『痴呆の謎を解く』

R. E. タンジ、A. B.パターソン著、文一総合出版 2400

 この世で、自分に降りかかる出来事の中で、一番恐ろしいことは?と聞かれたら、私は痴呆と答える。目が、耳が、あるいは足が不自由になることも辛いことだが、耐えることはできると思う。しかし、自分が確実に痴呆状態になっていくことは判っていて、しかもそれを防ぐ手段がない、と知らされることに耐えて生き続ける勇気が私にあるとは思えない。ダニエル・キイスの傑作『アルジャーノンに花束を』が、我々に深い感動を与えるのは、まさにこの根元的な恐怖を直視する作品だからに他ならない。

 恐ろしいことに、人類の平均寿命の延伸は、アルジャーノンやチャーリィに降りかかった恐怖を、誰にでも降りかかる極めてありふれた出来事に変えつつある。その恐怖の名をアルツハイマー病という。

 本書は、そのサブタイトル「アルツハイマー病遺伝子の発見」に明らかなように、この恐怖の病をもたらす遺伝子研究の第一線で活躍しているハーバード大学教授ルドルフ・タンジの視点から、アルツハイマー病に関する最新情報を紹介した書である。他の遺伝病と異なり、この病気を起こす遺伝子異常は、単一のものではない。すでに半ダース以上の遺伝子異常が発見され、それでも病例の半分くらいしか説明できないらしい。しかし、そうした研究により発病の正確なメカニズムが明らかになりつつある。それに基づいた治療薬も急ピッチで開発が進んでいるという。その他、様々な対症療法やケアの方法なども詳しく紹介されている。

 昔、ドイツの医師アルツハイマーがこの病気の患者の脳の細胞中に、奇妙な斑点(老人班)と神経繊維のかけら(神経原繊維変化)を発見し、狂気が単に精神的なものではなく、肉体的な障害から起きることを初めて示した当時は、この病気は、比較的若い人だけを襲う極めて珍しい病気だ、と考えられていた(早発性アルツハイマー病)。その頃は、人間の平均寿命が短かった(例えばアルツハイマー本人は51歳で死んでいる)ので、70歳以上になって発病する晩発性のアルツハイマー病はほとんどなかったのである。しかし、今日では、研究者によって違うが、例えば80歳以上と限定すると、最低25%、最高50%の人がこの病気に罹患する可能性があるとされている、と本書は述べている。要するに、もし読者の皆さんが、80歳以上まで長生きするつもりがあったら、悪くすると、5割の確率でアルツハイマー病にかかるということである。

 わが国の死因統計ではなぜかアルツハイマー病は現れてこないが、アメリカ人の場合にはすでに死因の第4位にあり、近い将来、第3位に躍進すると見られているという。高齢化が原因であれば、日米でそんなに違うわけはないから、おそらくわが国の場合には、他の死因の中に隠れているのではないかと思われる。

 私のような団塊の世代の場合、治療薬の開発が早いか、自分の痴呆化が早いかという際どいことになりそうである。専門用語が多用されている、かなり難しい内容の本だが、家族に老人を抱える人や、自ら長生きを願う人にとっては必読書である。

 

 

『退屈姫君伝』

米村圭伍著、新潮文庫、590

 本書の解説で、立川志らくという落語家が、落語に話を引きつけつつ、時代小説の危機ということを書いている。確かに古典落語の場合、その話の前提である遊郭や長屋というもの自体が消滅した今日、話の内容を正確に理解できる人は極端に少なくなっているに違いない。話に出てくる耳慣れない言葉を一々説明していたら、落語ではなく、学術講演会になってしまうだろう。志らくは、同じことが時代小説にも言える、というのである。そして、今の若者達は、そういう「思考ストップする語彙」に出くわすと、本を投げ出してしまう、と主張する。その彼らに古典落語を理解させるには、それに現代の息吹を注ぐ以外に方法がない。志らくは落語を演ずるに当たり、その点の努力を払っているが、時代小説の世界で、そういう努力を払っているのが、本書の筆者だ、という。

 私自身は、現代小説よりもむしろ時代小説の方を好む人間だから、この主張が妥当しているのかどうかは、よくわからない。しかし、本書が古典落語的な世界を描いていて、しかも非常に読みやすい、ということは間違いない事実である。その読みやすさのかなりの部分が、ヒロインである退屈姫君ことメダカ姫が、きわめて現代風のキャラクタを持っている点に依存していることも間違いない。

 いわば現代の娘がタイムスリップして、江戸時代に飛び込み、市井の生活を覗くという手法である。そのタイムスリップの代わりに、本書では手の込んだ設定を施している。第一に、メダカ姫は陸奥にある50万石の内福な大藩の姫君という設定である。だから、世の中のことを何も知らなくとも不思議はない。第二の設定が、その彼女がわずか3万石の小藩に嫁に出されるという設定である。嫁に行ったばかりだから、藩の内情はさっぱり判らない。3万石だから江戸屋敷も狭く、人手も少ない。そこで彼女がふらふら市井に迷いだしても判らないということになる。そこで、現代娘がタイムスリップしたのと同じことで、見るもの聞くもの珍しく、したがって、先に言及した若者達が思考ストップする語彙などに懇切丁寧に文中で説明が書かれても、何の違和感もない、ということになる。ついでにいえば、時代小説ではごく普通の足袋だの薙刀だのという言葉にも、上記の例のように全て仮名が振ってあって、そういう面で若者達が思考ストップすることもないように配慮されている。

 それでいて、時代小説の骨格はしっかりと押さえてあり、時代考証もかなり正確である。もっとも浮世絵の美人画で今日に名を残す笠森お仙が、真っ黒に日に焼けた忍者の娘という設定などは、最後までその設定の意味が書かれないから、若者達はその含みが判らないで読み過ごしてしまうだろう。

 実は本書は、筆者が小説新潮長編新人賞を取った『風流冷飯伝』(新潮文庫刊)の続編ということになっているのだが、登場人物もほとんど重複がない独立の話なので、本書だけで楽しめる。私自身は冷飯伝よりこちらの方が出来がよい、と考えている。古典落語的世界をお楽しみ下さい。