かれている警察組織の活動内容は、現場の警官達が読んでまったく違和感がなかったということは確かだろう。

 もっとも作品に現れる事件そのものは、かなり奇想天外である。邦訳第1作では、モスクワ市警がいつの間にかある外部勢力の支配下に落ち、主人公は自分のアパートで、事実上の軟禁状態になる、という話に発展するし、本書では、超能力者との死闘がテーマとなっている。しかし、リアリティのある描写で、まちがっても絵空事という感じはない。

 さっきから邦訳第1作とか第3作というように、邦訳という点に力点を置いて書いている。なぜなら、邦訳第1作は実際のシリーズでは第3作だったからである。シリーズ作品であっても、前の作品とあまり関係なく書かれていれば、面白いものから邦訳されても文句はないのだが、本シリーズの場合、かなり前作での設定に言及しているところがあるので、読んでいて落ち着かない。しかし、邦訳第2作『孤独な殺人者』はシリーズ第4作だったから、ここからは順番に翻訳してくれると思っていたら、本書は何とシリーズ第12作という。前作までは頑として恋人アレクセイからのプロポーズに応じていなかったアナスタシアが、いつの間にか妻の座に納まっている。年齢的には20代の小娘だったはずが、40台になっているのだから面食らうわけである。すばらしい傑作シリーズなのだから、もう少し地に足をつけた翻訳作業をやって欲しいものである。

 思わず不満が噴き出してしまったが、繰り返すが、現代ロシアというものがよく見えるだけでなく、西欧の警察小説とは完全に一線を画した新しい型の警察小説で、絶対に楽しめる。

 

『諜報指揮官ヘミングウェイ』

ダン・シモンズ著、扶桑社ミステリー、上下920

 この著者は一般にSF作家という印象が強いと思う。『ハイペリオン』『ハイペリオンの没落』『エンディミオン』『エンディミオンの覚醒』という壮大な4部作(2部作が二つというべきか)によって、彼の名はSFファンの脳裏に強烈に焼き付けられているからだ。しかし、彼は実に守備範囲の広い男で、デビュー作はホラーものだったし、ミステリ小説でも、事故原因調査員という新しいジャンルを切り開いた『ダーウィンの剃刀』は、傑作の名に恥じない。

 ハイペリオン・シリーズが傑作と思うなら、なぜこの欄で取り上げなかったのか、という疑問があるかと思う。理由は単純で、私にちゃんとした書評を書ける自信がなかったからである。同シリーズは、お読みになればお判りのとおり、若くして死んだ英国の詩人、ジョン・キーツの詩に全体のテーマを採っている。それだけでなく、キーツ自身が、SF的な形態ではあるが、中心的な主人公として活躍する。確かにキーツを全く知らなくとも、ハイペリオン・シリーズが傑作であることは理解できる。しかし、書評を書くとなると、それを人に判るように説明できるだけの深い理解が必要となるわけである。一夜漬けでキーツを読んでも、とてもそこまで理解したという自信はなく、書評自体を断念した次第である。

 その点、ヘミングウェイなら私のホーム・グラウンド。同じ歴史上の人物を主人公に起用した作品でも自信を持って論ずることができる。この文豪晩年の傑作に『海流のなかの島々』という未完の傑作がある。この小説はかなり自伝的な色彩が強いもので、女優マレーネ・ディートリヒとの恋愛関係や、カリブ海で活動するドイツ潜水艦を、文豪自身が愛艇ピラール号を駆って行う追撃等も描かれている。特に、その中で描かれる文豪の息子と大魚との死闘のシーンは、ノーベル賞を彼にもたらしたといわれる『老人と海』における大魚との死闘の描写よりも、優れていると私は信じている。それは短く凝縮した少年の成長小説であり、また、親の子に対する愛情小説となっている。

 前置きが長くなったが、この『海流のなかの島々』で文豪が描いた世界を、スパイの謀略戦という観点から描き直したのが本書である。だから、同書の中に現れるエピソードのほとんどが本書の中でも現れている。しかし、この著者ほどの才人が、他人の作品の、単なる別の視点からのアプローチなどという安直な作品を書くわけはもちろんない。本書は、文豪を主人公に据えての、緊迫したスパイ小説となっている。

 晩年のヘミングウェイがFBIに対するノイローゼであったことはよく知られているが、本書では悪名高いFBI長官のフーバーが、この文豪の個人的趣味のレベルに留まると思われるカリブ海での諜報活動に、なぜかFBIきっての有能な捜査官を潜入させるところから始まる。とたんに英国諜報部のイアン・フレミング(後に007シリーズの作者となる)が接触をとってくるなど、米英独のスパイがその回りに出没し、最後はまさにあっと息をのむどんでん返しが待っている。