『Y』

佐藤正午著、ハルキ文庫刊 648

 本書は、1998年にハードカバーで刊行されたものの文庫化である。本欄で前々回に、ケン・グリムウッド著『リプレイ』という書を紹介した。本書は、その書をベースに、書かれたものである。

 先の『リプレイ』では、なぜか過去の記憶を保持したまま、若い時代の自分の肉体の中によみがえっては、同じ時間枠の中を繰り返し生き続ける人々を描いていた。そこに描かれていなかったのは、そのようにリプレイを繰り返す人物にたまたま出会ってしまった人々には、どのような影響が発生するかである。本書は、そこで語り残されていた、その問題を、人生のリプレイを繰り返す者のある人生では、親しかったが、今の人生ではあまり関わりを持たなかった者の視点から描いたものである。

 著者は、1985年に『永遠の1/2』で第7回スバル文学賞をとって文壇デビューを果たした。その後もコンスタントに作品を発表しているが、なぜか賞には縁遠い。何かの賞の候補になったことさえほとんどない。その上、長崎県佐世保市生まれで、今もそのまま佐世保住まいという変わり種であるせいか、以前から活躍している人である割には、私には印象が薄い。

 この文を書くために確認したら、なんと単行本だけでデビュー作以来、合計で22冊を数えるという堂々たる中堅作家であった。もっとも近年刊行された数冊はエッセイ集。賞に縁遠い間に、小説の息が切れて、エッセイストに変わりつつあるのかもしれない。実際、うまいエッセイを書いている。なお、正午というペンネームは、アマチュア時代、市内の消防署が正午に鳴らすサイレンを合図に小説書きに取りかかる習慣だったことに由来するとか。

 著者の作品をあまり読んでいないので、本格的に作品論を展開するわけにはいかないが、基本的には恋愛小説を書く人と考えてかまわないだろう。恋愛小説も、単に男女が巡り会って、愛し合って、という普通のものではなく、ひどくひねりがきいているところに特徴がある。それは、本書にも共通の性格を持つひねりである。

 本書の場合、若者が、美人を通勤電車の中で見かけて一目惚れをし、ある日、勇気をふるって話しかける。美人は、快く応じてくれて、次の駅で降りてお茶でも飲もうというところまで話は進む。降りようとした瞬間、二人はそれぞれ別方向から声をかけられ、それに答えている間に電車のドアが閉まり、若者はホームに降りているのに、美人は車内に取り残される。しかも、その列車が、次の駅に着く前に大事故に巻き込まれることから、二人の運命はそこで決定的に分かれることになるのである。もし、あのとき別の選択をしていたら、という悔恨の情が、その後の若者の人生を支配し、「リプレイ」を可能にするのである。

 この一瞬の選択の遅れが、その人の人生に与える影響というモチーフは、同じ著者による『ジャンプ』その他の作品にも繰り返し現れるもので、本書が単なる思いつきではないことを示している。本書は、間違いなく、グリムウッドのそれとは異なる正午版の『リプレイ』なのである。

 

 

『アメリカの歴史教科書が教える日本の戦争』

高濱 賛著、アスコム刊1700

 我々が、外国について持っている知識は、特に関心を持って調べた国をのぞいて、ほとんどは小中高校時代に学んだことに基づいている。頭が柔らかな時期だけに、そこで誤ったことを学んでしまうと、それから生ずる先入観を払拭するのには、かなりの時間と手間がかかることは否めない。

 逆もまた真なりで、外国人が日本に対して持っている印象の大半は、それぞれの国の初等中等教育で学んだことであるはずである。したがって、教科書に書かれる日本を適正なものとする努力は国際関係の健全な発展に当たって欠かすことのできないものであることは明らかと言えよう。

 本書は、タイトルに明確に現れているとおり、アメリカの初等中等教育で使われている教科書で、日本がどのように語られているか調べた結果を紹介したものである。アメリカは、わが国にとり重要な利害関係を有する国だから、その教科書が紹介されるというのは有意義であることは明らかと言えよう。しかし、本書を読んで一番驚いたことは、むしろ教科書の紹介が可能な外国は、アメリカくらいしかなかったという点である。

 アジア各国の教科書でわが国がどう紹介されているかも重要な問題であるが、そこでは教科書は国定教科書であるため、そもそも外国人の手に入らないのだそうだ。さらにいえば、アメリカも外国人として教科書の入手し難さという点ではあまり例外ではなく、本書の執筆に当たって、教科書を入手するのは困難を極めたという。私のよく知るドイツでも、教科書は無償で貸与されるのであって、与えられるのではなかった。国のものだから、書き込みなどしてはいけない、という厳重な注意とともに児童に渡されていたが、アメリカも同じようなものであるらしい。神保町の大手の書店に行けば、どの会社の教科書でもたちどころに手に入るわが国を基準に、世界を見ることの危険性を改めて痛感した。毎年恒例となっている、中国や韓国からのわが国教科書への批判は、それが可能であるという点自体に、わが国教科書の健全さがよく現れている、といえよう。

 本書のタイトルには、日本の戦争とあるが、戦争だけが取り上げられているわけではない。真珠湾奇襲や原爆と並んで、マッカーサーや聖徳太子、紫式部など、幅広く紹介されている。

 アメリカ人が最初に出会う日本人は、「ヒロシマのサダコ」だという紹介には心温まる気がする。広島の平和公園で、千羽鶴に埋もれるようにして立っている「原爆のこの像」は、広島に行かれた方ならどなたもご存じと思う。カナダ人のエレノア・コアという女性が、あの像のモデル、佐々木禎子を主人公に『サダコと千羽鶴』という作品を著しており、その本、あるいはそれを絵本化したものが、多くの州で、小学校段階から教えられているのだそうだ。アメリカとの関係が比較的なめらかな理由の一つに、この薄幸な少女の存在が大きく機能しているのかもしれない。

 本書の随所に、様々なスローガンとともに挿入されている著者の写真には少々辟易させられるが、一読の価値のある本である。