『犬は勘定に入れません』

コニー・ウィリス著、早川書房刊 2800

 今月は、英国のSF作品二つを紹介してみたい。

 この作品はサブタイトルに「あるいは、消えたヴィクトリア朝花瓶の謎」とある。実はこちらが本当の本書の表題である。犬云々という奇妙な表題は、ジェローム・K・ジェローム作『ボートの三人男』(中公文庫で丸谷才一訳が刊行されている)という19世紀英国を代表する傑作ユーモア小説のサブタイトルである。つまり、本書の表題は、この『ボートの三人男』という作品に対するオマージュなのである。

 この作者に関しては、一昨年に本欄で『ドゥームズデイ・ブック』という作品を紹介したことがある。タイムトラベルが実用化した近未来の英国を舞台に、操作ミスからペストの流行する中世に飛び込んだ女性歴史研究者の運命を描いた作品で、ヒューゴー賞やローカス賞などSF関係の重要な賞を総ざらいにした傑作であった。本書は、それと同じ設定を利用した、やはりタイムトラベルものの作品である。しかし、人が伝染病でばたばたと死ぬ陰鬱な世界を背景に宗教問題を描いた前作とはがらりと変わって、同じ作者の作品とは思えないほどの明るいユーモア作品に仕上がり、再びヒューゴー賞やローカス賞などを獲ちとるという快挙を成し遂げたのである。

 本書に現れる2057年という近未来は、21世紀前半に発生した伝染病のおかげで人口が激減し(なぜか猫も絶滅し)、タイムトラベル技術以外には、さほど科学技術が進歩していない時代である。オックスフォード大学史学部の学生ネッド・ヘンリーは、第二次大戦中に空襲で焼失したコヴェントリー大聖堂再建の基礎資料集めのために、短い期間に20世紀にタイムトラベルを繰り返した結果、重度のタイムラグにかかって2週間の絶対安静を命じられてしまう。この時差呆けを意味する英語が、そのままタイムトラベル呆け症状に転用されているあたりに端的に表れるとおり、英語のだじゃれ的な遊びの多い作品であるが、これは残念ながら、翻訳者があまり努力していないため、邦訳からでは読み取りにくい。

 ネッドがタイムラグにかかったのは、先祖が英国出身で、聖堂再建の出資者である大変なバイタリティのある米国富豪夫人にこき使われたためである。しかし、富豪夫人はなおもネッドに、空襲時に聖堂にあった司教の鳥株と呼ばれるヴィクトリア朝時代の花瓶を捜させようする(これが先に述べたサブタイトルの由来)。そこで、史学部のダンワージー教授は、静養も兼ね、ある使命を与えてネッドをのんびりとした19世紀英国に送り込む。

 ところが、タイム・ラグでぼんやりしていたネッドは、そもそも自分の使命が何なのかも、連絡を取るべき相手が誰なのかも思い出せない。そこで、適当に歩き回って自分の使命や接触相手を捜している間に、様々な誤解が積み重なり、いつの間にか二人の男及び一匹の犬と一緒にボートに乗ってテームズ河の川下りを楽しむことになっている、というのが、物語の発端である。

 しかし、ジェロームの三人男が、退屈と気鬱から逃れようとした只の中年男であるのに対して、こちらの三人男は、はるかに個性豊かな顔ぶれである。また、二人までは学生という若さから恋物語までが加わり、本家三人男よりもはるかに物語は膨らんで、楽しい作品に仕上がったのである。

 

 

『マインドスター・ライジング』

ピーター・F・ハミルトン著、創元SF文庫刊、上下各780

 こちらも、近未来の英国を舞台にした作品である。左に紹介したウィリスの作品はタイムトラベルを狂言回しに使用しているからジャンルとしてはSFに属する、というだけで、作品の内容は基本的には歴史小説という範疇に属する。それに対して、こちらは未来世界を舞台にして、様々なSF的なガジェットが続々登場する、という意味で、正統派のSF小説ということができるだろう。

 物語そのものの骨格は、乱暴に分類すれば、スパイ・アクション小説ということになる。大企業の後継者である17歳の少女が、超能力者達の助けを借りて、彼女の企業乗っ取りを狙う敵と死闘を演ずる、というのが、ごくラフなストーリである。だから、それだけであれば、舞台をSFに借りた企業小説、あるいはハードボイルド小説ということになる。

 本書の魅力は、そうした物語自体にあるのではなく、背景のSF部分にある。例えば、先にも述べたSF的なガジェットを、単なるガジェットにとどめず、それが人々に与える様々なマイナス面やプラス面までも執拗に描きだす。あるいは未来世界の様々な姿を執拗に描く。それは、明らかに、この上下併せて700頁ほどの作品のために構想されたものではない。むしろその構想を生かすべく書かれたのが本書である。

 先に近未来と書いたが、どのくらい現代から離れた時代なのかは、本書では明示されていない。以下に述べる物語世界の基本設定は、作品中では徐々に判る仕掛けになっている。そういうことは知りたくない、という人は、とにかくなかなか面白く読めるSFだということだけを知って本屋に走って頂き、以下の説明は、読まないで欲しい。

 この時代には、現代よりも著しく進んだ地球温暖化の影響で、極地の氷が溶けて海岸線が後退している。その結果、英国の気象は大きく変化し、バナナがたわわに繁茂し、あちこちに沼沢地がひろがる土地になっている。世界大戦がおきて、世界はかなり荒廃したが、そのおかげで科学技術はかなり進歩し、商用の宇宙ステーションなどもある。しかし、大戦後、一時期英国には共産党政権が成立していたこともあって、少なくとも英国はこの時点でもかなり荒廃している。

 主人公グレッグ・メンダルは、戦争中にマインドマスター隊と呼ばれる超能力者部隊に属していたが、戦後は調査事務所を開いている。軍では、基本的なサイ能力を有する人間に、それを増強する人口腺を埋め込むことで人工的に超能力者を作り出すのに成功していたのである。この人口腺によって発現される超能力は人によって異なるが、グレッグの場合には、人の感情を感知できる。その結果、彼は生きている嘘発見器なので、企業スパイを発見するのに最高の人材になっているのである。また、ヒロインの少女ジュリアの場合には、手術でコンピュータ端末を頭の中に埋め込んである結果、居ながらにして自社のあらゆるデータに瞬時にアクセスできる。あるいは彼女の祖父は、その死後、コンピュータの中の人工知能になっている。

 こういう調子で、人工的な手段で超能力者となった者達が、誰が敵かということをミステリタッチに探りながら、荒廃した英国各地で死闘を展開することになる。本書は、最終的に三部作になっているのだそうだが、それほどの充実した広がりを持つ背景世界なのである。