『ろう教育と言語権』

全国ろう児をもつ親の会編、明石書店刊 4800

 ろう教育とは、聾児、すなわち聴覚障害をもつ児童のための教育という意味である。聾教育には、古典的な有名人がいる。電話の発明者、グラハム・ベルである。ベルの父は視話法、すなわち発音時の口の動きを記号で表し、目で見て理解できる発声法を考え出した人である。ベルも、聾学校の教師として視話法を教えていた。電話の発明は、彼の生涯から見れば、補聴器開発の副産物の感がある。ベルの妻も聾者であったが、他人の唇の動きを完全に読み、かつ全く非障害者と同様に話すことができたと言われる。ベルの子供は、その母が聴覚に障害を持つことを、背中に呼びかけた場合には反応してくれないことに気づくまで、知らなかったそうだ。

 わが国聾教育もまた、口話法、すなわち補聴器を使って残存聴力を活用しながら、相手の唇の形や動きを見て話す内容を理解し、同時に自ら喋ることができるような発声訓練を行う方法を中心にしてきた。

 そうした聾教育を受けている子供とその親たちが、口話法に偏った教育は、聾児の言語権の侵害であるとして、2003年に日弁連に人権救済を申し立てた。本書は、その申立内容を収録したものである。そういう特殊な本であるが、私は本書の内容に強い衝撃を受け、広く知られるべきだと信ずるに至った。それが本書を本欄で取り上げる理由である。

 聾教育の現場に「9歳の壁」という言葉があるという。これは、聾学校の子どもたちは、小学校低学年の9歳頃までは非障害児と同様の知的発達を示すが、それ以降の高学年では学習についていけなくなるケースが多いことを意味している。聾児はイコール知的障害者ではないのだから、一般的に9歳の壁が存在しているとすれば、それは聾教育の方法に問題があるといわざるを得ない。

 本書が主張するところによれば、9歳の壁の原因は、口話法にあるという。口話法の練習に勉強時間のほとんどが投入される結果、より高度の学習を行う時間が奪われてしまうからである。

 非障害児の場合、両親等が話す言葉(母語)を子供時代に聞き覚え、それを基礎に、小学校高学年以降の、より抽象度の高い学習を行っている。聾児の場合、耳が聞こえないために、周囲で話されている言葉を自然には習得できない。けれども、手話が使われる環境にあれば、聾児は、それを自然に母語として獲得することができる。そのためには、同じ条件下にある子供がコミュニティを形成している必要がある。同じ言葉を共有し、自由に使いこなせる相手が必要だからである。聾学校は、そうしたコミュニティとして重要である。日本手話と呼ばれる言語は、明治以降におけるわが国聾学校の中で自然に生まれたものであるという。

 手話は、音声という情報を欠いて生まれているから、当然のことながら、音声を伴う日本語とは、文法構造も別の言語である。その結果、聾児にとり、口話法を中心とした教育を受けることは、非障害児が、日本語との対応を教わらないままに、いきなり外国語で教育を受けているに等しいのだという。だから聾教育においては、手話を母語とした上で、日本語を外国語という意識で教えるというバイリンガル教育が必要だ、と本書は主張している。ベルの妻のような天才的存在を目標にした教育法は、確かに一般的方法としては妥当ではないであろう。

 

 

『シリウス・ファイル』

ジョン・クリード著、新潮社刊、705円、

 海外の推理小説やミステリ小説を買う際に、面白い作品を間違いなく手に入れる一番の目安になるのは、米国探偵作家協会賞か英国推理作家協会賞を受賞している作品かどうか、ということである。どちらかを受賞している作品なら、まずはずれはないと思って良い。

 英国推理作家協会賞の場合、始めの頃は第一席のゴールドダガーと第二席のシルバーダガーの二つだけだった。しかし、おそらく商業的には、賞が多い方が好ましいためだろう、カルティエがスポンサーになっている米国作家のためのダイアモンドダガー賞だの、エリス・ピータースを記念して歴史推理小説に与えられるヒストリカルダガー賞だのという調子で、だんだんと賞の数が増えてきた。いまや毎年10もの賞を発表するようになっている。

 その中で、一番新しいのが、2002年に創設されたスティールダガー賞である。これは、007で有名なイアン・グレミング財団がスポンサーになって、スパイ・冒険小説に与えられる賞で、本書は、その第1回の受賞作である。

 もっとも、私の感じでは、本書はイアン・フレミングの作風よりも、ジャック・ヒギンスの方に近い。ヒギンスが得意とするアイルランド過激派絡みの話であり、話の骨子も、イギリス秘密情報部員である主人公ジャック・ヴァレンタインとIRA過激派のリーアム・メロウズとの男の友情、そしてジャックとリーアムの妹ディアドラとの恋が作品全体の基調になっているからである。

 物語そのものは、ある意味、非常に古典的である。そもそもジャックの属する秘密情報部は、ジェームズ・ボンドの属していたMI6のような表に出ている機関ではなく、公的には存在を否定されるMRUという機関である。この辺は、スパイ大作戦を思わせる。ジャックは上司から、70年代に北アイルランドにパラシュート降下した秘密工作員の死体を発見し、その所持品を持ち帰れ、と命ぜられるのだが、その所持品の内容も、なぜそんな必要があるのか、ということすら説明してもらえない、というあたりも、古典的スパイ小説の型にはまった滑り出しである。他方、IRAのリーアムは、裏切り者とされて、IRAから追われる立場になっている。この二人が手を組んで、北アイルランドで悪戦苦闘する様を、二人の過去の物語をフラッシュ・バックの手法で交えつつ描いており、スパイ小説の王道を歩んでいる感じで、読んでいて飽きさせない。

 もっとも、現代の作品だということは、様々な小道具の端々にも現れてくる。例えば、主人公が使う拳銃は、007だと、ワルサーPPKである。それに対して本書の主人公が愛用するのはグロックである。ご存じない方に雑学を披露しておくと、これは1980年にオーストリア陸軍に、ワルサーに代わって正式採用された名銃である。プラスティックフレームを採用しているため、700g弱と軽量で、錆びず、手入れも容易で、命中精度も高く、しかも軍用の場合9mm弾を19発も装填できるという信じられないような高性能を持っている。

 ル・カレのような謀略中心のしんねりむっつりのスパイ小説がお好きであれば薦めないが、グロック等の優れた火器を使っての派手な銃撃シーンや活劇シーンも多く、ヒギンスやフレミングが好きな人なら、絶対に読んで後悔しない快作である。