『英語の冒険』

メルヴィン・ブラック著、アーティストハウス刊 1800

 今月は、外国にまつわるノンフィクションを二つ紹介することとした。

 本書を読んでつくづく思ったことは、言葉の乱れというのは何だろう、ということである。正しい日本語というものは存在しないのだろうか。

 本書のタイトルの意味は、英語が古英語と呼ばれるものから、現代の広く世界に広がった状況になるまでの変化の歴史を意味している。その間、英語を取り巻く環境は激変を続け、それに応じて英語は、その文法も発音も語彙も激しい変動状態にあった。そういう柔軟性こそが、英語が、今日まで何度もの絶滅の危機を乗り切り、単に生き残るだけではなく、世界言語として発展するための大きな原動力であった、というのが著者の主張である。

 元々の英語は、今現在、オランダのフリースランドと呼ばれる地方で話されていた言葉であるらしい。イギリスにそのころ住んでいたのは、ブリトン人と呼ばれるケルト民族であった。彼らはローマ帝国の撤退により低下した防衛力をカバーするために、フリースランド人を呼んだ。しかし、彼らは傭兵としての仕事が済んだ後も、その地に居座り、ついには国土の支配権を握ってしまったのである。5世紀の頃の話という。その時点で、英語を話す人口は、わずか15万人に過ぎなかった。

 以後、著者の歴史観だと、英語は危難を迎えるごとに発展することになる。バイキングが襲来するようになると、それにより北欧語からそれまでになかった新しい語彙が加わる。ノルマンコンクェストによってフランス語が君臨するようになり、古英語はこの時期に、それまでの語彙の7割を失うが、イギリス王家がフランスに敗れることにより、英語は再び復権を果たす。ラテン語の聖書を英語に翻訳する、という血みどろの戦い(翻訳者やその支持者は文字通り虐殺されている)を通して、英語はさらに語彙を増やす。ラテン語が神の言葉という特権的地位を失ったことにより、ラテン語からの語彙も急速に増える。スペインやフランスとの交易を通じて、それらの言語からの語彙も増加する。

 当然このように、英語の語彙が急速に増えて表現力が増す、ということに対しては、いつの時代にも批判はあった。例えば英語の最初の辞書を編纂したサミュエル・ジョンソンが、辞書を編纂しようとした最初の目的は、正しい英語を定めることだった。あるいは、『ガリバー旅行記』で知られるジョナサン・スィフトは英語を守るためのアカデミーを創設しようとした。しかし、少なくとも、著者の見解に従う限り、そのような努力は無駄なことである。現に生きて使われている言葉を固定することは、誰にもできない。むしろ、そうした新しい語彙を積極的に使いこなせるのが優れた芸術家である。例えばその時代のあらゆる階級の言葉を駆使し、さらには自らの創作語も駆使したチョーサーやシェークスピア、新しく誕生したアメリカの貧乏白人から黒人に至る様々な言葉を駆使したマーク・トゥエインなどがそれだというのである。こうして、英語はその後も、新しい可能性を着実に発見し続けているという。

 我が日本語中の英語までが、英語という言語の持つバイタリティの例証として著者は掲げているのである。だとすれば、外来語の激しい流入は、日本語のバイタリティの証明でもある。

 

 

『妻をめとらば韓国人!?』

篠原令著、文春文庫刊、505

 ずいぶん甘いタイトルで、その上、帯に書かれている惹句にも「韓国女性と運命的な恋に落ちた日本人ビジネスマン」とあるから、日韓に引き裂かれた恋人を描く、ロミオとジュリエット張りのラブストーリあたりを連想しそうである。

 内容は、完全に違う。簡単に言えば、ちょっと辛口の「韓国人論」とでも言うべきものである。

 日本人は、昔から日本人論が好きで、インターネットで「日本人論」をキーワードに本を検索したら1000点近くが引っかかった。しかし、韓国人論で検索しても、ヒットは皆無である。実際にもないらしい。韓国の存在感が高まるにつれて、中国や台湾でも韓国に関する情報が求められるようになった結果、本書が翻訳出版されて結構人気を博したという。要するに、本書は、そういう知られざるわが隣国住民の、日々の生き方を紹介する、貴重な書である。

 本書の中に、韓国側の反日感情に対して、日本側の嫌韓感情という言葉が出てくる。このうち、反日とは、日本の天皇のような国民統合の象徴を持たない国が、その統合手段としてのスローガンなのだ、と著者は喝破している(本書60頁)。例えば、著者は、韓国人を理解する際のキーワードの一つとして、「自尊心」という言葉をあげている(174頁)。この言葉、韓国の辞書では「他人に屈しないこと」を意味する。したがって、戦前の植民地支配や従軍慰安婦問題で、韓国人が自尊心を傷つけられた、と怒っている時には、そこには理屈も何もない。だから彼らがそう言う時に、事実を検証しようとか、歴史を正しく認識しようという冷静な返事はまったく無意味なのだそうだ。だとすると、反日感情の沈静化は、日本側の努力で実現できるという問題ではなさそうである。

 嫌韓という感情について言えば、正直に言って、嫌韓になるほどには、私はこれまで韓国について知らなかった。しかし、本書を読んで、韓国と深い交渉をもった人の中に、嫌韓という感情を持つに至る人があることは理解できる気がした。

 例えば、日本人学校に通っている著者の娘が「思いやりがある」という評価が書かれた通知票を貰ってきた。韓国人妻は、これが判らないという。なぜなら、韓国語には思いやりに相当する言葉がないからである。そもそも韓国では「皆と仲良く」とか「他人に迷惑を掛けるな」という教育は一切せず、終始一貫して「一番になれ」「他人に勝て」と教育するという。そういう教育を受けてきた人ばかりの国では、付き合い難いのも無理はない。

 あるいは、親しい人ほど信用できないという。身近なものへの甘えが強いために、平気で騙す可能性が高まる(188頁)。

 もちろん、本書では妻への言及も多い。しかし、ここでも「妻をめとらば・・」というタイトルに反し、私の読んだ限りでは、これは「悪妻記」と言うべき書である。少なくとも見栄っ張りで、浪費家で、嫉妬深く、夫婦げんかともなれば「爆発する」ような女性を、普通の日本人なら、良妻とは称しないのではないだろうか。しかし、それを著者は「嫉妬深さは愛情の表現と考えて我慢することにしています」(76頁)という調子で肯定的に受け取める。確かに、好きになるということは、そのように欠点までも含めて好きであるのが本当だろう。その意味で、本書は間違いなく、韓国好きの人の手になる書なのである。