『バーティミアスーサマルカンドの秘宝』

ジョナサン・ストラウド著、理論社刊 1900

 ハリー・ポッターのヒット以来、真っ正面から魔法を取り扱った作品がわが国でも多数刊行されるようになって、その手の作品が好きな方には嬉しい限りであろう。本書はそのニュータイプとでもいうべきもので、「イギリスでハリー・ポッターを抜いて第一位」というのが売りの作品だが、作品の内容はずいぶん違う。

 ハリー・ポッターの方は、ご存じの通り、現代のイギリスの裏側に魔法使いが、普通の人(ハリー・ポッター語でいえばマグル)に気付かれないように独自の世界を作っているというものだったが、本書は、魔術師がイギリスの政権を握っているパラレルワールドものである。その点では、ランドル・ギャレットの『魔術師が多すぎる』などと同じ趣向といえる。どの辺から我々の世界と分かれたのかは本書の段階では示されていないが、19世紀を代表する政治家であるディズレーリやグラッドストーンが、この世界では伝説的な魔術師という設定は面白い。もっともこの世界の魔術師は少々陰湿で、魔法の力を使って一般民衆を抑圧しており、また、目下プラハとの魔法戦争中という。

 もう一つのハリー・ポッターとの違いは、魔術師というのは、実は魔法を使えるのではなく、魔神を使役して、彼らに魔法を使わせる存在だ、という点である。しかも、その魔神が、西欧の悪魔に拘らず、アラビアンナイトに登場するジンやアフリートなど、あらゆる種類の魔神や妖霊が総登場という点であろう。

 本書の帯には「落ちこぼれの魔神にだって意地と根性はあるんだぜ」という非常に魅力的な惹句が書かれており、それと表紙中央のガーゴイルの絵がぴったり合っていて、それに惹かれて私は本書を購入したのだが、実をいうと、この惹句は嘘である。本書で活躍する魔神バーティミアスは、決して落ちこぼれなどではない。本書によると、魔術師が使役する妖霊には、大きく分けて5種類がある。すなわち強い順に、マリッド、アフリート、ジン、フォリット、インプである。マリッドより強い妖霊もいるが、普通は使い切れず、インプより弱い妖霊は使う価値がない。バーティミアスはジンだから、中級レベルの魔神ということになる。そして、中級としてはかなり能力のある方で、5010歳の生涯に数々の活躍をしてきたのだから、間違っても落ちこぼれではない。

 本書の主人公ナサニエルは、魔術師の見習い。ろくに魔法も使えないほんの子供の時に、先輩魔術師に逆らってきついお仕置きを受けた。普通なら泣き寝入りだろうが、彼はそれに対する復讐の念に燃えて、死に物狂いで魔法を独習した結果、わずか12歳でバーティミアスほどの強力な魔神の召喚に成功する。そして、バーティミアスを使役して、かつて彼をいじめた魔術師達への復讐に乗り出す、という誠に子供じみた事件から物語は始まる。ところが、その相手が陰謀を企てており、ナサニエルがバーティミアスに盗み出させたサマルカンドの秘宝が、その陰謀の鍵を握るものであったために、魔都ロンドンを揺るがす大騒動に発展する。三部作の第一部だそうだが、今後の展開が楽しみである。

 

 

『アップ・カントリー』

ネルソン・デミル著、講談社文庫刊 上1114円、下1181

 奇妙な表題である。多分、up countryというイディオムは、かなり英語に堪能な方でも知らないなのではないだろうか。本書によれば、これは「田舎の方へ」という意味で、現在でもベトナムで使われている独特の米語なのだという。おそらくベトナム戦争の時代に、比較的安全が保障されていた首都から離れて農村部に入っていくことは、米兵にとってまさに「登っていく」と表現したくなる抵抗感のある行動だったことから無意識に生まれた表現であるに違いない。

 ベトナム戦争は長く戦われたが、普通には1960年代初頭から19754月のサイゴン陥落までの米国が直接戦った時代をイメージする。私個人にとっては中学から大学にかけての多感な時代に相当し、誠に印象深い。それだけに、教壇でベトナム戦争に言及する際に、現在の学生達にとっては、それは生まれる遙か以前の歴史上の事件に過ぎず、戦争に対する反対運動の存在などについてさえ説明を要する、という事実には少なからず違和感を感じる。

 日本人から見てもそうなら、ベトナムで現実に戦った米国人にとっては、そうした違和感はなお強いものがあるであろう。米国が戦争で勝ち取ることができなかったベトナムでの地盤を、全く戦争を知らない30歳代以下の若い米国人が経済の力で勝ち取り、その結果、元米兵が自分の青春の地を訪ねる旅行が可能になっているのである。

 本書は、作者の傑作の一つ、『将軍の娘』の続編という体裁を採っている。しかし、それは単にその作品で探偵役を務めたポール・ブレナーをそのまま主役に使うことで、新たに人物を造形する手間を省いたという程度の意味でしかなく、両書の間にストーリ的なつながりはない。また、本書は一応ミステリ小説の体裁を採っているが、これも体裁を採っている、というレベルにとどまる。

 本書の真髄は、元兵士の目から見た30年ぶりのベトナム再訪という点にある。あえて誤解を招きかねない表現を使えば、これはセンティメンタル・ジャーニーの紀行文なのである。作者の覚書によれば、作者は実際に1997年に29年ぶりにベトナムを訪れており、アメリカ大使館をはじめとして、作中に現れるすべての施設や場所は、1997年当時ベトナムに実在したものであり、本書の時代設定もしたがって1997年にしてあるという。

 31歳という戦争を知らない世代に属し、ベトナム語に堪能で、ベトナムで商取引に活躍しているスーザン・ウェバーとともに主人公ポールは、かつての激戦地を歴訪し、激戦の状況を彼女に物語る。他方、現在のベトナムにおける、かつての北ベトナム軍に属する人々による南ベトナム兵に対する激しい差別や、警察国家による厳しい監視が、ミステリ小説ならではの極限的な形で描かれて、過去と現在を交差させる。

 ベトナム戦争が米国にとり、58千人以上の戦死者を出したということで現在も重くのしかかっている現実ならば、南北併せて200万人の死者を出し、その多くはこんにちでも死体の所在すら判っていないというベトナムの悲劇は、どのように考えるべきか、改めて考えさせる作品である。